元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「君たちはどう生きるか」

2024-04-13 06:08:56 | 映画の感想(か行)
 私は宮崎駿はとっくの昔に“終わった”作家だと思っているので、2023年7月に封切られた際も全然観る気は無かった。しかし、先日第96回米アカデミー賞の長編アニメーション映画賞を獲得してしまったので、現在でも上映されていることもあり、一応はチェックしておこうと思った次第。結果、予想通りの不出来だということを確認した(苦笑)。それにしても、どうしてこの程度のシャシンがアメリカで高評価だったのか、理解に苦しむところである。

 時代背景は特定されていないが、たぶん戦時中。母を火事で失った11歳の眞人(マヒト)は父の勝一と共に東京を離れ、和洋折衷の大邸宅である“青鷺屋敷”へと引っ越してくる。勝一は軍事工場を営んでいて羽振りは良い。そんな父の再婚相手の夏子は、亡き母の妹の夏子だった。この状況に納得出来ず苛立つ眞人は、新しい学校では初日からケンカを吹っ掛けられる。孤立して家に引きこもる彼の前に現われたのは、青サギと人間が合体したような怪人サギ男だった。



 タイトルは吉野源三郎による有名な小説からの“引用”だが、中身は似ても似つかない。まったくの別物であるにも関わらず題名だけは拝借するという、この感覚からして愉快になれない。また、共感できるキャラクターは皆無。ゴーマンで愛嬌に欠ける眞人をはじめ、妻を失った後すぐさまその妹と結婚するという無節操な勝一、そんな境遇を嘆いているのかどうか分からないが、とにかく寝込んでしまう夏子など、よくもまあやり切れない人物ばかりを並べられるものだと呆れてしまう。

 サギ男をはじめとする各クリーチャーも、単にグロいだけでアピール度は低い。中には過去の宮崎アニメにも顔を出してきたようなシロモノも散見され、しかも存在価値は希薄。イマジネーションの枯渇だけが印象付けられる。要するに、つまらない登場人物たちが、これまた意味不明の言動を繰り返すだけの、極めて低調なハナシだ。評価する余地は無い。公開前には、音楽は久石譲であること以外は内容もキャスト・スタッフも明かされない宣伝戦略が取られたが、なるほどこの体たらくでは効果的なマーケティングも思い浮かばないだろう。

 眞人の声を担当する山時聡真をはじめ、菅田将暉に柴咲コウ、あいみょん、竹下景子、風吹ジュン、阿川佐和子、大竹しのぶ、國村隼、小林薫、火野正平と、宮崎は相変わらず本職の声優を採用しない。もちろんそれが上手く機能していれば良いのだが、木村佳乃や木村拓哉みたいな演技力がアレな面子もいたりして、作者は一体何に拘泥しているのかと、浮かぶのは疑問符ばかりだ。とにかく、今後は宮崎駿の映画は(いかに有名アワードを獲得しようとも)敬遠するに限ると決心した今日この頃である。
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「海潮音」

2024-04-08 06:08:27 | 映画の感想(か行)

 80年作品。60年代から80年代にかけて活躍した先鋭的な映画会社、ATG(日本アート・シアター・ギルド)の製作による。この会社の全盛期は70年代とも言われているが、私は年齢的にリアルタイムでは知らない。若手監督を積極的に採用するようになった80年代の映画から何とか個人的に鑑賞の対象になったという感じだが、その中でも強烈な印象を受けた一本だ。

 舞台になる北陸能登地方の海沿いの小さな町は、古くからの豪商で今も実業家として名を馳せている宇島家の当主、理一郎に牛耳られている。ある朝彼は、海辺でずぶ濡れになって倒れている若い女を助けた。彼女は記憶を失っており、理一郎は警察にも届けずに彼女を家で面倒を見ることを勝手に決める。もちろんそれは妻を早くに亡くした理一郎の、女に対する下心があったからに他ならない。この状況に彼の一人娘である中学生の伊代は戸惑うばかりだった。そんな中、理一郎の亡妻の弟である征夫が都会の生活を捨てて、この町に帰ってくる。彼は見知らぬ女を囲っている理一郎に異議を唱え、2人は対立する。

 この町の構図は辺境の地特有のものではない。皆が主体性を欠き長いものに巻かれる、閉塞的な日本社会そのものだ。しかしそれは、危ういバランスの上で辛うじて維持されているに過ぎない。この中に別のアイデンティティを持った異物が放り込まれ、しかもそれが看過できない存在感を持ち合わせていたならば、その仕組みは音を立てて崩れ落ちてしまう。

 言うまでもなく本作におけるその異物とは、くだんの女である。正体が分からない彼女だが、理一郎の一方的な寵愛を受けたことから周囲の動揺を招いてしまう。普通に考えれば征夫こそがその異物に相当するという流れになるところだが、宇島家の身内である彼は理一郎が支配する町のシステムから逸脱することが出来ない。

 そんな中で女の記憶が戻り、物語は未知なる展開に突入する。理一郎と伊代、そして女が最後に取る行動は、閉塞からカオスに世界が移行する劇的な状況を象徴して圧巻だ。脚本を兼ねた監督の橋浦方人はこの映画を含めて3本しか撮っておらず、しかも及第点に達しているのは本作だけなのだが、この一本だけでその名は十分に記憶に残る。

 理一郎役の池部良と謎の女に扮する山口果林は渾身の演技を見せ、泉谷しげるに浦辺粂子、烏丸せつこ、ひし美ゆり子などの面子も万全。また伊代役はこの映画がデビュー作になった荻野目慶子で、ヤバさと清純さを併せ持つ屹立したキャラクターはこの頃から他の追随を許さないレベルである。瀬川浩のカメラによる、北陸の荒ぶる海の情景。深町純の耽美的な音楽。この頃の日本映画を代表する秀作かと思う。
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「コヴェナント 約束の救出」

2024-03-30 06:09:08 | 映画の感想(か行)
 (原題:GUY RITCHIE'S THE COVENANT)この映画がガイ・リッチー監督の手によるものだとは、にわかに信じがたかった。何しろ彼の身上はひたすらライトでアーバンでスマートに作品を仕立てることであり、結果的に出来不出来はあるにせよスタイルは一貫していたと思う。ところが本作はヘヴィで骨太なタッチで押しまくる戦場アクションなのだ。つまり、いつもの彼とは正反対のスタンスである。どういう事情があったのかは知らないが、芸の幅を広げたという意味でも評価に値する。

 アフガニスタン紛争真っ只中の2018年。米軍曹長ジョン・キンリーは、タリバンの武器弾薬の秘匿拠点を潰す任務に就いていた。彼をサポートするのは、優秀なアフガン人通訳アーメッドだ。あるときキンリーの部隊はタリバンの爆発物製造工場を突き止めるが、敵の逆襲に遭い、彼とアーメッドを除いて全滅してしまう。キンリーは瀕死の重傷を負っていたが、アーメッドに助けられ長い距離を移動して九死に一生を得る。無事に本国に帰還したキンリーだが、その後彼はアーメッドがタリバンに追われて絶体絶命の危機にあることを知り、彼を救うため身分を隠して再びアフガニスタンへ向かう。



 本作の雰囲気は西部劇に近いだろう。主人公は悪者どもに囲まれた中、必死の脱出を図る。一度は窮地を脱したかに見えたが、ピンチに陥った相棒を救うため再び戦いに身を投じる。そのプロセスと、ラストの戦いのシークエンスなど、無双なヒーローと駆けつける騎兵隊との構図に通じるものがある。ただし、この映画は純然たる娯楽作ではなく、戦争のリアルを追求する社会派ドラマでもあるのだ。

 リッチー監督が斯様な内容の映画を撮った本当の理由は分からないが、いつもの作風とは一線を画するスタイルに踏み切るだけの題材の重大さに惹かれたと理解したい。作劇はタイトでアクション場面はキレがある。サスペンスの醸成も万全だ。さらに観る者を慄然とさせるのは、ラストで示されるアフガン紛争で米軍に協力した現地人の多くが犠牲になったという事実である。キンリーとアーメッドのケースは、極めて幸運なものだったのだ。アフガンに米国が介入したこと自体の正当性まで問うており、これはかなり真摯なメッセージである。

 キンリー役のジェイク・ギレンホールは好演で、軍人としての苦悩を上手く醸し出していた。アーメッドに扮するダール・サリムのパフォーマンスも万全で、これを機に仕事が増えるかもしれない。エミリー・ビーチャムにジョニー・リー・ミラー、アレクサンダー・ルドウィグ、ボビー・スコフィールドといった他の面子も言うことなし。エド・ワイルドの撮影とクリス・ベンステッドの音楽も場を盛り上げる。
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「ゴールド・ボーイ」

2024-03-29 06:10:16 | 映画の感想(か行)
 金子修介監督の資質を承知の上で接すれば、かなり楽しめるシャシンかと思う。反対に彼の持ち味に馴染まない観客ならば、珍妙なクライム・サスペンスとしか思えずに敬遠してしまうかもしれない。私はといえば金子作品との付き合いは長いので、十分に良さは分かった。聞けば中国製のサスペンス・ドラマ「バッド・キッズ 隠秘之罪」(2020年)のリメイクとのことで、通常の国産映画とはひと味違う殺伐とした即物的な空気が漂っているのも納得だ。

 沖縄の大企業の幹部である東昇は、義理の両親である社長夫婦を崖の上から突き落として殺害する。完全犯罪を目論んで会社は昇のものになるはずだったが、3人の少年少女がその現場を偶然に撮影してしまう。不遇な境遇にある少年たちは、昇を脅迫して大金を要求。ただし昇も黙っておらず、彼を疑う関係者を次々に始末すると共に、少年たちをも片付けようとする。



 昇が犯行に及ぶ出だしのシークエンスから、オーバーでわざとらしい演技とセリフ回しが炸裂して、思わず笑ってしまった。金子監督の持ち味は“マンガの映画化”ならぬ“映画のマンガ化”だ。有り得ない話を徹底してカリカチュアライズし、非現実な次元にまで持って行って“これはマンガですよ”というエクスキューズが通用する構図を作り出してしまう。

 本作も同様で、少年たちの手口も昇の所業も、そして過度に閉鎖的な土地柄も、よく考えればかなり強引な御膳立てだ。しかし、作者のマンガ的なアプローチはそれらを正当化してしまう。後半になると善悪の判別などは脇に追いやられ、ゲームのような様相を呈している。

 とはいえ、その状態の中にわずかに挿入されたシリアスなモチーフが引き立つ結果にもなる。それはリーダー格の少年の家庭環境や、もう一人の少年と少女との関係性だ。ここがしっかり描かれているから、最後まで話が破綻しない。事件を追う刑事の境遇も有用なモチーフと言えるだろう。昇役の岡田将生は実に楽しそうに悪役を演じ、羽村仁成と星乃あんな、前出燿志の年少組も健闘している。特に星乃は監督のお気に入りのようで、今後も仕事が入りそうだ。

 黒木華に北村一輝、江口洋介といった脇の面子も良い。ただし、昇の妻に扮する松井玲奈は幾分力不足。彼女はけっこう演技の場数を踏んでいるのだから、もうちょっと頑張ってほしかった。柳島克己による撮影と谷口尚久の音楽は好調。倖田來未による主題歌は好き嫌いはあるだろうが、まあ良いのではないだろうか。
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「コットンテール」

2024-03-23 06:07:46 | 映画の感想(か行)
 (原題:COTTONTAIL)イギリス人の監督および脚本による日英合作だが、いわゆる“えせ日本”はハリウッド映画なんかに比べれば希薄ではあるものの、随分と不自然な描写が目立つ。特に主人公の言動には整合性が無く、観る側が感情移入出来る余地が見出せない。もっとシナリオを、日本のスタッフやキャストと相談しながら詰める必要があった。映像には見るべきものがあるだけに、もったいない話である。

 大島兼三郎は60歳代の作家で、最愛の妻である明子を若年性アルツハイマー症によって失ったばかりだ。葬儀が終わった後に、彼は寺の住職から一通の手紙を受け取る。それは生前の明子から住職に託されたもので、内容は明子が愛したイギリスのウィンダミア湖に遺灰をまいて欲しいというものだ。兼三郎は遺言を叶えるために、確執があって疎遠になっていた息子の慧(トシ)とその妻さつき、4歳の孫エミと共に渡英する。だが、何かと息子と意見が合わない兼三郎は、たった一人でロンドンから湖水地方に向かってしまう。



 冒頭、兼三郎が市場で高価な魚の切り身を万引きするシーンから、観ていてイヤな気分になってしまう。さらには妻の葬儀に際しては何ら当事者意識を持っておらず、慧に急かされてようやく腰を上げる始末。単身ウィンダミア湖を目指す彼は地図も持たず、そもそも目的地行きの列車を乗り間違えてしまうというのは失当だろう。さらには自転車を盗み、次に知り合った現地の親子の世話になるのだが、その扱いは尻切れトンボに終わる。

 驚くべきことに、明子が伝えたウィンダミア湖の具体的スポットは特定出来ていない。手がかりは一枚の写真だけという、随分とお粗末な筋立てだ。兼三郎と慧の関係性は上手くいっていないことはセリフで示されるが、何がどう不仲なのか明示されない。兼三郎は作家として大成せず、年を取っても明子と団地で暮らしているという侘しさもさることながら、若い頃の2人の出会いのシークエンスは有り得ない。見合い同然の初対面なのに寿司屋で酒を酌み交わすなんてのは、製作陣の誰かがNGを出すべき案件だ。

 脚本も担当したパトリック・ディキンソンの演出はぎこちなく、英国人だけのドラマにした方が数段訴求力が高まったはずだ。それでも主演のリリー・フランキーをはじめ、錦戸亮に高梨臨という主要キャストは熱心にやっていたとは思う。また明子に扮する木村多江と、若い頃の彼女を演じる恒松祐里が似た雰囲気を持っていたのには感心した。マーク・ウルフのカメラによるイングランド北西部の風景は美しく、ステファン・グレゴリーの音楽も良好なのだが、映画の中身をフォローするには至っていないのが残念だ。
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「カラーパープル」

2024-03-15 06:08:57 | 映画の感想(か行)
 (原題:THE COLOR PURPLE)スティーヴン・スピルバーグ監督によるオリジナル版(85年)を昔観たときは、当時はSFやアドベンチャー等の専門家だと思われていたこの作家が新機軸を打ち出したということで驚いたものだ。しかも、ウェルメイドに徹して鑑賞後の満足度は決して低いものではない。しかしながら業界筋では“スピルバーグとしては畑違いだ”ということらしく、アカデミー賞では無冠に終わっている。

 今回はブロードウェイでミュージカル化された作品を基にミュージカル映画としてリメイクされたわけだが、正直、この企画自体に違和感を拭えなかった。題材がシリアスで緻密な作劇を必要とする作品にも関わらず、これをミュージカル化すると当然のことながらドラマの密度が下がるのではないか。で、実際に観てみるとその不安は的中した。見かけは賑やかだが、中身は薄い。まあ、ブロードウェイで観る分には迫力だけで圧倒されるのかもしれないが、映画にするにはコンセプトをもっと詰めるべきだった。



 ストーリーラインはオリジナルとほぼ同じだ。1909年のジョージア州の田舎町。少女セリーは出産するが、すぐさま赤ん坊はヨソに貰われてしまう。彼女には器量が良く賢い妹ネッティがいたが、セリーはミスターと呼ばれる横暴な男と結婚されられ、妹とは生き別れになる。希望の持てないミスターとの生活が続く中、ミスターは愛人の歌手シャグを家に連れ帰る。当時としては“進歩的”な精神の持ち主だったシャグに触発され、セリーは自らの生き方を見直すようになっていく。

 このようなヘヴィな設定の中では、どう考えてもミュージカルの要素が入り込むことはあり得ない。ネッティは恵まれない生い立ちである割には最初から悲壮感が乏しく、セリーにしても切迫したものが感じられない。言い換えれば、重い展開になることを回避して口当たり良く仕上げたのが本作ではないのか。特に終盤の顛末は御都合主義の最たるもので、観ていてシラケてしまった。ブリッツ・バザウーレの演出は可も無く不可もなしで、キャストも皆頑張っているはいるが、印象には残らない。

 それでもミュージカルシーンが優れていれば高得点が望めるのだが、出演者の努力の甲斐も無く魅力的なパフォーマンスや引き込まれるような楽曲のメロディ・ラインも無い。何やらワークアウトのプロモーション映像を観ているようだ。ファンテイジア・バリーノにタラジ・P・ヘンソン、ダニエル・ブルックス、そしてH.E.R.といった出演陣もパッとせず。ただルイス・ゴセット・Jr.が久々に顔を出しているのは嬉しかった。
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「コット、はじまりの夏」

2024-02-19 06:12:08 | 映画の感想(か行)
 (原題:AN CAILIN CIUIN )子供を主人公にした映画としては、傑出したクォリティだ。実際に第72回ベルリン国際映画祭で子供を題材にした映画が対象の国際ジェネレーション部門でグランプリを受賞し、第95回アカデミー賞の国際長編映画賞にノミネートもされるなど、各アワードを賑わせている。それでいて少しも高踏的なテイストや作家性の押し付けなどは感じさせず、誰が観ても良さが分かる。必見の作品だと思う。

 時代は80年代初頭。アイルランドの田舎町で両親と多くの兄弟姉妹と暮らす9歳の女の子コットは、出産を控えた母親の負担を軽減させるために夏休みの間だけ親戚のキンセラ夫妻の農場で過ごすことになる。元より内気で無口なコットは最初はヨソの家での生活に馴染めないようだが、ショーンとアイリンの夫婦は面倒見が良く、コットはキンセラ家が営む農場を手伝う間に次第に心を開いてゆく。だが、夏休みも終わりに近くなり、コットが家に帰る日が迫ってきた。アイルランドの作家クレア・キーガンの小説の映画化だ。



 コットの父親は甲斐性無しの乱暴者で、母親は夫に逆らえない。やたら多い家族は断じて夫婦が子供好きだったわけではなく、レイプまがいの性交渉の末に母親が妊娠した結果である。それを象徴するかのように、コットの家は薄暗い。反対に、キンセラ夫妻の家は子供はいないが、明るく清潔だ。夫婦はコットがやらかす粗相にも怒らず、躾けるべき部分はしっかりと押さえていく。

 キンセラ夫妻にはかつて男の子がいたが、どうして今はいないのか、その理由が明かされる箇所は観る者の心を揺さぶらずにはおかない。そしてラストでの実家でのやり取りは、本当に感動的だ。コットの将来はどうなるのかは分からない。だが、確実にこれまでの彼女とは違う生き方に踏み出す“はじまりの夏”になったのだ。

 ドキュメンタリー作品を多く手掛けてきた監督のコルム・バレードの腕は確かなもので、余計なケレンや冗長な展開を排して素材にナチュラルに向き合う姿勢に好感が持てる。ケイト・マッカラのカメラによるアイルランドの田園風景は痺れるほど美しく、また室内のシーンにおける陰影の深い画面造型には感服するしかない。

 コット役のキャサリン・クリンチは子供ながらノーブルに整った顔立ちと透明感あふれる佇まいで観る者を魅了する。将来楽しみな人材だ。キャリー・クロウリーにアンドリュー・ベネット、マイケル・パトリックといった大人のキャストも万全。セリフのほとんどがアイルランド語というのも、実に効果的だ。
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「カラフルな魔女 角野栄子の物語が生まれる暮らし」

2024-02-17 06:07:06 | 映画の感想(か行)
 「魔女の宅急便」で知られる児童文学作家の角野栄子(1935年生まれ)の日常に、4年間にわたって密着したドキュメンタリー。興味深い部分はあるし、終盤の展開は感動的なのだが、物足りなさも残る。元ネタは2020年から2022年にかけてEテレにて全10回で放送された同名番組であり、それに追加撮影と再編集を施して映画版として完成させたものだが、やはり最初から一本の劇場用映画として製作されたものとは勝手が違うようだ。

 まず目を奪うのは、角野が住む鎌倉の自宅の造型だ。すべてが“いちご色”の意匠に囲まれ、まるで御伽の国の世界である。彼女自身の外見もブッ飛んでいて、徹底的にカラフル、そしてマンガチックなメガネをトレートレマークにしている。なるほど、表現者というのは程度の差こそあれ常人の美意識を超越しているものだと感じ入ったのだが、彼女は若い頃はそのような身なりはしていない。普通の(カタギの ^^;)女性にしか見えないのだ。ならばどうして今のような境地に至ったのか、映画ではそれについて言及していない。



 また、彼女は1958年ごろにインテリアデザイナーの男性と結婚しているが、夫とは共にブラジルに2年間滞在したことが述べられているだけで、彼が角野の仕事にどう影響を及ぼしたのか、そして旦那はどうなったのかも描かれていない。大事なことが押さえられていないまま映画は中盤過ぎまで進むので、観ている側としては退屈だった。

 しかしながら、ブラジルで世話になった少年が角野に会いに来るラスト近くのエピソードは良かった。あれから長い時間が経ち、かつての少年も年老いてしまったが、それでも2人の絆は失われていない。さらに、共に訪れる江戸川区の角野栄子児童文学館の造型の素晴らしさには唸ってしまった。隈研吾が設計を担当したとのことだが、国立競技場よりも良い仕事なんじゃないかと、勝手なことを思ってしまう(苦笑)。一度は足を運んでみたいものだ。

 監督の宮川麻里奈はテレビ版でのディレクターでもあるが、まあ無難にこなしたというレベルだ。藤倉大の音楽は万全で、以前手掛けた「蜜蜂と遠雷」(2019年)よりも良い。ナレーションは宮崎あおいが担当。キュートな声が角野の作品世界とマッチしていた。
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「カラオケ行こ!」

2024-01-29 06:09:16 | 映画の感想(か行)
 これは面白いな。人気漫画の映画化ということで、いかにもライトな建て付けのシャシンのようだが、実際観てみると良く出来たヒューマンコメディであることが分かる。各キャラクターは“立って”いるし、舞台設定も非凡。やっぱり山下敦弘監督は、軽佻浮薄なだけの仕事は引き受けないようだ。また、日本映画としては珍しく音楽の使い方が巧みである。

 大阪市の中学校の合唱部でボーイソプラノのパートを務める部長の岡聡実は、ある日突然、強面の男から声を掛けられる。その男は成田狂児という地元のヤクザ“祭林組”の構成員で、組長が主催するカラオケ大会で好成績を残すため聡実に“個人レッスン”を依頼してきたのだ。何でも、その大会で最下位になってしまうと酷い目に遭うらしい。嫌々ながら狂児に付き合う聡実だったが、いつの間にやらカラオケを通じて狂児と親しくなっていく。



 ヤクザと中学生という有り得ない取り合わせで、これを安易に扱うと目も当てられない愚作に終わってしまうところだが、両者のキャラクターはかなり掘り下げられており、ドラマとして違和感があまりないのは納得してしまう。狂児というのは本名で、その名前の由来からしてケッ作だ。彼がX JAPANの「紅」に極度に拘る事情もナルホドと思わせる。

 聡実は声変わりの時期を迎えており、そのためコンクールでも調子が出ずに全国大会への切符を逃してしまう。さらに、家族との関係もしっくりいかない。このあたりを手抜きせずに描いているので、話が荒唐無稽でも許してしまえるのだ。また、聡実に過度の思い入れを見せる同じパートを務める下級生や、脳天気な副部長に楽天的な担当教師、凄んでいるわりには気の良い“祭林組”の面々や、唯一狼藉をはたらく破門されたゴロツキなど、多彩な面子が場を盛り上げる。

 極めつけは“映画を観る会”という部員一人のサークルを切り盛りする聡実の友人で、2人が鑑賞するのが「白熱」だの「自転車泥棒」だの「三十四丁目の奇蹟」だのといった往年の名画ばかりというのが泣かせる。クライマックスは合唱の発表会と組主催のカラオケ会が同時進行する中での、主人公たちの決断と行動が示され、これがけっこう訴求力が高い。

 山下敦弘の演出はテンポが良く、ギャグの振り方も万全で何度か爆笑させられた。狂児に扮する綾野剛はさすがの怪演で、猪突猛進的にカラオケ道に邁進するあたりは凄みすら感じる。聡実役はオーディションで選ばれた新人の齋藤潤だが、これがけっこうナイーヴな持ち味を出しており、演技も拙いところを見せない。

 芳根京子に橋本じゅん、八木美樹、岡部ひろき、坂井真紀、宮崎吐夢、ヒコロヒー、加藤雅也、そして北村一輝と、脇のキャストも充実している。挿入曲は上手く使われており、いずれも歌うことの高揚感が画面に横溢している。特にエンディングに流れるLittle Glee Monsterと中学生合唱団による「紅」はかなりウケた。観る者によって好き嫌いは分かれそうだが、個人的には今年度劈頭を飾る快作だと思う。
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「刑事ジョン・ルーサー フォールン・サン」

2024-01-12 06:07:35 | 映画の感想(か行)
 (原題:LUTHER: THE FALLEN SUN)2023年3月からNetflixより配信。イギリスの人気テレビドラマ「刑事ジョン・ルーサー」シリーズの映画化だということだが、私は元ネタを全然知らないのでキャラクター設定がよく掴めない。ただし、そこまで“一見さん”を突き放すような内容ではなく、サスペンス・スリラーとして最後まで観る者を飽きさせない程度のクォリティには達していると思う。題材は月並みとは言えるが、ダークな雰囲気は捨てがたい。

 ロンドン警視庁の刑事ジョン・ルーサーは犯罪者のプロファイリングには定評があり、過去に数々の実績をあげてきた。今回彼が担当するのは、頻発する誘拐殺人事件である。だが、捜査中にジョンは罠にはまって殺人容疑で逮捕されてしまう。早々に有罪が確定して刑務所に収監されたジョンだが、仲間の協力を得て脱獄し犯人を追う。もちろん警察も黙っておらず、ジョンは当局側の追跡をかわしながら凶悪犯と対峙する。



 この手の映画の常道である“犯人探し”をあえて外し、事件を起こしているのは大富豪のデイヴィッド・ロービーであることが序盤で明かされる。ところがこの犯人、金の力にモノを言わせて大々的な犯行組織を作り上げ、しかも本人直々に凶行に手を染めるという積極性(?)を見せる。つまりは犯罪シンジケートは主にターゲットを選出するために使い、実際に手を下すのは自分および数人の側近だけなのだ。そのあたりが実にサイコパスらしくて納得してしまう。

 ただし、犠牲者を見つけるのはネット上の闇サイトを利用し、閲覧者の悪意によって凶行が成就するという建て付けは意外性が少ない。誰でも考え付きそうだし、過去に「ブラックサイト」(2008年)などの好例もある。そもそも、これだけ犯人が狡猾ならばどうして最初からジョンや重要な証人を始末しておかなかったのか、疑問が残る。犯人のアジトが“ああいう場所”にあるのも無理筋だ。主人公は劇中で相当な深手を何度か負うのだが、大したダメージも見せずに数シークエンス後には全快してしまうのには苦笑してしまった。

 とはいえジェイミー・ペインの演出はスピーディーで、突っ込むヒマを与えずにドラマを進めている。ラリー・スミスのカメラによる殺伐とした映像も効果的。主演のイドリス・エルバは本国では人気俳優で、本作でもさすがの俺様ぶりを見せる。ただ、あまりタフガイではないのが不満だ(笑)。シンシア・エリヴォにアンディ・サーキス、ダーモット・クロウリー、トーマス・クームズといった脇の面子も悪くない。
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