元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「桐島、部活やめるってよ」

2013-03-18 06:35:48 | 映画の感想(か行)

 どこが面白いのか分からない。日本アカデミー賞の作品賞獲得をはじめ高い評価を受けている映画だが、私にとっては何一つアピールしてくるものが無かった。特に評論家連中の“高校生活を冷酷かつリアルに描いた”という物言いに関しては、まったく賛同できない。とにかく本作の登場人物の造型およびその振る舞いに、リアリティのかけらも感じられないのだ。

 舞台は地方都市(ロケ地は高知県)にある高校。11月になり、2年生は進路について考えなければならない時期に入った。そんなある日、バレーボール部のキャプテンで花形選手でもあった桐島が突然クラブを辞めたという話が生徒の間で広がる。それをきっかけに桐島と多少とも関わり合いのある者達に動揺が走り、人間関係がギクシャクしてくる。

 一方、前田が部長を務める映画部はコンクールで予選通過を果たし、担当教師から次回作のシナリオを渡されるが、前田はあくまで自分の企画・脚本で作品を撮りたいと思っている。そこで学校側の許可を取らずに学内でゲリラ撮影を敢行するが、くだんの“桐島の取り巻き達”とニアミスを起こしてしまう。

 まず不可解なのは、たかがスポーツ部の主将がクラブ活動から外れたぐらいで、周りの者がまるで人生の一大事のごとく浮き足立ってしまうことだ。念を押すが、この桐島なる人物は別に死んだわけでも、大病で入院したわけでも、重傷を負ったわけでもない。ただ部活を辞めただけ。その程度のことで少なからぬ数の生徒がオタオタしてしまうのは、滑稽でしかない。

 それでも“そういう現象が発生してしまったのだ”と言いたいのならば、桐島のカリスマ的影響力を事前にテンション上げて描き込むべきだ。映画は御丁寧にも、金曜日の放課後から翌週の初めまでを複数の視点から何度も映し出すが、桐島の存在感という“ドラマの根幹”がスッポ抜けているために、それが繰り返されるたびに鼻白むばかり。

 ならば独自の映画製作に勤しむ前田はどうかというと、彼も部員達も絵に描いたようなオタクでしかなく、実在感は限りなく希薄である。そもそも、いくら自分に才能は無いと分かっているとはいえ、前田が作ろうとする映画は幼稚すぎる。少なくとも担当教師からシナリオの何たるかぐらい教わっているはずだが、それも頭に入らないほどの鈍才ならば、感情移入する余地は無い。

 この映画について“校内のヒエラルキーの崩壊を描くことにより、現代の格差社会を照射してみせる”とかいった評があるそうだが、もしもそんな製作意図があったとしても、出てくるキャラクターが斯様に誰一人地に足が付いていない状態では、観ているこちらはシラけるばかりだ。

 吉田大八の演出は相変わらず“テンポが良いだけ”であり深みは無い。キャストに関しては前田に扮する神木隆之介が健闘していたぐらいで、あとは大した仕事をしていない。女生徒の一人を演じた橋本愛は本作で新人賞をもらっているようだが、彼女は身のこなしも表情も硬く、かといって並外れたルックスも持ち合わせていない。どうして評価されているのか、こちらも謎だ。
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「聖なる狂気」

2013-03-17 06:43:43 | 映画の感想(さ行)
 (原題:The Passion of Darkly Noon)95年作品。デビュー作「柔らかい殻」で、その不気味な映像美とサイキックなストーリーで映画好きを驚かせたフィリップ・リドリー監督の第二作。

 禁欲的なキリスト教系異端カルトに抑圧されて育った男、ダークリー(ブレンダン・フレイザー)は両親を殺されたショックで森を徘徊するうちに倒れ、山奥で口のきけない恋人と暮らすキャリー(アシュレイ・ジャッド)に助けられる。彼女に初めての性欲を覚え、罪の意識にさいなまれる彼は次第に常軌を逸した行動に走るようになる。



 まず圧倒的な森の存在感に注目だ。底がみえない緑の魔境、といった不気味さと美しさはこの監督ならではのもの。さらに思い込みの異様に激しい粘着気質の主人公が引き起こす惨劇、という筋書きも一致しており、カルト教団が話にからむのも公開当時の日本の世相にピッタリだったと思う(?)。

ただ、後半みるみるうちに面白くなくなってくるのは、映画を娯楽方向に振りすぎたせいだ。サイコ・スリラーよりスプラッタ・ホラーに近くなり、クライマックスなんぞ「13日の金曜日」そのまんま。最後までワケわかんない不安さで押しまくってほしかったが、ちょっと大きな資本で撮るとこうなってしまうのだろうか。

 なお、この監督は本作を含めて90年代に数本を撮った後、第一線から退いていた。2009年になって14年ぶりに新作「HEARTLESS」を発表するも、あまり話題になっていない。才気はあっても表現方法が一本調子ならば、行き詰まるのも早いのだろうか。
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「愛、アムール」

2013-03-16 06:30:35 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Amour )ミヒャエル・ハネケ監督の今までの作品群に比べればとても平易なテーマを扱っており、ストーリーも比較的分かりやすい。だから“破壊力”という点では控えめかもしれないが、それでも並の映画と比べれば相当にキツくてハードな手触りを持つ。この監督の作風に対して免疫の無い、いわゆる“一見さん”の観客は容易くはじき飛ばされてしまうだろう。

 長らく音楽家として実績を上げてきたジョルジュとアンヌの老夫婦は、今ではパリの高級マンションで悠々自適の生活を送っている。ところがある日アンヌが脳に障害を負い、医者のすすめで手術を受けるが失敗。半身不随になってしまう。何とかリハビリを続けて小康状態を維持するも、やがて二度目の発作がアンヌを襲い、認知症を併発したまま寝たきりの生活に。それでも懸命に介護を続けるジョルジュだが、日々悪化する妻の容体に、彼自身も限界に達してしまう。

 冒頭、この筋書きの“結末”が示されているので、それから時制を遡って描かれるストーリーには“意外性”はなく、それどころか単純と言っても良い。しかし、語り口のエキセントリックさは、さすがハネケ監督。まさに常軌を逸している(注:これはホメているのだ ^^;)。

 アンヌの手術とその周辺のやりとりはカットされている。またアンヌが床に臥せるようになったプロセスもまるごと省かれている。これは別に“辛いシーンなので、あえて取り上げなかった”ということでは断じてない。事前と事後の場面を提示することにより、その間のくだりがどんなに酷くて悲惨なものだったかを、観客に無理矢理想像させるという、作者の凶悪な意図が内包されている。

 そして冒頭のコンサートの場面を除けば、カメラはこのアパートから一歩も外に出ることは無い。これも別に舞台劇的な効果のみを狙っているわけではなく、ジョルジュが家の外で医者などと折衝しているであろうシチュエーションをあえて除外させることにより、結局はこの重く沈んだ部屋に戻ってくるしか無いという、主人公の“出口なし”の状況を過度に強調しようという、底意地の悪いスタンスを示している。

 さらに、二人は公的介護サービスさえ受けようとしないのだ。観客が“そんなことは有り得ない”と思うのは勝手だが、よく考えるとそういう福祉などのモチーフを挿入してしまうと、視点がブレてしまう。いくら福祉が充実していようとも、結局は介護は当事者の問題に収斂されてしまうのだ。

 言うまでもなく、ジョルジュとアンヌはハネケ監督の「ピアニスト」の主人公に通じている。芸術に生き、御為ごかし的な他者の助けを拒絶する。そんなエゴイスティックな二人の姿に、至純の愛とも言えるような輝きが感じられてしまうのも、また事実なのだ。特に終盤の展開は、俗人には及びも付かぬ“彼岸”の世界まで垣間見せてくれて圧巻である。

 ジャン=ルイ・トランティニャンとエマニュエル・リヴの演技は完璧に近いが、娘役のイザベル・ユペールも存在感では負けていない。ダリウス・コンジのカメラによる清涼な映像も素晴らしく、今年度のヨーロッパ映画の収穫と言えるだろう。
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最近購入したCD(その26)。

2013-03-15 06:32:43 | 音楽ネタ
 94年にイギリスのデヴォン州で結成されたバンド、ミューズが2012年に発表した6枚目のアルバム「ザ・セカンド・ロウ 熱力学第二法則」は世界的なセールスを記録したが、内容もそれを裏付けるように中身の濃いものだ。

 正直言って、以前は個人的にこのグループは評価していなかった。初期のアルバムなんか、大仰なわりにはどこか“抜けた”部分が目立ち、長時間のリスニングには耐えられなかったものだ。ところが前作の「ザ・レジスタンス」は良い感じで洗練度が増してきており、本作に至ってはスキのない仕上がりを見せている。とにかく、巨大な音のカーテンが目の前に広げられている感じで、聴く者を圧倒する。



 意地の悪いリスナーからは“クイーンとU2をミックスしたような音じゃないか”という声も上がるだろうが(笑)、このスケールの大きさ、このメロディとハーモニーの完成度は、誰でも一目置くはずだ。先のロンドン五輪の公式テーマ曲になった「サヴァイヴァル」をはじめ、どのナンバーも粒ぞろい。低域を効かした録音も万全で、これは買わない理由は見当たらない。

 最近、八代亜紀がジャズのスタンダードナンバーを歌った「夜のアルバム」というディスクが評判になっているが、ジャズ歌手からキャリアをスタートさせたという割には演歌色が強くて、個人的にはあまり評価できない。対して同じ演歌系シンガーでも青江三奈は一味違う。93年にアメリカでレコーディングされたこの「THE SHADOW OF LOVE」は、日本人歌手が挑んだジャズのスタイルの中でも、おそらく屈指のものに数えられるだろう。



 「クライ・ミー・ア・リヴァー」や「イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン」といったお馴染みのナンバーに加え、彼女の十八番である「伊勢佐木町ブルース」と「本牧ブルース」の2曲も、英語の歌詞を付けてジャズ・アレンジで収録されている。 改めて聴くと、青江の声は実に良い。ハスキーで華やかでありながら、軽やかなのだ。しかも都会的でクール。演出過多で圧迫感のある八代亜紀のヴォイスとはまったく異なる。

 また、バックの演奏も正調のジャズというよりフュージョン寄りの展開を示しているところも興味深い。マル・ウォルドロンやフレディ・コールといった大物のサポートも受け、伸び伸びと歌っている様子が見て取れる。残念ながら彼女は早々と世を去ってしまったが、もしも今でも健在ならば素晴らしい仕事をやり続けていたことだろう。

 ベルクのヴァイオリン協奏曲の名盤といえば、スーク&アンチェル盤とかジェルトレル&クレツキー盤等が挙げられるが、私が気に入って聴いていたディスクはギドン・クレーメルがコリン・デイヴィスと組んだものである(オーケストラはバイエルン放響)。録音の面からもこれ以外は不要とも思っていたほどだが、ここにきてその“牙城”を脅かすようなCDがリリースされた。イザベル・ファウスト&アバド盤である。



 ファウストのヴァイオリンは実に耽美的だ。ちょっと聴くと“若干線が細いかな”とも思えるが、闊達で蠱惑的なプレイで聴く者を“深み”に引きずり込む。しかも響きの美しさは決して表面的なものではなく、確かなテクニックに裏打ちされ、この曲の持つ仄暗い情熱を遺憾なく表現している。

 同時収録のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲も目覚ましい音色の美しさが堪能できる秀演で、このカップリングは“お買い得”と言うしかない(笑)。また録音も優れている。なお、バックをつとめるモーツァルト管弦楽団というのはあまり聞かない名前だと思ったが、イタリアのボローニャを本拠地とする“メンバーが18歳から26歳限定”という楽団らしい。クラウディオ・アバドが音楽監督を担当しているが、本ディスクを聴く限りかなりの腕前であることが分かる。今後もチェックしていきたいオーケストラだ。
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「世界にひとつのプレイブック」

2013-03-11 06:29:16 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Silver Linings Playbook )いい映画だが、少し不満な点もある。映画の基本的な構造としては、デイヴィッド・O・ラッセル監督の前作「ザ・ファイター」と同じだ。つまりは“家族がいれば何とかなる。だからポジティヴに生きよう”というメッセージを前面に打ち出し、それに沿って軽妙な語り口を展開しようというやり方である。もとよりこの方法論に異存があるわけでもなく、今回も楽しく観られた。しかし、何となく似たような味付けの料理を連続して出されたような感じもあって、諸手を挙げての賞賛は差し控えたい。

 妻の浮気現場に出くわしたことでメンタル面の障害を負い、教職も追われて入院を余儀なくされたパット。やっと退院の許可が下り、実家で両親と同居しながらリハビリに励むが、別れた妻への未練もあって上手くいかない日々を送る。

 そんな中、友人から若い女ティファニーを紹介される。彼女は夫を亡くしたショックから立ち直れずに精神のバランスを崩し、ヤケになって職場の同僚全員(女性も含む)と寝てしまったというような不安定な生活から抜けきらない。そんな二人が出会って何とか人生をやり直そうと、取り敢えずはダンスコンテストの出場を決意する。

 確かにパットとティファニーは常人の域を外れてはいるが、端から見る限りは実に愛嬌があって面白い。特にゴミ袋を被ってエクササイズをしようとするパットと、神出鬼没的にまとわりつくティファニーがワーワー言い合いながらランニングに勤しむシーンは笑える。

 周囲のキャラクターも一筋縄ではいかない奴ばかりだ。パットの父親はアメフト賭博の胴元で、過度にジンクスに拘るあまり家族に無茶振りをする。母親はといえば、脳天気を絵に描いたよう。父親のバクチ仲間やパットの友人達も海千山千の面子が揃う。そのため主人公二人の無軌道ぶりがうまく“中和”されて、全体的に違和感のない展開が可能になっている。

 クライマックスのコンテストの場面は盛り上がり、しかも目標が優勝とか上位入賞とかいった御大層なものではないという設定が効いていて、笑いを誘う。

 さて、物足りない面だが、これは以前観た「人生、ブラボー!」とほぼ一緒だ。つまり、あまりにもシチュエーションが御都合主義である。考えてみれば「ザ・ファイター」のような“息子がスランプに陥っているプロボクサーである”という設定よりも、本作の“家族にメンタル面で問題を持っている者がいる”という話の方が遙かに普遍性が高いのだ。

 この映画では幸いにして主人公達は周りに好かれていて、家族も友人も良い奴ばかり。パットもティファニーも不運な出来事に遭遇しなければ、真っ当な人生を歩んでいたはずのキャラクターだ。これがもしも、主人公が最初から独りよがりな人間で、周りの者も敬遠したくなるような者だったらどうだろう。実際にはそういうケースの方がずっと多いように思うのだが、この映画ではそれに対する処方箋を用意してはくれない。

 明るく楽しい映画であることは結構だが、現実とのギャップを考えると無条件での高評価は与えにくいのだ。

 主役のブラッドリー・クーパーとジェニファー・ローレンスは好演。オスカーを手にしたローレンスが注目されているが、クーパーのナイーヴなパフォーマンスも要チェックだと思う。父親役のロバート・デ・ニーロをはじめとする脇の面々も良い味を出している。ダニー・エルフマンの音楽および既成曲の使い方もセンスが感じられるし、日本人カメラマン高雅暢の仕事ぶりも注目されよう。
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「東京上空いらっしゃいませ」

2013-03-10 06:53:56 | 映画の感想(た行)
 90年作品。本作でデビューした牧瀬里穂の魅力に圧倒される。彼女が中井貴一扮する主人公の部屋を所狭しと飛び跳ねる場面、川越の街を歩き回るシーン、主人公と“影踏み”に興じる場面、ハンバーガー・ショップでバイトする彼女がひどい手さばきでハンバーガーを作る長廻しのショット、すべてが観る者を魅了せずにはおかない輝きに満ちている。特に、彼女が夜のクラブで主人公と歌って踊りまくるシーンは、あたかもスクリーン上に“祭”が出現したようだ。



 大手家電メーカーのキャンペーン・ガールに選ばれたユウ(牧瀬)は、パーティの帰り道、好色な専務(笑福亭鶴瓶)に迫られて逃げようとして、交通事故に遭って死亡する。しかし、あの世に行く途中で死神コウロギ(鶴瓶=二役)をだましたユウは、うまくこの世に復活することに成功。広告会社に勤める文夫(中井)の部屋に転がり込む。ところが鏡には自分の姿が映らないばかりか、彼女の死を知っている人の前に現れると、存在を消されてしまう・・・・。

 このなんともウソくさい話を演出したのが相米慎二である。相米監督といえば一度観たら忘れられないほどの個性的な作風で知られるが、この映画ははエンターテインメント性と自由奔放な映画技法がうまくミックスされた快作である。

 天国から落ちてきたヒロインが、生きることを哀しく断念するという設定だからこそ、ハツラツとした彼女の運動感は「生きる」ことの輝きを観る者に印象づける。屋形舟の上で文夫に自分の心情を告白する彼女のバックには夜空を彩る花火の乱舞・・・・という構図も泣かせる。そして何より、井上陽水の「帰れない二人」が挿入歌として抜群の効果をあげている。

 緊張と抒情が交互に入り交じり、観終わってたまらない“せつなさ”を感じさせるこの映画、惜しくも早々とそのキャリアを終えた相米監督の、後期を代表する作品である。
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「塀の中のジュリアス・シーザー」

2013-03-09 06:47:13 | 映画の感想(は行)

 (原題:CESARE DEVE MORIRE)実に面白い。虚構と現実との境界を超えていくことは映画的興趣の一つであり、それを見事に結実させた作品には過去に何本か接したことがあるが、本作はそのスケールの大きさにより異彩を放っている。ただし、作品世界は巨大であるにもかかわらず、御膳立てはミニマムなのだ。その落差にも目を見張る。

 ローマ郊外にあるレビッビア刑務所の重警備棟では、囚人たちによる演劇の実習が定期的に行われている。今回の演目はシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」だ。映画は冒頭に本番でのラストシーンを披露し、それから数ヶ月前に時制を遡らせてオーディションから劇の完成までを描いていく。キャストは元囚人もいるが、出てくる大半の服役囚は本物。演出家も刑務官も実際の人物が本人役で出演している。

 本当の囚人達が映画の中の登場人物を演じ、そしてさらに彼らはシェイクスピア劇のキャラクターを演じている。いわばメタ映画的な二重構造を設定した上で、公演の舞台になるホールが工事中であるため、稽古は刑務所のいたるところで行われるという絶妙なモチーフが挿入される。また公演には外部から観客を呼ぶことになっており、囚人達にとってシャバの空気に触れる数少ないチャンスでもあるのだ。だから稽古にも自然と熱が入る。

 彼らは役作りに没入することにより、やがて役柄と自身のキャラクターがオーヴァーラップしてくる。劇中のセリフを繰り返すうちに、しがない服役囚が古代の為政者になり、殺風景な刑務所がローマの宮廷になる。もちろん、実際に“そう見える”ような特殊映像処理が施されているわけではない。だが、出演者の必死のパフォーマンスは時空の扉をこじ開けるのだ。

 さらに、劇の登場人物の造型に服役囚自身の人生までもがダブってくる。彼らの多くはマフィアの元構成員で、刑期も長い。ギャングになりたくてなった者もいるかもしれないが、多くは恵まれない生い立ちのため、悪の道しか残されていなかったのが実情だろう。囚人の一人が稽古中に“ローマはひどいが、俺の生まれ故郷のナポリもひどい”と述懐する場面は、現代と古代とを繋ぐ二次元軸で展開していた作劇が、横の空間の広がりまでも獲得するスリリングなシチュエーションを演出していると言えよう。

 2012年のベルリン国際映画祭の大賞獲得作品で、監督のパオロ&ヴィットリオ・タビアーニとしても出世作「父/パードレ・パドローネ」以来の闊達な仕事ぶりを見せつけている。終盤、独房に戻った登場人物の一人が“芸術に触れることが出来た今、真の孤独を知ることになった”と呟くシーンは印象的だ。優れた芸術が持つベクトルは、観る者の内面まで照射する。もちろん、映画芸術も例外ではないのだ。
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「十字路」

2013-03-08 06:43:16 | 映画の感想(さ行)
 1928年製作。「一本刀土俵入」(34年)「或る夜の殿様」(46年)などで知られる往年の日本映画の巨匠の一人、衣笠貞之助が「狂った一頁」(26年)に続いて撮った時代劇で(もちろん、サイレント)、当時は“実験映画”と騒がれたらしい。なお、私は本作を某映画祭の特集上映で観ている。

 観終わって驚いた。一時間ちょっとの上映時間だが、娯楽映画に必要なエッセンスをすべてつぎ込み、かつ野心的で芸術性も高いという、実に先鋭的な作品ではないか。

 舞台は吉原。遊女の一人に恋をした青年(阪東寿之助)は、今夜も彼女に言い寄ろうとして、用心棒に叩き出される。仕立て屋で奉公している姉(千早晶子)のもとへ逃げ帰った彼は、姉が作っている着物を無理矢理取り上げ、吉原の彼女にプレゼントしようと戻る。ところがもとより尻の軽い女で、彼の前で別の男とくっついているところを見せつける。



 激怒した彼はその男を斬ろうとするが、囲炉裏の灰を投げつけられ、一時的に失明。混乱の中で彼は男を殺したと思い込み、姉と二人で逃げようとする。しかし、姉に迫るニセ役人が事態をますます悪化させていき・・・・。

 すべて夜間撮影。漆黒の闇と吉原の喧噪との目を見張るコントラスト、縁日の見せ物がドラマとオーヴァーラップしていくあたりの映像処理、スピード感あふれる演出が生き急いだ主人公たちの疾走感をあらわしていて秀逸。サイレント作品とはいえ、オーバーなまでの俳優の演技と効果的な殺陣はアクション映画としての側面を強調する。

 吉原の騒乱と、弟を待って夜の十字路に立ち尽くす姉を対比させて描く印象的なラストまで、イッキに見せきるこの演出力。姉を演じる千早晶子の恍惚とした美しさも相まって、忘れられない作品となった。衣笠監督の作品をもっと観たいものである。

 実は封切り当時の公開版はすでに失われていて、観たのは海外の映画祭に出品された“国際版”である。そのため字幕はすべて英語だ。比較的セリフの少ない映画なので、私のつたない語学力でも何とかストーリーを追うことができたが、映画というものは本気で保存しないとアッという間に失われる“文化財”であることを痛感した私である。
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「東ベルリンから来た女」

2013-03-04 06:39:46 | 映画の感想(は行)

 (原題:Barbara )どうにも退屈で、やりきれない映画である。2012年のベルリン国際映画祭で監督賞を受賞した作品だが、ひょっとして“地元びいき”に過ぎなかったのではないかと思ってしまう。とにかく中盤付近の生ぬるい展開には、眠気を覚えるばかりだった。

 1980年、東ベルリンの大病院で働いていた女医のバルバラは西ドイツにいる裕福な恋人と一緒になるため出国申請するが、却下された挙げ句にバルト海沿岸の田舎の病院に飛ばされてしまう。それでも、何とか隠れて彼氏と連絡を取り合うのだが、彼女に好意を寄せている同僚医師の生き方に触れることにより、それまでの自分中心の態度を見直すようになる。

 この時代を描くにあたって大きなモチーフになるのが悪名高い東ドイツ秘密警察(シュタージ)であることは論を待たないが、本作でのシュタージの取り上げ方はさほど凄みは無い。確かに突然部屋にズカズカと上がり込んできたり、バルバラに対して理不尽な身体検査をする場面などにこの組織の外道ぶりが示されているが、ここでの市民に対する非人間的な圧力は、思わず糾弾したくなるほど激しいものではない。

 それどころか、人目を忍んでいるとはいえ、彼女は西側の恋人と頻繁に会っているのである。しかも、相手は高級車で堂々と乗り付けてくる。もちろんヨソの国の話なので“実態はこんな感じだった”と言われてもこちらは否定する材料は持ち合わせていないが、映画をドラマティックに仕立て上げるための“御膳立て”に関してもっと練り上げるべきではなかったのか。

 矯正所から何度も逃げてきた少女の話や、担ぎ込まれた少年に開頭手術を施すといった途中のエピソードも、あまり盛り上がらない。

 クリスティアン・ペツォールトの演出は冗長と言うしかなく、何のメリハリも付与せずに漫然と作劇を流しているようにしか見えない。ヒロインがバルト海経由で逃亡を図ろうとするラスト近くの扱いも、描きようによっては観る者を惹き付けることも可能だったはずだが、不発に終わっている。

 とはいえ、主演のニーナ・ホスは悪くない。美人ではないが、スラリとした手足と意志の強さを感じさせる目付きは忘れられない印象を残す。共演のロナルト・ツェアフェルトも実直な医師を過不足無く演じて好感が持てる。また、清涼な映像も要チェックかと思う。ただし、それだけでは評価できない。観る価値があるとは言い難いシャシンである。
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アーモンドの花

2013-03-03 07:13:16 | その他
 先日、福岡市中央区の大濠公園まで“遠征”してジョギングを敢行したところ、駐車場の脇に桜に似た花をチラホラ付けている樹を見つけた。もちろん3月上旬は桜の季節までは間があるし、そもそも花自体が桜より一回り大きい。よく見ると木の幹にプレートが備え付けられていて、そこには“アーモンド”という表示がある。なるほど、これはアーモンドの木だったのだ。



 アーモンドはバラ科サクラ属であり、花が桜と似ているのも当然だろう。ガーデニングを趣味としている職場のベテラン社員によると、植木としてもよく売られているらしい。また、梅に似た濃厚な香りがするという。



 今年の冬は思いのほか寒さが厳しく、インフルエンザなどで床に伏せった者が周囲にもけっこういたが、このアーモンドや梅の花を見ると、春も間近であることが今さらながら感じられる。

 とはいえ、年度末の繁忙期はこれからだ。さすがに怠け者の私も本腰を入れざるを得ない(・・・・って、今までは本気ではなかったのかよ ^^;)。読者諸氏諸嬢も身体に気をつけて頑張ってほしい。私も頑張る(^_^)。
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