元・副会長のCinema Days

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「ドライブ・マイ・カー」

2021-09-19 06:58:53 | 映画の感想(た行)
 濱口竜介監督といえば、2018年に撮った「寝ても覚めても」がどうしようもない駄作だったので今回もさほど期待していなかったが、実際に観てみると、想像以上の低レベルで大いに盛り下がった。しかも上映時間が3時間という、気の遠くなりそうな長さである。だったら観なければ良かったじゃないかと言われそうだが(笑)、第74回カンヌ国際映画祭において脚本賞を受賞した話題作なので、一応はチェックしておこうと思った次第だ。

 舞台俳優兼演出家の家福悠介は、脚本家である妻の音と何不自由なく暮らしていたはずだった。しかしある日、妻は突然他界。喪失感を抱えながら2年が経ったある時、彼は広島で開催される演劇祭で舞台監督を依頼され、自家用車で現地に向かう。ところが主催者側は別にドライバーを手配しており、演劇祭の期間中は彼の車は専属ドライバーの渡利みさきが担当することになる。そんな中、家福は出演者のオーディション会場で、かつて音と懇意にしていた高槻耕史の姿を見つける。村上春樹による短編小説の映画化だ。

 まず、主人公は東京から広島まで車を運転するほど自動車に思い入れがあるはずだが、そんなフェチシズムは映画からは微塵も感じられない。家福の愛車はサーブ900というマニア向けのモデルで、今でもこの車に乗り続けているのは絶対に強い動機があるにも関わらず、それを描かないのは致命的だ。極論すれば、車への偏愛を活写していれば、どんなに脚本がポンコツでも許せたのである。

 さて映画の筋書きだが、話にならないレベルだ。要するに何も描けていない。脚本家という触れ込みの音が、ベッドサイドで話す新作の内容のつまらなさ。彼女が他の男たちとの情事に溺れていることを知っていながら、黙認する悠介の不審な態度。耕史が音を“素晴らしい女性”と評するが、その理由は(情事以外は)不明。

 悠介が緑内障を患っていることや、みさきが悠介と音との亡くなった娘と同年齢であること、耕史がパパラッチを異様に敵視して挙げ句に不祥事を起こすことなど、散りばめられたモチーフが映画の焦点にほとんどアプローチしてこない。開演ギリギリに悠介がみさきと“長距離ドライブ”を敢行する意味も(物理的・時間的に可能どうかも含めて)まるで無し。それでいて、言い訳めいた説明的セリフはイヤになるほど多い。少しは“映像で語る”ということを考えたらどうなのだろうか。

 とはいえ、劇中のチエーホフの舞台劇は印象的だ。他言語を駆使するという変則的な作りながら、けっこうサマになっている。ハッキリ言って、チエーホフの戯曲をそのまま映画化した方が成果が上がったのではないか。主演の西島秀俊が大根に見えるのは、監督の演技指導が行き届かないせいだろうか。三浦透子に霧島れいか、岡田将生といった他のキャストも精彩を欠く。パク・ユリムにジン・デヨン、ソニア・ユアンなどの海外キャストの方がまだマシに見えた。それにしても、取って付けたようなエピローグには脱力する。大して意味があるとも思えない処理だ。

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