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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「世界の終わりから」

2023-05-15 06:06:16 | 映画の感想(さ行)
 かなりの怪作だ。ハリウッドの「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」(通称:エブエブ)に匹敵する、カルト映画の最右翼として位置付けられるだろう、もちろん「エブエブ」同様、好き嫌いがハッキリと分かれる作品であり、特に一般的な善男善女の皆さんにとっては生理的に受け付けないシロモノなのかもしれない。だが個人的には気に入った。本年度の日本映画の中では見逃せない一本である。

 高校生の志門ハナは小さい頃に事故で両親を亡くし、つい先ごろ唯一の肉親である祖母もこの世を去り、独りぼっちになってしまった。そんな時、彼女の前に政府の特別機関の構成員と名乗る者たちが現れ、最近見た夢の内容を聞かせろと言う。他人に話すほどのインパクトの強い夢など近頃見たことはないハナは戸惑うばかりだったが、その夜から彼女は奇妙な夢を見るようになる。何でも、ハナはこの世界の去就を決するほどの“力”を持っているらしく、夢の中の出来事こそがそのトリガーになるというのだ。



 監督の紀里谷和明の作品は過去に「CASSHERN」(2004年)を観ただけだが、これが苦笑するしかない出来で、それ以来彼の映画は敬遠していた。しかしこの作品は意外と評判が良く、また彼自身が“これが最終作”と銘打っているほど気合いが入っていることも窺われたので鑑賞した次第だ。結果、本当に観て良かったと思う。

 ヒロインが見る夢は自分が戦国時代と思しき過去の人間になり、そこで謎の男・無限から狙われるというものだが、やがて無限は現実世界にも出没するようになる。同時に自らの野心のためにハナを利用しようとする内閣官房長官や、予言者である老婆、さらには遠い未来に日本列島に降り立つソラといった正体の掴めぬ人物たちが跳梁跋扈し、八方破れ的な展開を見せる。

 個々の描写には苦笑してしまうようなチープな部分もあるのだが、全体的な方向性や求心力は揺るがない。それは、終末論と主人公が抱く苦悩との絶妙なコラボレーションだ。ハナは家族を失う前から学校では居場所がなく、それどころか性悪なクラスメイトたちから手酷いイジメを受けていた。彼女にとっての“世界の終わり”とは、自らの存在の消失による逃避であり、すべてをリセットしてしまうことは即ちリアルな次元での“世界の終わり”にも繋がる。その危うい関係がドラマに緊張感を与える。

 この容赦ない描写は岩井俊二監督の「リリイ・シュシュのすべて」(2001年)に通じるものがあると思っていると、実際に岩井が教師役で出てくるのだから呆気にとられてしまった。主役の伊東蒼の存在感は素晴らしく、文字通り世界中の悲劇を一身に背負うような眼差しと、しなやかな身のこなしには圧倒される。毎熊克哉に朝比奈彩、若林時英、市川由衣、冨永愛といった面子も申し分なく、高橋克典が珍しく悪役に回っているのは妙にウケた。北村一輝と夏木マリもいつも通りのアクの強さを発揮している。

 「エブエブ」もそうだが、いわゆる“マルチバース”をネタにしたシャシンは今後増えると思う。もちろんクォリティは作者の力量次第だが、昨今のアメコミ作品のような単なる小手先のギミックでは観る者を納得させられない。本作のように、真に切迫した製作動機が必須である。
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「聖地には蜘蛛が巣を張る」

2023-05-06 06:05:56 | 映画の感想(さ行)
 (原題:HOLY SPIDER )胸くそ悪い映画である。断っておくが、決してこれはケナしているわけではない。昨今は“胸糞”というフレーズをホメ言葉として扱うケースが珍しくないらしいが(苦笑)、本作はまさにそれだ。もちろん一般的な良い映画という意味ではなく、マイナス方向のインパクトが強く忘れがたい印象を残すシャシンとして評価出来る。

 イランの聖地マシュハドで2000年代初めに連続殺人事件が発生。犠牲者はすべて娼婦で、“スパイダー・キラー”と名乗る犯人は“街を浄化するため汚れた女たちを始末しているのだ”と嘯く。女性ジャーナリストのラヒミは真相を探るべくマシュハドに乗り込むが、犯人を英雄視する市民が少なくないことを知り愕然とする。しかも事件を握り潰そうとする勢力も存在し、警察当局も例外ではない。意を決したラヒミは、自身が囮になって犯人をおびき寄せるという、危険な賭に出る。実際に起こった事件を元にしたクライムサスペンスだ。



 映画は早々に犯人の氏素性を明らかにするが、それが作劇上の欠点にはなっていない。この犯人像こそが映画の最大のポイントだ。容疑者サイードは妻子のいる一見普通の家庭人だが、かつてイラン・イラク戦争に従軍し、多くの戦友の死に直面してきた。そのため“自分だけが生き残ってしまった”という負い目から逃れられない。このコンプレックスを克服する手段が“聖地である街の浄化”を名目にした凶行だったのだ。さらにサイードがやらかしたことを知った妻も、夫を批判するどころか正当な行為だったと強弁する始末。

 アリ・アッバシの演出は粘り着くようなタッチで事件の顛末を追う。正直言ってサスペンスの練り上げ方はそれほど巧みではない。しかし、犯行場面の描写はかなり生々しく、観る側の内面をざわつかせるには十分だ。そして、災難に遭う娼婦たちの生活感も掬い上げられている。極めつけはラストの処理で、(良い意味での)後味の悪さは格別だ。

 主役のザーラ・アミール・エブラヒミは大熱演で、世の中の無知と偏見に果敢に立ち向かうマスコミ人をリアルに表現。本作で第75回カンヌ国際映画祭で女優賞を獲得している。サイードに扮するメフディ・バジェスタニも見事なサイコパス演技だ。なお、当然のことながらこの内容ではイランでは撮影・製作不可である。本作はデンマークとドイツ、スウェーデン、フランスの合作。ロケ地はヨルダンである。
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「ザ・ホエール」

2023-04-29 06:07:03 | 映画の感想(さ行)
 (原題:THE WHALE )冒頭タイトルが出るまで、この映画の監督がダーレン・アロノフスキーであることを知らなかった。だからその瞬間、本作が宣伝文句にあるような“心震わすヒューマン・ドラマ”などでは断じてなく、一筋縄ではいかないヒネクレ映画であることを予想した。そして実際その通りだったのだから世話はない。もっとも、これは決してケナしているわけではなく、変化球を駆使した快作として大いに評価できる。

 アイダホ州の地方都市に住む中年男チャーリーは大学の国文学の教員をオンラインで務めているが、教え子たちには自分の姿を絶対に見せない。なぜなら、彼は肥満症を患っており体重は270キロにもなる魁偉な容貌の持ち主だからだ。しかも、心臓が弱っていて余命幾ばくも無い。今は同性の恋人だったアランの妹で看護師のリズの世話を受けながら何とか生活が出来ているが、彼は命が尽きるまでに疎遠だった高校生の娘のエリーと和解したいと思っている。劇作家サム・D・ハンターによる戯曲の映画化だ。



 元ネタが舞台劇であるため、カメラはチャーリーが住むアパートの一室をほとんど出ることはない。また、登場人物が少なくそれぞれに大きな役割が与えられていることもあり、観る側にとっての圧迫感は相当なものだ。加えて、主人公の職業を反映してかハーマン・メルヴィルの「白鯨」が大きなモチーフになっており、この小説自体が旧約聖書からの象徴的な引用が多いことから、年若い聖書のセールスマンのトーマスというキャラクターを用意して宗教的なアプローチも垣間見せる。

 エリーが書いた「白鯨」に対する感想文がドラマのキーポイントになっているようで、実はそうでもない。「白鯨」のエイハブ船長がモビィ・ディックを倒せば総て救われると信じているように、エリーは父親の存在を否定することが自身の人生を切り開く第一歩と思い込んでいるようだ。しかしそれは違う。

 当の彼女が小説「白鯨」に対してネガティヴな印象を持っているように“信じる者は救われる”というようなオール・オア・ナッシングなスタンスで世の中が割り切れるはずがないのだ。この映画は執着的な思い込みから登場人物たちが“解脱”していくプロセスを重層的に綴った作品だということが出来る。ずっと暗鬱だった画面が明るくなる終盤の処置がそのことを如実に示しており、また感動的でもある。

 アロノフスキーの演出は、こういうギリギリまでに追い詰められた人間たちを描く段になると無類の力強さを見せる。特殊メイクで巨漢になりきったブレンダン・フレイザーの大熱演も相まって、各キャラクターに逃げ場を与えない。エリーに扮した新鋭セイディー・シンクや、リズ役のホン・チャウ、妻メアリーを演じたサマンサ・モートン、トーマス役のタイ・シンプキンス、皆目を見張るようなパフォーマンスだ。ロブ・シモンセンの音楽とマシュー・リバティークによる撮影も万全で、これは本年度のアメリカ映画では見逃せない一本だ。
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「シャザム! 神々の怒り」

2023-04-10 06:08:46 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SHAZAM! FURY OF THE GODS)退屈せずに観てはいられるが、前作(2019年)よりも面白さは低下している。早い話が、このキャラクターの売り物である“見た目は大人、中身は子供”という特徴が、キャストの成長によりあまり活かされなくなったのだ。かといって、出演者を総入れ替えするとシリーズとしての一貫性が損なわれる。難しいところだ。

 アテネにある博物館に突如として2人の女神が乱入し、狼藉の末に展示してあった真っ二つに折れた魔法の杖を強奪。彼女たちは神話のアトラスの娘で、古代の魔術師より6人の神の力を授けられたシャザムことビリー・バットソンとその仲間たちからパワーを取り戻すべく、彼らが住むフィラデルフィアに向かう。一方、ビリーたちは相変わらずお気楽なヒーロー稼業を続けていたが、女神たちがペットのドラゴンを引き連れて襲来し街を破壊するに及び、この脅威に敢然と立ち向かうことになる。



 前回中学生だったビリーは高校生になっており、変身後の姿のようなマッチョではないものの、体格は大人と変わらなくなっている。これではシャザムとの見た目のギャップが小さくなり、そのあたりで笑いを取ることは難しい。他のメンバーも程度の差こそあれ似たようなもので、これはマズいと思ったのか、今回クローズアップされるのは普段は足が悪くて学校では辛い目に遭っている(変身時との格差が大きい)フレディである。

 フレディは転校してきた女生徒のアンと仲良くなるが、実は彼女は件の女神の一人だった。この学園ラブコメ風なパートがけっこう尺を取っているため、主人公であるはずのビリーの影が薄くなる。そんな釈然としない展開が続いた後に大々的なバトルシーンに突入するが、最近のアメコミ物の御多分に漏れず、派手な割には大味であまりワクワクしない。前回のように舞台を遊園地に限定したり、思わぬ“友情パワー”が炸裂したりといった工夫が見られないのは辛いところだ。

 デイヴィッド・F・サンドバーグの演出は賑々しいが、緻密さでは前作の方が上だ。終盤に“あの人”が登場するのも、あまり効果的とは思えない。ザカリー・リーバイにアッシャー・エンジェル、ジャック・ディラン・グレイザー、ジャイモン・フンスーといったレギュラーメンバーは可もなく不可もなし。

 ただ、敵役のヘレン・ミレンとルーシー・リューは楽しそうに演じていたし、アンに扮したレイチェル・ゼグラーは「ウエスト・サイド・ストーリー」に出演した時よりも好感度が高い。なお、エンドクレジット前後には思わせぷりなエピローグが挿入されるものの、このシリーズ自体の先行きが不透明なため、気勢の上がらない幕切れになったのは仕方がない。
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「スマホを落としただけなのに」

2023-03-17 06:28:11 | 映画の感想(さ行)
 (英題:UNLOCKED)2023年2月よりNetflixより配信。志駕晃による同名小説の映画化作品(2018年)の、韓国版リメイクである。とはいえ、元ネタの中田秀夫監督版は観ていないし観る予定も無い。どうして演出力が欠如したあの監督に次々と仕事が回ってくるのか、邦画界の不思議の一つだ(苦笑)。それはさておき、この韓国製サスペンスはびっくりするようなレベルの高さこそないものの、約2時間退屈させないだけの求心力がある。観て損は無い。

 ソウルにある健康食品の販売会社に勤めるOLのイ・ナミは、ある晩帰宅途中にバスの中にスマートフォンを落としてしまう。幸いすぐに拾得者から連絡があり、ディスプレイが割れていたので修理に出してくれたという。ナミは指定されたスマホのメンテナンス店に向かう。彼女の父親はカフェを経営しているが、最近若い男ジュニョンがよく通うようになり、ナミとも顔見知りになる。一方、街では連続殺人事件が発生しており、担当のウ・ジマン刑事は現場で見つかった遺留品から、犯人は数年前に家出した息子ではないかと疑う。



 本作の興味深い点は、早い時点で犯人がジュニョンであると明かしていることだ。通常ならば面白さがスポイルされるところだが、その分手口の巧妙さと悪質さの描写がエゲツないので欠点にはならない。ナミが修理済として手渡されたスマホは、実はまったくの別物。知らずに操作しているうちに、彼女のプロフィールから交友関係、職場での立場や個人的な悩みまで、すべてが犯人側に知れてしまう。このくだりはかなり怖い。

 さらに犯人はナミのスマホを遠隔からコントロールすることにより、彼女を窮地に追い込んでいく。もちろん、四六時中スマホをいじっている昨今の若い衆を風刺しているのだが、それ以上に、情報化社会に潜む陥穽の不気味さが印象付けられる。クライマックスはナミと犯人との対決になるのだが、段取りがよく練られていて引き込まれる。

 キム・テジュンの演出はソツがなく、テンポ良くドラマを進める。主演のチョン・ウヒは表情が豊かで身体のキレも良い。ジュニョンに扮したイム・シワンは、端整な顔立ちの中にヤバさを垣間見せて圧巻だ。ジマン刑事役のキム・ヒウォンも、尋常では無い人相の悪さでアピール度が高い(笑)。パク・ホサンにキム・イェウォン、オ・ヒョンギョンなど脇の面子も悪くない。

 なお、ついでに中田監督版のストーリーもチェックしてみたが、筋書きはかなり違う。そして話の面白さとしてはこの韓国版には及ばない。これが両国の映画界のレベルの差だと即断は出来ないが、韓国作品に比べれば最近の邦画には観たい娯楽作があまり無いのは確かだ。
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「すべてうまくいきますように」

2023-02-18 06:21:55 | 映画の感想(さ行)
 (原題:TOUT S'EST BIEN PASSE )作劇に突っ込みどころがあることを承知の上で、作者は覚悟を持ってこの物語を粛々と綴っていく、その思い切りの良さに感服した。各個人が抱える事情というものは、必ずしも厳格な因果律で割り切れるものではないのだ。不条理とも思える筋立てにより、自らの身の処し方を決定することもある。そのことを改めて認識した。

 小説家のエマニュエルは、85歳の父アンドレが脳卒中で倒れたとの知らせを受け、妹のパスカルと共に病院に駆けつける。アンドレは半身不随になっており、その現実を受け入れられず尊厳死を望んでいる。彼は娘に人生を終わらせるのを手伝ってほしいと頼むが、リハビリの甲斐もあって少なくとも寝たきりの生活は避けられる公算は大きい。それでもアンドレの決意は固く、エマニュエルはあまり気が進まないまま合法的な安楽死を支援するスイスの協会とコンタクトを取る。脚本家エマニュエル・ベルンエイムによる自伝的小説の映画化だ。



 常識的に考えれば、アンドレがあえてこの世から退場する理由は無い。経済的には困っておらず、娘も孫もいて孤独ではない。身体の自由が十分に利かなくなっても、残りの人生は全うする価値はある。しかし、それは“外野の意見”に過ぎないのだ。当人にとって、身体が万全に動かせない状態は“自分ではない”のである。特に娘たちに世話をかけることは、本意ではない。

 さらには、アンドレが妻と別れる切っ掛けとなったジェンダーにおける問題や、エマニュエルの家庭の事情もアンドレの決断に少なからぬ影響を与えていることも暗示され、通り一遍の“前向きに生きよう”というポジティヴなスローガンの連呼は巧妙に捨象されている。もっとも、娘たちの懊悩が詳細に描き込まれていないことや、くだんの安楽死協会の実態もよく分からないなどの欠点はある。

 だが、それらを網羅すると上映時間が無駄に長くなる恐れもあり、観客の想像に任せてしまうだけの裁量を評価すべきだろう。フランソワ・オゾンの演出は通俗的な“お涙頂戴路線”から大きく距離を取りクールなタッチでドラマを進めていくが、それが却って主人公の決然とした思いを浮き彫りにする。特にラストの処置など、潔いほどだ。

 アンドレに扮するアンドレ・デュソリエの演技には感服するしかなく、本当に病人にしか見えない。エマニュエル役のソフィー・マルソーはオゾン監督の肝入りのキャスティングらしいが、若い頃とは違う深い魅力を振りまいている。しかも、体型がアイドル時代(?)と大して変わらないのもエラい。そして彼女の母親役にシャーロット・ランプリングが控えているのだから、フランス映画好きにとっては堪えられない。ジェラルディン・ペラスにエリック・カラバカ、ハンナ・シグラなど、その他の配役も確かだ。イシャーム・アラウィエのカメラによる清涼な映像、バックに流れるブラームスのピアノソナタ第三番が美しさの限りだ。
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「スラップ・ショット」

2023-01-29 06:55:17 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Slap Shot )77年作品。「明日に向って撃て!」(69年)などの秀作をモノにしてアメリカン・ニューシネマの旗手とも言われたジョージ・ロイ・ヒル監督にも、こういうレイド・バックしすぎたようなお手軽な作品があったのだ。マジメに対峙するとバカを見るが(笑)、“しょうがねえなァ”と内心ツッコミを入れながら気楽に接すれば腹も立たない。それどころか「華麗なるヒコーキ野郎」(75年)の後に斯様なシャシンを平然と撮る作者の豪胆ぶりに感服してしまう。

 ボストンを本拠地とするチャールズタウン・チーフスは、北米プロアイスホッケー傘下のマイナーリーグに属しているが、万年下位のお荷物チームだ。選手兼任監督のレジをはじめ、メンバーは覇気のない連中ばかり。新たに加入したハンセン3兄弟も、人前には出せないヤバいキャラクターの持ち主。ところがある試合で欠員の補充のためやむなく彼らを出場させたところ、想像を絶するラフプレイを披露して観客からは大喝采を浴びる。これに味をしめたレジは、バイオレンス路線で話題を作ろうとする。その試みは成功し、客の入りも成績も急上昇。ついにはリーグ優勝決定戦に駒を進める。



 落ちこぼれどもが奮起して大舞台で活躍するという、いわゆるスポ根映画のルーティンはあえて採用していない。チーフスは徹頭徹尾ダメなチームだし、終盤ぐらいは正攻法で盛り上がるのかと思ったら、期待を明後日の方向で裏切ってくれる。選手はお下品な連中ばかりで、繰り出すギャグも下ネタ中心。ほぼ“掃き溜めに鶴”状態の有名大卒のインテリであるネッドも、クライマックスではチーフスの一員らしい所業に及ぶ。

 これほどまでスポ根にケツを向けた映画も珍しいのだが、ジョージ・ロイ・ヒルの演出はリラックスして与太話の披露に専念しており、あまり腹も立たない。また、チームのオーナーが遣り手の女性という設定は「メジャーリーグ」(89年)を思い出すが、こっちが“元祖”だろう。主役のポール・ニューマンはこういうタイプの映画には不似合いかと思わせるが、監督との付き合いもあるし、何より楽しそうに演じているのが良い。

 ネッドに扮したマイケル・オントキーンをはじめ、ストローザー・マーティン、ジェリー・ハウザー、ジェニファー・ウォーレン、リンゼイ・クローズ、メリンダ・ディロンなどの面子も好調。エルマー・バーンスタインの音楽と、フリートウッド・マックやレオ・セイヤー等の既成曲の使い方も堂に入っている。
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「そして僕は途方に暮れる」

2023-01-28 06:10:27 | 映画の感想(さ行)
 本作に限らず人間のクズを主人公にしたシャシンは少なくないが、この映画はそのクズっぽさが中途半端で煮え切らないことがミソである。しかも、それが作品の瑕疵になっておらず、幾ばくかの共感さえ覚えてしまうあたりが玄妙だ。殊更大きく持ち上げるような映画ではないものの、観て損はしないレベルには仕上げられている。キャストも、ごく一部を除けば好調だ。

 新宿のアパートで恋人の鈴木里美と長年暮らしている菅原裕一は、かつては映画業界を志望していたらしいが、今は自堕落な生活を送るフリーターだ。ある日、浮気がバレて里美に問い詰められた彼は、ロクに話し合うこともなく逃げるように家を飛び出す。親友の今井伸二のマンションに転がり込むが、居候らしからぬ横着な態度が災いして追い出される。



 さらに裕一はバイト先の先輩や学生時代の後輩、姉の香の元を転々し、とうとう母親の住む北海道の苫小牧まで落ち延びる。ところがここでも腰を落ち着けられず、あてもなくさ迷い出たところで出会ったのが、離婚して家を出たはずの父親の浩二だった。三浦大輔の作・演出による同名の舞台劇の映画化で、三浦は監督も手掛けている。

 裕一は典型的なダメ人間だが、他者と向かい合って自らのダメっぷりを認識することも出来ない。そうする前にそそくさと逃げ出す。自分を見つめ直すことが怖くてたまらないのだ。こんな奴を批判することは容易いが、困ったことにこういう“現実を見据えることを避ける”という面は、(程度の差はともかく)誰にでもあったりする。逆にもしも“自分は現実逃避なんかにまったく縁は無い。絶えずリアリティに準拠して生きている”などと公言する奴がいたら、信用できない(笑)。

 そんな“優柔不断なクズ”である裕一が、“真性のクズ”である父親と再会したことを切っ掛けに、思わず自らを省みてしまうという筋書きは、けっこう説得力がある。彼が関係者たちの前で内心をブチまけるシーンは本作のクライマックスと言えるだろうが、それよりも逆境に対して“面白くなってきやがった”と嘯く浩二の開き直りぶりがアッパレだ。

 主役の藤ヶ谷太輔の演技は初めて見るが、憎み切れないクズを上手く表現している。浩二に扮する豊川悦司の怪演、中尾明慶に毎熊克哉、野村周平、香里奈、そして原田美枝子など、キャストは概ね良い仕事をしている。ただし、里美を演じる前田敦子だけは話にならない。彼女はいつになったら演技が上手くなるのだろうか。エンディング曲は大澤誉志幸によるお馴染みのナンバーのセルフカバーだが、出来れば元々のバージョンを流して欲しかった。
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「勝利への脱出」

2023-01-02 06:09:33 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Escape to Victory )80年作品。第二次世界大戦中に、捕虜となっていた連合軍兵士とドイツ代表との間で行われたサッカーの試合をネタにした娯楽編だが、現時点で考えるとタイムリーな題材だ。2022年に開催されたサッカーワールドカップの余韻があることは別にしても、この映画は実際の出来事をモデルにしており、それは1942年に行なわれた国際試合で、場所はウクライナだ。

 地元のプロチームとドイツ空軍選抜との間で試合が催されたのだが、ドイツ側は完敗。ドイツ軍はその腹いせとして相手チームのメンバーを強制収容所送りにしたという。他国に蹂躙される悲劇と共に、侵略勢力のプロパガンダに利用されるスポーツの在り方について考えざるを得ない。



 1943年、ドイツ軍情報将校フォン・シュタイナーはドイツ代表対連合国軍捕虜チームとの親善試合を思い付く。もちもん目的は独軍のPRで、会場は当時ドイツ支配下にあったパリだ。捕虜のリーダーである英国大尉コルビーはこの提案に同意するが、実は裏で大々的な捕虜脱走計画に加担していた。米軍大尉ハッチは外部のレジスタンス組織と連絡を取りつつ、自身はゴールキーパーとして試合に出場する。

 一応はマイケル・ケインとシルヴェスター・スタローンという有名俳優を配してはいるが、主眼は本物の元プロ選手が大挙して出演し、妙技を披露していることだ。2022年末に世を去ったスーパースターのペレをはじめ、元イングランド代表のボビー・ムーア、スコットランド代表のジョン・ウォーク、アルゼンチン代表の主力だったオズワルド・アルディレス、ベルギー代表のポール・ヴァン・ヒムストなど、サッカー好きならば思わず膝を乗り出すような面子が揃っている。彼らに釣られてかスタローン御大も汗まみれで頑張っているのも面白い。

 だが、このキャスティングは単なる話題集めではなく、ドラマにリアリティを持たせるための手法に過ぎない。そこは名手ジョン・ヒューストン監督、豪華な顔ぶれに寄りかかったような作劇には無縁である。試合の展開は当初ピンチになるが後半盛り返すという、スポ根ものの王道を歩んでいるが、終盤には予想を裏切るような“仕掛け”が用意されており、存分に楽しませてくれる。まあ、よく見ると納得のいかない箇所もあるが(笑)、勢いで乗り切ってしまう。

 ジェリー・フィッシャーによる撮影はソツがないし、ビル・コンティの音楽は盛り上がる。なお、ウクライナに侵攻したロシアは国際スポーツの現場から今は閉め出されているが、少し前にはスポーツが国威発揚の道具になるのが当然だった。覇権主義の国にとっては、スポーツの存在感は我々とは違う次元に属している。
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「戦場記者」

2022-12-26 06:23:56 | 映画の感想(さ行)
 現時点で“観るべき映画”の筆頭に挙げられる。ただ、もちろん映画鑑賞なんてのは単なる娯楽であり、有り体に言えば“ヒマ潰し”でもある。だから他人から“必見の映画だ”などとゴリ押しされる筋合いは無い。しかし、時として観ておけば知見が広がる(かもしれない)シャシンというのが出てくることがある。本作はそれに該当する。

 TBSの中東支局長である須賀川拓が、さまざまな地域の戦場に赴いて現地の実態をリポートしたドキュメンタリーだ。まず、支局長とはいっても正式なスタッフは須賀川だけであり、しかもデスクはロンドン支局の一角に据えられていることに面食らってしまう。つまりは“局長兼お茶くみ”という案配で何かの冗談のようだが、須賀川の職域はおそろしく広い。情勢が逼迫した拠点に乗り込み、突撃取材を敢行する。



 正直、世界各地に複数の要員を配した支局を網羅しているNHKならばともかく、民放の報道畑でこれだけの行動力を持った人材が存在することに驚かされる。映画はまずパレスチナのガザ地区で情報収集にあたる須賀川の姿を追う。イスラエル軍の攻撃により多数の民間人の犠牲者が出ている現状を踏まえ、須賀川はイスラエル軍当局とハマス(パレスチナ政府内与党)の双方の言い分を聞くが、それぞれが自身の都合の良いことしか述べず、責任を回避しようとするばかりで、具体的な事態の収拾は覚束ない。

 次に須賀川はウクライナに飛び、戦争が市民の日常生活の隣に存在する現実を活写。そして圧巻はアフガニスタンからのリポートだ。カブールの市街地に掛かる橋の下に多数の麻薬中毒者がひしめき、死を待つばかりの惨状が映し出される。一応は戦争は終結してタリバン政権により国内は統治されているが、国民生活の安定化には程遠く、先行きは見えない。

 興味深いのは、須賀川はこれだけの取材力を発揮しながら、ジャーナリズムの限界をも自覚していることだ。自分たちが現地に行っても当事者たちを助けることは出来ない。何か出来ると考えること自体が思い上がりだ。しかし、伝えることによって情報の受け手が何らかのインパクトを覚えたならば、それは十分価値がある。

 思えば“マスコミは信用出来ない”という言説は昔からあり、ネットの普及によって昨今そういう声は増しているようだ。確かにマスコミは間違いを犯すこともある。だが、その責任の主体もマスコミ自身である。マスコミが信用出来ないのならば一体何を信じればいいのか。少なくともネット上の曖昧な言説や陰謀論もどきの極論がそれに代われるとは思えない。須賀川のようなジャーナリストが現場に足を運んで得る情報の重要さに、今一度思いをはせる必要がある。
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