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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「怪物」

2023-07-07 06:09:32 | 映画の感想(か行)
 観終わって呆れた。第76回カンヌ国際映画祭にて脚本賞を獲得しているが、こんなヘタなシナリオでも“取り上げられた題材”によっては不必要に評価される世の中になったことに思い当たり、タメ息が出た。元より是枝裕和は出来不出来の幅が大きい映像作家だが、本作は間違いなく出来が悪い部類に入る。

 大きな湖のある郊外の町に住む息子を愛するシングルマザーと生徒思いの若い教師、そして子供たちという3つのスタンスから見た、小学校で起きたトラブルとそれに続くハプニングの数々を描く本作。言うまでもなく黒澤明監督の「羅生門」(1950年)の形式を踏襲しているが、内容はかなりの差がある。

 「羅生門」のストーリーの土台は、山中で発生した殺人事件という、映画内での確固とした“事実”である。この前提があるからこそ、関係者たちの食い違う証言の数々が紡ぎ出す物語性がスリリングな興趣を生んだのだ。対してこの「怪物」には、土台になる“事実”が無い。一応、学校で子供同士のケンカがあったらしいというモチーフは出てくるが、それが本当のことなのかは分からない。

 結果として、関係者たちの手前勝手な言い分が並ぶばかりで、そこから何か大きなテーマに収斂されていくという趣向は存在しない。これは私が嫌いなファンタジー物と一緒で、つまりは“何でもあり”の世界なのだ。この“何でもあり”というのは“何もない”のと一緒であり、ドラマの核が無ければ自己満足の絵空事の積み上げにしかならない。

 それにしても、いくらファンタジーとはいえ各エピソードのレベルの低さには閉口する。保護者を前にしての教師たちの不遜な態度や、校長にまつわるワザとらしい“疑惑”、当事者生徒の一人の“図式的な家庭環境”など、よくもまあ斯様な恣意的かつ表面的なネタばかり繰り出してくるものだと、観ていて失笑するばかり。

 極めつけは終盤の処理で、いったいこれは何の冗談なのかと絶句した。そういえばカンヌではコンペティション部門の各賞発表に先んじて、本作はクィア・パルムという独立賞を獲得しているが、このアワードの趣旨を勘案すれば当然この映画の主眼は何か気が付いたはずだ(我ながら迂闊だった)。とにかく、このような冴えないシャシンに付き合わされ、「羅生門」がいかに革新的な映画であったかを再確認した次第だ。

 安藤サクラに永山瑛太、高畑充希、中村獅童、田中裕子らキャストは皆熱演だが、映画の内容がこの通りなので“ご苦労さん”としか言えない。なお、坂本龍一の最後の映画音楽ということで話題にもなっているが、過去の彼の実績に比べると、取り立てて優れているとは思えなかった。
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「渇水」

2023-07-01 06:48:01 | 映画の感想(か行)
 ピンと来ない映画だ。題材自体は面白いと思う。だが、それが映画的興趣に結び付いていない。キャラクター設定は深みが無く、筋書きは絵空事。何かあると思わせて、実は何も提示出来ないというもどかしさが漂う。聞けば白石和彌が初プロデュースを手掛けた作品とのことだが、この隔靴掻痒感は調子の悪いときの白石監督作にも通じるものがある。

 首都圏の市役所の水道局に勤めている岩切俊作は、後輩の木田拓次と共に水道料金を滞納している世帯を回り、支払いに応じない利用者の水道を停止する業務に就いていた。折しも夏場の雨不足による給水制限が発令され、この仕事はハードさを増すばかり。ある日、岩切たちは訪ねた家で母親から育児放棄された幼い姉妹と出会う。不憫に思った岩切は、何かと彼女たちの様子を見に来るようになる。



 一滴の雨も降らない炎天下の街で停水執行の仕事におこなう主人公と、心の中の潤いも枯渇したような利用者たちとの関係を通じて容赦なく人間性のリアルに迫る話かと思ったら、まったく違った。とにかく、すべてが表面的で生温いのだ。たとえば劇中、くだんの姉妹を見かねた近所の主婦が“児相に連絡しようか”と彼女たちに持ち掛けるが、母親が帰ってくると信じている姉妹は頑なに拒否するという場面がある。これは明らかにおかしい。虐待を通報するのに、当事者たちの承諾など不要である。

 岩切たちも同様で、この姉妹を助ける具体策は持ち合わせずに何となく仲良くしているという案配だ。しかも、岩切は別居している妻子に対する後ろめたさから自らの行為を正当化しているフシもあり、観ていて愉快になれない。終盤近くには岩切は唐突に“思い切った行動”に出てしまうのだが、これは必然性が希薄で、実際に何の解決にもなっていない。

 高橋正弥の演出は平板で、作劇に山も谷も無い。主演の生田斗真をはじめ、門脇麦に磯村勇斗、篠原篤、柴田理恵、田中要次、大鶴義丹、そして尾野真千子と悪くない面子を集めている割にはキャストの実力を発揮させていない。困ったのは子役2人の演技の拙さで、これは本人たちの資質というよりは作り手の演技指導の不徹底が原因だろう。なお、河林満の原作は文學界新人賞を獲得して芥川賞候補にもなっているが(私は未読)、たぶんこの映画化よりもマシな内容なのだろう。機会があれば読んでみたい。
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「クリード 過去の逆襲」

2023-06-24 06:08:20 | 映画の感想(か行)
 (原題:CREED III )「ロッキー」シリーズを継承した「クリード」の第3作だが、シルヴェスター・スタローンは登場せず、しかも主演のマイケル・B・ジョーダン監督が初めてメガホンを取るという“無謀”な建て付けが判明した時点で早々に期待する気は失せていた。しかし、今まで一連の作品群にリアルタイムで接してきた身としては観ないわけにはいかない。結果、やっぱり映画の内容には満足出来なかったが、一応は鑑賞の“ノルマ(?)”を果たしたという意味で清々した気分で劇場を後にした。

 ロッキーの親友アポロの息子アドニス・クリードは世界チャンピオンにまで上り詰め、引退試合になる防衛戦にも勝利を収めた後は家族とともに平穏な生活を送っていた。そんなアドニスの前に、幼なじみのデイムが現れる。彼は18年間の服役生活を終え、出所したばかりであった。デイムが逮捕されたのは少年時代のアドニスの不祥事のためで、彼は復讐心に燃えていた。デイムは刑務所にいる間に過酷なトレーニングを積んでおり、現役ボクサーと同等の身体を作り上げ、改めてアドニスに挑戦状を叩き付ける。アドニスは自らの過去に決着をつけるためにカムバックを宣言し、デイムとの戦いに臨む。



 デイムが検挙された経緯がよく分からず、そもそも凶悪犯罪をやらかしてもいないのに懲役18年は重すぎる。それにいくら服役前は地下ボクシングで鳴らしていたとはいえ、デイムが出所してすぐにプロボクサーとやり合い、挙げ句の果ては世界タイトル戦に出てしまうという展開も無理筋の極みだ。

 アドニスの母が思わせぶりに登場するが、大した意味は無い。アドニスの妻ビアンカの扱いは実に軽く、耳が不自由な娘の成長物語が大きくフィーチャーされるのかと思ったらそうでもない。肝心の試合シーンだが、ここはそこそこ頑張ってはいる。しかし、描写は意外なほど淡泊だ。少なくとも過去の諸作に比べれば見劣りがする。マイケル・B・ジョーダンの演出は全体的に平凡だ。

 それでも本作を観てあまり後悔しなかったのは、クリードの物語を最後まで見届けたという自己満足に近い気分ゆえである。おそらくはこのシリーズは今回でエンディングを迎える。たとえこれから強引に登場人物の子供や弟子などを主人公に持ってきても、それは「ロッキー」直系のシャシンと称するには厳しいものがある。

 主演のジョーダンをはじめ、テッサ・トンプソン、ジョナサン・メジャース、ウッド・ハリスといったキャストは可も無く不可も無し。それにしても、舞台の大半がLAであるのは不満だ。主人公のトレーニングの場面ぐらい、シリーズ発祥の地フィラデルフィアでロケして欲しかった。
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「銀河鉄道の父」

2023-06-18 06:03:16 | 映画の感想(か行)
 これは酷い出来だ。作り手は何を考えてこのシャシンを手掛けたのか、その能動的な意図がまったく伝わってこない。せいぜい門井慶喜による原作小説が直木賞を獲得し好セールスを記録したことに便乗して取りあえず映画化したという、安直な動機しか思い付かない。もっとも、私は原作は読んでいないし今のところ読む予定も無いのだが、この映画のような低レベルの内容ではないと信じたい。

 明治29年、岩手県で質屋を営む宮澤政次郎と妻イチの間に待望の長男が生まれる。賢治と名付けられたその子は、家業を継ぐ立場でありながら長じても適当な理由をつけてはそれを拒んでいた。農業大学への進学や人工宝石の製造といった好き勝手な生き方を選ぶ賢治に手を焼く政次郎だったが、最終的にはいつも甘い顔を見せてしまう。だが、教職に就いていた妹のトシが病に倒れたことを切っ掛けに、賢治は故郷に腰を落ち着けて執筆活動に専念する。



 タイトルが“銀河鉄道の父”であり、一応は政次郎が主人公のはずだが、キャラクターがまったく練り上げられていない。自身のポリシーやアイデンティティーが希薄で、賢治に対しては単なる親バカだ。この際だから政次郎の生い立ちからじっくり描くべきではなかったか。かといって、他の登場人物が掘り下げられているかといえば、まったくそうではない。賢治は気まぐれな問題児でしかなく、才気の欠片も感じられない。イチやトシ、政次郎の父の喜助、賢治の弟の清六など、ただ“そこにいるだけ”の存在で魅力ゼロ。

 成島出の演出は平板で、ストーリーの起伏などまるで考えていないような案配だ。一方でイチや賢治が世を去る場面だけは必要以上の愁嘆場が用意されており、これは御涙頂戴路線の最たるものだろう。「雨ニモマケズ」を怒鳴るように暗誦する場面も意味不明だ。

 主演の役所広司と菅田将暉はかなりの熱演。しかし、森七菜や豊田裕大、益岡徹、坂井真紀、田中泯など他のキャストは大した仕事をさせてもらっていない。映像は奥行きに乏しく、時に荒っぽい合成などが挿入されるなど、観ていて盛り下がる要素が満載だ。海田庄吾と安川午朗による音楽も印象に残らず。そして極めつけは、あまりにも場違いな“いきものがかり”によるエンディング・テーマ曲だ。これがまあ聴感上かなりの音量で鳴り響き、最後までウェルメイドな時代ものを期待していた善男善女の観客の皆さんも、一斉に腰が引けたことだろう。
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「午前4時にパリの夜は明ける」

2023-06-04 06:26:00 | 映画の感想(か行)
 (原題:LES PASSAGERS DE LA NUIT)雰囲気や肌触りは良く、キャストも好演なのだが、いまひとつ物足りない。これはキャラクターの練り上げが足りないこと、そしてストーリーに力強さが無いことに尽きる。有り体に言えば、どうしてこの映画を作る必要があったのか分からない。テレビの連続ドラマならば大して問題は無いだろうが、スクリーンで対峙するには少々辛いものがある。

 ミッテラン新大統領の誕生に沸き立つ1981年のフランス。パリに住むエリザベートは離婚して子供たちを一人で育てるハメになった。それまでロクに勤労経験も無かった彼女にとって仕事探しは楽ではなかったが、何とか深夜放送のラジオ番組の職にありつくことが出来た。ある晩エリザベートは家出少女のタルラと出会い、泊まる場所も無い彼女を自宅へ招き入れる。



 いくら80年代とはいえ、ヒロインが子供が十代後半になるまで専業主婦以外の生き方に目が行かなかったというのは、ちょっと考えにくい。しかも演じているのが奔放さ(?)が売り物のシャルロット・ゲンズブールというのだから、ますます無理がある。そしてエリザベートが深夜ラジオの仕事を選んだのは不眠症気味だからといった理由付けも、何だか釈然としない。ラジオに対する強い思い入れが無ければ普通思い付かないはずだが、映画は軽くスルーしている。

 タルラの存在は一家に波風は立たせるが、それほど大きな変化や事件が起きるわけでもない。彼女が高校生の長男と仲良くなるのも、まあ想定の範囲内だ。エリザベートはラジオの仕事と並行して図書館のバイトもやっているのだが、そこで新しい交際相手と出会う。そのあたりの顛末も少しもドラマティックではなく、何となく懇ろになるという筋書きは薄味に過ぎる。ミカエル・アースの演出は平板だ。とはいえ、80年代の空気感は良く出ていた。ラジオが有力メディアの一つであった頃の、リスナーの態度・言動等には懐かしさも感じる。

 ゲンズブールは普段やらないような役柄ながらシッカリと演じていたし、キト・レイヨン=リシュテルにノエ・アビタ、メーガン・ノーサムといった脇の面子も良い仕事をしている。そしてエマニュエル・ベアールが貫禄たっぷりに(笑)出てきたのには驚いた。セバスティアン・ビュシュマンのカメラによるパリの情景は心惹かれる。アントン・サンコーの音楽、そして当時のポップスの扱いも良い。
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「幻滅」

2023-05-26 06:07:03 | 映画の感想(か行)
 (原題:ILLUSIONS PERDUES )フランスの文豪オノレ・ド・バルザックの小説「幻滅 メディア戦記」(私は未読)の映画化だが、当時描かれた主題が現在でもそのまま通用するあたりが面白い。時代劇らしいエクステリアと風格も万全で、鑑賞後の満足度は高いと言える。2022年の第47回セザール賞で作品賞を含む7部門を獲得。第78回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門にも出品されている。

 19世紀前半、フランス中部の田舎町に住む青年リュシアンは、詩人として世に出ることを夢見ていた。そんな折、貴族の人妻ルイーズとの不倫が発覚した彼は、彼女と共にパリへ駆け落ちする。まずはルイーズの従姉妹を頼って社交界デビューを目論むが、地方出身で世間知らずの彼は相手にされない。仕方なく臨時雇いの仕事を転々としていたある日、ひょんなことから新聞社に潜り込むことに成功。そこは“社会の木鐸”という建前とは裏腹に、虚飾と打算が支配する世界だった。やがてリュシアンも当初の目的を忘れて、ウケ狙いの扇情的な記事ばかり手掛けるようになる。



 正直言って、自身の才能を過信して暴走する主人公像は大して普遍性は無い。特に今の日本は、多くの若者が野心を抱けるような経済的環境とは程遠いのだ。対してここに描かれたメディアの実相は、ほぼ現代と一緒である。劇中の新聞社のベテラン記者は“オレたちの仕事は、株主を儲けさせることだ!”と嘯くが、この図式は今でもあまり変わっていないだろう。

 マスコミはどうでも良いことは報道するが、本当に大事なことには“報道しない自由”を振りかざす。各ステークホルダーへの忖度が罷り通り、仕事には責任を取らない。本作では裏金を使ってエンタメ方面への“サクラ”を動員するシーンが挿入されるが、まあ現在も似たようなことが行なわれていることも想像に難くない。

 グザビエ・ジャノリの演出は長めの上映時間を退屈させることなくパワフルにドラマを進める。歴史的考証もシッカリしていて、恐怖政治が終焉を迎えたパリの狂騒的な雰囲気は良く出ていた。大道具・小道具、衣装デザインも万全。主演のバンジャマン・ヴォワザンは見かけは良いが野暮ったさも感じさせて、社交界から拒絶されるリュシアンのキャラクターによく合っていた(注:これはホメているのだ ^^;)。セシル・ドゥ・フランスにヴァンサン・ラコスト、グザビエ・ドラン、サロメ・ドゥワルスといった面子も好調。ジェラール・ドパルデューがサスガの貫禄を見せているのも嬉しい。
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「キル・ボクスン」

2023-04-28 06:13:48 | 映画の感想(か行)
 (英題:KILL BOKSOON)2023年3月よりNetflixより配信された韓国製サスペンス・アクション。これは面白くない。聞くところによれば、配信されると再生数が初登場世界1位になったらしいが、この程度の出来では承服しがたい。もっとも映像処理は「マトリックス」シリーズを思わせる凝ったところがあるので、そのあたりがウケたのかもしれない。

 暗殺請負会社“MKエンターテインメント”に所属する凄腕の仕事人キル・ボクスンは、思春期の娘ジェヨンを育てるシングルマザーでもある。娘がいる身でこの稼業を続けることに限界を感じていた彼女は引退を考え始めるが、そんな折、請け負った仕事に迷いが生じて完遂できず、上司や同業者との間に気まずい空気が流れ始める。しかもジェヨンは学校で次々と問題を起こし、ボクスンの悩みは尽きない。

 冒頭、ヒロインのターゲットになったヤクザが怪しげな日本語で凄んでいるというシーンを観ただけで、鑑賞意欲は随分と減退する。それでも我慢して付き合ってはみるが、一向に盛り上がらない。子育て中の女殺し屋という設定で意外性を出したつもりだろうが、ボクスン親子の住む家は超豪邸で、これでジェヨンが母親を堅気の社会人だと思うのは無理がある。ここは普通の中流家庭として描いた方が効果的だった。

 暗殺専門会社は“MK”以外にもけっこうあるらしく、経営者連中が多数集まって業界連絡会(?)みたいなのを定期的に催すというのも噴飯物。アメリカや中国ならばともかく、韓国国内にそれだけの従業者を抱えられるだけの“需要”があるとは思えない。予想通り中盤以降には殺し屋同士の内紛が勃発するのだが、そこに切迫した事情があるわけでもない。ただ“MK”の親玉が勝手なルールとやらをデッチあげ、それに違反したのどうのという内輪の話が漫然と進むだけだ。

 それでも活劇場面のヴォルテージが高ければ許せるのだが、これが低調。映像的ケレンばかりが目につき、アクション自体の力強さが無い。そもそも主演のチョン・ドヨンは活劇向けのキャラクターではなく、終始違和感しか覚えない。ピョン・ソンヒョンの演出は快作「キングメーカー 大統領を作った男」(2022年)を手掛けた監督と同一人物と思えないほど気合が入っていない。ソル・ギョングをはじめ、イ・ソム、ク・ギョファン、キム・シア、イ・ヨンといった他の面子も大して魅力なし。
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「逆転のトライアングル」

2023-03-13 06:14:25 | 映画の感想(か行)
 (原題:TRIANGLE OF SADNESS )リューベン・オストルンド監督の前作で第70回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した「ザ・スクエア 思いやりの聖域」(2017年)は、個人的にはどこが良いのか分からなかったが、連続してカンヌで大賞を獲得した本作は幾分マシな内容ではある。だが、底の浅さは相変わらず。諸手を挙げての高評価は差し控えたい。

 人気モデルでインフルエンサーとしても知られるヤヤの彼氏は、二枚目だがいまいちパッとしないモデルのカールだ。マンネリ化してきた関係を一新すべく、2人は招待を受けて豪華客船クルーズの旅に出る。乗り合わせたのは怪しげな商売で財を築いた成金ばかり。客室スタッフたちはそんな乗客たちを煙たく思いつつも、高額チップのために笑顔を絶やさない。



 晩餐会の夜、船は嵐に遭遇してせっかくのパーティーは惨憺たる有様に。さらには武装組織の襲撃を受け、船は沈没。ヤヤとカールを含めた少数の生き残りは無人島に流れ着く。だが、島には食料も水も無く、携帯電話も通じない。そんな中、リーダーシップを発揮したのはサバイバル能力に長けたトイレ清掃婦のアビゲイルだった。

 天候が悪化することは十分予測出来たにもかかわらず船は航行を止めず、それどころか豪華なディナーパーティーを強行。船長は飲んだくれて救助信号も送らない。果ては突然海賊が襲ってくるという無理筋の展開。要するにリアリズムを最初から放棄しており、私の苦手とするファンタジー路線を狙っている(苦笑)。

 金持ちの乗客は全員が白人で、機関士には黒人がいて、掃除係はアジア人という、超図式的なキャラクター配置。それが無人島では立場が逆転するという、これまた絵に描いたようなカタルシス狙いの筋書き。格差社会と人種差別を糾弾して風刺する意図は分かるが、これだけあからさまな御膳立てだとシラけてしまう。

 だが演出はパワフルで、夕食会の惨状を容赦なく描くなど、観る者を引きずり回す腕力があることは認めよう。しかし、無人島に流れ着いてからのストーリーは工夫が足りずに飽きてしまった。結局、一番面白かったのは序盤の“高級ブランドとファストファッションの、モデルの立ち回りの違い”というネタだったりする。

 ハリス・ディキンソンとチャールビ・ディーンの主演コンビは好調。特にディーンはゴージャスで華があったが、撮影後に急逝したという。実に残念だ。ウッディ・ハレルソンにビッキ・ベルリン、ヘンリック・ドーシン、ドリー・デ・レオンといった顔ぶれは濃くて悪くない。それにしても、前回大賞を取った「TITANE チタン」もそうだが、カンヌ映画祭は変化球を利かせ過ぎたシャシンが有利な雰囲気だ。果たしてこのままで良いのか、大いに疑問である。
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「銀平町シネマブルース」

2023-02-25 06:49:00 | 映画の感想(か行)
 映画館に対して特段の思い入れがある観客は、本作をとても面白く感じるだろう。反面、そうではない者にはこの映画は響かない。ならば私はどうかといえば、基本的に“映画は劇場で観るものだ”というスタンスを取っている手前、この映画の題材は興味深い。しかし、この映画を楽しんで観る層とは、おそらく映画館の在り方についての見解が違う。そこが本作の評価にも繋がってくる。

 主人公の近藤猛は、一文無しのまま若い頃に過ごした銀平町に帰ってくる。昔の友人を頼ろうとしたが断られ、おまけに映画好きのホームレスの佐藤にカバンを奪われて“泣きっ面に蜂”の状態になった猛に救いの手を差し伸べたのが、地元にある映画館の支配人の梶原だった。猛は梶原の紹介で、町の映画館の銀平スカラ座で住み込みで働き始める。



 スカラ座は封切館ではなく、旧作映画を主体に上映する名画座だ。建物も設備も古く、番組は往年の名画を中心にしているため客層は限られており、いまだ営業を続けられているのが不思議なほどである。この、ビジネス的には“終わっている”劇場を本作はノスタルジーたっぷりに描く。

 猛は実は元映画監督で、未完成の作品が自前のPCの中に格納されているとか、佐藤がいわゆる“生活保護ビジネス”に関わったりとか、猛の昔の仕事仲間が急逝していたとか、本作にはいろいろと無理筋なプロットが詰め込まれている。それらも映画館へのノスタルジーというオブラートに包めれば気にならないのかもしれないが、あいにく映画を一歩も二歩も引いて見てしまう当方にとっては単なる瑕疵としか思えない。

 後半にはスカラ座が自主映画の発表の場になって注目を浴びるというネタが織り込まれるが、取って付けたような印象だ。そもそも、登場人物たちは映画館を愛しているという設定にも関わらず、終映後のゴミだらけの客席を批判的な視点も無しに描いたりと、不用意な点が目立つ。城定秀夫の演出はいつも通り手堅いが、いまおかしんじの脚本が万全ではないので割を食っている。

 例の不祥事からの復帰作になった小出恵介をはじめ、吹越満に宇野祥平、藤原さくら、日高七海、小野莉奈、さとうほなみ、片岡礼子、藤田朋子、浅田美代子、そして故・渡辺裕之などキャストは皆好演ながら、どこか“薄味”に感じるのは作品のレベル所以だろう。なお、私自身は劇中のスカラ座のような映画館は役目を終えたと思っており、淘汰されても仕方がない。ノスタルジー派にとっては不本意だろうが、これが“時代の流れ”というものだ。
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「キャバレー」

2023-02-11 06:57:01 | 映画の感想(か行)
 (原題:Cabaret )71年作品。私は“午前十時の映画祭”にて今回初めてスクリーン上映に接することが出来た。元ネタのブロードウェイミュージカルは今でも世界中で上演されているほど有名だが、この映画版は当時としてはかなり野心的な体裁で、そのあたりが評価され米アカデミー監督賞などの各種アワードを獲得している。ただし、今観て面白いと言えるかどうかは、意見が分かれるところだろう。

 1931年のベルリン。アメリカから一旗揚げようとやってきた娘サリー・ボウルズは、彼の地の有名キャバレー“キットカットクラブ”の専属歌手として毎晩ステージに立っていた。ある日、イギリスから来た大学院生ブライアン・ロバーツがサリーの下宿に引っ越してくる。博士号を取得するまでの間、生活のためにドイツで英語を教えるのだという。



 ブライアンのことが気になったサリーは彼を誘惑しようとするが、彼は何やら“問題”を抱えているらしく、上手くいかない。一方、サリーの友人であるフリッツ・ヴェンデルは裕福なユダヤ人のナタリア・ランダウアーに恋するが、宗教的な事情により今ひとつ踏み込めないでいた。やがて時代はヴァイマル共和政からナチス専制に移行。ベルリンの街にも不穏な空気が漂い始める。

 通常、ミュージカル映画はストーリー展開の中で歌や踊りが挿入され、楽曲がドラマの一部として機能しているケースが大半だ。しかし本作はミュージカル場面は劇中での“キットカットクラブ”の舞台に限定されており、歌や踊りはそれ自体の役割しか付与されていない。いわば普通の歴史物の小道具として楽曲が存在しているに過ぎず、ストーリーを追うことが映画の主眼になっている。

 ならばその筋書きは面白いのかというと、残念ながら個人的にはそう思えない。各登場人物が持ち合わせている苦悩や生き辛さ、暗さを増す時代の移ろいは、確かにヘヴィで真正面から描く価値はある。しかし、現時点で見れば掘り下げは不十分だ。特にブライアンが感じているジェンダーのディレンマは、表面的にしか描かれない。製作時期を考えれば仕方がないのかもしれないが、映画がこのモチーフを中途半端なままで終わらせているのは不満だ。

 さらに“キットカットクラブ”の舞台のシーンにかなりの尺を当てなければならないため、ドラマが停滞する傾向がある。ボブ・フォッシーの演出は“当時としては斬新だったのだろう”というレベルで、あまり画面が弾まない。主演のライザ・ミネリはさすがの存在感だが、共感できるようなキャラクターではない。マイケル・ヨークにヘルムート・グリーム、ジョエル・グレイ、マリサ・ベレンソンなどのパフォーマンスも、やはり“当時としては熱演だったのだろう”という感想しか持てない。
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