ここから日々朝早く起き、水をお稲荷さん、武士の騎馬一団、お婆さんの霊に手を合わせて、1日15日 榊を備え、塩を部屋、外にも蒔き、盛り塩をするのです。近隣では「あそこのおじさんもおかしくなったようだ。」と言われていただろう。月に一度先生がお祓いしに来て頂きました。
「随分と土地が綺麗になってきましたね。」家の角四隅にも水晶も埋め込みました。
その内に私の行動を怪訝そうに見ていた掃除で来て頂いた奥様も、山百合が結界のように咲いたのには驚いておりました。邪気は百合の香りを嫌うのです。
そして段々と実社会とは疎遠になっていくのです。子供の頃 鎌倉に住んでましたが、やはり見えないものが見えた事もありましたが、ここまで酷くなるとは思っても見ませんでした。サトウハチローさんの妹の佐藤愛子さんも、著書「遺言」で北海道に別荘を建ててからえらい霊障に数十年間苦しめられた事を知り、インディアン達を追いやった米国同様に倭人も酷い事をした事を知るべきであろう。そしてアイヌ同様に流れをくむ沖縄人にも、今も民意を無視しているのが安倍政権である。
【佐藤愛子】もはや運命である『それでもこの世は悪くなかった』佐藤愛子
【衝撃】アイヌ民族を騙し討ち【松前藩】
アイヌ民族について・・・「私の遺言」佐藤愛子/著より
「アイヌ」とはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」という自然を指す言葉に対しての「人間」という意味であった。
アイヌ民族は、自分たちの土地をアイヌモシリ(島)と呼んでいた。
だが、そのアイヌモシリの平和は奥州藤原氏の滅亡によって、残党の一部が逃げ込んだ頃から次第に失われて行く。
藤原氏残党ばかりでなく、アイヌモシリには本州から夜盗強盗などの流刑囚が送られて来た。
それに加えてアイヌモシリの物産を求めて一儲けを企む商人も逐次増えて行った。
そしてアイヌ民族は、それらの和人によって「夷狄(いてき)」「無知の夷」「愚直の者」「禽獣の類」などと言われる。
いわゆる「アイヌ勘定」に象徴される数々の狡智や腕力をもって漁場を奪い、土地の物産を騙し取った。
そんな和人の怖れ知らずの横暴に、うっ積していた不満が爆発したのが1457年の「コシャマインの蜂起」である。
コシャマインは、渡島半島のコタンの酋長たちを統合する総酋長だった。
この蜂起のきっかけというのは、一人のアイヌの少年が、鍛冶屋にマキリ(漁業用包丁)を作らせた。
そのマキリの値段がめっぽう高い。
その上に切れないというので争いとなって、鍛冶屋が少年を刺し殺した。
おそらく鍛冶屋は相手を侮って、いい加減なマキリを作り、法外な鮭かニシンを要求したのだろう。
コシャマインが蜂起したのは、その事件の翌年である。
渡島半島の海外には、和人側が築いた館が12あったが、コシャマイン軍は次々に攻め落とし2館だけが残った。
アイヌ軍はまことに勇敢だったのである。
しかし、「武田信広を惣大将として、敵の酋長コシャマイン父子二人を射殺し、ウタリ数多を斬殺す。
之によりて、凶賊ことごとく敗北す。」と「新羅之記録」にある。
コシャマインは死に、武田信広は松前藩の祖となり、以後松前藩のアイヌ制圧が始まるのである。
第二の蜂起は、それから212年後、シベチャリ(静内町)の酋長シャクシャインによって起こった。
コシャマインの死後、実に200年余り、松前藩はアイヌの温和・善良につけ込んで、一方的な収奪、圧制を行った。
例えば、奥地に砂金が出ることを発見した松前藩は、砂金採掘場を増やし、無宿人や山師たちを狩り集めて坑夫として送り込んだ。
彼らによって暴力沙汰が頻発し、アイヌ部族の女性は乱暴される。
その上、川底の砂を掘るために鮭やマスが減ってアイヌの生活は脅かされるようになった。
それに対して抗議に行ったアイヌエカシ(長老)は酒を飲まされ、落とし穴に突き落とされて死んだ。
1669年6月、シャクシャインのげきによって、全島のアイヌ部族は一斉に蜂起し、夏を迎える頃は松前城下に迫る勢いだった。
だが、秋が近づくにつれて、狩猟用の毒矢や太刀、ヤリで戦うアイヌ軍は、鉄砲で攻める松前軍に坑し切れず、シベチャリ川を望む断崖の上の砦に籠城した。
そこには鉄砲の弾も届かぬ自然の要害であるため、攻撃軍は和議を申し入れて、だまし討ちにする事を考えた。
シャクシャインは、その申し出を受け、部下を率いて松前軍の陣営を訪れた。
10月23日、和議の酒宴が開かれ、シャクシャインは酒を飲まされ、斬られて死んだ。
翌年、松前藩はアイヌの各酋長に向って「殿様にどんなことを命令されてもこれに従う」という誓約書を押しつけた。
違反した時は「神々の罰をこうむり、子孫まで絶え果て申すべくそうろう」と記されていたが、文字の読めないアイヌはわからぬままに諒承したのであろう。
以後アイヌモシリは、あたかも松前領になったかのように、欲しいままにされていくのである。
シャクシャインの死から120年後、「クナシリ・メナシの蜂起」が起こる。
直接の原因は、江戸の豪商・飛騨屋久兵衛のアイヌに対する虐待である。
久兵衛は、アイヌ虐待史に残る人物だと言われるほど残忍な男で、アイヌを強制連行して牛馬のように酷使した。
働けぬ者は殺すと威し、餓死する者を見捨てた。
当時クナシリ島には、ツキノエという剛勇で聡明な酋長がいた。
クナシリ島は山が少なく、従って大河もないために、近海で獲る魚が生活の糧であった。
そのため、本島や近くのエトロフ島までやって来るロシア人と交易を結んで生計を立てていた。
ツキノエは、この島に和人を入れるとどんな事になるかをよく知っていた。
そこへ飛騨屋久兵衛が、船を繰り出して乗り込んで来た。
ツキノエはこれを拒んで、船に積んであった物品を奪ってしまった。
この行動によって「ツキノエは奸智に長けたあくどい男」だという評があるが、ツキノエはひとたび船を入れた時の結果を見通していたからだという反論もある。
飛騨屋からの訴えを受けて、松前藩はツキノエを本島から締め出すという報復に出た。
本島の和人やアイヌ部族にツキノエとの交易を禁止したのだ。
仕方なくツキノエは、クナシリ島に飛騨屋を受け入れる事に同意する。
そしてクナシリのアイヌ部族は奴隷と化した。
しかし「クナシリの蜂起」は、ツキノエの指導ではない。
★ツキノエが島を離れている留守の間に、過酷な労働に駆り立てられ、報酬は欺き取られ、妻は番人のなぐさみものとされ、労働に耐えられなくなれば殺されるという地獄の日々に、我慢出来なくなったアイヌたちが、自然の勢いとして決起したものである。
対岸のメナシ地方のアイヌ部族も、たちまち同調した。
出稼ぎ先から戻って来たツキノエは驚いて、蜂起軍に反抗をやめるように説得した。
反抗を続けても、やがては松前軍が来て皆殺しにされてしまう事が分かっていたのだろう。
蜂起は腰くだけになり、降伏した蜂起の首謀者37人は、ノッカマブの浜辺で処刑された。
そうして「クナシリ・メナシの蜂起」は終息し、それはアイヌ部族が和人に刃向かった最後の戦いとなった。
それから約80年経って、時代は明治になった。
明治維新によって、日本の国は変わったが、アイヌ民族の抑圧の歴史は、形を変えて尚も続いたのである。 (https://open.mixi.jp/user/270068/diary/1941677566より引用させて頂きました。)