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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「ユナイテッド93」

2006-10-04 06:51:29 | 映画の感想(や行)

 (原題:United 93 )9.11同時多発テロ事件において、ハイジャックされた4機の中で唯一目標に到達することなく墜落したユナイテッド航空93便の“当日の様子”を描くノンフィクション風ドラマ。

 厳しい映画が目立つ本年度のアメリカ映画界だが、これは最右翼と言えよう。何しろ乗員役には業務経験者をキャスティングし、管制官に至っては当日実際に勤務していた本人までも登場してしまうのだから(しかも複数)。

 乗員・乗客はすべてこの世にいないので、実際機内で何が起きたのかは分からない。しかし、絶望的な緊張感から一縷の望みを託して最後の賭けに打って出る乗客達と、悲愴な使命感を抱いて凶行に及ぶテロリスト側との攻防は、たぶん実際もこうだったのだろうという極上の説得力を持って観る者に迫ってくる。ラストシーンなんて、あまりの衝撃で声も出ないほどだ。綿密なリサーチによる堅牢そのものの脚本も相まって、スタッフ・キャストの“あの事件を風化させてたまるものか!”という並々ならぬ覚悟が伝わってくる。

 「ボーン・スプレマシー」で切れ味鋭い作劇を見せたポール・グリーングラス監督の演出は快調で、臨場感を全開にしたケレン味がふんだんにありながら、わざとらしさや強引さを微塵も感じさせない。力業とスマートさを兼ね備えた俊英ぶりは今後も要チェックである。

 それにしても、アメリカ映画は・・・・ある意味本当に“偉い”と思う。この題材をストレートに扱い、それに娯楽性を加味させた一般劇映画を堂々と作れてしまうのだから。我が国にも忘れてはならない事件が沢山あるはずなのに、どうしてそれらに目を向けないのだろう。プロデューサーの怠慢か、あるいは映画会社の後ろ向きのスタンス故か。いずれにしろこの点では日本映画は負ける。まさに完敗だ。
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「野生の夜に」

2006-09-12 06:53:29 | 映画の感想(や行)

 (原題:Les Nuits Fauves)92年作品。全然面白いとは思わなかった。その年のセザール賞で主要4部門を独占したとか、わが国でも評論家連中が絶賛しているとか、いろいろと話題になったらしいが、世評ほどアテにならないものはないと痛感した一作だ。

 CMディレクターである主人公ジャン(シリル・コラール、監督も担当)は、バイセクシャルでエイズのキャリアだ。ある日彼は17歳の少女ローラ(ロマーヌ・ボーランジェ)に出会って愛するようになる。一途な彼女を前に彼はエイズ感染者であることを告白できないままセックスしてしまう。後になって真実を知らされたローラはパニック状態になるが、それでも彼を愛することをやめない。ひたむきに愛を求める彼女にどう応えていいのか分からないジャン。ローラは憔悴しきって神経衰弱状態になり、ジャンの元を去る(以上、チラシより勝手に引用)。

 実際にエイズ患者で、93年の3月に死亡したコラールの自伝的要素もあるらしいが、はっきり言ってこの主人公にはまったく感情移入できない。夜な夜な行きずりの男と関係を持ち、取材先ではあやしげな売春婦と一緒になる。こういう乱れた生活ではエイズになってあたりまえ。しかも、エイズの告知を受けた後は、さらに乱行はひどくなり、男の恋人サミー(カルロス・ロペス)とローラとの間を行ったり来たり。迫り来る死の恐怖をごまかすためかどうかは知らないが、少しは自重したらどうなんだと言いたくなる。エイズにかかったのも自業自得なら、ガールフレンドとあえてコンドームなしでセックスするなんてのは殺人行為と同じ。こんな奴がラストで偉そうに“世界は僕の外側に存在するものじゃなく、僕も世界の一部だ”などと立派なセリフを吐くんだから、笑っちゃうぜ、ホントに。

 主人公の周囲の人物にしても、ただ一人として共感できるようなキャラクターはいない。どいつもこいつもヒステリックでマトモじゃない。類が類を呼ぶとはこのことか。ひょっとしてこの感覚はエイズ・キャリアでないとわからないのでは? と思ってみたりする。誰だってエイズになる可能性はある。私もあなたも、潜伏期が長いからすでにかかっているかもしれない(おいおい)。そうだとわかればヤケになって暴走するかもしれない。でも、この主人公は最初からメチャクチャであり、もとより常軌を逸した自分の姿を観客に勝手に押しつけているに過ぎない。加えて、必要以上に荒っぽいカッティングと乱暴なカメラワークが目を疲れさせる。まったく、気が滅入ってウンザリするような映画なのだ。

 唯一の収穫はローラ役のボーランジェだろう。名優リシャール・ボーランジェの娘でこれがデビュー作だった。実に生意気、実に憎たらしい。ちょっとは可愛いかもしれないが、絶対付き合いたくない。そんなキャラクターを実にうまく演じている。断じて好きなタイプではないが、実力はかなりのもの。最近ニュースを聞かないのが寂しいところである。
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「雪に願うこと」

2006-07-20 06:48:34 | 映画の感想(や行)

 根岸吉太郎監督がデビューしてから二十数年経つが、相変わらず扱うテーマは変わっていないのだと思い至った。それは“地に足が付いた生き方の素晴らしさ”である。

 伊勢谷友介扮するベンチャー企業の若社長は、一頃のITバブルにより我が世の春を謳歌するが、やがて不祥事により会社は左前。逃げるように北海道の片田舎に住む兄(佐藤浩市)の元へ戻ってくる。言うまでもなく「遠雷」(81年)で農村を逃げ出し、やがてトラブルを引き起こして帰って来る主人公の友人(ジョニー大倉)に通じる設定であるが、根岸監督も年取って枯れてきたのか、本作にはあの映画のような身を切られるほどの厳しさはない。

 兄は相変わらずぶっきらぼうで、周囲の連中も“地元の者”らしい取っつきにくさを見せるものの、この土地の出身者である弟を邪険に扱うようなことはしない。やがて彼はそこで“地道な生き方の大切さ”に目覚めるのだが、この一歩間違えば臭くて見ていられない展開も、大仰さを廃した演出と、これまた各キャストの不必要なケレンを捨象した的確な仕事ぶりにより、観る側も無理なく受け止められる。

 一番印象的だったのが、弟の“世間を見返してやりたかった”というセリフに対し、兄が“何で見返す必要があるんだ?”と当然のことのように答える場面だ。この“○○を見返すために頑張る”という動機付けは個々人を発憤させるために有用だとされている。しかし、この“見返してやりたい”というエゴイスティックな意思がある限り、そこには独善がついて回る。“見返す”ことしか考えず、周囲の人間を顧みない弟が失敗したのは当然のことなのだ。

 そういえば、世を騒がせているベンチャー起業家や新進政治家に“見返す”ことだけをモチベーションにしている者が目立つように思うが、そんな後ろ向きのメンタリティでは失速が早くなるのも当たり前だろう。

 モチーフとして“ばんえい競馬”が取り上げられているのもポイントが高い。普通の競馬とは違う、パワーあふれる展開に思わず身を乗り出してしまう。スピードが遅いため、観客が馬といっしょに移動しながら観戦するところも面白い。茫洋とした冬の北海道の風景も併せて、観る価値十分の良い映画だと思う。
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「陽気なギャングが地球を回す」

2006-07-15 08:00:20 | 映画の感想(や行)

 特殊能力(?)を持ったポップでジャイヴでイカした奴ら(謎 ^^;)が銀行強盗に挑むという、伊坂幸太郎の同名小説の映画化。こういう地に足がついていないキャラクターたちを無理なく動かして、しかも明るくサラッと後味希薄に仕上げるという芸当は邦画が苦手とするところだが、本作の前田哲監督は健闘していると言える。

 セリフは軽くてウィットに富んでいるし、登場人物達のファッションをはじめ画面全体もカラフル。カーチェイス場面に至っては車をCGで描いて“どんなショットでもお手の物”状態を演出。一歩間違うと寒々とした雰囲気が漂うところだが、ノリの良さで違和感なく見せきっている。前田哲の作品を観るのは初めてながら、このライトな感覚は得難い個性であろう。佐藤“フィッシャー”五魚による音楽も好調だ。

 しかし、脚本の詰めは甘い。クライマックスのどんでん返しの展開の弱さに代表されるように、プロットの積み上げが行き当たりばったりで、ワクワクするような面白さには欠けるのだ。上映時間も少々無駄に長い。細部をリファインさせれば快作に仕上がったかもしれないのに、惜しい。

 キャスト面では“秒単位まで正確な体内時計を持つ女”に扮する鈴木京香と“24時間延々と演説できる男”を演じる佐藤浩市のテンションの高さが印象的(笑)。

 なお、佐藤の妻が加藤ローサという“年の差カップル”なのだが、彼女を口説き落とした“演説”がどのようなものだったのか、とても興味がある(爆)。
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「歓びを歌にのせて」

2006-03-14 06:48:46 | 映画の感想(や行)
 (原題:As it is in Heaven)心臓疾患によりキャリアを中断せざるを得なかった名指揮者(ミカエル・ニュクビスト)が、故郷でコーラス隊の指導をするうちに生きる力を取り戻す姿を描くスウェーデン映画で、2005年アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされている。

 何よりこの元指揮者、薄着&裸足で厳寒の中を出歩いたり、激しく身体を動かしたり、巨乳のねーちゃん(フリーダ・ハルグレン)とよろしくやったりと、心臓に悪いようなことを平気で実行しているのには失笑してしまうが、物語は彼だけを中心に進むのではなく、群像劇のスタイルを取っているのでそのへんはあまり気にならないかもしれない。

 素人ばかりの合唱隊をかつてのマエストロが鍛え上げて国際大会参加・・・・という単純な一種の“スポ根もの”になりそうでならないところがミソである。それまで同好会気分でチンタラやっていた村人たちが、本格的に訓練に励むうち、それぞれの屈託がヘヴィな形で現出するという構図は面白い。

 権威だけを振り回していた司祭がその化けの皮を剥がされるくだりや、暴力亭主から逃げ出すカミさんの話も興味深いが、一番印象的だったのが村を仕切っているつもりの万屋のオヤジに小さい頃イジメられたことをいまだに根に持っている太った男のエピソードだ。改めてイジメという行為の理不尽さを痛感せずにはいられなかった。

 もちろん、ボイストレーニングの場面や初めて公式な席で訓練の成果を披露するシークエンスなど、音楽が持つ高揚感を示すシーンは事欠かない。60代のベテラン、ケイ・ポラック監督の素材への精通度はなかなかのものだと思う。特にDVに悩んでいるカミさん(演じるヘレン・ヒョホルムはプロのシンガーでもあるそうだ)が、ソロで歌う場面は素晴らしい。ラストの処理もハリウッド映画では思いもつかないだろう。観る価値有り。
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「やさしくキスをして」

2006-03-13 06:52:40 | 映画の感想(や行)

 ケン・ローチ監督はラヴ・ストーリーを扱う時でも実にシビアだ。スコットランドのグラスゴーを舞台に展開する、パキスタン移民二世の青年とアイルランド人との女性教師の文化・宗教等の障壁を超えた恋愛劇・・・・と書けば、まるで通俗メロドラマを連想させるが、二人に対する“逆風”がまるで悪意を伴っておらず、それどころか各立場での“正論”である点が深刻だ。

 厳格なイスラム教徒である青年の一族は因習に従って従姉妹を彼の結婚相手に決めてしまう。女性教師も戒律を重んじるカトリック教会の圧力で職場を変わらざるを得なくなる。誰が悪いと言うことでもない。ムスリムもクリスチャンも自分たちが正しいと思う行動を取ることによって、結果的に二人を追い込んでしまう、その不条理。

 こういう映画を観ていると、多民族社会というのはいかに問題が多いのかを改めて実感する。安易に移民を容認しようとする我が国のリベラル派の連中にも見せてやりたい。

 主演のアッタ・ヤクブとエヴァ・バーシッスルは無名ながら映画をシュプレヒコールの応酬にさせないだけの地に足がついた好演を見せる。ヒロインが音楽教師ということもあり、楽曲の使い方も秀逸。原題の「Ae Fond Kiss…」は劇中で歌われるナンバーのタイトルでもある。
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「欲望のあいまいな対象」

2006-02-02 18:56:49 | 映画の感想(や行)

 (原題:Cet Obscur Objet du de'sir)複数の俳優が一人のキャラクターを演じる映画といえば、まずこの作品を思い出す(‘77/仏=スペイン)。ピエール・ルイスによる「女と操り人形」の5度目の映画化で、名匠ルイス・ブニュエルの遺作でもある。

 主人公である初老の男(フェルナンド・レイ)が駅のホームで追ってきた若い女に向かってバケツで水をぶっかけるシーンで始まり、映画は主人公がそれまでの経緯を他の乗客に話すという回想形式を取っているが、件の女を演じているのがキャロル・ブーケとアンヘラ・モリーナのダブル・キャストだ。

 当然、この二人はまるで似ていないのだが、私は当初“二人一役”に気が付かなかった。まるで普通に一人の俳優が演じているかのように見える。私の観察力不足を勘案しても、この撮り方には感心するしかない。

 もちろん、映画が進むに連れ徐々に二人の女優に演じさせていることが分かってくるようになるが、そのプロセスが映画の筋書きとちゃんとシンクロしているところが凄い。つまり、初めのうちは主人公は彼女の一面しか見ていないが、付き合っていくといろんな内面が見えてくるということだ(映画では“貞淑さ”をC・ブーケに象徴させ“魔性”をA・モリーナに演じさせている)。

 これは主人公に限らず、すべての男が遭遇するケースではないだろうか。最初は女の外見にしか目がいかないが、やがて隠れた多面性に振り回されるようになる。彼女(or妻)の機嫌の良いときと悪いときはまるで別人のようだ・・・・とは男なら誰しも思うはずだ(笑)。そういう“男の側に立った対女性観の振幅度合い(?)”をスペクタキュラーにまであざとく演出し観客を最後まで引っ張ってゆくブニュエル演出恐るべし(爆)。

 当時彼は80歳近かったにもかかわらず、なおも敢然と“女性の神秘”に挑んでゆく姿勢には感服するしかない。これに比べれば、複数の女優を漫然と並べただけの「またの日の知華」なんていう映画が“子供の遊び”に思えてくる。
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「容疑者 室井慎次」

2006-01-05 19:17:25 | 映画の感想(や行)
 同じく「踊る大捜査線」からのスピンオフ作品である「交渉人 真下正義」が楽しめたので本作も期待していたが、まるでダメである。


 だいたいストーリー自体がまったく面白くない。室井管理官が逮捕されるきっかけになった捜査中の容疑者の死亡事故からして“有り得ない”ケースだし、それをネタに告訴に踏み切る弁護士の態度も理解不能、さらに“事件の真相”とやらも腹の立つほど低レベル。

 ここで“事件そのものは単純でかまわない。映画の焦点は主人公を取り巻く人間模様の方なのだ”という意見もあるだろうが、これでは手抜きかギャグとしか思えず、出るのは失笑ばかりである。

 監督がいつもの本広克行ではなく、当シリーズの脚本担当で演出は素人の君塚良一がメガホンを取っているせいか、気取った演劇的ケレンが全編を覆っているのも好きになれない(それを代表しているのが弁護士に扮する八嶋智人のオーバーアクト)。それらと“本来的に大根”である主役の柳葉敏郎のパフォーマンスとが映画の中でずっと平行線を辿っており、作劇のバランスが極めて悪い。

 現場のマジメな警察官と保身や権力闘争にしか興味のない上層部という単純すぎる構図も何やらサヨク的な臭いがして不快だ。

 唯一の救いは主人公をサポートする新人弁護士役の田中麗奈で、体育会系の真っ直ぐなキャラクターが作者の気負いすぎた不遜な“下心”を易々と乗り越えてゆく痛快さがある。次回は彼女を主人公にした“番外編”を望みたい。
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「柳の木のように」

2005-12-29 18:48:38 | 映画の感想(や行)
 アジアフォーカス福岡映画祭2005出品作品。

 幼い頃に失明して以来、光のない世界に生きてきた大学教授が手術で38年ぶりに視力を取り戻したことで生じる波紋を描くイラン映画。

 なるほど、人間というのは勝手なものだ。いわゆる“不惑”をとうに過ぎ、社会的地位にも恵まれたはずの主人公も、急に“目が見えるようになった”という想定外の事態を迎え、自分が築き上げてきた実績をかなぐり捨ててまでも“自由に生きたい”との身も蓋もない欲求を抑えきれなくなる。

 特に、自分を支えてきた妻の顔立ちが地味であることに初めて気づき、その恩も忘れて妻の美人の妹に恋心を抱くようになるくだりは苦笑した。

 だが、フランス映画あたりならばシニカルなコメディとして笑い飛ばせるような題材も、戒律の厳しいイランでは辛い。これでは単に愚かな中年男の小児的な迷走ぶりを鬱々と描いただけの重苦しいシャシンではないか。

 監督のマジッド・マジディは「運動靴と赤い金魚」をはじめとする児童映画では大いに才能を発揮したものの、大人を主人公にした前作「少女の髪どめ」以来どうも精彩がない。過去に彼が描いてきた“大人びた子供”と、本作の“子供っぽい大人”では、字面こそ似ているが中身はまったく違うのに、それを同じタッチで扱おうとしたことが最大の敗因だろう。映像が非常に美しいことだけが救いである。
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