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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「地獄少女」

2021-02-21 06:53:55 | 映画の感想(さ行)
 2019年作品。密かに贔屓にしている(笑)若手女優、玉城ティナが主役というので観てみたが、まさに箸にも棒にもかからない出来で大いに盛り下がった。何のために作ったのか、どういう層をターゲットにしているのか、まるで不明。プロデューサーは一体何をやっていたのか、これも不明。これだけ存在価値が見出せないシャシンも珍しいだろう。

 殺したいほど憎んでいる人間を地獄に送ってくれるという、“地獄通信”というサイトがあることが都市伝説で語られていた。深夜0時にそこにアクセスし、死んで欲しい人間の名前を入力すると、地獄少女が現れて赤い紐で結ばれた藁人形を渡される。依頼者がその紐をほどけば契約成立だ。しかし、依頼した者もいずれ死ぬときは地獄行きになるという。

 女子高生の市川美保は、大好きなロックミュージシャンの魔鬼のライブで痴漢に遭うが、居合わせた南條遥に救われる。美保は奔放な遥を気に入るが、遥は魔鬼のコーラスのオーディションに合格したときから様子がおかしくなり、それが魔鬼の仕業だと知った美保は彼に殺意を抱く。一方、ジャーナリストの工藤は“地獄通信”について調べていたが、偶然に美保と接触する。TV用オリジナルテレビアニメの実写映画化だ。

 とにかく、マトモなメンタリティを持った人間が存在せず、観ていて感情移入する相手がいないのには閉口する。美保も遥も平気で暴力を振るう性格破綻者だし、その他“地獄通信”に関わる者にも正常な人間は見当たらない。呪った本人も地獄行きになることが事前に説明されているにも関わらず、あえて破滅の道を選ぶという心理を分かりやすく説明するには、本作のような御膳立てでは無理だ。

 そもそも、地獄少女を演じるお目当ての玉城は“主人公”でさえなく、ただの狂言回しである。もっと脚本と演出を練り上げて、彼女を“依頼する側”に配置して次第に正気を無くしていくという設定にすれば、盛り上がったかもしれない。監督の白石晃士の仕事ぶりは精彩を欠き、映像もチープである。

 美保に扮するのは最近売り出し中の森七菜だが、本作では低調なパフォーマンスに終始。仁村紗和に大場美奈、片岡礼子、波岡一喜、橋本マナミ、そして麿赤兒といった他のキャストは機能していない。魔鬼のバンドのサウンドも大したことがなく、劇中での人気も疑わしいものがある。
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「ザ・プロム」

2021-02-12 06:22:57 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE PROM)2020年12月よりNetflixにて配信。人気テレビシリーズ「glee グリー」のディレクターを務めたライアン・マーフィーが演出を担当したミュージカル映画ということで、雰囲気は実にあの番組に似ている。ただ違うのは、有名スターを主役級に据えたこと、そして使用ナンバーがオリジナル曲ばかりだということだ。そのあたりを大きく評価するかしないかで、本作の印象は変わってくると思う。

 かつてトニー賞を獲得したこともあるブロードウェイの元人気舞台俳優ディーディーとバリーは、満を持して送り出した新作ミュージカルが大失敗し、役者生命が崖っぷちに立たされる。何とか挽回策を考えていた折、SNSでインディアナ州の田舎町で同性愛の恋人同士の女子高生エマとアリッサが、カップルでプロム・パーティーに参加することをPTAに止められて悩んでいることを知る。

 ディーディーとバリーは、この問題に賑々しくコミットすることによって自分たちのリベラルなイメージを印象付け、ショウビズ界にアピールすることを考える。2人は同じく役柄に恵まれない友人のアンジーたちと共に、インディアナ州に乗り込むのであった。

 最近のトレンドであるLGBTQを題材にしたシャシンで、多分に作りは優等生的だ。断っておくが、別にそれが悪いということではない。捻った筋書きや深刻な展開といった、たいていのミュージカル映画には不向きなネタが採用されていなければ、それでヨシとしよう。ただやっぱり気になるのが、冒頭に述べた著名キャストの起用と、オリジナル楽曲の使い方である。

 何しろディーディーに扮しているのがメリル・ストリープで、アンジー役がニコール・キッドマンなのだ。無論、この2人が歌って踊れることは誰でも知っている。だが、彼女たちはミュージカル・スターではない。しかも、俳優としての存在感が先行して、他のキャストとの“差異”が目立っている。もっと本職の、手練れの舞台役者を連れてきた方が自然なタッチを醸し出せたはずだ。

 そしてオリジナルのナンバーの数々は決して悪くはないが、「glee グリー」における既成曲の思い切った起用とアレンジで観る者の意表を突くという面白さは実現出来ない。個人的には、そのあたりが物足りないのだ。

 マーフィー監督の仕事ぶりはドラマの明るい雰囲気を前面に出して好印象ではあるが、やっぱり「glee グリー」には及ばない。ただ、ジェームズ・コーデンにキーガン=マイケル・キー、ジョー・エレン・ペルマン、アリアナ・デボース、ケリー・ワシントン、そしてトレイシー・ウルマン(!)といった他の顔ぶれは悪くない。そして“(「glee」の舞台になった)オハイオ州はすぐ隣だよ”といったセリフが出てきたのには笑った。
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「シー・ユー・イエスタデイ」

2021-02-05 06:33:17 | 映画の感想(さ行)

 (原題:SEE YOU YESTERDAY )2019年5月よりNetflixにて配信。巷では“タイムトラベルを題材にした若者向けSF映画に、無理矢理に時事ネタを詰め込んだ、居心地の悪いシャシン”とかいう評価が多いらしいが、個人的には決して悪くない内容だと思う。すこぶる現代的なモチーフを取り上げたという意味で、その存在感は捨てがたい。

 ブルックリンに住む女子高生CJは、電気科クラスではトップの成績を収め、有名工科系大学への進学も狙えるほどだった。親友セバスチャンと共に科学展に出品しようとしていたのは、時間を数日遡れるタイムマシンである。そんな折、CJの兄カルヴィンが強盗と間違われて警官に射殺されてしまう。彼女は兄を救うため、事件が起こった日にタイムトラベルするが、今度は別の者が犠牲になる。何とかして事態を好転させたいCJは、万全の準備を整えて、再び事件当日に戻るのだった。新人監督ステフォン・ブリストルが、自身の短編映画を長編として作り直したものだ。

 製作にスパイク・リーが関与していることからも、本作が単純なライト感覚のSFではないことが窺える。カルヴィンは理不尽な状況で命を落とすが、それはいわゆるBLM運動の発端となった数々の事件と同じ構図である。なお、本作はBLM運動が盛り上がる切っ掛けになったジョージ・フロイド事件(2020年)よりも前に作られている。

 ヒロインは身内に起こった悲劇を“無かったこと”にするため奮闘するが、運命の力は個人の努力をまったく寄せ付けない。それでも、彼女は行動せざるを得ない。あきらめることは、即ちこの不条理な現実を押し付けられることになるからだ。明朗な学園ドラマのエクステリアを纏って始まる本作に、辛い世相を反映させることは観客の賛同を得られないのかもしれないが、言い換えれば、シビアな社会情勢に無関係ではいられない場所なんか存在しないという、作者の主張が明確化しているとも言える。賛否両論あると思われるラストの扱いも納得できる。

 ブリストルの演出はソツが無く、ドラマが停滞するようなことはない。主人公だけではなく、周りのキャラキターの扱いも地に足がついている。主演のエデン・ダンカン=スミスをはじめ、ダンテ・クリッチロウ、マーシャ・ステファニー・ブレイク、ジョナサン・ニーブスといったキャストは馴染みはないが、皆悪くない演技をしている。あと、教師役でマイケル・J・フォックスが出ているのが嬉しかった。
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「俗物図鑑」

2021-01-30 06:44:55 | 映画の感想(さ行)
 82年作品。今も昔も、最も映画化しにくい題材として挙げられるのが筒井康隆の作品群だろう。「時をかける少女」のようなジュブナイル系を別にすれば、映画作品は数本しかない。しかも、いずれも(まあまあのレベルに達しているシャシンはあるが)成功しているとは言い難い。これはひとえに、あの狂気じみた設定とインモラルな筋書きを違和感なく映像化することの困難性が立ち塞がっているからだ。ただし、この作品だけは何とか筒井ワールドに肉薄していると思う。

 古いアパートに入居している梁山泊プロダクションは、接待評論家の雷門享介に贈答評論家の平松礼子、横領評論家の本橋浪夫、万引評論家の沼田峰子といったワケの分からない評論家たちで構成される怪しげな集団だ。彼らはマスコミに露出する共に、破天荒な言動で世の注目と顰蹙を集めるという“炎上芸”を生業としていた。



 ある時、吐しゃ物評論家の片桐考太郎が、テレビの“反吐当てゲーム”で見事にマスコミ界の大物である大屋壮海の反吐を的中させて大屋に気に入られ、梁山泊プロは新メンバーも集めてビッグになってゆく。その様子を面白く思っていない主婦連や全国PTA協議会などの“良識派”が、梁山泊プロに怒鳴り込んでくる。騒ぎは大きくなり、機動隊が出動して鎮圧に当たろうとする。ところが、人質を取って立てこもる梁山泊プロの狼藉に手を焼くばかりの当局側は、自衛隊の投入を決意する。

 無茶苦茶な評論家どもが、それ以上に異常なマスコミ人種たちとその体制を徹底的にコケにするのが痛快だ。また、梁山泊プロのオーディションの場面はケッ作で、やってきた“まともな評論家”たちが一刀両断にされ、評論家そのものの胡散臭さを白日の下にさらすという構図は堪えられない。自衛隊がやってくると登場人物の一人が“筒井康隆作品ではこういう場面で自衛隊が出動するのが通常パターンだ”みたいなことを呟くシーンは笑った。

 脚本は桂千穂、監督は内藤誠が担当しているが、彼らの多彩な人脈により製作費がわずか500万円程度にも関わらず、濃すぎるキャストが大集結しているのも圧巻だ。主演の平岡正明をはじめ、南伸坊に入江若葉、山城新伍、伊藤幸子、山本晋也、朝比奈順子、大林宣彦、安岡力也、珠瑠美といった者達が顔を揃える。

 さらには北川れい子や四方田犬彦、松田政男、石上三登志といった“本物”の評論家も出てきてセルフ・パロディを演じている。映像は限りなくチープだが、それが逆にイイ味を出している。筒井康隆の作品の映画化は、こうした安っぽいヘタウマを狙うか、あるいはハリウッド大作並みに巨費を投じなければサマにならないと思った次第である。
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「聖なる犯罪者」

2021-01-29 06:22:45 | 映画の感想(さ行)

 (原題:BOZE CIALO)示唆に富んだ内容で、キャストの力演も光る。生きる上で“真実”とされるものは何か。それは絶対に揺るがない存在価値を持ち合わせているのか。多様性が介入する余地は無いのか。さらに本作では宗教がモチーフとして採用されることにより、神と人間との関係性にも言及する。第92回米アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートされたポーランド映画だ。

 少年院で服役していたダニエルは、院内でおこなわれる神父の説教に感動し、いつか宗教家になることを夢見ていた。仮出所した彼は遠方の田舎町の製材所で働くことになっていたが、ふとした偶然で新任の司祭に成り済ますことに成功。彼はトマシュ神父と名乗り、うろ覚えの聖書の知識を自分なりにアレンジして型破りの説教を展開する。そんな彼に町の人々は困惑するが、やがて全力投球のトマシュのパフォーマンスに共感する者が増えていく。

 一方、この土地では数年前に7人もの犠牲者を出した交通事故が発生しており、事故の真相が曖昧なまま、町民たちは責任を一人の運転手になすりつけようとしていた。トマシュはこの状態を何とかすべく、関係者からの聞き込みを開始する。だがある日、彼の“正体”を知る少年院仲間がこの地にやって来ることになり、トマシュは窮地に追い込まれる。

 カトリックでは、ダニエルのような前科者は神父にはなれないらしい。しかし、事故にまつわる町民の疑心暗鬼を放置していたのは前任までの教会関係者であり、真剣に解決に向けて動いたのはこの若いニセ神父だった。事故の詳細を隠蔽しようとするのは、一見信心深い町民たちの欺瞞性だ。信心と不信心とを都合良く使い分けようという、人間の弱さを容赦なく暴いていくドラマ運びには説得力がある。

 そもそも、前科者が宗教的に救われないというのは、神を無視するものであろう。仏教の浄土真宗では悪人正機説という教義がある。もちろんそこに謳われている善悪とは法的・道徳的な問題をさしているのではないが、罪を犯してそれを償った者が救われないということではない。

 この点、本作で描かれるカトリックの偏狭性には閉口してしまう。人間誰しも多面性を持ち合わせており、それを一面的な方向から決めつけてしまうのは、反宗教的でしかない。終盤の、ダニエルの風雲急を告げる行動、そして暴力的とも言える幕切れは圧倒的で、監督ヤン・コマサの力量が遺憾なく発揮されている。

 主演のバルトシュ・ビィエレニアをはじめ、エリーザ・リチェムブルにアレクサンドラ・コニェチュナ、トマシュ・ジェンテクなど、皆馴染みは無いが良い演技をしている。そしてピョートル・ソボチンスキ・Jr.のカメラによるポーランドの田園地帯の風景はとても美しい。
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「スタントウーマン ハリウッドの知られざるヒーローたち」

2021-01-23 06:59:33 | 映画の感想(さ行)
 (原題:STUNTWOMEN THE UNTOLD HOLLYWOOD STORY )映画の出来に関して述べる以前に、このような題材を取り上げてくれたことは実にありがたいと思う。ハル・ニーダム監督の「グレート・スタントマン」(78年)やリチャード・ラッシュ監督の「スタントマン」(80年)といった、映画のスタントに関わる者たちを描いた作品は過去にもあったが、スタントウーマンを中心に据えたドキュメンタリー映画はこれまでなかったと思う。その意味で、存在価値は高い。

 まず、映画の歴史はスタントの歴史でもあることが示される。映画の黎明期においても、女性のスタントマンは存在していた。彼女たちは当たり前のように、出演女優の代わりに馬から落ちたりバイクから汽車に飛び移っていたのだ。ところがこの仕事が儲かることが知れ渡ると、野郎どもがカツラをかぶってスタントをやるようになり、スタントウーマンの仕事は減っていった。



 それから長い時間が経過し、彼女たちが復権したのは60年代以降である。だが、相変わらず男女差別は残り、それは今でも尾を引いている。本作では、現役のスタントウーマンの面々や、すでに引退した往年の“名人”たちのインタビューを集め、この職業に携わる者たちの実相を浮き彫りにしていく。

 60年代に彼女たちの組合が発足するが、映画会社はまったくいい顔をしなかった。現在でもスタントウーマンは“女性なのに凄い”といった捉えられ方をされているが、本来そんな見方は間違いである。映画作りにおいて女性がスタントをやる必要性が生じれば、その業務をプロ意識を持って粛々とこなすだけだ。

 彼女たちの“役作り”は男性のそれと変わらない。基礎体力を付けるためのトレーニング、マーシャル・アーツなどの体術の会得と技量向上、そして役柄に合ったスタントのスタイルをとことん追求する。劇中では“車にひかれる場面を上手くこなすには、実際にひかれてみるのが一番だ”という恐ろしいセリフも出てくるが、それは当然のことなのだ。



 生傷は絶えないが、それでも彼女たちを仕事に突き動かすものは、映画への情熱に他ならない。インタビューを受ける彼女たちは、誰しも自信たっぷりで明るい表情を見せる。70歳過ぎて引退した伝説のスタントウーマンも、現役への未練がある。本当に、頭が下がる思いだ。エイプリル・ライトの演出は殊更才気走ったところは無いが、丁寧で好感が持てる。

 ミシェル・ロドリゲスやポール・ヴァーホーヴェンといった映画人たちが述べる、スタントウーマンへの想いも印象的。紹介される作品が過去のものばかりというのは不満が残るかもしれないが、個人的には懐かしく思った。そして、現役のスタントウーマンには意外と美人が多いのにも感心した(笑)。
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「十階のモスキート」

2021-01-08 06:28:06 | 映画の感想(さ行)
 83年作品。日本映画監督協会理事長をつとめる崔洋一の劇場用長編デビュー作で、ヴェネツィア国際映画祭に出品されると共に、毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞などを受賞。当時は高く評価されたが、実際に本作の質は高い。ちょうどこの頃に邦画界には有望な若手監督が次々と現れて活況を呈し、崔監督もそのムーブメントの一翼を担うと認識されていた。

 主人公は団地の十階に住む、万年平巡査の冴えない中年警察官(役名は無い)。とうの昔に妻は離婚して娘を伴って家を出ているが、男は競艇場通いに明け暮れて毎月の慰謝料や養育費の支払いにも困る有様だ。そのため彼はサラ金に手を出すが、返済出来る見通しは全然つかない。彼は行きつけのスナックに勤める若い女と懇ろな仲なのだが、もちろん彼女が金銭問題に関して手助けしてくれるわけでもない。いよいよ切羽詰まった男は、捨て鉢な行動に出る。



 ロクでもない男が堕落していくというハナシで、それ自体は救いは無いのだが、観ているとけっこう面白いのだ。とにかく、この主人公の佇まいから滲み出る、世の中を投げ捨てたような潔さとハードボイルドっぽさに見入ってしまうのだ。何の言い訳もせず、ただただ逆境を一人で引き受けていくそのストイックさ。それはまた、他者とのコミュニケーションすら蹴飛ばしてしまう孤高の美学をも演出している。

 そのことを効果的に引き立たせる小道具が、彼が昇進試験受験のために買い入れるパソコンだ。当時はパソコンは高額で誰でも手に出来るものではなかったのだが、このマシンを手に入れてその操作にのめり込むことにより、彼の心理的ベクトルが一層デジタルでささくれ立った境地に向いていく様子がよく分かるのだ。そして終盤の彼の暴走を見物する多数の野次馬を見た時、男は我に返るという筋書きは何とも皮肉で興趣に富んでいる。

 崔洋一の演出は力強く、一点の緩みも無い。主人公の転落ぶりをスペクタクル的にスクリーンに叩き付ける気合いは大したものだ。そして主演の内田裕也のバイオレントな存在感は凄い。80年代の彼は映画俳優として最高の仕事ぶりを見せていた。

 中村れい子に宮下順子、アン・ルイス、吉行和子、佐藤慶、風祭ゆき、ビートたけし、横山やすしなど、脇の面子も非常に濃い顔ぶれを揃えている。また主人公の娘に扮していたのが小泉今日子で、当時は売り出し中のアイドルがこういうヤバめの作品で映画デビューしたというのも驚きだ。大野克夫の音楽と白竜による挿入歌も申し分ない。
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「ストップ・メイキング・センス」

2020-12-27 06:43:01 | 映画の感想(さ行)
 (原題:Stop Making Sense )84年作品。ジョナサン・デミ監督といえば「羊たちの沈黙」(90年)や「フィラデルフィア」(93年)などで知られるが、個人的にはこの映画が最良作であると思う。何より、音楽ドキュメンタリーの分野において新機軸を打ち出したという意味で、本作の価値はかなり高い。音楽好きは要チェックだ。

 74年から91年にかけて活躍したニューヨーク出身の先鋭的ロックグループ、トーキング・ヘッズの83年12月のロスアンジェルス公演の模様を収録している。冒頭、リーダーのデイヴィッド・バーンが単身ギターを抱えてステージに現れる。そしてバーンのソロが始まり、曲が進むごとにベース、ドラムス、ギター、コーラスと、メンバーがステージに登場する。やがて全員揃ったところでヒット曲“バーニング・ダウン・ザ・ハウス”あたりから一気にライヴは盛り上がる。



 通常、この手の作品にありがちなサウンドとカメラがシンクロするような“ノリ”のショットや、ミュージシャンと聴衆の手拍子などがカットバックされるような、ケレン味たっぷりの演出は見当たらない。ただひたすらカメラはステージ上のトーキング・ヘッズを凝視する。ならば素っ気なく“ノリ”の悪いシャシンなのかというと、全然そうではない。このバンドの持つシンプルかつストレートな迫力が、レアな形で観る者をダイナミックに揺さぶってくる。

 もちろん、当時のトーキング・ヘッズは余計なヴィジュアル的ギミックを弄さずとも聴衆を魅了する実力があったからこそ、この手法が活きたのだ。言い換えれば、凡百のミュージシャンならば、このアプローチは失敗する。実力派だから、ストイックな作風がそのパフォーマンスを十二分に発揮出来るのだ。

 そしてラストナンバーの“クロスアイド・アンド・ペインレス”が演奏されるくだりになって、やっと観客が映し出される。そこは贅肉をそぎ落としたようなステージングと対比するかのように、熱狂の渦だ。これは演奏と聴衆との関係性に鋭く切り込むような、ミュージシャンとファンとの“馴れ合い”を廃した鮮烈なショットである。

 タイトルの「ストップ・メイキング・センス」とは、アルバム「スピーキング・イン・タングス」に収録されている“ガールフレンド・イズ・ベター”の一節から取ったもので、理屈で考えるのはやめようという意味だ。その題名の通り、小賢しい“お約束”でファンに盛り上げを要求するスタイルを拒否し、純粋に音楽を楽しむべきだというメッセージが伝わってくる。歌詞対訳の字幕スーパーは無く、曲名紹介も省かれているのも、その主題に準拠していると言えよう。なお、このバンドのスピンアウトのプロジェクトであるトム・トム・クラブのナンバーも紹介されていたのも嬉しかった。
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「水上のフライト」

2020-12-21 06:34:07 | 映画の感想(さ行)

 典型的なスポ根もののルーティンが採用されており、展開も予想通りだ。しかし、この手の映画はそれで良いと思う。ヘンに捻った展開にしようとすると、よほど上手く作らないとドラマが破綻してしまう。また本作では題材が目新しく、紹介される事実もとても興味深い。キャストの健闘も併せて、鑑賞後の印象は上々だ。

 体育大学に通う藤堂遥は、走り高跳びの選手として将来を嘱望されていた。しかし、ある日交通事故に遭い、彼女は下半身マヒの重傷を負う。心を閉ざし自暴自棄に陥っていた遥を外に連れ出したのが、彼女が小さい頃にカヌーを教えていた宮本浩だった。最初は躊躇っていた彼女だが、宮本が主宰するカヌー教室に集まった子供たちや、そこの卒業生である加賀颯太らの励ましを受けて、次第に前を向くようになる。そしてあるとき、パラカヌー競技に出会う。遥はこの種目で再びアスリートを目指そうとするのだった。実在のパラカヌー日本代表選手である瀬立モニカをモデルにした作品だ。

 陸上競技に打ち込んでいた頃の遥は、高慢ちきな女として描かれる。それが不運な事故に遭い“素”の自分に向き合うことによって、初めて今までの結果は彼女一人の精進によるものではないことを知る。周囲の理解やライバルたちの存在があったからこそ、実績をあげられたのだ。

 余談だが、いわゆる“勝ち組”と呼ばれる者たちには、この“他者があって今の自分がある”という視点が欠落しているケースが多い。自助努力だけでのし上がったと盲信し、他者に“自己責任”を押し付ける。本作のヒロインも、斯様な災難に遭わなければ鼻持ちならない人物のままだったのかもしれない。そのことを言及しているだけでもこの映画の優位性がある。

 主人公が本当に打ち込めるものを見つけてからのストーリーは一本道で、鍛錬を積んでスキルを会得し、大きな大会で活躍するまでスムーズに流れる。また、パラ競技に必要な器具の描写も面白い。兼重淳の演出は殊更才気走ったところはないが、堅実な仕事ぶりだ。

 主役の中条あやみはデビュー当時に比べるとかなり演技が柔軟になってきたが、同世代の俳優たちと比べると物足りないところがある。しかし、役作りに対して懸命に頑張っている。特に表情を歪めて汗だくでトレーニングに励むシーンなど、頭が下がる思いだ。努力を惜しまない若手を見るのは気持ちがいい。杉野遥亮に冨手麻妙、高月彩良、大塚寧々、小澤征悦といったち脇の面子も申し分ない。終盤の、文字通り水上を飛ぶようにカヌーを操る競技者の描写は印象的だ。大会の舞台になる山中湖の風景もすこぶる美しい。
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「シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!」

2020-12-14 06:37:15 | 映画の感想(さ行)
 (原題:EDMOND)これは面白い。芸術に携わる者たちの矜持と、成果物としての演劇の素晴らしさを十分に描き出し、最後まで飽きさせない。それでいて歴史物としての風格があり、優れたコメディでもある。セザール賞では衣裳デザイン賞と美術賞の候補になっているが、作品賞や監督賞を獲得してもおかしくないほどの出来栄えだ。

 1897年のパリ。詩人で劇作家のエドモン・ロスタンは、かつてヒット作を手掛けていたが、次第にその古風なスタイルが飽きられ、約2年も筆が進まない状態に陥っていた。そんな中、大物俳優コンスタン・コクランの主演舞台を手がけるチャンスが舞い込む。しかし、決まっているのは17世紀に活躍した剣術家で作家のシラノ・ド・ベルジュラックを主人公にした劇ということだけで、内容は未定だった。



 ある日、親友のレオの代わりに彼が愛するジャンヌに宛ててラブレターを書いたことをきっかけに、エドモンは戯曲の筋書きを思いつく。やがて、実は借金だらけのコンスタンをはじめ、クセの強い俳優やスタッフたちがポルト・サン=マルタン座に集合し、この劇を完成させるために奮闘することになる。ベル・エポック時代を代表する演劇「シラノ・ド・ベルジュラック」の誕生秘話を描く、実録風ドラマだ。

 とにかく、各キャラクターが“立って”いることに感心する。無駄なキャラクターが一人も存在せず、それぞれのポジションに応じた見せ場が用意されているという、巧妙なシナリオが光っている。そして、それに応えるキャストの力量も申し分ない。主人公たちを次々と襲うトラブル。債権者に追われる者もいれば、複雑な色恋沙汰に巻き込まれて芝居どころではない者、演技経験ゼロでありながら大切な役を振られた者など、訳ありの面々が顔を揃える中、劇場の使用中止命令まで出てしまう。

 それでもこの傑作を世に出すのだという一同の心意気が、事態を少しずつ好転させていく。そのプロセスはまさにスペクタクル的だ。そして、劇に携わる者たちの人生が舞台上の登場人物とシンクロし、クライマックスは演劇の枠を逸脱するという野心的な試みも披露する。

 監督のアレクシス・ミシャリクは原案と脚本を手掛けているが、見事な仕事ぶりだ。また、エンド・クレジットの処理にも泣けてきた。主役のトマ・ソリベレを筆頭に、オリビエ・グルメ、マティルド・セニエ、トム・レーブ、リュシー・ブジュナー、アリス・ド・ランクザンなど、キャストは芸達者揃い。ジョバンニ・フィオール・コルテラッチの撮影とロマン・トルイエの音楽も言うことなしだ。
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