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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「かくしごと」

2024-07-06 06:22:37 | 映画の感想(か行)
 あまり上等とは言えないストーリーを、必死で適宜取り繕っていくような脚本の運びには観ていて愉快になれない。北國浩二の小説「嘘」(私は未読)を元にしているが、たとえ原作の筋書きが万全ではなくても、映画化に際しては整合性を持たせたシナリオを用意すべきである。各キャストはかなり頑張っているだけに、もっと作品の練り上げが必要だった。

 絵本作家の里谷千紗子は、長らく絶縁状態となっていた父の孝蔵が認知症を患ったため、東京から故郷の長野県の山村に戻って介護することにする。久しぶりに会う父は、もはや娘の顔も判別できないほど病状が進んでおり、千紗子はウンザリしながらも世話に明け暮れる日々だ。ある夜、彼女は交通事故で記憶を失った少年を助ける。その少年の身体に虐待の痕跡を見つけた千紗子は、思わず自分のことを母だと彼に告げてしまう。こうして孝蔵と3人で山奥の一軒家で暮らし始める千紗子だったが、当地では少年の捜索願が両親から出されていた。



 くだんの交通事故を起こした車は、千紗子の友人で役場の職員である久江が運転していた。その夜は2人で居酒屋で飲んでいて、帰宅しようとする時刻に運転代行が来なかったため、久江がハンドルを握ったのだ。公務員である久江が飲酒運転するのはアウトだが、少年を千紗子が引き取ったのも単なる隠蔽工作ではないか。

 そもそも、少年がそんなに都合良く記憶喪失になるものだろうか。千紗子には幼くして亡くした息子がいたというのは取って付けたようなモチーフだし、少年がすぐに孝蔵と仲良くなるのも予定調和に過ぎる。極めつけは千紗子が身分を偽って少年の両親に会いに行くエピソードで、ああいう見え透いた素振りでは疑われるのは当然だ。しかも、これには脱力してしまような“後日談”までくっ付いており、この下手な展開にはプロデューサーは“待った”をかけるべきだったと思う。

 高齢者介護の厳しい実態も描出されず、リアリティ不足。第一これは自宅介護よりも施設への入所の方が優先事項だ。何よりこの映画は千紗子を主人公にするのではなく、最初から少年の側から話を進めるべきだったと思う。関根光才の演出は前作「生きてるだけで、愛。」(2018年)に比べて精彩を欠き、素材に対する及び腰なアプローチは気になる。

 それでも主演の杏をはじめ、佐津川愛美に酒向芳、和田聰宏、河井青葉、安藤政信、木竜麻生、そして孝蔵に扮する奥田瑛二と、俳優陣は皆好演。上野千蔵のカメラによる映像と、Aska Matsumiyaの音楽、羊文学の主題歌も悪くない。それだけに脚本の不備が残念だ。
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「関心領域」

2024-06-21 06:22:22 | 映画の感想(か行)
 (原題:THE ZONE OF INTEREST)かなりの高評価を得ている作品で、私もこの非凡すぎる設定に大いに興味を惹かれ、期待して鑑賞に臨んだのだが、どうにも気勢の上がらない結果に終わってしまった。端的に言って、これは“策に溺れた”ような印象を受ける。題材は良いのだから、もう少し訴求力のあるモチーフを繰り出すべきだったと思う。

 第二次大戦中、ホロコーストや強制労働によりユダヤ人を中心に多くの人々を死に至らしめたアウシュビッツ強制収容所の隣で、平和な生活を送るルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス所長一家の日常を描く。イギリスの作家マーティン・エイミスの小説を原案にした作品だ。



 まず困惑したのが、冒頭のタイトルバックに不穏なサウンドが鳴り響き、スクリーンが数分ブラックアウトしたこと。スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(68年)の、エンドタイトル後の真っ暗な画面に音楽だけが流れるパートを思い出してしまったが、あれは映画の余韻を深めるという意味で効果はあった。対してこの映画は、確かに不穏な空気感は醸成されたのかもしれないが、放送事故に無理矢理付き合わされたような不快感だけが残ってしまう。

 本編は複数の隠し撮りに近い状態に置かれた固定カメラが捉えた映像を繋げたようなものが中心に進むが、確かにドキュメンタリータッチは強調されるものの、プラスアルファの効果があったとは思えない。塀を隔てた場所では惨劇が展開されてはいるが、ヘス邸では平穏無事な時間が流れていく。なるほどそれは大いなる戦争の不条理であるし、糾弾されるべきだとは思うが、映画自体はその構図から動くことは無い。

 主人公の親戚が訪ねてくるが、ただならぬ雰囲気を感じて一泊だけして去って行ったり、収容者を物扱いして効率的な“処理”を話し合ったりするナチスの連中の描写など、いろいろとネタを繰り出しては来るのだが、いずれも在り来たりで不発。果ては終盤に突然“現代の場面”を挿入してヘス所長の当惑を象徴的に扱ったりと、何やら“底が割れる”ような組み立て方で、あまり良い気持ちはしない。

 監督のジョナサン・グレイザーの作品は初めて観るが、元々はCM作成やミュージック・ビデオのディレクターとして名を馳せた人物らしい。そのせいか、主題よりも映像的ギミックを優先させたようにも思われる。とはいえヘス役のクリスティアン・フリーデルは好演だし、妻のヘートヴィヒに扮するサンドラ・ヒュラーは「落下の解剖学」(2023年)よりも存在感はあった。それらは評価したい。
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「碁盤斬り」

2024-06-15 06:25:27 | 映画の感想(か行)
 本格時代劇らしい雰囲気は良く出ていた。各キャストのパフォーマンスも申し分ない。しかし、脚本の練り上げが足りない。加えて、この監督の持ち味が十分に発揮されたとも思えない。全体的に、TVシリーズの総集編のような印象を受ける。ただ客の入りは悪くないようで、多くの観客が日本映画に対して抱く期待感は“この程度”でクリアされるのだろう。

 江戸の貧乏長屋で娘のお絹と暮らす浪人の柳田格之進は、実は以前は近江彦根藩の藩士だった。それが身に覚えのない罪を着せられて妻も失い、江戸まで落ち延びてきたのだ。彼は囲碁の達人でもあり、豪商の萬屋源兵衛とは囲碁仲間である。そんなある日、旧知の藩士から冤罪事件の真相を知らされた格之進は復讐を決意し、真犯人を捜すための旅に出る。一方、源兵衛の屋敷から大金が紛失する事件が発生。格之進が疑われることになり、お絹はその金を立て替えるために、自らが犠牲になる道を選ぶ。古典落語の演目「柳田格之進」を基にしたドラマだ。



 温厚で堅実な性格の格之進が、彦根での出来事の顛末を知るに及び、たちまち鬼神の如き様相に変わるあたりは上手いと思う。殺陣の場面は尺は短いものの、けっこう切れ味がある。しかし、どうも筋書きが弱体気味だ。そもそも、商人として抜け目のない源兵衛が、簡単に大金の在処を失念するわけがない。お絹に大金を用立てる女郎屋の主人のお庚も、随分と甘ちゃんな造型だ。さらに言えば、彦根での一件の全貌が明確に説明されていないし、格之進の妻が世を去った背景も曖昧だ。

 監督は白石和彌なので、もっと直裁的でエゲツない描写を繰り出してもおかしくないのだが、どうも及び腰だ。極めつけはラストの処理で、これでは何がどうなったのかも分からない。この続きを連続TVドラマにでもするつもりだろうか。

 ただし、囲碁が重要なモチーフになっているあたりは評価して良い。プロ棋士が監修を務めているだけあって、対局シーンに違和感は無い。特に堅実な棋風の格之進に対し、俗なスタイル連発の源兵衛、そして敵役の柴田兵庫が繰り出す三連星の布石(当時は見かけなかったであろう、攻撃的な戦法)など、よく考えられている。福本淳のカメラによる陰影の濃い画面造型は見応えがあり、主演の草なぎ剛は好演だ。清原果耶に中川大志、市村正親、奥野瑛太、斎藤工、小泉今日子、國村隼など、面子は揃っている。ただ出来の方が斯くの如しなので、手放しの賞賛とは程遠い。
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「ゴジラ×コング 新たなる帝国」

2024-05-20 06:07:35 | 映画の感想(か行)
 (原題:GODZILLA x KONG: THE NEW EMPIRE )ワーナー・ブラザース・ピクチャーズによる、ハリウッド版「モンスターバース」シリーズの通算5作目。今回はいつにも増して人間側のドラマは軽量級だが、ひとたび怪獣どもがバトルロワイヤルを始めると、映画のヴォルテージは爆上がりする。もちろん“キャラクターの内面描写が物足りない”という真っ当な観点から作品を批評するカタギの皆さんは不満だろうが(笑)、子供の頃から怪獣映画に馴染んでいた身からすれば、本当に楽しめるシャシンになっている。

 ゴジラとキングコングがメカゴジラの襲来を死闘の末に駆逐してから数年後、未確認生物特務機関“モナーク”は、地下空洞からの謎の波長の電波信号を感知する。“モナーク”の人類言語学者アイリーンは、ポッドキャストのホストであるバーニーと獣医のトラッパー、そして髑髏島の先住民イーウィス族の少女ジアらと共に地下世界へと向かう。コングは地下空洞で同族と巡り合うが、そこで独裁的に権力を振るうスカーキングの攻撃を受ける。一方、ローマのコロッセオをねぐらにしていたゴジラも新たなバトルの勃発を察知して動き出す。



 人間側の面子はキャラが立っていないし、そこにいるだけで存在感を醸し出すようなキャストも見当たらない。一応、アイリーンの養女でもあるジアの出自に関する話が後半展開するものの、大して面白い内容ではない。そもそも“モナーク”にはもっと貫禄のあるメンバーがいるはずだし、たった数人で帰れる公算も少ないミッションに臨む意味も見出せない。

 しかし、画面の真ん中に怪獣たちが陣取るようになると、そんなことはどうでも良くなる。アメリカ映画であるからキングコング中心のエピソードが目立つのはやむを得ず、コングと同族たちとのやり取りを観ていると「猿の惑星」シリーズを思い出してしまうが(笑)、スカーキングが飼っている冷凍怪獣シーモ(アンギラスに似ている ^^;)が暴れ出したり、見事な造型のモスラが登場してくると興趣は増す一方だ。

 地下世界における無重力状態での戦いはまさにアイデア賞もので、スピーディーかつ先の読めない状況には思わず身を乗り出してしまった。舞台を地上に移してからも、ピラミッドやリオデジャネイロのコパカバーナなどの名所旧跡をバックに、怪獣たちの組んずほぐれつの大立ち回りを存分に見せてくれる。前作に続いての登板になるアダム・ウィンガードの演出は、人間ドラマよりもクリーチャーの扱いに興味があるのが丸分かりだ。

 レベッカ・ホールにブライアン・タイリー・ヘンリー、ダン・スティーヴンス、ケイリー・ホトル、アレックス・ファーンズなどの俳優陣には特筆すべきものは無いが、これはこれでOKだろう。なお、私は映画館で平日夕方からの回を鑑賞したのだが、客席を占めていたのは私と同世代ぐらいのオッサンばかり(大笑)。妙に納得してしまった。
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「ゴッドランド GODLAND」

2024-05-18 06:08:12 | 映画の感想(か行)
 (原題:VANSKABTE LAND)映像の喚起力は素晴らしいものがあるが、肝心の映画の中身は密度が低い。物語の設定自体に無理があるし、加えて主人公の造型が説得力を欠く。撮影には2年が費やされ、たぶんそのプロセスも困難を極めたと思われるが、製作時の苦労の度合いは作品の出来に直接影響しないという定説を再確認することになった。

 19世紀後半のアイスランドに、デンマーク国教会の命を受けて布教の旅に赴いた若い牧師ルーカスは、現地の過酷な自然環境と通じない言語、そして慣れない異文化に直面して疲労困憊する。ようやく目的地の村に到着するものの、住民との確執を克服出来る見通しも立たない。やがて彼は、捨て鉢な行動に出る。



 当初、国教会の指令はアイスランドでキリスト教(ルター派)の布教を進め、それを踏まえて年内に教会を建てろというものだったはずだ。ところが、すでに彼の地では教会は建設中であり、ルーカスはその“開館時の担当者”として行っただけなのである。まったくもってこれは、単なる茶番ではないか。

 また、村の者からは“船で来た方がもっと行程は短くて楽だったはず”と言われてしまう。つまりルーカスは早くて安全なルートをあえて拒否して、わざわざ危険な道を選んだのである。しかも、無理に行程を急いだ挙げ句に通訳を事故死させてしまう。そのおかげで彼は難儀するのだが、かくもバカバカしい筋書きには呆れるしかない。

 村に着いてからのルーカスの奇行と住民たちとの軋轢に関しても、観ている側との心情的な接点が存在せず、どうでもいい感想しか持てない。監督のフリーヌル・パルマソンは脚本も担当しているが、その出来映えをチェックするスタッフはいなかったのだろうか。

 とはいえ、マリア・フォン・ハウスボルフのカメラがとらえたアイスランドの大自然は圧巻だ。絶景に次ぐ絶景で、これが果たして地球上の風景なのだろうかと驚くしかない。四隅が丸い変型のスタンダードサイズの画面も効果的だ。しかし、それしか売り物が無いのならば自然の風景のみを紹介したドキュメンタリーでも良かったわけで、ヘタなドラマをそれに載せる必然性など見出せない。

 主演のエリオット・クロセット・ホーブをはじめ、イングバール・E・シーグルズソン、ヴィクトリア・カルメン・ソンネ、ヤコブ・ローマンなどのキャストは熱演だが、その健闘が報われたとは言い難い。なお、似たような設定のドラマとして、私はローランド・ジョフィ監督の「ミッション」(86年)を思い出した。あれも作劇には幾分無理はあったが、全編を覆う強烈な求心力に感じ入ったものだ。もっとも、あれはカトリックの伝道師の話だったので、プロテスタントの聖職者を主人公とした本作とは勝手が違うのかもしれない。
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「壁の向こうのあなた」

2024-05-05 06:08:23 | 映画の感想(か行)
 (原題:PARED CON PARED )2024年4月よりNetflixから配信された、スペイン製のラブコメ編。この手の映画にありがちの、有り得ない設定と現実離れした筋書きが横溢して、そのあたりは苦笑するしかないのだが、どうしても嫌いにはなれない作品だ。それは憎めないキャラクターばかりが出てくること、そして観る者の感情を逆撫でするような苦々しいモチーフが見当たらないことだ。ロマコメとしての立場をわきまえた上で、好感触に徹している。その割り切り方が良い。

 ピアニスト志望のヴァレンティナは、マドリードの下町でアパートを借りて練習に励みつつ、昼はカフェでバイトしながら生活費を工面していた。ところが隣の部屋にいたのが、ほぼ引きこもりの男性ゲームデザイナーのデイヴィッド。しかも、両者を隔てる壁は限りなく薄く、ゲーム用の効果音を作成するための爆音が遠慮会釈無くヴァレンティナの生活を圧迫する。何でもアパートの所有形式がイレギュラーで、2つの部屋は別物件扱いであるため改善工事は不可らしい。ヴァレンティナは閉口しながらも、壁越しにデイヴィッドと話し合いつつ、事態を打開しようとする。



 通常、困った隣人がいたならば直接談判するか不動産屋に掛け合うのが筋なのだが、何かと理由を並べてこの2人が顔を合わせることは無い。また、デイヴィッドが意外と良い奴だと知った彼女が、別の男を彼だと勘違いして仲良くなろうとしたりと、随分と無理な展開が目に付く。しかしながら、この2人はとことん人生に前向きで、彼らを取り巻く面子もナイスなキャラクターばかりだ。

 ヴァレンティナの従姉のカルメンや、カフェの店長シーバス、果ては元カレのオスカーでさえヒロインをサポートする。デイヴィッドにもナチョという頼りになる友人がいて、何かと気に掛けてくれる。それらがまったくワザとらしくなく配置されているので、観ていて気分が良い。物語の最後は、まあ収まるところに収まるのだが、監督のパトリシア・フォントの腕前は手堅く、無理なく話をまとめている。

 ヴァレンティナに扮するアイタナ・オカーニャは人気歌手らしいが、ピアノの腕前はともかく(笑)、終盤に披露する歌声には聴き入ってしまった。とびきりの美人ではないものの、表情が豊かでチャーミングだ。デイヴィッド役のフェルナンド・ワヤールも絵に描いたような好漢。この2人ならば恋仲になってもおかしくないと思わせる。ナタリア・ロドリゲスにアダム・イェジェルスキ、パコ・トウス、ミゲル・アンヘル・ムニョスといった脇のキャストも万全だ。マドリードの明るくカラフルな町並みをとらえた映像も、観ていて楽しい。
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「コーラス」

2024-04-26 06:08:20 | 映画の感想(か行)

 (原題:LES CHORISTES )2004年フランス=スイス合作。今では世界的な名声を得た人物が自分自身の少年時代を回想するという導入部は、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」(88年)と似ているが、あれと比べればクサい部分は少なく、随分と平易な作劇である。第77回米アカデミー賞の外国語映画賞と主題歌賞にノミネートもされており、たぶん誰が観ても良さが分かる佳作だ。

 1949年のフランス。失業中だった音楽教師クレマン・マチューは、ピュイドドーム県の田舎町にある寄宿舎“池の底”に職を得ることが出来た。そこは孤児や不良少年ばかりが集められており、しかも校長は平気で体罰をおこなう人間で、学校全体の雰囲気は殺伐としたものだった。マチューは学校の空気を変えるべく、合唱団を結成して子供たちに歌う喜びを教えようとする。そんな中、マチューは学校一の問題児であるピエール・モランジュが素晴らしい歌声の持ち主であることを知る。

 少年たちは誰もが判で押したようにひねくれていて、校長はこれまた判で押したように高圧的。ジェラール・ジュニョ扮する音楽教師も“ほどよく熱血漢”である(笑)。実に分かりやすい作劇だが、いたずらに変化球を狙って結果的にハズしてしまうよりはマシで、賢明な判断かと思う。

 エピソードの積み重ね方は無理がなく、監督クリストフ・バラティエの職人ぶりが発揮されている(聞けば本作が初長編とのことで驚いた)。こういうケレンのない展開の中にいくつか泣かせどころを配置するというスタイルは一番俗受けするのだろう。事実、この映画は本国で大ヒットした。さらに教え子の母親への“淡い恋”に一時身を焦がしつつも、音楽教師としての本分を忘れず生涯を送った主人公の矜持も強い印象を残す。

 ブリュノ・クーレとクリストフ・バラティエによる音楽は万全で、子供たちのパフォーマンスも申し分ない。特にピエールに扮したジャン=バティスト・モニエはリヨンのサン・マルク少年少女合唱団のリードヴォーカリストであり、惚れ惚れするような美声を披露している。なお、冒頭での成長したピエールを演じるのが奇しくも「ニュー・シネマ・パラダイス」にも出ていたジャック・ペランで、製作にも名を連ねているというのは面白い。
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「ゴーストバスターズ フローズン・サマー」

2024-04-20 06:08:03 | 映画の感想(か行)
 (原題:GHOSTBUSTERS:FROZEN EMPIRE)前作「ゴーストバスターズ アフターライフ」(2021年)よりも、出来はかなり落ちる。監督が交代したことが影響していると思われるが、この程度の筋書きで製作のゴーサインを出したプロデューサー側の責任が大きいだろう。とにかく、けっこう期待していただけに残念だ。

 オクラホマ州サマーヴィルでのバトルから2年。スペングラー家の一行はニューヨークに移り住み、ゴーストバスターズとして街に出没するお化けたちへの対処に追われていた。だが、末娘のフィービーはまだ15歳であり、母のキャリーや義父のゲイリーからはメンバーとして扱ってもらえない。



 そんなある日、元祖ゴーストバスターズの一員であったレイモンドが、怪しい男から不可思議な球体を渡される。その物体には、実は強い冷却能力を持つ魔神ガラッカが封印されていたのだ。手下のゴーストたちによって復活を果たしたガラッカは、ニューヨーク中を凍らせるという暴挙に出る。フィービーたちゴーストバスターズは、この危機に敢然と立ち向かう。

 予告編で流された、真夏のニューヨークで海の向こう側から突如として氷柱が大量に現れ、街は一瞬にして氷に覆われてしまうというインパクトのある場面は、当然のことながら映画本編では序盤あるいは前半に出てくるのだろうと思っていた。この怪異現象を受けて、ゴーストバスターズの活躍が始まるという段取りの方が受け入れやすい。

 ところが、実際に作品を観てみるとこのシークエンスはクライマックスに設定されている。何のことはない、予告編の時点で“ネタバレ”をやっているのだ。さらに言えば、このパート以外には見応えのある場面は無い。だからここをフィーチャーせざるを得なかったという、配給会社の苦渋の判断が窺われる(苦笑)。

 ならば序盤から中盤過ぎまでは何が展開するのかといえば、登場人物たちの緊張感の薄い日常と元祖ゴーストバスターズの面々による脱力系の演芸もどきだけ。マシュマロマンの“大量発生”には喜ぶマニアもいるのかもしれないが、こっちは“何を今さら”としか思わない。そして、ニューヨーク凍結のあとに出てくる敵の親玉は、かなりショボい。ゴーストバスターズの攻撃も芸が無く、画面が賑やかなわりには盛り上がりに欠ける。

 前作のジェイソン・ライトマンからメガホンを引き継いだギル・キーナンの腕前はピリッとせず、ドラマは平板に進むのみ。ポール・ラッドにキャリー・クーン、フィン・ウルフハード、マッケンナ・グレイスというバスターズに扮する者たちはあまり仕事をさせてもらえず、ビル・マーレイとダン・エイクロイドといった“昔の顔ぶれ”も、ただ出ているだけ。果たして、本作の続編はあるのだろうか。そういえば80年代の初期シリーズは2本で終わってしまった。
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「カルテット」

2024-04-14 06:09:55 | 映画の感想(か行)
 (原題:QUARTET )81年イギリス=フランス合作。ジェイムズ・アイヴォリィ監督特有の屈折したデカダンスが、洗練されたタッチで綴られた快作だ。磨き抜かれたエクステリアはもとより、当時の英仏の手練れを集めたキャストの充実ぶりには感服するしかない。なお、どういうわけか日本公開は88年にズレ込んだのだが、その裏事情は不明である。

 1927年、アールデコ時代のパリ。コーラスガールのマリアは夫のステファンと充実した生活を送っていたが、彼が盗品の美術品を所有していたため逮捕される。路頭に迷うことになったい彼女は、芸術家のパトロンである資産家のH・J・ハイドラーとその妻ロイスと知り合い、彼らの家で暮らすようになる。



 ところがこの夫婦はマリアを性生活のアクセントとしか思っておらず、彼女を幽閉同然に引き込んでいるだけだった。やがてステファンは釈放されるが、同時に国外追放処分になる。マリアは再び夫と幕らすために、H・Jのもとを出て行くことを考える。ジーン・リースによる半自伝的な小説の映画化だ。

 マリアの味わう息苦しさが観る者に迫ってくるのだが、彼女が閉じ込められているハイドラーの家は、ジェイムズ・アイヴォリィの映画ではお馴染みの豪奢な美で溢れている。だが、外界に通じる窓は示されずに部屋の中を照らすのは人工的な光だけだ。この退廃的な雰囲気が実に良い。

 ただ他のアイヴォリィの作品と異なるのは、囲われているのが能動的なキャラクターである点だ。しかも、マリアを演じているのがイザベル・アジャーニで、まさに弾け飛んだような個性の持ち主である。ところがここでは、彼女が斯様な存在であるからこそ、この不条理な出口無しの設定がより一層生きてくるという、設定の妙を醸し出している。

 アイヴォリィの演出は冴え渡り、並の作家がやれば底の浅いナンセンス劇になったところを、精緻なエクステリアにより上質な作品に高められている。アジャーニの演技はさすがだ。彼女は本作により第34回カンヌ映画祭で女優賞を獲得している。アラン・ベイツとマギー・スミスのハイドラー夫妻も舌を巻くほどの変態ぶりで(笑)、観ていて飽きることが無い。アンソニー・ヒギンズやヴィルジニー・テヴネといった顔ぶれも万全だ。
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「君たちはどう生きるか」

2024-04-13 06:08:56 | 映画の感想(か行)
 私は宮崎駿はとっくの昔に“終わった”作家だと思っているので、2023年7月に封切られた際も全然観る気は無かった。しかし、先日第96回米アカデミー賞の長編アニメーション映画賞を獲得してしまったので、現在でも上映されていることもあり、一応はチェックしておこうと思った次第。結果、予想通りの不出来だということを確認した(苦笑)。それにしても、どうしてこの程度のシャシンがアメリカで高評価だったのか、理解に苦しむところである。

 時代背景は特定されていないが、たぶん戦時中。母を火事で失った11歳の眞人(マヒト)は父の勝一と共に東京を離れ、和洋折衷の大邸宅である“青鷺屋敷”へと引っ越してくる。勝一は軍事工場を営んでいて羽振りは良い。そんな父の再婚相手の夏子は、亡き母の妹の夏子だった。この状況に納得出来ず苛立つ眞人は、新しい学校では初日からケンカを吹っ掛けられる。孤立して家に引きこもる彼の前に現われたのは、青サギと人間が合体したような怪人サギ男だった。



 タイトルは吉野源三郎による有名な小説からの“引用”だが、中身は似ても似つかない。まったくの別物であるにも関わらず題名だけは拝借するという、この感覚からして愉快になれない。また、共感できるキャラクターは皆無。ゴーマンで愛嬌に欠ける眞人をはじめ、妻を失った後すぐさまその妹と結婚するという無節操な勝一、そんな境遇を嘆いているのかどうか分からないが、とにかく寝込んでしまう夏子など、よくもまあやり切れない人物ばかりを並べられるものだと呆れてしまう。

 サギ男をはじめとする各クリーチャーも、単にグロいだけでアピール度は低い。中には過去の宮崎アニメにも顔を出してきたようなシロモノも散見され、しかも存在価値は希薄。イマジネーションの枯渇だけが印象付けられる。要するに、つまらない登場人物たちが、これまた意味不明の言動を繰り返すだけの、極めて低調なハナシだ。評価する余地は無い。公開前には、音楽は久石譲であること以外は内容もキャスト・スタッフも明かされない宣伝戦略が取られたが、なるほどこの体たらくでは効果的なマーケティングも思い浮かばないだろう。

 眞人の声を担当する山時聡真をはじめ、菅田将暉に柴咲コウ、あいみょん、竹下景子、風吹ジュン、阿川佐和子、大竹しのぶ、國村隼、小林薫、火野正平と、宮崎は相変わらず本職の声優を採用しない。もちろんそれが上手く機能していれば良いのだが、木村佳乃や木村拓哉みたいな演技力がアレな面子もいたりして、作者は一体何に拘泥しているのかと、浮かぶのは疑問符ばかりだ。とにかく、今後は宮崎駿の映画は(いかに有名アワードを獲得しようとも)敬遠するに限ると決心した今日この頃である。
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