AD際族

コロナ共存の広告表現の近未来観

蝋管を結んだ二つの国(3)

2016-11-29 19:22:50 | 言の葉の輪転機








「サラサーテの盤」の様に断念した企画は数限りなくあります。ヨハンシュトラウスの「美しき青きドナウ」は元々は合唱が入る曲でした。それを1867年パリ万国博覧会で今の形でシュトラウス自身が指揮をとりました。丁度その時に日本国として徳川家慶喜の弟水戸藩主徳川昭武が全権で訪れており、同行者に渋沢栄一もおりました。
同じく薩摩藩も出展しておりました。この時の渋沢栄一の日記「航西日記」からもしかすると
このシュトラウスの演奏を鑑賞したかも知れない?





シュトラウスの当時のコンサートポスターの洋書を入手し、この「航西日記」から探っていったのです。日記と言いましても国立図書館所蔵ですからこの交渉も大変でした。結果として日記にはその様な記述はありませんでした。一つの企画を生み出すのに、アイディア物でなければ10や20はあったと思います。またACC賞と電通賞,TCC賞とではその表現の方向も変わってくるのです。

現場時代 若手に賞を取らせる現場監督みたいな事もやっておりました。
凡そ10数名にラジオCMの企画を考えさせるのですが、個々に男性の限界ではなく弾性の限界があるものです。そこいらを考えないと追い詰めてしまうものです。特に皆 通常担当している仕事がありますから、どうしても時間は遅くなります。そんな中で世渡り上手く逃げるのもいるのです。そうなると自分が書くしかないのです。2方向を当時のラジオの巨匠ACDにみせますと「これいいな。これいけるよ。お前のスケジュールどうなってる?」
「私は2週間後 ロケでNYですよ。」
「そうか?じゃこれから北海道に行ってくれ!」録音マンとスタッフは合流できるようにするから
担当営業に前渡金出せるようにする。」
「エ!そ、そんな?でも行くしかないですよね。」
これが、エジソンの蝋管との出逢いのはじまりでした。


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