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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「さよならくちびる」

2019-07-01 06:29:52 | 映画の感想(さ行)

 良い映画だ。誰しも若い頃に抱いていた悩みや苦しみ、将来への不安、そして微かな希望etc.そんな哀歓が全編を覆い、切なくも甘酸っぱい気分になる。そして登場人物達は複雑な内面を音楽に乗せ、聴衆に訴える。鑑賞後の印象も格別の、青春映画の佳編である。

 久澄春子(通称ハル)がバイト先のクリーニング工場で声を掛けたのは、上司に叱られて不貞腐れていた同僚の西野玲緒(通称レオ)だった。ハルはレオに一緒に音楽をやろうと持ちかけ、フォーク・デュオ“ハルレオ”を結成する。路上ライブから始めた2人だが、次第に人気が出てくる。ハルレオはライブツアーに出るためローディを探すが、そこで名乗りを上げたのが、元ホストの志摩一郎(通称シマ)であった。ツアーは当初は順調で売り上げはアップする一方だったが、やがて3人の音楽に対する微妙なスタンスの違いが表面化。やがて関係がこじれて解散を決意し、結成から数年目で最後のツアーに出発することになる。

 30年ほど昔ならば、少しばかり逆境にあっても楽天的な気分で乗り切れたが、今では若者を取り巻く状況は厳しい。格差は広がり、しかも固定化してしまう。人付き合いの苦手なハルとレオも、鬱屈した心情を押し殺したまま退屈なバイトに明け暮れるしかなかった。

 しかし、彼女達は音楽に出会えた。音楽によって社会との接点が出来て、大きく視野が広がった。ただしそれは、以前は漠然としていた屈託が明確化することを意味している。ハルが引きずっていた“秘密”も、レオが抱えるコンプレックスも、シマが封印してきたはずの“過去”も、生々しく頭をもたげてくる。登場人物達はそれらにどう対峙するのか、どうやって折り合いを付けるのか、そのプロセスをやはり音楽を通して描くというアイデアは出色だ。

 塩田明彦の演出は余計なケレンを廃し、じっくりと彼らの懊悩と成長を追っていく。彼にとっても初期の「どこまでもいこう」(99年)と並ぶ代表作になることは間違いない。主演の門脇麦と小松菜奈のパフォーマンスは万全で、演技力は門脇の方が上ながら、無手勝流の存在感を活かした小松も健闘しており、絶妙のコンピネーションを見せている。シマに扮する成田凌も、この若さですでに名バイプレーヤーとしての貫禄さえ感じさせる。

 そして何より、ハルレオの歌と演奏が素晴らしい。とびきり上手いというわけではないが、門脇と小松のひたむきさも相まって、目を見張る求心力がある。秦基博とあいみょんが提供した楽曲も文句なしだ。3人以外のキャラクターはあまりクローズアップされていないが、その中にあってハルレオの“追っかけ”の女子高生を演じた日高麻鈴と新谷ゆづみが儲け役だった。
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「さよなら子供たち」

2019-06-30 06:13:55 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Au Revoir Les Enfants )87年フランス作品。本編はルイ・マル監督の自伝的作品である。そして同監督のフィルモグラフィの中でも1,2を争う出来映えで、第44回ヴェネツィア国際映画祭金賞やセザール賞、ルイ・デリュック賞などに輝いている。

 1944年、ナチス占領時代のフランスでカトリックの寄宿学校に籍を置いている12歳のジュリアン・カンタンは、新学期に転入生ジャン・ボネと出会う。ボネは聡明であったが、ジュリアンには彼のどうにも打ち解けない様子が気にかかる。実はボネはユダヤ人で、両親とは長い間音信不通の状態が続いていたのだ。それでもジュリアンはボネを何度も遊びに誘い、距離を縮めていく。

 そして父母参観の日に、ジュリアンはボネを食事に招待する。ユダヤ人に対する偏見は無いジュリアンの家族に好感を抱くボネだが、そんな楽しい日々は長くは続かなかった。クビになったことを逆恨みした職員の一人が、ユダヤ人生徒が在籍していることをゲシュタポに密告。学校は閉鎖され、ボネや校長先生は連行されてしまう。

 ジュリアンは親しい人々が過酷な運命に振り回される状況を前にしても、何もできなかった。それから長じて表現者となり、やっとボネ達に対する挽歌とも思える作品に結実させた。語り口はとても抑制され、ユーモアを感じさせる箇所もあるのだが、占領時代の空気は鮮やかに再現され、内に秘めた戦争への怒りは純化されている。

 突然友情が失われて以後約40年間、この映画の構想を抱き続けたマルの心情を慮れば、実に感慨深いものがある。また、主人公の名はジュリアンだが、言うまでもなくマルの出世作「死刑台のエレベーター」(1957年)の主人公の名と一緒である。あの映画のジュリアンも、インドシナ戦争に従軍して精神的なトラウマを負っていた。キャラクターは違うが、2人のジュリアンは共に戦争の悲劇を目の当たりにしているのだ。

 主役のガスパール・マネッスとラファエル・フェジトの演技は素晴らしく、レナート・ベルタのカメラによる清涼な映像は心に残る。そしてシューベルトやサン=サーンスのクラシック曲が抜群の効果を上げている。
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「ザ・フォーリナー 復讐者」

2019-06-01 06:31:17 | 映画の感想(さ行)
 (原題:THE FOREIGNER )ジャッキー・チェン主演作としては珍しい、コメディ的要素が皆無のシリアスな活劇だが、とても楽しめた。何より、脚本が良い。事件に絡む複数の勢力を的確に配置し、それぞれに十分な役割を与えた上でラストにすべて回収するという、まるでお手本のようなシナリオだ。筋書きの面白さを味わうだけでも、観る価値はある。

 ロンドンでチャイニーズレストランを経営しているクァン・ノク・ミンは、ある日一人娘のファンを車で送って行った際、爆弾テロに巻き込まれる。本人は難を逃れたが、ファンは死亡。どうやら、北アイルランド解放を主張する過激派組織の仕業らしい。悲しみに暮れるクァンは北アイルランド副首相のリーアム・ヘネシーが昔この組織に加入していたことを知り、犯人の名前を教えるようにリーアムに迫る。



 だが、リーアムも犯行グループを特定出来ていない。それどころかクァンの存在を煙たく感じるリーアムとその一派は、クァンを片付けようとする。しかしクァンはベトナム戦争時代にアメリカ陸軍の特殊部隊に所属していた工作員で、多彩な戦法を駆使してリーアムらを翻弄する。一方、犯人達は2度目のテロも成功させ、いよいよ要人の暗殺に向けて大規模な破壊工作を計画していた。スティーヴン・レザーの小説「チャイナマン」の映画化だ。

 基本的にはクァン及びリーアムとその一派、そして犯人グループの三つ巴の抗争だが、リーアムの妻と愛人、リーアムの甥で元英軍特殊部隊のショーン、事件を追うジャーナリスト、そしてもちろん警察も絡んで、ドラマは複雑な様相を呈してくる。さらには難民であったクァンの壮絶な半生、そして北アイルランドを巡るヘヴィな歴史が通奏低音のごとくストーリーを支えている。

 本当に悪いのはテロ実行犯なのだが、リーアムも“立場上”事件の落とし前を付ける必要があるため荒仕事を請け負う。クァンのやっていることも厳密に言えば犯罪行為だ。各人の一筋縄ではいかないスタンスを冷静に追うことによって、作劇に厚みが付与されている。

 マーティン・キャンベルの演出は骨太かつ着実で、テンポに乱れは無い。そしてジャッキー・チェンのアクションは、同時期に撮られた「ポリス・ストーリー REBORN」とは比べ物にならないほど達者だ。この年齢でよくこれだけ動けるものだと感心する。特にショーンに扮したロリー・フレック・バーンズとの一騎打ちは、全盛期の彼のパフォーマンスを彷彿とさせる。

 リーアムを演じたピアース・ブロスナンはさすがの海千山千ぶりで、ドラマを盛り上げる。オーラ・ブラディやレイ・フィアロン、チャーリー・マーフィといった脇の面子も良い。余韻たっぷりのラストも含めて、鑑賞後の満足度は高い。またカメラマンのデイヴィッド・タッターサルと、音楽担当のクリフ・マルティネスの仕事も高水準だ。
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「サイレント・ボイス 愛を虹にのせて」

2019-05-24 06:32:21 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Amazing Grace and Chuck )87年作品。呆れるほどの御都合主義に貫かれた映画だ。しかし、観終わると感動してしまう。なぜなら、ここで描かれる“理想”の形は、正しいからだ。もちろん、あるべき姿ばかりを真正面から映しても芸が無い。だが、確信犯的にそれに徹してしまうと、本作のように時として大きなうねりになって観る者に届くのだ。これだから映画は面白い。

 モンタナ州リビングストンに住む少年チャックは、リトルリーグで活躍するピッチャーだった。ある日、チャックは仲間と近くにある核ミサイルのサイロを見学する。そこで核兵器の恐ろしさを実感した彼は、リーグ決勝戦の日に“核兵器が地上から無くなるまで、好きな野球をやめる”と宣言した。このことは新聞に載るが、プロバスケットのスター選手アメイジングはチャックの意見に賛同。彼も核廃絶の日までプレイをしない決心をする。



 空軍予備パイロットであるチャックの父親は、息子にバカことは辞めろと言うが、チャックの決心は固い。やがて彼の主張は世界に広まって、有名スポーツ選出が次々とプレイ辞退を申し出る。大統領も無視出来ず、チャックをホワイトハウスに呼んで説得するが不調に終わる。一方、軍需産業の黒幕ジェフリーズは、このムーヴメントを潰すべく暗躍し始める。

 まず、いくらファンタジー仕立てでも説得力の無い筋立ては如何なものかと誰しも思うだろう。核兵器を廃絶するとして、その具体的な処理はどうするのか。テロリストに核が渡ったらどう対処するのか。核兵器が無くなることによって、却って戦争のハードルが低くなるのではないかetc.しかし、マイク・ニューウェルの演出はそんな“揚げ足取り”を完全に黙殺するかのように、正攻法にドラマを構築する。

 大統領に扮しているのがグレゴリー・ペックというのが効いていて、この名優がマジメに役に臨むのならば、細かいことを気にせずに映画に向き合おうという気になってくる。そしてラストの盛り上がりに至っては、もう“参った”と言うしかない。

 チャックを演じるジョシュア・ゼルキーは達者な子役だと思うが、ジェイミー・リー・カーティスが面白い(?)役で出ているのは興味深かった。ロバート・エルスウィットによる撮影と、エルマー・バーンスタインの音楽も、まあ立派なものだ。
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「シャザム!」

2019-05-20 06:29:50 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SHAZAM! )楽しめる。シャザムはDCコミックのヒーローとしては底抜けに明るい。しかも単なる脳天気な野郎ではなくナイーヴな屈託も併せ持っている。何よりこの“見た目は大人、中身は子供”という設定が効いていて、ゴリ押し気味なキャラクターにも関わらず全く違和感を覚えない。演出も快調で、2時間を超える映画ながら、中だるみすることなくスクリーンに対峙出来る。

 幼い頃に母親と生き別れになり、一人きりで生きてきた14歳のビリー・バットソンは、フィラデルフィアにあるグループホームに入居することになる。そこには足が不自由なフレディをはじめ、5人の個性的な少年少女も住んでいた。里親は優しい人物だったが、母親のことが忘れられないビリーは、なかなか馴染めない。ある日、謎の魔術師に召喚されたビリーは、救世主として不思議な力を授けられる。彼が“シャザム!”と叫ぶと、大人のスーパーヒーローになるという仕掛けだが、当然のことながら内面はビリーのままなので、フレディと一緒になってスーパーパワーをいたずらに使うばかり。

 そんな彼の前に、邪悪な魔力を操る怪人Dr.シヴァナが現れる。実はシヴァナは子供の頃にシャザムの力を与えられるチャンスに遭遇したのだが、本人の性根の悪さから失敗したのだった。逆恨みした彼は、長年の研究により7体の魔神の力を召喚することに成功。ビリー(シャザム)を倒し、ついでに世界を征服しようと画策する。

 シャザムは見かけは大人だが、その言動はといえば早速ビールを買い込んだり、アダルトショップに出入りしたりと、まさにアホな中学生そのもの。そのギャップが大いに笑いを誘う。

 だが、ビリーはずっと母親を探していて、グループホームに入れられたのはその一件が関与していることが物語に厚みを与えている。後半で明かされるビリーの母親の“事情”は、観ていて切ない。それと同時に、新たな“家族”を得ようとする、ビリーの前向きな姿勢は好印象。このあたりの作劇は上手い。

 シヴァナの力は強大で、さすがのシャザムも苦戦する。どうなるのかと思っていたら、何と“友情パワー”で乗り切ってしまったのは実に愉快だ。デヴィッド・F・サンドバーグの演出はテンポが良く、観る者を飽きさせない。クライマックスのバトルが展開するのが遊園地である点はポップな仕上がりに貢献しているし、戦いの段取りも上手くいっている。

 変身後の主人公を演じるザッカリー・リーヴァイは絶好調で、表情も身のこなしも見事な“父ちゃん坊や”である。敵役のマーク・ストロングは凄みがあるし、ビリー役のアッシャー・エンジェルとフレディに扮するジャック・ディラン・グレイザーもイイ味を出している。エピローグの扱いは続編が製作されることを示しているが、今後もチェックしていきたい。
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「シャンドライの恋」

2019-04-12 06:38:57 | 映画の感想(さ行)
 (原題:L'assedio )98年作品。昨年(2018年)に世を去ったベルナルド・ベルトルッチ監督は“巨匠”という評価が確定しているようだが、個人的には「1900年」(76年)あたりがキャリアのピークだと思っている。それ以降の作品はどうにもパッとせず、大ヒットした「ラストエンペラー」(87年)も私はあまり評価していない。本作も例外ではなく、上映時間は短いが観ている間はとても長く感じられる。

 政治活動をしていた夫が逮捕され、逃げるようにイタリアに渡ってきたアフリカ出身のシャンドライ。音楽家キンスキーの屋敷に住み込み、掃除係として働きながら医大に通うことになった。ある日彼女は、クローゼット代わりに使っているリフトがキンスキーの部屋と繋がっていることを発見する。



 その後、リフトを通じてキンスキーから花束や指輪が贈られてきた。困惑したシャンドライはキンスキーに真意を問いただすと、相手から思わずプロポーズされてしまう。独身のキンスキーは、彼女に好意を抱いていたのだ。驚いた彼女は“私が欲しいのならば、獄中にいる夫を出して”と、つい口走ってしまう。イギリスの作家ジェイムズ・ラスダンの短編の映画化だ。

 セリフが少ないのは、過剰な説明を排して内容を観る者の想像力にゆだねるということなのだろうが、本作は重要なモチーフが提示されておらず、散漫な印象しか受けない。そもそも、どうしてキンスキーがシャンドライを好きになったのか、描かれていないのだ。前振り抜きに、いきなりプロポーズされても面食らうばかり。

 しかも、後半にはキンスキーは身を挺してシャンドライの夫を救おうとしていることが示されるのだが、その切迫した心理も提示されない。螺旋階段の撮り方をはじめ映像はかなり凝ってはいるのだが(撮影監督はファビオ・チャンケッティ)、しばらく観ていると奇を衒っていることが見透かされ、何だか鬱陶しい気分になってくる。

 主演のタンディ・ニュートンとデイヴィッド・シューリスは健闘していて、アレッジオ・ヴラドの音楽も素晴らしいのだが、それだけでは内容を押し上げる要素にはならないのは確かだ。
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「女王陛下のお気に入り」

2019-03-03 06:50:20 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE FAVOURITE )世評は高く、米アカデミー賞でも最多10ノミネートを獲得したようだが、個人的には全然楽しめなかった。理由は明らかで、各キャラクターおよび時代・舞台背景の掘り下げが浅いからだ。とにかくすべてが表面的で、結果として極めて退屈な2時間を過ごすことになった。

 18世紀初頭、イングランドは新大陸の植民地をめぐってフランスと戦争状態にあった。時の女王アンは身体が弱い上に気まぐれな性格だった。女王をサポートしていたのは、幼なじみのサラ・ジェニングスである。サラは頼りにならない女王を巧みにコントロールし、実質的な権力を握っていた。そんなある日、没落した貴族の娘でサラの従妹にあたるアビゲイル・ヒルが宮廷を訪れる。

 アビゲイルはサラの下で働くことになるが、実は相当な野心家で、再び貴族の地位に返り咲くためチャンスを窺っていた。その頃サラは議会対策で態度を硬化させるようになるが、女王はそんなサラを疎ましく感じるようになる。アビゲイルはこの期を逃さず女王に接近し、文字通りの“お気に入り”になろうとする。

 当時の英国がスペイン継承戦争における北米での“局地戦”でフランスと対立していた事実には一応言及されているが、詳しくは述べられない。サラは対外強行派らしいのだが、どういう経緯でそんな政治的スタンスを取るようになったのか不明。そもそも、サラ自身のプロフィールが明確に提示されていないため、ここでは単に“女王を操って自己満足している勝ち気な女”としか映らない。

 アビゲイルにしても、不遇な身分からのし上がろうとしているのは分かるが、結局は“上昇志向の強さ”以外にアピールするものは無く、キャラクターとしては弱い。アン女王の造型は史実に近いのかもしれないが、傍目には不格好で気難しいオバサンでしかなく、観ていて鬱陶しいだけ。

 女王をめぐるサラとアビゲイルの“バトル”にしても、サラが一服盛られて落馬するくだりを除けば、面白いシーンは見当たらない。王宮を舞台にしてのスキャンダル劇ならば、ピーター・グリーナウェイやデレク・ジャーマンの作品ぐらいのハッタリを効かせても良かったが、ヨルゴス・ランティモスの演出は抑揚が無く冗長で、観ているこちらは眠気との戦いに終始した。

 主演のオリヴィア・コールマンとレイチェル・ワイズ、エマ・ストーンは頑張ってはいたが、過去の彼女たちの仕事を大きく上回るものではない。映像も大したことがなく、良かったのはサンディ・パウエルによる衣装デザインとバックに流れるバロック音楽ぐらいだった。
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「迫り来る嵐」

2019-02-25 06:50:28 | 映画の感想(さ行)

 (原題:暴雪将至 THE LOOMING STORM)物語の設定や画面造型は、ディアオ・イーナン監督の「薄氷の殺人」(2014年)と良く似ている。出来の方は「薄氷の殺人」よりはいくらかマシだ。しかし、殊更持ち上げるほど良くはない。聞けば第30回東京国際映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞しているらしいが、それほどのシャシンとは思えない。

 97年、大規模な国営の製鉄工場がある湖南省の地方都市で、若い女を狙った殺人事件が頻発する。工場で警備員を務めるユィ・グオウェイは過去に数々の不祥事を解決し、周囲から“ユィ探偵”と呼ばれるほどの実績を上げていた。当然彼は工場の近くで起こったこの事件にも首を突っ込み、煙たがる警察を尻目に勝手に捜査を進める。地元における聞き込みはもちろん、怪しい人物を目撃しての追跡も厭わない。だが、ユィの無鉄砲な行動はトラブルを誘発するようになり、ついには彼の交際相手をも巻き込む事態になる。

 映画は犯人探しに主眼を置いていない。ドラマの軸になるのは、主人公ユィの屈折した心情である。しがない警備員の分際で、切れ者を気取って刑事事件を追いかける。ならば警官に転職すればいいのだが、プライドが邪魔をして今さら警察組織の歯車になるのはイヤだという。そんな根の暗い彼の内面を表現するように、画面には始終冷たい雨が降っている。

 冒頭、この事件から約10年経って彼が刑期を終えて出所するシーンが挿入されているので、ユィが何らかの罪を犯したことは確かだ。しかし、終盤で彼の所業がひっくり返されるようなモチーフが示されるので、どの行動が罪に問われたのか分からない。こういう話の組み立て方は正攻法ではなく、観ている側はストレスが溜まるばかりだ。

 97年当時は中国は市場開放路線が軌道に乗り、それに伴い古い国営事業は廃れていった。ユィの務める工場もリストラが断行される。その、決して明るくない変革の時期を暗鬱な映像と陰惨な事件、そして冴えない主人公の無鉄砲な言動で表現するという狙いは悪くないが、もうちょっと平易な展開にして欲しかった。

 ドン・ユエの演出はパワフルではあるが、暗い画面の連続が後半には鼻についてくる。主演のドアン・イーホンは熱演ながら、キャラクター設定が十分ではないので、高評価は出来ない。ただ、ヒロイン役のジャン・イーイェンは儚げな佇まいで、とても印象的であった。
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「シンプルメン」

2019-02-17 06:26:03 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SIMPLE MEN)92年作品。ハル・ハートリーという監督は、ニューヨーク派の新しい旗手といった扱いで、その作品は90年代に“意識高め”(?)の映画ファンの間で随分と持て囃されたようだ。しかしながら2000年代以降には日本ではあまり名前を聞かなくなった。それで近年は何本か単発的に作品は公開されているが、それほど大きな話題になっていないように思う(実際、私も観ていない)。

 ニューヨークに住むケチな泥棒のビルは、真面目な大学生である弟のデニスと一緒に、警察に逮捕された父親のウィリアムに面会に訪れるが、ウィリアムはすでに脱走していた。父はかつての大リーガーで、なおかつ60年代の爆弾テロの容疑者という、とんでもない経歴の持ち主である。



 兄弟は父親を探すためロング・アイランドまで赴くが、途中で会うのは一筋縄でいかない者ばかり。どうやらウィリアムは、新しい恋人であるルーマニア人の少女エリナと国外逃亡を企てているらしい。やがてビルにも警察の手が迫り、一家の前途は危ういものになっていく。

 出てくるキャラクターは面白い。主人公の兄弟と父親はもとより、ビルと懇ろになるオイスター・バー兼民宿の女主人およびその友達も変人だ。さらにはインド系の少女や、フランス語を勉強するガソリン・スタンドの男とか、奇妙な連中が画面を前触れも無く横切ってゆく。ハートリーの演出は(良く言えば)軽妙洒脱で、予想出来ないようなアクションも折り込み、ライトな感覚でユーモラスに楽しませてくれる。

 しかしながら、同じニューヨーク派である(少し前に世に出た)ジム・ジャームッシュやスパイク・リーのような、観る者に深く語らせるような重みは無い。また、ハリウッドのメジャーな映画のような広範囲にアピールする娯楽性も希薄だ。つまり、ちょっと接してみると良い案配に知的で面白いが、あまり記憶には残らない作風だということだろう。

 ちなみに同じ頃にこの監督の「トラスト・ミー」と「愛・アマチュア」も観ているが、現時点ではあまり内容は思い出せない。ただ、マイケル・スピラーのカメラによる映像の透明感は特筆出来るし、ハートリー自身による音楽もセンスが良い。ロバート・バークやウィリアム・セイジ、カレン・サイラスといったキャストは馴染みが無いが、少なくとも本作においては良い味を出している。
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「サスペリア」

2019-02-16 06:38:51 | 映画の感想(さ行)
 (原題:SUSPIRIA)結局、良かったのはトム・ヨークによる音楽だけだった。ただし、それはサントラ盤の出来映えに限っての話であり、映画音楽としては機能していない。ならば本作における音楽以外の要素はどうかといえば、すべてが落第点だ。まさに、本年度ワーストワンの有力候補と言えよう。

 1977年、ボストンに住んでいたスージー・バニヨンは、世界的な舞踊団“マルコス・ダンス・カンパニー”に入団するため、ベルリンにやって来る。元より高い技量を持ち合わせていた彼女は、すぐにカリスマ振付師マダム・ブランに認められ、次期公演での大きな役を得る。だが、この舞踊団の内部ではダンサーたちが次々と失踪するという不祥事が発生していた。一方、舞踊メンバーの一人を診察していた心理療法士のクレンペラー博士は、そのダンサーが行方不明になったことから、舞踊団に対して探りを入れる。



 77年製作のダリオ・アルジェント監督版はホラー映画の傑作として名高いが、個人的に面白かったのは開巻約20分のみだ。ただし、映像には同監督の独特の美意識が横溢し、ゴブリンの効果的な音楽も相まって、最後まで観る者を引っ張っていくパワーはあった(ストーリーも、一応辻褄は合っている)。しかし、このリメイク版には見事に何もない。

 舞踊団が実は魔女の巣窟だった・・・・というトンデモな設定には目を瞑るとしても、魔女には“派閥”みたいなものがあって一枚岩ではないとか、この舞踊団にスージーが招かれた理由とか、そもそも魔女たちは何を目的に今まで存在していたのかとかいった、物語の根幹に関わることが全然説明も暗示もされていない。クレンペラー博士の舞踊団との関わりや、当局側との関係性もハッキリとせず、ワケの分からないままエンドマークを迎える。

 もちろん、作り手に支離滅裂な話を無理矢理にデッチ上げて力技で観客を捻じ伏せる才覚があれば良いのかもしれないが、ルカ・グァダニーノ監督は前作「君の名前で僕を呼んで」(2017年)での煮え切らなさを見ても分かる通り、パワーも才気も無い。時折挿入される“実験映画的(?)な映像モチーフ”も、一般人が奇を衒ってみたというレベル。全盛時のアルジェントの“異常性”とは格が違う。

 かと思うと、当時ドイツで起こった一連のテロ事件や、クレンペラー博士の戦時中の苦労話などを加えて、社会性や歴史性などを付与して作劇に厚みを増そうとしているが、これがまあ取って付けたような印象しかない。それどころか無駄に上映時間を積み上げることになり、結果としてオリジナル版に比べて1時間近くも長くなってしまった。これではホラー仕立ての映画の体をなしていない。

 主演のダコタ・ジョンソンは可もなく不可も無し。少なくとも、母親のメラニー・グリフィスの若い頃のようなヤバさや、祖母のティッピ・ヘドレンのような品の良さは見当たらない。ティルダ・スウィントンの怪演も不発で、クロエ・グレース・モレッツの出番は少ないし(笑)、ルッツ・エバースドルフやミア・ゴスといった他のキャストもパッとしない。

 オリジナル版のヒロインを演じたジェシカ・ハーパーも出ているのだが、役柄自体が曖昧だ。映像面でも見るべきものはなく、ダンスシーンはパワフルだが下品だ。いずれにしろ再映画化の典型的な失敗例を見るようで、鑑賞後は居たたまれない気分になった。
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