本来なら十代の頃に読んでおかなければならない本。だが私がこれを読んだのはつい最近だ(大笑)。しかし、このトシになってからしか出来ない楽しみ方が見出せるのも、古典たるゆえんだろうか。興味深く読めた。
井上靖の自伝的小説であり、主人公・鮎太の少年時代から成人時代までを年代順に追ってゆく手法を取っているが、それに戦前・戦後の激動の時代を重ね合わせることによって、各エピソードがドラマティックに演出される。
鮎太が出会った様々な人物たち、彼らが矜持を捨てずにがむしゃらに生きる姿を、檜になりたくても決してなれない翌檜の木をメタファーとして描かれるが、たぶん若い頃に読んだら登場人物達のストイックな生き様と比べ、自らのだらしのない姿を顧みて随分と焦燥感(それと諦め)に苛まれたことだろう。だが、今から考えれば、そんな風に思ったであろう自分も育成状態の悪い翌檜であったのだ。というか、誰でも青春期はそうなのだ。
そして、自分を翌檜だと認識させてくれるのは“他者との出会い”に尽きる。その“他者”とは実生活での人間関係はもちろん、書物や趣味もそうだと思う。“他者との出会い”を経ずに、翌檜にもなれない年若い者たちに“キミたちはすでに檜だ”という幻想を吹き込んで“下流社会”の固定化を図る最近の風潮を不快に思う。
トシを食った今、すでに先が見えてしまった翌檜でしかない私だが、ひょっとして“あした”は数ミリ程度は成長出来るかもしれない・・・・という全くアテのない独りよがりの思い込みにより、今日も何とか生きている私だ(激爆)。
井上靖の自伝的小説であり、主人公・鮎太の少年時代から成人時代までを年代順に追ってゆく手法を取っているが、それに戦前・戦後の激動の時代を重ね合わせることによって、各エピソードがドラマティックに演出される。
鮎太が出会った様々な人物たち、彼らが矜持を捨てずにがむしゃらに生きる姿を、檜になりたくても決してなれない翌檜の木をメタファーとして描かれるが、たぶん若い頃に読んだら登場人物達のストイックな生き様と比べ、自らのだらしのない姿を顧みて随分と焦燥感(それと諦め)に苛まれたことだろう。だが、今から考えれば、そんな風に思ったであろう自分も育成状態の悪い翌檜であったのだ。というか、誰でも青春期はそうなのだ。
そして、自分を翌檜だと認識させてくれるのは“他者との出会い”に尽きる。その“他者”とは実生活での人間関係はもちろん、書物や趣味もそうだと思う。“他者との出会い”を経ずに、翌檜にもなれない年若い者たちに“キミたちはすでに檜だ”という幻想を吹き込んで“下流社会”の固定化を図る最近の風潮を不快に思う。
トシを食った今、すでに先が見えてしまった翌檜でしかない私だが、ひょっとして“あした”は数ミリ程度は成長出来るかもしれない・・・・という全くアテのない独りよがりの思い込みにより、今日も何とか生きている私だ(激爆)。