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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「つながれたヒバリ」

2020-04-25 06:57:12 | 映画の感想(た行)
 (英題:Larks on a String )1969年にチェコスロバキアで撮られた作品だが、一般公開は90年で、その年のベルリン国際映画祭において大賞を獲得している。シビアな題材を扱いながら、タッチはしなやかでユーモラス。この“重いテーマを軽妙に綴る”という芸当は実力派の作家にしか出来ないが、本作はそれを存分に見せつけている。

 1948年のチェコでは、社会主義とは相容れない(と思われる)者たちを再教育するためのプロジェクトが実施されていた。ある町のスクラップ工場では、7人の男たちが再教育と対象として働かされていたが、彼らは別に反体制というわけではなく、普通の市民である。その中でも一番若いユダヤ人の元コックであるパヴェルは、担当教官と衝突してばかりいた。



 ある日彼は、工場の隣にある思想犯の収容所にいる若い娘イトカと知り合い、恋に落ちる。そしてついに彼女と結婚することになるのだが、そんなめでたい出来事とは裏腹に、工場には不穏な空気が流れ始める。仲間の大学教授が共産党員と口論になった挙げ句にどこかに連行されたのを皮切りに、次々と男たちが姿を消す。そしてパヴェルの身にも災いは降りかかってくる。

 69年といえば、前年に“プラハの春”がソ連によって潰され、暗い時代に逆戻りした頃だ。体制批判を扱った本作は上映禁止になっている。しかしながら、イェジー・メンツェル監督は祖国から離れなかった。だからよっぽどこの映画は重々しい内容なのだろうと思ったら、これがけっこう明るくて屈託が無い。

 もちろん、その中には重大な歴史の真実がある。ただ映画としては観ていて胃が痛くなるようなことはなく、平易で誰しもスッと中身に入って行ける。この洗練が訴求力を高めている。庶民に過ぎないパヴェルたちがこの工場に入れられたのは、単なる“事故”のようなものだ。反政府の闘志など存在しない。

 ブルジョワ的楽器だという理由だけでブルジョワ扱いされるサキソフォン奏者がいるのもおかしいが、とにかく社会主義のナンセンスぶりを皮肉っているのが痛快だ。後半になるとストーリーは厳しくなるが、それでも登場人物たちは“いつかは真実が解る”と達観している。あくまで人間を信頼しているメンツェル監督の真摯なスタンスが伝わってくるようだ。主演のヴァーツラフ・ネッカーシュをはじめ、キャストは皆好演。反骨精神とカツドウ魂を忘れない映画作家の矜持が伝わってくる、見応えのある好編である。
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「チャンプ」

2020-02-16 06:36:20 | 映画の感想(た行)
 (原題:The Champ )79年作品。映画を“泣けるか、泣けないか”という基準で評価する世の多くの善男善女の皆さんにとっては、本作は最上級の称賛を受けるべきシャシンだろう。しかしながら、結果的にファンの記憶に残る映画になったのかというと、断言は出来ない。瞬間風速的に観客の涙腺を直撃しようとも、長期的に見ればモノを言うのは映画の質とヴォルテージだ。同じくボクシングを題材にした映画として、この作品の3年前に作られた「ロッキー」と比べてみれば、それは明白だと思う。

 かつてボクシングの世界チャンピオンとして名声を得たビリーも、今は落ちぶれて酒とバクチに溺れる日々を送っている。とっくの昔に妻には逃げられたが、一緒に住む8歳の息子TJだけは、父を“チャンプ”と呼んで慕うのだった。ある日、ビリーは別れた妻のアニーと再会する。彼女はファッションデザイナーとして成功しており、そんなアニーを見たビリーは惨めな気分になるのだった。ビリーはTJにアニーと暮らすように言うのだが、TJは父親の元を離れない。ビリーは息子のため、37歳という年齢ながらもう一度リングに上がることを決意し、厳しいトレーニングを開始する。



 前半には親子の情愛、後半のボクシングの激闘、そしてラストの愁嘆場と、メインの素材を切り分けて提示する手際の良い作劇が印象的。そもそも、監督がフランコ・ゼフィレッリだ。どう考えても駄作にはなりそうもない。何よりTJに扮する子役のリッキー・シュローダーが手が付けられないほどの名演で、彼を見ているだけで入場料のモトは取れる。

 だが、観終わってみればこれは“よく出来たメロドラマ”の域を出ないのだ。対して「ロッキー」はどうだったかといえば、低予算で無名のキャストが中心ながら、創意工夫により目を見張る求心力を達成していた。そして斜に構えたようなアメリカン・ニューシネマの終焉を告げるような、明るくポジティヴな空気が充満していた。また、舞台になったフィラデルフィアの下町情緒を丹念に描写し、主人公が恵まれない人々のヒーローになる構図をも作り上げている。

 つまり「ロッキー」には映画の中身だけではなく、製作の過程自体に骨太なストーリーが組み込まれていたのだ。そのあたりが「チャンプ」には欠けている。だいたい、この映画は1931年に公開された同名映画のリメイクだ。製作当時の今日性を描出できるようなネタではなかったということだろう。

 ビリー役のジョン・ヴォイト、アニーに扮するフェイ・ダナウェイ、共に好演。フレッド・コーネカンプのカメラによる映像は深みがあり、デイヴ・グルーシンの音楽も満点だ。とはいえ、ウェルメイドなドラマという括りから一歩も出ない本作の立ち位置は、依然そのままである。
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「テルアビブ・オン・ファイア」

2020-01-06 06:55:20 | 映画の感想(た行)

 (原題:TEL AVIV ON FIRE)各キャラクターは“立って”いるものの、コメディとしてはパワー不足で、あまり笑えない。しかしながら、題材の面白さでは十分に語る価値のある映画だ。シビアな状況に置かれながらも、決して悲観的にはならない作者のポジティヴな姿勢も評価出来ると思う。

 エルサレム在住のパレスチナ人青年サラームは、1967年の第3次中東戦争前夜を描く人気メロドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」の制作現場で働いている。とはいえ、彼の仕事は言語指導で、メインのスタッフではない。この職にありつけたのも、プロデューサーである伯父のコネによる。サラームは撮影所に通うため毎日検問所を通るのだが、所長であるイスラエル軍司令官アッシにうっかり“自分はドラマの脚本家だ”と申告してしまう。

 アッシとその妻は「テルアビブ・オン・ファイア」の大ファンで、自分のアイデアをサラームに押し付けてドラマを改変するように迫る。するとアッシのアイデアが認められ、サラームは本当にシナリオを担当することになる。だが、最終回の展開に関してアッシとプロデューサーの考えは大きく異なり、板挟みになったサラームは必死に打開策を考える。

 上映時間は97分と短めだが、サメホ・ゾアビーの演出が冗長で画面が弾んでこない。窮地に陥ったサラームの行動を、もっとスラップスティックに盛り上げて欲しかった。しかし、この設定は面白い。

 イスラエル人とパレスチナ人が同じTVドラマを見て楽しんでいること自体が興味深いが、その番組が中東戦争をネタにしているというのだから驚く。どんな結末を用意しても、それぞれの陣営が真に満足することは無いと思われるが、映画は“禁じ手”のような思い切った手段で乗り切ってしまう。これはけっこう痛快だ。そして作者の、この情勢が必ず好転するものと信じている楽天性が感じられ、鑑賞後の印象は決して悪くない。

 サラーム役のカイス・ネシフは煮え切らない男をうまく演じており、アッシに扮するヤニブ・ビトンや女優役のルブナ・アザバル、サラームのガールフレンドを演じるマイサ・アブ・エルハーディ等、馴染みは無いが皆良い働きをしている。また、劇中のメロドラマがいかにも下世話で、画面もそれに応じてチープになっているのも面白い。
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「ターミネーター:ニュー・フェイト」

2019-12-07 06:29:55 | 映画の感想(た行)
 (原題:TERMINATOR:DARK FATE)どうしようもない出来。パート3以降の作品を“無かったことにする”という荒業を採用し、傑作との誉れ高いパート2(91年)の“正式な続編”として作られたにもかかわらず、内実は続編ではなく低レベルの“リメイクもどき”に留まっている。久々にジェームズ・キャメロンが関わっていながらこの有様。企画段階で却下されるべきネタだ。

 メキシコシティに新型ターミネーターのREV-9が突如現れ、自動車工場で働く若い女子ダニーを襲う。同じく未来から送り込まれた強化型兵士グレースがダニーを守るが、何とか工場を脱出した彼らをREV-9を執拗に追う。絶体絶命のピンチを救ったのがサラ・コナーだった。サラは何者かが発信する“ターミネーター情報”に従い、この何十年間に発生した不穏な出来事を潰してきたが、そのおかげで全国指名手配されているという。メールの発信源がテキサス州のエルパソだとグレースが突き止め、彼らはアメリカとの国境に急ぐ。だが、REV-9は先回りしてサラたちを抹殺しようとする。



 まず、開巻早々にジョン・コナーが第二作の前の段階で未来から送り込まれていたT-800にあっさり消されるシーンで拍子抜けしてしまった。加えて、スカイネットは消滅したがリージョンという同等の存在が未来では覇権を握っているという。これでは話が振り出しに逆戻りだ。事実、本作は今までのジョンの存在がダニーに交代しただけで、ターミネーターとの追いかけっこが延々と続くという、使い古したルーティンが展開されている。

 しかも、くだんのT-800は人間的な内面を手に入れ(その理由もプロセスも描かれない)、何と妻子もいるのだ。こんな無茶苦茶な話に誰が納得するものか。REV-9はかつてのT-1000と形状と性能がさほど変わらず、新機能は“分身の術”が使える程度でほとんど芸が無い。アクション場面は冒頭のカーチェイスこそ盛り上がるが、あとは暗い中で何やらバタバタやっているだけで、まったく見栄えがしない。

 ティム・ミラーの演出は低調な脚本に引っ張られるようで精彩を欠き、アーノルド・シュワルツェネッガーとリンダ・ハミルトンは“老い”ばかりが目立って気勢が削がれる。かといってナタリア・レイエスが演じるダニーにカリスマ性があるかといえば、そうではない。グレースに扮したマッケンジー・デイヴィスは頑張っていたが、このキャラクターが果たして必要だったのか議論の分かれるところだろう。

 この映画を観ていると、失敗作と言われたパート3(2003年)及びパート4(2009年)が、随分とマシな作品に思えてくる。案の定、本国では客が入らず赤字決算で、この調子では続編の製作も覚束ない。ともあれターミネーター・クロニクルズは、これにて打ち止めだ。
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「トラヴィアータ 椿姫」

2019-11-15 06:53:55 | 映画の感想(た行)
 (原題:La Traviata )82年作品。アレクサンドル・デュマ・フィスの原作によるヴェルディの著名なオペラ「椿姫」の映画化だ。19世紀中頃のパリの社交界を舞台に、真実の恋に生き死んでゆく花形娼婦ヴィオレッタの姿を描く。とにかく、その絢爛豪華な美術に圧倒される。胸を患ったヒロインのヴィオレッタのはかない人生とは対称的に、オペラの中の夜会や仮装舞踏会は華やかで享楽的な空気が横溢しているという設定だ。

 もちろん見どころは、この舞踏会のシークエンスである。監督のフランコ・ゼフィレッリとジャンニ・クァランタによる舞台美術、エンニオ・グァルニエリの流麗なカメラワーク、そしてダンスの躍動感は、ゼフィレッリの師匠であるルキノ・ヴィスコンティの「山猫」(63年)の一場面を思い起こさせるほどの、目覚ましいヴォルテージの高さを見せる。ハッキリ言って、この部分だけで入場料のモトは取ってしまうだろう。



 さらに、歌劇とは異なる映画独自の仕掛けが成されていることも見逃せない。本作ではオペラの序曲に当たる部分には、賑々しいクレジットを表示したりはしない。代わりに、昔日の面影のない荒れ果てたヴィオレッタの館から家具や装飾品が運び出される場面が映し出される。ローマのチネチッタのスタジオに組まれた館の広間は、そのあり得ないほどの広さがヒロインの孤独を象徴していると言えよう。

 そこに手伝いにやって来た少年がふと壁に目をやると、ヴィオレッタの肖像画が掛かっており、彼はそれに見とれてしまう。すると、誰もいない大広間が、突如として煌びやかな夜会へと変わる。つまり、ラストから先に見せて映画は回想形式で進むという段取りを踏んでおり、それが実に効果的なのだ。

 ゼフィレッリの演出はさすが“本職”だけあって、抜かりがない。音楽と映像とのバランスは絶妙で、良く知られた“乾杯の歌”が鳴り響くシーンは大いに盛り上がる。主演者としてテレサ・ストラータスとプラシド・ドミンゴという稀代の歌手を起用しており、他にもコーネル・マクニールやアラン・モンクといったオペラ畑の人材を採用しているが、皆映画俳優としても全く違和感のないパフォーマンスで感心する。ジェームズ・レヴァイン指揮のメトロポリタン歌劇場管弦楽団の演奏も見事なものだ。
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「太陽の年」

2019-10-25 06:46:52 | 映画の感想(た行)
 (英題:YEAR OF THE QUIET SUN )84年作品。第41回ヴェネツィア国際映画祭で大賞を獲得しているが、主要アワードの受賞作が良作とは限らないというのは、映画ファンの間では定説(?)である。ところが本作は、大半の観客がその優れた内容を認識出来るという、希有な存在だ。80年代以降のポーランド映画としても、大きな業績であると思う。

 1946年のポーランド。戦争で夫を亡くし、老いた母と一緒に暮らすエミリアは、先の見えない毎日に疲れ果てていた。ある日、彼女は戦争の後遺症に悩むアメリカ兵ノーマンと出会う。同じ心に傷を負う者同士、惹かれ合うのにはそう時間はかからなかった。2人は結婚することを決めるが、エミリアは裁判所による夫の死亡宣告がない限り再婚できない立場だ。それでもノーマンはいつまでも待つと言ってくれる。だが、母との関係により、彼女は国を離れない選択を下す。そのことを知らないノーマンは、エミリアに誘われるまま別れのダンスを踊るのだった。



 とにかく、終戦直後の物理的・精神的荒廃の描写が鮮烈だ。街は破壊され、犯罪は日常茶飯事である。物言わぬ死体が次々と発掘されても、人々は感傷に浸る余裕すら無い。ノーマンは捕虜収容所で辛い目に遭い、そのトラウマから逃れられない。エミリアの隣に住む主婦は、生活のために毎夜男を誘い入れている。

 印象的なのは、エミリアが描く太陽の絵である。そこに描かれている太陽は明るく輝いておらず、真っ黒に塗り潰されている。逆境にありながらも、心の奥底では事態が好転することを祈っている主人公達の心情を、見事にあらわしていると言えよう。

 終盤、時制は現代に飛び、修道院の老人ホームで暮らすエミリアの姿を映し出す。そして、ラストの処理は見事だ。おそらく、私が今まで観てきた映画の中でベストテンに入るほどの幕切れであり、忘れがたい印象を残す。クシシュトフ・ザヌーシの演出は堅牢で、少しも淀むことが無い。主演のマヤ・コモロフスカとスコット・ウィルソンの演技は秀逸。スワヴォミール・イジャックによる撮影と、ヴォイチェフ・キラールの音楽がドラマを盛り上げる。
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「台風家族」

2019-10-05 06:41:58 | 映画の感想(た行)
 先日観た「イソップの思うツボ」と似たような体裁の映画だ。つまり“意外な展開にするための、無理筋のプロットの積み上げ”に終わっているということ。一応は目が離せない作劇にはなっているが、仕掛けそのものが底が浅いため、観たあとは空しさだけが残る。製作サイドは脚本のブラッシュアップをライターに依頼すべきであった。

 葬儀屋を営む鈴木一鉄は銀行に押し入り、2千万円を強奪して妻の光子と共に逃走。そのまま消息を絶つ。10年後、時効が成立したと踏んだ鈴木家の長男である小鉄は、両親の体裁上の葬儀を執り行うため、妻の美代子と娘のユズキを連れて実家を訪れる。次男の京介と小鉄の妹である麗奈も列席するが、三男の千尋だけは姿を見せない。式も終わり近くになる頃、登志雄と名乗る見覚えのないチャラい若造が現れる。聞けば彼は、麗奈の婚約者らしい。しばらくすると千尋も登場するが、やがて彼らが一鉄に抱いていた屈託が噴出し、収拾のつかない事態に陥る。



 当初はオフビートな家族劇の様相で、これはこれで一つの方法だと思わせるが、千尋が式の様子と兄弟間の揉め事をネット中継していることが明るみになってから映画は失速。あとはとても納得できないモチーフの連続で、観ていて鼻白むばかり。

 要するに、鈴木一家は以前からトラブル続きだったが、子供たちはそれぞれの矜持を持っていて、一鉄夫婦もそれなりに事情があり、家族間の絆は健在だったということを謳っているのだが、その段取りがまるで腰砕け。次々と現れる“訪問者”は一鉄との関係性を明かしていくのだが、いずれの話も取って付けたようで、有り体に言えば不愉快である。

 そもそも、事件当初に小鉄がマスコミから取材攻勢を受けた際に幼かったユズキが“お父さんをいじめるな!”と叫ぶのだが、そのくだりが後半に反映されることが無いのだ。終盤の、皆が台風の中で家族の思い出の地であるキャンプ場に急ぐパートなど、常識を度外視した展開の連続で脱力した。

 脚本も担当した市井昌秀の演出は、ケレン味こそ強いが粘りに欠ける。草なぎ剛に新井浩文、MEGUMI、尾野真千子、中村倫也、若葉竜也、榊原るみ、藤竜也と多彩な顔触れを揃えたわりには上手く機能させていない。

 一鉄は昔の派手な霊柩車に乗って犯行に及ぶのだが(その目立つ車が10年間も見つからなかったという設定は別にして)、現在は街中でああいう宮型霊柩車を見なくなったのは、近隣住民への配慮と不況で葬儀に金を掛けられなくなったことが大きいらしい。葬式も時代の意識を反映するものなのだろう。
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「タッカー」

2019-09-29 06:31:15 | 映画の感想(た行)
 (原題:Tucker)88年作品。正攻法で撮られた、堂々たる偉人伝。80年代以降のフランシス・フォード・コッポラの監督作品では、一番納得のいく出来であろう。題材自体も実に興味深く、鑑賞後の満足度は高い。

 1945年。第二次大戦が終わり、アメリカが新時代に向かって突き進もうという機運に溢れていた頃、デトロイト郊外の小さな街で自動車のガレージ・メーカーを経営していたプレストン・タッカーは、仲間と共に新型車タッカー・トーペードを発表する。高い性能と斬新なデザインはたちまち世間の耳目を集め、しかも巧みなPRが功を奏し、本格的リリース前から市場を席巻する勢いだ。



 しかし、ビッグ3と呼ばれる巨大自動車会社や、業界の既得権益に依存していた政治家達は一斉に反発。露骨な妨害工作を展開する。ついにタッカーは罠に嵌められて訴えられ、工場は閉鎖寸前となった。主張を通して裁判に勝つためには50台の新車を期日までに完成させなければならず、タッカーは窮地に陥る。

 自動車産業の中心であったアメリカでは、戦後いくつかのニューカマーがビッグ3の寡占状態に果敢に挑戦したが、いずれも退場している。だが、それらが手掛けた車は現時点でも魅力的に映る。「パック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズに使われたデロリアンなどはその代表だが、このタッカーというブランドは本作を観るまで知らなかった。そのエクステリアは先進的で、もしもブレイクしていたならば、自動車のデザインのコンセプトが根本から揺らいだことだろう。

 斯様なモデルを作り上げたプレストン・タッカーと仲間達は、ビッグ3の牙城は崩せなかったが、確実に産業史にその名を残したのだ。彼らにあったのは夢と希望だけ。タッカーは困難にぶち当たっても、前しか向かない。観る者によっては“ドラマに陰影が足りない”と感じるのかもしれないが、コッポラの悠々たる演出は批判をねじ伏せるだけのパワーがある。

 主演のジェフ・ブリッジスは好演で、彼のフィルムグラフィの中では上位を占める。ジョアン・アレンやマーティン・ランドー、マコ、クリスチャン・スレーターといった脇の面子も申し分ない。敵役としてジェフの父親であるロイド・ブリッジスが登場するのも嬉しい。ヴィットリオ・ストラーロによるカメラ、凝りに凝ったセット、ジョー・ジャクソンの音楽、いずれも要チェックだ。
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「デモンズ」

2019-09-27 06:10:31 | 映画の感想(た行)

 (原題:DEMONS)アジアフォーカス福岡国際映画祭2019出品作品。訳の分からない映画ではあるが、妙に観る者の内面に“刺さる”ものがあり、観ていて飽きない。デイヴィッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」(2001年)との類似性を指摘する向きもあるだろうが、あの映画ほどのインパクトは無いものの、ネタの掴み具合では独自性を発揮していると思う。

 シンガポールの演劇界で手腕を振るう演出家ダニエルの新作に、新進女優のヴィッキーが起用される。本人はやる気満々で、彼女の兄も大いに喜んでくれる。ところが、同時にヴィッキーは奇妙な幻覚に襲われ始める。しかも、周囲の人間の言動が次第に常軌を逸したものになってゆく。やがて彼女はマレーシアでの公演のため地元を離れるが、その後消息を絶つ。一方、ダニエルの周囲にも異常な言動の人間が多数出没するようになり、夜は悪夢にうなされる始末。ついには、一緒に暮らす同性のパートナーとも意思疎通が出来なくなる。

 「マルホランド・ドライブ」が映画界の魔窟を(外観的に)描写していたのに対し、本作は芸能界に関わった者達の内面に切り込んでゆく。誰かを演じ、ドラマを演出するということは、その作品世界を(一時的にでも)受け入れることである。しかし、それが各人のキャパシティを超えてしまうと、取り返しの付かない事態に陥る。この映画はそんな表現者の苦悩を、露悪的なホラー仕立てで展開させる。

 監督ダニエル・フイの仕事ぶりは、他のホラー映画からの引用も見られるものの、快調に飛ばしておりドラマが停滞することは無い。特にダニエルの事務所を訪ねてきたスポンサー関係者が、突如として奇態な行動を見せる場面などは、インパクトがある。上映時間が83分とコンパクトなのも、的確な処理だと思う。

 ただ、ヒロイン役のヴィッキー・ヤンが全然美人ではないのは、かなり盛り下がる(笑)。観客が感情移入しやすいルックスを備えた役者に任せていれば、もっと好印象だったはず。ダニエルに扮するグレン・ゴエイは熱演で、こっちは見かけが普通である分、不条理な環境に放り込まれた者の悪戦苦闘ぶりが迫真的だった。
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「誰かの妻」

2019-09-22 06:25:00 | 映画の感想(た行)

 (英題:OTHER MAN'S WIFE)アジアフォーカス福岡国際映画祭2019出品作品。本作で描かれている封建的な地域性は世界のあちこちで現在も存在していることは分かるが、産業と情報のグローバル化はその中で暮らす人々の生活を悩み多きものにしている。そんな遣り切れなさと諦観が横溢し、何とも言えない気持ちになる映画だ。

 ジャワ島とマカッサル海峡の間に位置するカンゲアン諸島のひとつに住む高校生のヒロインは、たった一人の理解者だった母を亡くし、鬱屈した日々を送っていた。ある時、父親は彼女を知り合いの農家の息子と結婚させることを決める。学校も辞めさせられた彼女は、結婚式の当日まで相手の顔を知らず、結婚してからは当たり前のように家事と農作業を押し付けられる。

 だが、夫は農家を継ぐ気はまったくない。ある日彼は家出してマレーシアに働きに出てしまう。残された彼女は正式な離縁も出来ず、義父の世話を黙々とこなす毎日だ。そんな彼女も、農村に出入りする業者の若者に恋心を抱くようになる。彼は彼女に一緒に村を出ようと持ちかける。

 この土地では“女性は、この世界の支配者である男たちの所有物に過ぎない”という掟がある。その地が経済的に成り立っていればその掟も存続していたはずだが、隣国マレーシアに移住すればより良い暮らしが実現する(かもしれない)という情報だけは、彼女及び周囲の人々の耳に入ってくる。

 村の外には広い世界(同時に、弱肉強食的でもある)が広がっていることを認識しながら、地元のしきたりに絡め取られていくしかない者達の姿は痛切だ。ヒロインに出来ることは、ヤシの枝を使った細工を学校の生徒に教えることぐらい。しかし、それも義父をはじめ大人達はいい顔はしない。そしてラストの扱いは、観ていて身が切られるようである。

 ディルマワン・ハッタの演出は淡々としていてケレン味は無いが、ゆったりと時間が流れる島の生活を十分に表現している。キャストは大半が素人同然だが、いずれも存在感がある。特筆すべきは、美しい島の風景だ。デジカム撮りなので、それほど画質の精度は高くないが、それでも田園地帯の中を水牛の群れが悠々と歩いている場面は印象に残る。
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