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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「TAMALA2010」

2013-01-17 06:39:06 | 映画の感想(英数)
 2002年作品。何かトンでもないものを観てしまったという感じだ。配給会社キネティックのタイトルに描かれている子猫を主人公にしたSFアニメーションなのだが、この映画、徹頭徹尾何がなんだか分からない。監督はt.o.l.なる製作ユニットらしいが、その正体も不明。どういう意図で作られた映画なのか想像も出来ない。



 キュートな造形と全然マッチしないグロ描写は“ねこぢる”あたりの影響を感じるが、扱われるネタはマイナーな世界ではなく、多元宇宙などのスケールの大きなハッタリをかましたものだ。その点が実に怪しい。武田真治や加藤武、ベアトリス・ダルといった豪華な声優陣もまるで場違いである。

 映画の体を成していないという意味で、好き嫌いを問われたら“大嫌い”と即答できる作品だが、困ったことに観る価値はある。モノクロを主体にしたシュールでポップかつ先鋭的な画面設計は、ある意味“頂点を極めている”といった感じだし、音響も素晴らしい。たぶんカルトムービーの最右翼として、今後も一部の熱狂的なファンを集めていくのだろう。
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「レ・ミゼラブル」

2013-01-16 06:37:07 | 映画の感想(ら行)

 (原題:LES MISERABLES)観ていて疲れた。とにかく、出てくる連中すべてが肩に力が入り、気張りまくって歌っている。全編フォルテの印象で一息つけるところがない。これは撮影と同時に歌を録音するという、ライヴ方式の弊害が出ていると思う。

 この方式は作り手にとっては“臨場感が出て良い”ということになるのだろうが、演じる側としては早い話が“一発録り”だ。キャストがここぞとばかり気合いと情感を込めたパフォーマンスに徹したつもりでも、観る方としては一本調子でメリハリのない展開に映る。しかも、当然の事ながら歌いながら演技をするのは難しい。歌に気を取られると演技がおろそかになる。その逆も然りだ。

 ここで“舞台版は皆歌いながら演技しているじゃないか!”という突っ込みが入るのかもしれないが、本来歌と演技とを別々に収録できるはずの映画と比べるのはナンセンスだ。どうして万全な状態での歌声をスタジオで録らなかったのか。ライヴ方式なんて、作り手の独善に過ぎないと思う。

 さらに、本作はセリフのほとんどが歌で表現されるという、いわゆるオペラ形式の作劇を採用しているが、これも大いに疑問だ。このスタイルのミュージカル映画で成功した例としては、私が思いつく限りではジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」とケン・ラッセルの「トミー」ぐらいしかない。

 通常のミュージカル映画はドラマ部分と歌及び踊りのシーンとが分かれているのだが、ドラマ進行の途上で非日常的なミュージカル場面が挿入されることにより、映画全体が良い意味での“絵空事”になり(笑)、観客はそれを承知した上でストーリーが少々破綻していようと楽しめるのだと思う。

 しかしオペラ形式だと、セリフが歌に変わっただけの“普通のドラマ”として最初から受け取られてしまう。歌と踊りがいつ現れるかという、ワクワク感がない。だからオペラ形式のミュージカル映画としては、ドラマ部分も“非ミュージカル映画(?)”と同程度に練り上げるようなアプローチをしないと絵空事になってしまう。

 ひるがえってこの映画はどうかというと、そのあたりがまるでダメである。長大な原作、しかも決して単純ではない内容を2時間余りに収めることは至難の業だが、それを勘案してもこれは実に下手な脚色であり、話の辻褄が合っていない。ここで“元ネタの舞台版がそうだから仕方が無い”という意見は却下する。舞台版が映画化に向いていないのならば、この企画は取りやめた方が良かった。

 舞台セットやカメラワークも洗練されておらず、大作感は意外なほど希薄だ。ヒュー・ジャックマンやラッセル・クロウ、アン・ハサウェイ、アマンダ・セイフライド(正式な発音はサイフリッドらしい)などの出演陣は頑張っていることは認めるが、トム・フーパーの演出が精彩を欠いていることもあり、いずれもあまり印象に残らない。世評は高いものの、個人的には面白い映画とは思えなかった。
コメント (2)
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「バトル・ロワイアル」

2013-01-15 06:33:41 | 映画の感想(は行)

 2000年作品。近未来、全国の中学校の中から選ばれた一クラスに、脱出不可能な孤島で互いに殺し合いをさせる法律が成立。当事者になった生徒たちは必死のサバイバルに挑む。高見広春の同名小説の映画化で、監督は深作欣二。

 言うなれば“ホームランになりそこなった大ファウル”ってとこだろうか。確かに深作御大、活劇シーンには抜群のキレを見せ、最後まで観客をグイグイ引っ張るパワーには瞠目すべきものがある。血ヘドを吐きながら死んでゆくガキどもの熱演もなかなか。特に“灯台の中の内ゲバ”のシーンは手を叩いて喜びたくなった(笑)。

 藤原竜也や柴咲コウ、栗山千明、塚本高史、高岡蒼佑といった、その後活躍する若手を多数取り揃えているのもポイントが高いだろう。

 しかし、どうも釈然としないものが残る。最大の敗因は、なぜ国家主催でガキどもに殺し合いをさせなければならないのかサッパリわからないこと。そんなことをすればますます若年層(そして父兄)の国家に対する反発を呼び起こし、国としては困ることにならないか? “全国の中学三年生のクラスを無作為に選んで・・・・”というのもワケが分からない。あえてやるとしたら、“凶悪犯ばかりの少年刑務所の受刑者クラス”の方だろう。

 そもそも“互いに殺し合う”より、たとえば“対敵国への外人部隊への編入”なんかの方がよっぽど国益にプラスになり国民的コンセンサスも得られやすいと思う。それから、元教師がなんで“試合”の指揮を取っているのかも不明だし(戦闘のプロでもないのに)、二人の“転校生”がなぜ参加できるのかも不明。

 エピローグでのビートたけしの扱いも消化不良で、ラストシーンに至っては“なんじゃこりゃ”である。このように、映画の設定そのものが実に脆弱であるから(もちろん“原作がそうなっているからしょうがない”なんてのは言い訳にもならない)、銃火器を素人が簡単に扱えるわけがないとか、“危険エリアがどうの”というネタがほとんど活かされていない等、本来あまり作劇上気にならないはずのアラが目立ってきてしまう。

 その年の日本映画の中ではヴォルテージが高く、辛口のエンターテインメントに仕上がっていることは認めるものの、脚色のツメが甘いため決定打にはなり得ていない。実に残念である。

 なお公開当時は中学生が主人公なのにR指定になったことが物議を醸したが、この内容ではR-15で当然だと思う。たとえR-18でもR-20(ねえって、そんなの ^^;)でも一向に構わない。こういう映画は「大人」が楽しむものだ(笑)。
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「菖蒲」

2013-01-14 07:26:38 | 映画の感想(さ行)

 (原題:TATARAK )アンジェイ・ワイダ監督の新作だが、歴史ネタを大上段に振りかぶって描こうとして結局は上手くいかなかった前回の「カティンの森」のよりも、数段好感の持てる作品だ。上映時間は短いが、それだけにキレの良さも一層印象付けられることになる。

 ベテラン女優のクリスティナ・ヤンダはカメラマンだった夫を病で亡くし、失意の中にあった。そんな中、ワイダ監督から映画出演を依頼される。一度は断るものの、付き合いの長い同監督のオファーを結局は受け入れる。その映画の題名は「菖蒲」で、大戦後のポーランドに生きる人妻の話である。

 劇中のヒロインは医師である夫から不治の病に冒されていると診断されるが、本人はそれを告げられない。ある日、彼女は街のイベントスペースで見かけた若者に恋心を抱き、たびたび逢うようになる。

 設定を見ても分かるように、これは“映画内映画”の体裁を取る“メタ映画”である。通常こういう形式の作品は、映画の中で扱われる“映画”が、それを取り巻くシチュエーションといかに上手くリンクしているかによって出来不出来が決定するのだが、本作は及第点に達している。

 まず、クリスティナ・ヤンダの夫は本当に世を去ってしまったこと、そんな彼女に新作のオファーを舞い込むこと、これらは“本当のこと”だ。つまりは、リアルな事象によって物語の外堀を埋めている。そして、劇中映画「菖蒲」では死の淵にあるのは彼女が演じる役の方であり、夫はそれを“見送る”立場にあること。スタンスを逆転させることにより、題材である“死”を重層的に描こうという企てが成功していると言える。

 さらに終盤近くには、ヒロインは現実とフィクションを同一視してしまい現場からエスケープしてしまう。彼女のようなキャリアの長い女優でも、劇中の設定が実生活と重なることにより、抑えられないほどの衝動に駆られてしまう。俳優が映画の中で他者の人格を“演じる”ことの、(ある意味)不条理性をレアな形で提示し、観る者を慄然とさせる。また、このテーマは年を重ねて残された時間も長くないワイダ監督の心境をも投影していることは言うまでもないであろう。

 クリスティナ・ヤンダはかつてワイダ監督の「大理石の男」と「鉄の男」で強烈な存在感を見せつけたが、本作での彼女は若い男とは不釣り合いなほどに年を取ってしまったという喪失感を表現していて見事である。ポーランドの地方都市の風情と清涼な映像も捨てがたく、数多くの話題作を撮ったワイダ監督のフィルモグラフィの中でも特筆すべき地位にランクされるべき佳編だと思う。
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安倍政権は日本経済を救えるか?

2013-01-13 06:45:27 | 時事ネタ
 2012年の12月に行われた総選挙では大方の予想通り自民党の圧勝となった。理由は民主党が勝手にコケたから・・・・というのも大きいが(笑)、何と言っても大半の国民の関心事であった景気対策に言及したからだと思う。ちなみに民主党をはじめとする他党の公約は、このあたりが実に貧弱であった。

 発足した安倍政権は、さっそく総額20兆円規模の緊急経済対策を打ち出した。さて、果たしてこの政策、本当に日本経済を活性化させることが出来るのだろうか。

 何でも、公共事業(財政政策)、金融政策、成長戦略を「3本の矢」として推進していくらしい。まあ、成長戦略は別としても財政政策と金融政策は教科書通りの景気対策であるし、これらを実施することには異存は無い。アホなマスコミの中には「そんなのはカビの生えた古い手法に過ぎない」と論難する向きもあるらしいが、古かろうが何だろうがこれらしか方法はない。今までずっと日本経済が低空飛行を続けていたのは、この「古い手法」を効果的にやっていなかったからだ。

 じゃあ、安倍政権の政策で景気が刺激されて経済が上向くのかというと、そう簡単に事は運ばないと思う。

 まず、金融緩和は結果的にあまり大きな効果は望めないと思う。何しろ現時点での超低金利でも投資額は増えないのだ。なぜなら市場に消費需要が無く、当然のことながら投資の需要も無いからである。金融政策による景気の拡大というのは、あまりデフレが深化していない時点では有効かもしれないが、今のような慢性的な需要不足で不況が長引いている状態ではさほど意味は無い。まあ“やらないよりはマシかもしれない”というレベルの話だろう。

 そもそも経済マクロ的に「景気が良い」というのはどういう状況を示すのかというと、早い話がGDPが順調にシフトアップしていくことであろう。そのGDPの6割程度を占めるのが個人消費だ。つまりは個人消費を増大させることが景気回復の重要事項の一つなのである。では、安倍政権の政策で個人消費は増えるのだろうか。

 金融政策については前述の通りだが、財政政策はどうか。確かに公共事業のテコ入れでマクロの投資額は増えるから、GDPの総額は大きくなるはずだ。ならば、公共工事の発注で潤った各企業は従業員にその分を還元してくれるのだろうか。

 昔の高度成長時代には“企業が儲かり、それと平行して所得水準も上がる”という構図があったらしいが、今はそうではない。いくら企業の利益が大きくなっても、人件費には反映せずに内部留保で貯め込むだけだろう。これに対して安倍政権は、企業が給料や雇用を増やすとその人件費増加分の10%を法人税から差し引くという税制を打ち出すという話だ。しかし、人件費アップ分と法人税減額分とを天秤に掛けた結果、人件費増額の方を切り捨てる企業だって出てくるはずだ。つまりは各企業の事情によって結果はまちまちになり、確実なマクロ的所得水準の向上には結びつかない。

 所得が増えなければ個人消費がアップするわけはなく、GDPの上昇も一時的なものになる。最初に確実な個人消費の増大を狙うのならば、減税あるいは(麻生政権下で行ったような)給付金を大規模にやるべきだ。なお、こういうことを言うと“いくら減税しても国民は貯め込むだけで消費に回らない”という突っ込みが入るかもしれないが、国民の懐がいくらか暖かくなればそれを狙って企業活動も活発化するはずだから、その分経済波及効果を生む。

 それから安倍政権の政策に対して危惧することをもう一つあげると、消費税率のアップが予定されていることだ。景気が回復すれば消費税増税を実施する(回復しなかったら取りやめる)という条項はあるが、もしも財政政策でいくらかGDPの伸び率が好転して“さあ、これで景気は持ち直した。次は増税だ”という筋書きになってしまうと、上向きかけていた景気は一気に冷え込む可能性が大きい。

 麻生政権時には麻生首相は“日本経済は全治3年だ”と言っていたが、3年ではなく1年足らずで回復基調にあるのかどうかを早々とチェックして増税に持って行くというのは、拙速に過ぎる。一時的な景気好転ではなく、恒常的な経済成長を見極めた上で増税を検討すべきではないのか。

 なるほど安倍政権の経済政策は、民主政権時の政策や小泉構造改革路線に比べれば遙かにマシかもしれない。しかし、国民の所得水準上昇に関しての明確なスキームが提示されていないこと、そして消費税増税が控えていること、この2点が大きなネックとなって諸手を挙げての賛同は出来ない。

 まあ、2013年には参院選もあることだから、国民は政府に対する注文があるならばその時に意思表示すべきだろう。今後の推移を見守りたい。
コメント (2)
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