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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「WAVES ウェイブス」

2020-08-03 06:51:58 | 映画の感想(英数)

 (原題:WAVES )二部構成になっているのを知らずに観て、いささか面食らった。結論から言うと、第一部はつまらない。第二部はそれなりに見応えがある。だから前半の内容は適当に端折って(ナレーションや短い回想場面だけで構わない)、後半だけで映画の中身を組み立てた方が数段良かったと思う。

 フロリダに住む高校生のタイラーは、工務店を営む父と医者である母、そして優しい妹と、裕福な家庭で何一つ不自由の無い生活を送っていた。学校では成績は優秀でレスリング部のレギュラー選手。何もかも順風満帆に見えた。しかし次第に彼は肩に違和感を覚えるようになる。医者の忠告を無視して強行出場した試合で、タイラーは選手生命を閉ざさせるケガを負う。さらに同じ頃にガールフレンドの妊娠が発覚。捨て鉢になった彼は、取り返しの付かないトラブルを起こす(ここまでが第一部)。

 不祥事を起こした兄のため家庭は暗くなり、口数が少なくなった妹のエミリーは、生きる気力を失ったような日々を送っていた。ある日、彼女は兄と同じレスリング部のルークから声を掛けられる。彼はすべての事情を知ってはいたが、それでもエミリーに好意を寄せていた。シャイだがナイスガイのルークと付き合ううち、エミリーは少しずつ前を向き始める。だが、ルークも心に大きな傷を抱えていたのだ。ルークの辛い過去を清算するため、2人は旅に出る。

 タイラーは、まったくどうしようもない奴だ。自分がどれだけ恵まれた環境にいるのか理解せず、学業やクラブ活動での名声は全て自分一人の手柄だと思っている。それどころか実の母が亡くなって後妻を迎えた父親を、内心バカにしている。その驕りが肩の故障を軽視し、恋人に対して威圧的な態度を取らせ、結果として人生が早々と詰んでしまう。こんな人間には同情出来ないし、また斯様なキャラクターを映画が延々と追うこと自体、不快感を覚える。

 対して、エミリーとルークが主人公になる第二部は、けっこう感慨深い。乗り越えられない過去など無いという、ポジティヴなスタンスには納得だ。ロードムービーの形式を取っているあたりもポイントが高い。ただ、この第二部の中身が第一部の低調ぶりをカバー出来ないばかりか、映画自体のスタイルを不格好にしている。

 ケルヴィン・ハリソン・Jrや、ルーカス・ヘッジズ、テイラー・ラッセルといった若手キャストは良くやっているとは思う。ただトレイ・エドワード・シュルツの演出はスタイリッシュではあるが、画面サイズがシークエンスによって変わるのは小賢しくて愉快になれない。ただしテーム・インパラやフランク・オーシャン、ケンドリック・ラマーなどの楽曲を集めたサントラ盤はオススメだろう。
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「ANNA アナ」

2020-06-29 06:56:36 | 映画の感想(英数)

 (原題:ANNA)リュック・ベッソン監督によるアクション物としては、やっぱり「ニキータ」(90年)や「レオン」(94年)といった全盛期の作品よりは幾分落ちる。ならばダメな映画かというと、決してそうではない。旧作群のインパクトには及ばないということを早々に見切った上で、筋書きの面白さで勝負しようとしている。これは正解だと思う。

 90年のモスクワ。市場で露店の番をしていた大学生のアナは、モデル事務所にスカウトされ、パリのファッション界でデビューする。その存在感でアッという間に売れっ子となるが、実は彼女は、KGBによって生み出された凄腕の殺し屋だった。モデルになったのも、最初から仕組まれていたに過ぎない。早速言い寄ってきた財界の要人を始末したのを皮切りに、次々と“仕事”をこなしてゆく。一方、CIAがソ連に送り込んでいた諜報部員たちがKGBに捕まって皆殺しになる事件が発生していた。CIAエージェントのレナードはソ連情報部の中枢に潜り込むべく、アナに接近する。

 本作は“二重スパイとしてKGB長官の命を狙うヒロイン!”といったような売り出し方をされているようだが、実際はそう単純ではない。アナがKGBに雇われるようになった経緯や、レナードの執念、アナを憎からず思っているKGBエージェントのアレクセイの葛藤などを時制を前後させて描いており、けっこう人間ドラマとして深いところを突いてくる。

 またKGB内での派閥争いの存在を匂わせるが、誰がどっちの陣営に与しているのか最後まで分からないのも高ポイントだ。背景にソ連崩壊前夜のCIAとKGBとの関係性が浮かび上がるのも興味深いモチーフで、フィクションながら実際は斯くの如しだったのだろうという説得力を持つ。

 主演のモデル出身のサッシャ・ルスは、正直あまり好きなルックスではないが(ヒロインの友人を演じるレラ・アボヴァの方が可愛い ^^;)、一年かけてマーシャルアーツを習得しただけあり卓越した体術を見せる。ルーク・エヴァンスとキリアン・マーフィの男性陣も良いのだが、圧巻はKGB幹部に扮するヘレン・ミレンで、さすがの海千山千ぶりを発揮している。リュック・ベッソンの演出は今回は才気走った面は見られないが、けっこう手堅くて破綻が無い。ティエリー・アルボガストのカメラとエリック・セラの音楽も及第点だ。
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「Fukushima 50」

2020-06-22 06:58:36 | 映画の感想(英数)

 この映画が封切られたのは2020年3月6日だが、私が劇場で観たのは6月上旬である。その間にコロナ禍による緊急事態宣言が発令されて映画館も軒並み休業。5月下旬に宣言が解除され、ようやく映画館も営業を開始したのだが、そうした後に同じく緊急事態宣言というフレーズが飛び交う本作に接すると、そのダメさ加減に脱力するばかりだ。

 2011年3月11日に起きた東日本大震災で制御不能となった福島第一原発の暴走を止めるため、原発内に残って事態の収拾に当たった現場作業員たちの奮闘を描くこの映画、原作は門田隆将によるノンフィクションで、言うまでもなく実録物としての体裁を取っている。にもかかわらず現実と異なるモチーフを平然と出してくるのは、何かの悪い冗談としか思えない。具体的には当時の総理大臣を、現場の足を引っ張る“悪役”として描いていることだ。

 私は首相だった菅直人を政治家としてはほとんど評価していないが、あの未曾有の災害に対しては別に大きな失態は演じていない。このような“事実の加工”は、観る者の印象を(総理だけが悪いという)一定の方向に誘導するものであり、断じて看過できない。なぜなら、あの事件の原因は当時の政権の不手際なんかではないからだ。

 安全対策を無視したまま野放図に原発を増やし続けたそれまでの政府の所業、原子力発電業界の産・官・学の関係者によって構成された特殊なムラ社会的集団の欺瞞性、そんな誤謬が積み重なって危険水域に達し、最後の引き金を引いたのが、くだんの震災だったという話だろう。それをこの映画では終盤の“俺たちは自然を舐めていた”という主人公の一言で胡麻化しているが、まったく話にならない。

 事故前には津波の最大値が15メートル以上になることは判明しており、東北電力の女川原発はその基準で対策を立てていたのでほぼ無事だった。対して東電は何もしなかった結果があの惨状だ。映画はそのことにまったく触れておらず、これでよく“映画だから語れる、真実の物語”などという惹句を平気で提示できるものだ。

 さて、本作に出てくる緊急事態宣言という用語が、コロナ禍を経験した現時点での我が国においては空しく響く。国家的な非常事態を収拾する責任は、この映画に登場するような現場のスタッフにではなく、政府にある。東日本大震災の際の政府は、不十分ながらやるだけのことはやった。ところがコロナ禍に対する現政府の対応はいったい何だ。

 ウイルス蔓延といういわば“天災”が、政府の不手際によって“人災”のレベルに移行してしまっている。ラストに誇らしく表示される“東京オリンピックの聖火リレーは福島から始まる”という一文は、コロナ禍によって大会が(限りなく中止に近い)延期になった現時点で観ると、もはやギャグでしかない。

 若松節朗の演出は、まあ予想していた通り大味で凡庸。登場人物たちは終始喚き散らし、彼らの家族などの“人間模様”は泣かせに走る。かつてのパニック映画と変わらず、いったい何十年前の映画を観ているのかと思った。佐藤浩市や渡辺謙をはじめとする豪華なキャスティングも場違いに思える。とにかく、まったく評価できない映画である。
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「COLD WAR あの歌、2つの心」

2020-06-20 06:58:45 | 映画の感想(英数)

 (原題:COLD WAR)2018年作品。世評は高いが、封切り時には見逃してしまった映画である。今回なぜか再上映されたので、劇場に足を運んでみた。感想だが、あまり芳しいものではない。何より、登場人物の内面が描けていない。だから、主人公たちの言動には説得力が無い。88分という短い尺だが、必要以上に長く感じられた。

 第二次世界大戦直後のポーランド。ズーラという若い女が州が後援する音楽舞踊団の公募に募集する。教官のヴィクトルは一目で彼女を気に入り、ただちに入団を許可し、同時に2人の交際がスタート。才能があるズーラはほどなくチームのセンターに上り詰めるが、実は彼女は父親を殺害したために保護観察中の身であった。ヴィクトルはそんな彼女のしがらみを断ち切るため、舞踏団の東ベルリン公演の際にズーラと共に西に亡命する計画を立てるが、落ち合う場所にズーラは現れず、やむなくヴィクトルは一人で国境を越える。

 数年後、パリのジャズクラブで働いていたヴィクトルは、ズーラと再会する。両者には既に別のパートナーがいたが、恋愛感情が消えたわけではなかった。その翌年、ヴィクトルはズーラに会うためにユーゴスラビアでの舞踏団の公演を観に行く。第71回カンヌ国際映画祭で、パヴェル・パヴリコフスキーが監督賞を獲得したラブストーリーだ。

 そもそも、ズーラとヴィクトルが本当に恋愛関係にあったのかどうか分からない。ズーラが東ベルリンで亡命するヴィクトルと行動を共にしなかった理由は“自分に自信がなかったから”らしいが、そんな軽々しい言い訳を口にする彼女を、何とヴィクトルも笑って許してしまう。さらにこの2人は会うたびにそれぞれ交際相手がいて、ウヤムヤのまま何となく別れてしまうというパターンを繰り返す。挙句の果てに取って付けたようなラストが待っているという、まさに脱力してしまうような筋書きだ。

 だいたい、冷戦時代に東側と西側を(プライベートな用事で)頻繁に往復出来るものなのだろうか。劇中、ヴィクトルがポーランドの当局側に拘束されてどこかに移送されるシーンがある。これは絶対に悲惨な目に遭うと思ったら、次のシークエンスでは何事もなかったかのようにシャバで生活しているというくだりには、呆れ果ててしまった。

 パヴリコフスキーの演出はシークエンスごとに大幅に時制を進ませて、その間の出来事を観客に想像させるという作戦を取っているようだが、説明が不足しているため空振りに終わっている。主役のヨアンナ・クーリグとトマシュ・コットは好演。舞踊団のパフォーマンスやズーラの歌唱シーンは本当に素晴らしい。だが、肝心のドラマが不調であるため、何やら浮いて見えてしまう。全編モノクロで撮られているが、それほど効果が上がっていないのも悩ましいところだ。
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「21世紀の資本」

2020-06-01 06:56:52 | 映画の感想(英数)
 (原題:CAPITAL IN THE TWENTY-FIRST CENTURY )興味の尽きないドキュメンタリー映画だ。もっとも、本作の主張すべてに賛同出来るわけではない。不満な点もある。しかし、問題を要領よくまとめた手際の良さや、何より“経済学の文献の映画化”という新鮮なコンセプトは十分評価に値すると思う。

 元ネタになっているのは、2013年に発表され世界的ベストセラーになったトマ・ピケティの同名経済学文献だ。我が国でも話題になった本だが、高額かつ700ページにも及ぶ大著ゆえ、私としても手を出せないでいた(笑)。今回、概略だけでも映像化してくれたのは有り難い(しかも、難解な数式などが出てこないのもポイントが高い)。

 映画は産業革命後の18世紀末のヨーロッパの情勢から始まり、貴族階級の没落と絶対君主制の終焉、そして相次ぐ市民革命による混迷の19世紀を経て、20世紀初頭には富が資本家に集中することによって社会的格差が大きくなったことを説明する。支配者層は一般国民の不満の矛先を“対外的な敵”に向けさせ、世界大戦が勃発した。



 二度目の大戦の反省から、各主要資本主義国の政策は中間層重視にシフトチェンジ。豊かな社会が到来したと思ったのも束の間、経済成長の停滞とスタグフレーションの発生により、新自由主義経済が台頭。構造改革の掛け声と共に、格差はまた拡大してきた。以上のような“筋書き”を本作は平易でストレスフリーな筆致により、スピーディに綴ってゆく。

 監督のジャスティン・ペンバートンは、各時代を描いた既存の映画の一部を引用したり、適度なケレン味を加え、観る者を飽きさせないように腐心している。ジャン=ブノワ・ダンケルの音楽も良い。さらに興味深いのは、ピケティ以外にも10人以上の博識なコメンテーターが揃っていることだ。私はその中ではジョセフ・E・スティグリッツとフランシス・フクヤマぐらいしか知らないが、全員が的確なフォローで感心した。

 なお、ピケティの言いたいことは、資本主義の正しいあり方を求めるための富の再分配だと思うが、私はそれだけでは不十分だと思う。基本的なマクロ経済政策である、金融政策と財政政策に対する言及が足りないのは不満だ(まあ、ピケティはそういうことは“周知の事実”であり省略しても構わないと思っているのかもしれないが)。

 二度の大戦、特に2回目の前夜はマクロ経済政策が上手くいかず、結局“無限の財政出動”である戦争に頼らざるを得なかったというディレンマもあり、現時点での富の再分配(広義の財政政策)に繋げる具体的なスキームについても説明して欲しかったところだ。とはいえ、このような形式の映画は貴重だ。映画の原作は小説やコミックに限らない。あらゆる事物が映画の題材になり得るのである。今度はスティグリッツやポール・クルーグマンの諸作も映画化してほしいと思った。
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「6アンダーグラウンド」

2020-05-11 06:46:21 | 映画の感想(英数)
 (原題:6 UNDERGROUND )2019年12月よりNetflixで配信。マイケル・ベイ監督による“アクション超大作”がネット配信のみとは、にわかには信じがたい。間違いなく全国一斉拡大ロードショー向けのシャシンだ。まあ、裏の事情みたいなものもあったのかもしれない。ベイ監督は90年代まで活劇路線で名を売ったものの、2007年からは「トランスフォーマー」というファミリー向けのヒットシリーズに手を染めてしまい、彼がここで“本業”に戻るのを周囲が面白く思わなかったとも考えられる(笑)。とはいえ、久々に屈託無く楽しめる好編なのは確かだ。

 ネオジム磁石の開発で成功を収めたアメリカの億万長者(通称:ワン)は、私財を投じて世界中の不穏分子を潰すための武装グループを結成する。各メンバーは表向きは死んだことになるが、代わりに国籍などに縛られずワールドワイドに活動する自由を得る。今回の任務は、中央アジアの国トゥルギスタンの横暴な独裁者ロヴァク・アリを始末し、ロヴァクの弟でリベラル派のムラットを大統領の座に据えることだ。



 フィレンツェでのミッションではロヴァク配下の法務スタッフを片付けることが出来たが、メンバーの一人(通称:シックス)が犠牲になってしまう。ワンはシックスの代わりに元デルタフォースの狙撃手(通称:セブン)をスカウトし、チームは幽閉されているムラットを脱出させるために香港へ向かう。

 冒頭、延々と展開するフィレンツェでのカーチェイスには度肝を抜かれる。投入される物量や、観ていて腹が一杯になるほどのクラッシュ場面の連続に驚きつつも、アクションの段取りは実に良く考えられており、感心するしかない。このシークエンスだけでも本作をチェックする価値がある。

 ベイ監督作品に登場人物の内面描写を期待するのは筋違いだが(笑)、この映画ではワンの微妙な屈託とか、凄腕のヒットマン(通称:スリー)と元CIAの女性工作員(通称:トゥー)との色恋沙汰、セブンの戦時下でのトラウマなど、深くは掘り下げないが要領良くそれぞれのキャラクターを描き込んでおり、ドラマが安っぽくなるのを防いでいる。

 中盤の香港での派手な銃撃戦から、クライマックスのトゥルギスタンでの大暴れまで、嵩に懸かったように見せ場を繰り出すこの監督の力業には感服するしかない。さらに、ワンが開発したネオジム磁石が“大活躍”する終盤の船上での戦いには笑わせてもらった。主演のライアン・レイノルズをはじめ、メラニー・ロラン、マヌエル・ガルシア=ルルフォ、アドリア・アルホナ、コーリー・ホーキンズ、ベン・ハーディといった顔ぶれも申し分ない。幕切れは続編を匂わせるが、この調子ならばシリーズ化も大丈夫だ。
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「ROMA/ローマ」

2020-03-14 06:25:06 | 映画の感想(英数)

 (原題:ROMA)2018年作品。第91回米アカデミー賞で監督賞、撮影賞、外国語映画賞の3部門を獲得した話題作だが、確かに玄人受けするようなアート的なテイストに溢れた映画である。ただし、あくまでも“アート的”なのであって“アートそのもの”ではない。観る者を深く考えさせる要素は希薄で、作劇に斬新な視点が取り入られているわけでもないのだ。それゆえ、あまり高くは評価しない。

 70年代初頭のメキシコシティのコロニア・ローマ地区。アントニオ家の家政婦として暮らすクレオは、4人の子供に懐かれ、奥方のソフィアからの信頼も厚い。ある時、一家の長である医者のアントニオは会議のためカナダに長期出張するが、クレオとメイド仲間であるアデラは、この夫婦の関係が冷え切っていることを勘付いていた。案の定、アントニオは他の女と懇ろになり、帰宅することはなかった。

 クレオにはフェルミンというボーイフレンドがいるが、映画館でクレオが彼に妊娠を告げると、フェルミンは姿を消してしまう。当時のメキシコでは経済格差が広がり、反政府デモが絶えなかったが、買い物に出掛けたクレオたちが遭遇したのは大規模な暴動事件だった。ショックのあまりクレオは破水する。監督アルフォンソ・キュアロンの幼年時代の経験を元にしたドラマだ。

 描かれるのは両親の不仲であり、不穏な社会情勢であり、恵まれないクレオの私生活である。それらは確かに当事者たちにとっては大問題なのだが、観る者にアピールするほど深くは掘り下げられていない。ただ、個々の出来事が並べられているだけだ。また、それらイベントが積み重ねられることによって、何か別の映画的興趣が生じるわけでもない。とにかく、すべてが表面的である。

 その代わりと言っては何だが、映像はすこぶる美しい。撮影監督はキュアロン自身だが、オープニングの床面の描写からエンディングの空の描写まで、清涼なモノクロ画面がスクリーンを彩る。そして移動撮影を交えた長回しが印象的だ。これら映像面での饒舌さはまさに“アート的”なのだが、カメラが捉えた事物は通俗的なものに留まるため“アート”の領域には届かない。

 そもそもキュアロンは「ゼロ・グラビティ」(2013年)の監督で、「ハリー・ポッター」シリーズも手掛けたことがある、いわば大衆娯楽路線(?)の演出家であり、本作のような高踏的アート路線は不似合いだ。本作での筋書きをエンタテインメント色豊かに仕上げてくれれば訴求力は増したと思うが、いたずらに“アート的”な方向性を示してしまったので、観ていて居心地の悪い思いをすることになる。唯一面白いと思ったのは、劇中でクレオたちが映画館で観るのはジョン・スタージェス監督の「宇宙からの脱出」(69年)であったことだ。「ゼロ・グラビティ」を撮るキュアロンの、映画的原点を見るようで興味深かった。
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「1917 命をかけた伝令」

2020-03-09 06:27:16 | 映画の感想(英数)
 (原題:1917)まるで期待外れ。米アカデミー賞の主要部門で無視されたのも当然と思われるような冴えない出来だ。宣伝では“驚異の全編ワンカット!”という惹句が躍ったが、ほぼ一日の出来事をワンカットで2時間以内に収められるはずもなく、少し考えればそれは間違いだと誰でも分かる。しかし、ワンカット云々を除外しても、本作のクォリティが低いことは明白だ。

 1917年、第一次世界大戦中のフランス戦線。ドイツ軍は後退しつつあったが、それは戦略的なものであり、連合国軍を自陣へと誘い込もうとする罠だった。イギリス軍はその事実を航空偵察によって把握していたが、前線のデヴォンシャー連隊は何も知らされておらず、危険な進軍を実行しようとしていた。通信線も切断されて一刻の猶予も許されない中、エリンモア将軍は若い上等兵のスコフィールドとブレイクに、連隊のマッケンジー大佐に作戦中止を伝える任務を託す。だが、急いで駆けだす2人の前に、ドイツ軍の仕掛けた数多くのトラップが待ち構える。



 まず、ドイツ軍の計画を航空偵察で知ったのならば、どうして前線まで偵察機を飛ばして連隊に知らせないのか理解できない(それが不可能だったという説明も無し)。敵軍の塹壕で危険な目に遭っても2人はかすり傷一つ負わず、ドイツ軍占領地で連合国軍兵士は彼らだけかと思ったら、前触れもなく味方がひょっこり現れたりする。ドイツ兵が至近距離から撃った銃弾は一発も当たらず、追われて川に飛び込んだらいつの間にか連隊の野営地に着いてしまうという御都合主義。

 最前線で大佐に報告へ行く途中では、スコフィールドは意味も無く塹壕から飛び出て全力疾走する始末。ラスト近くになると、エリンモア将軍の“大佐に報告するときは第三者を入れろ”という最初の命令も、どこかに置き忘れている。

 それでも映像や演出にキレ味があればそれほど大きな不満を抱かずに観ていられるものだが、本作はその点も落第。とにかく緊迫感が希薄で、監督が007シリーズを手掛けたサム・メンデスであるせいか、全体的にアクション映画のノリなのだ。戦争の悲惨さなんか、ほとんど表現出来ていない(ただ死体を並べておけば良いというものではない)。少なくともスピルバーグの「プライベート・ライアン」やメル・ギブソンの「ハクソー・リッジ」などに完全に負けている。

 主演のジョージ・マッケイとマーク・ストロングは、単なる好青年というレベルを超えていない。ベネディクト・カンバーバッチやコリン・ファースも出ているのだが、印象に残らず。トーマス・ニューマンの音楽はまあいいとして、ロジャー・ディーキンスによるカメラワークはワンカット云々に足を引っ張られて精彩を欠く。

 さて、手練れの映画ファンならば本作の設定を見て、ピーター・ウィアー監督の「誓い」(81年)を思い出す向きも多いだろう。舞台が第一次大戦であることも、無謀な作戦を止めるために主人公が伝令として敵陣地を突っ切って疾走することも共通している。しかし、ヴォルテージは圧倒的にピーター・ウィアー作品の方が高い(ラストなんか、胸が締め付けられるほどの感動を味わえる)。あの映画に比べると、この「1917」の不甲斐無さが一層際立ってしまう。
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「37セカンズ」

2020-02-29 06:29:31 | 映画の感想(英数)

 御都合主義的なモチーフや無理筋の展開が目立つが、それでもこの映画を評価したい。斬新な主題と、キャスト(特に主演)の目を見張る働きにより、大きな求心力を獲得している。また、これが長編第一作になる新鋭監督の素質と将来性をも感じさせる。第69回ベルリン国際映画祭にて、パノラマ部門の観客賞及び国際アートシアター連盟賞を受賞。

 23歳の貴田ユマは、生まれた時に37秒間呼吸が止まっていたことが原因で脳性まひになり、車椅子生活を送っている。両親は離婚しており、母親との二人暮らしだ。母親の恭子は熱心にユマの面倒を見ているのだが、明らかに過保護で娘に自由な行動をさせない。

 ユマは漫画家である友人のSAYAKAのアシスタント(という名のゴーストライター)をしてわずかな収入を得ているが、そんな境遇に満足できず、ある日自作の漫画を出版社に持ち込む。だが、編集長は“いい作品を手掛けるには、人生経験(主に異性関係)を積まないとダメだ”と一蹴。そこでユマは、初めて母親の庇護から離れて自分の思い通りに振る舞うことを決意する。

 ユマの父親はどうして出て行ったのか分からず、また主人公が性格の悪そうなSAYAKAの下働きに甘んじている理由も不明。ユマは歓楽街で舞という頼りになる年上の女と出会うのだが、その経緯が不自然。さらに後半は自らの家族の秘密を探るために、ユマは長い旅に出るのだが、唐突な展開であることは否めない。

 しかしながら、主演女優の存在感はそれらの欠点を忘れさせるほど大きい。ユマに扮する佳山明はこれが映画初出演だが、彼女は本物の身障者だ。その、自らをさらけ出したような捨て身の熱演には圧倒させる。序盤の、母親と入浴するシーンには驚かされたが、続く歓楽街に単身乗り込むシークエンスや、不自由な身体をものともせずに遠くへ旅に出かけるくだりには感心するしかない。

 そして、本作は“ハンデを持った女性の性欲”を正面から取り上げた初めての作品かもしれない。今までベン・リューイン監督の「セッションズ」(2012年)や松本准平監督の「パーフェクト・レボリューション」(2017年)のように“身障者の男性の性欲”にスポットを当てた作品は存在したが、女性は珍しい。しかも本作ではセンセーショナルに扱わず、セックスを主人公が外界に接する媒体として機能させている。脚本も担当したHIKARI監督も女流であることも大きいと思うが、これは慧眼と言えよう。

 母親に扮する神野三鈴と舞を演じる渡辺真起子のパフォーマンスも素晴らしく、ドラマを絵空事にさせないことに貢献している。板谷由夏や大東駿介、萩原みのり、芋生悠といった脇のキャストも万全だ。感動的なラストも含めて、観た後の満足感は大きい。江崎朋生とスティーヴン・ブラハットによる撮影、アスカ・マツミヤの音楽も及第点だが、CHAIによる挿入曲が最高だ。
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「AI崩壊」

2020-02-22 06:55:30 | 映画の感想(英数)

 一見すると安っぽい活劇で、脚本にも難がある。だいたい、コンピューターが反乱を起こすというネタ自体が古めかしい。しかし、ここで扱われている主題はタイムリーでシリアスだ。言い換えれば、このテーマが今日性を獲得してしまう世相の方が問題なのだ。その意味では、観て損は無い。

 2030年の日本。成長が見込めなくなった国家を救うべく、天才科学者の桐生は医療AI“のぞみ”を開発する。それは全国民の個人情報や健康を管理する、社会基盤の一つとして確立してゆく。ところがある日、突然“のぞみ”が暴走を始める。生きる価値のない人間を勝手に選別し、容赦なく命を奪ってゆく。しかも、桐生の娘が“のぞみ”のサーバー室に閉じ込められるという事故が発生。

 一刻の猶予も無い状況の中で、警察庁の特命捜査官の桜庭は、この危機を招いたのは桐生であると断定。身に覚えのない容疑をかけられた桐生は逃亡を図るが、警察側は自前のAIシステム“百目”を駆使して桐生を追い詰める。一方、警視庁との連絡役として捜査現場に派遣された捜査一課のベテラン刑事合田と新人の奥瀬は、桐生を犯人だと決めつけるには証拠不足ではないかとの疑念を抱く。

 国民の個人情報を管理する“のぞみ”は、当局側ではなくHOPE社という民間企業が運営しているという不思議。桐生の逃避行は難なく街中をすり抜けたり、真冬の海に飛び込んでも平気で、かつてのAI開発のラボはそのまま放置してあるといった具合に、随分と都合良く描かれる。“のぞみ”の心臓部分の造型は“どこかで見たようなもの”であるし、事態の解決策も何やらハッキリとしない。

 普通ならば失敗作と断じるところだが、この事件を引き起こした犯人側の思考形態は実に興味深い。それは、行き過ぎた新自由主義である。加えて優生学と選民思想が入り交じり、一種のカルトの次元にまで入り込んでいる。すなわち、経済的弱者をすべて排除すれば“効率的な”世界が生まれるというものだ。もちろん、福祉やマクロ経済政策なんてのは“弱者を延命させる”という理由で全て否定。いくら困窮する者が増えても“自己責任”の名目で切り捨てる。

 ハッキリ言って、そんなのは“中二病”みたいな世迷いごとに過ぎないのだが、困ったことにその“中二病”が20年以上も世の中に蔓延っているのが日本の現状である。監督の入江悠はそんな社会派のスタンスを取る、今の邦画界では数少ない作家の一人だと思う。その手腕はいささか荒削りだが、軸がぶれないのは頼もしく感じる。これからもコンスタントに作品を手掛けて欲しい。

 桐生を演じる大沢たかおは相変わらず表情が乏しく、桜庭に扮する岩田剛典も演技が硬いのだが、三浦友和や賀来賢人、広瀬アリス、高嶋政宏、玉城ティナといった脇の面子が何とかカバーしている。AI(歌手の方ね ^^;)によるエンディング・テーマ曲も悪くない。
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