ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

キャラメル箱の中の標本

2021-06-02 | 雑記
ついさっき書いたのにまた書くとかいう暇人ぶり。自慢にならぬ!

それはさておき。先ほどの記事で「今まで書いてきたことが本当なのかわからない」と述べた。

先月にTwitterを始める前から、新型コロナの話を色々見て回ってきたが、まあ、多く見てきたのは「新型コロナは嘘だ」とかそっちの方面ではあった。

じゃあどういう立場なのか?というと、どっちも本当かもね、とはぐらかすことにする。

お互いがお互いをデマ呼ばわりしているような見苦しいのもあれば、証拠立てて話しているのにまったく取り合わないというようなのもある。ま、このことに限った話ではないが、怪しげな証拠で騒いでいるなと思えるのは、所謂陰謀論の立場の方かなとは思う。

何故こういう風に語るのかというと、既存の科学や常識が一片の疑いもないようなものの場合、「新型コロナは危険」というのは間違いがなくなる。もちろん、その逆では「新型コロナは嘘」となる。しばらく前に紹介した風刺漫画の如くである。

スピ系と呼ばれる方面では、現代世界は「二極化」が進んでおり、光と闇がどうこうと騒いでいる。今は光が闇を駆逐しているのだ!とやっている。
その動きが本当かは判断しかねるが、言ってしまえばテレビドラマの水戸黄門だとか暴れん坊将軍の悪役が斬られるシーンに差し掛かっているというわけだ。

ぱっと思いついた例えではあったが、丁度良い。

オカルトの言だが、「闇は光の量の違いでしかない」という。

光と闇という区分なんぞ、そもそもなかったというわけである。闇の正体は光だったと。

ドラマで斬られる役の俳優と斬る側の主人公の役者は、撮影や舞台以外でまでそうなるか?そうはならない。
人気が出すぎて、悪役が板についた俳優の子供がそれでいじめられた、などという話はあるが。

つまり、ただの配役に過ぎないのだが、真に迫っていたりすると、視聴者が真に受けてしまったりするわけだ。

コロナが嘘だというのも、危険だというのも、どちらもいわばテレビドラマの脚本通りなのだろうと。

実際に死んでいる人がいるのにけしからん!とお叱りを受けるところだが、内実はともかく、死んでいる人は実際にいる。

それも含めて、我々は脚本通りに動いているだけなのかもしれないなと考えるわけである。言葉遣いは違うが、こういう話は受け売りみたいなものである。


さて。話は代わるが、所謂陰謀論で、「天皇は酷い奴だ!」という言説がある。

二次大戦終了時に、時の昭和天皇がGHQのマッカーサー元帥と対談した際に、その時に語った内容がアメリカの機密文書の期限切れで公開され、それが出版された、のかは忘れたが、その時に話していたという内容がある。

曰く「日本人は頭が空っぽだ」と。よく陰謀論者の間で広まっていた。

酷い!と思われるが、実際はこうである。

曰く「日本人は主体性に欠けるところがあり、上からの命令に従いがちで、民主主義的風土が育ちにくい云々」

と、こういう感じの冷静な分析を、日米との比較を交えつつマッカーサー元帥に伝えていた。細かいところは忘れたが、アメリカに見習いたいところだという風に続けて語っていたように覚えている。

思い切り歪曲すれば、「頭が空っぽ」と言えなくもない。~に欠けると言われれば、その分の頭の中身が足りていないと言えなくもないからである。

それを所謂陰謀論者というのが上記の如く誇張して広めていた、というのがあった。
まあ、人のことは言えないが、この件については、見たすぐ後に知って訂正をした覚えがある。

あとは昭和天皇は当時英国から陸軍大佐だかの称号貰ってるからグルだ!というのがあった。ガーター勲章もだったか。
ガーター勲章については、明治天皇も大正天皇も拝領している。この大佐だかの称号は、儀礼的なもので、昭和天皇だけの特別ではない。第二次世界大戦開始時には、ガーター勲章もだったか、英国王室に一時返還している。

だからといって、グルでない証拠にはならない!というのが陰謀論だが、仮にグルだったからといって悪いかどうかはまた別である。納得できない部分があるだろうが。


「あ、そう」というのが昭和天皇の口癖だが、こうだけ書くと素っ気なく聞こえる。

気になっていたので後年、その口癖が写っている映像を見てみると、「あぁ、そう」という具合だった。
その映像は、戦争で親を亡くした子供がしゃべっているのに相槌を打って「あぁ、そう。あぁ、そう」とやっていたものである。

この世に完全な善も悪もない!とは言わんが、過ぎたるは猶及ばざるが如しというし、大賢は大愚の如しともいう。

拙は昭和天皇のエピソードで一つ好きな話がある。実家の和歌山が生んだ大学者、南方熊楠との話である。

ある時、南方熊楠が天皇陛下に研究標本を差し上げて、講義するというのがあった。後で調べたら、ご進講とご新献という。
昭和天皇は和歌山は田辺の沖に浮かぶ、神島(かしま)に行幸された。
なんと、その時南方は標本を大きなキャラメルの箱に入れたのを献上したそうな。

その後は南方の講義となるのだが、昭和天皇は予定の時間を過ぎても聞いていたそうな。

昭和天皇は生物学者でもあり、それでこの話になったというが、南方が感激するのは当然として、実は憧れの学者に会えたと昭和天皇も感激していたのかもしれないな、などと思う。

と、話が長くなってしまった。

なんにせよ権力者と言われるような立場の人物は何かと言われる。
実際にそういう点があるのかもしれないし、本当に悪人と呼ばれるようなことをしていたのかもしれない。

だが、憧れの学者に会ってプレゼント貰って予定の時間を越えても講義を聞いてたとかいうのなら、大悪党と断罪するのもバカバカしくなる。

少なくとも、正義感に憑りつかれて発言を歪曲する人よりは、遥かに人間らしい。

天皇が善人か悪人かであるかという単純な話でもない。
所謂陰謀論では(全部かはわからないが)天皇は悪党というのが常識ではある。
一般的には新型コロナは危険で、ワクチン接種が必要だというのも常識である。
常識というのはつまり、ある一定範囲内においての多数が善と認めるものということになる。
人が生きるのは善で死ぬのは悪。大雑把な言い方だが、これもまた常識といえる。
コロナ危険という方も反コロナという方も、その点では共通している。これも全部かはわからないが。

さて。その個人や集団が生きるのは善か悪か?生き延びた場合は問答無用で善たり得るか?
そのような思索は常識ではなしえないので、「歴史が決める」としか言えないと述べておく。

ふと、ニーチェの著作に『善悪の彼岸』というのがあったなと思い出したところで終わる。

では、よき終末を。


話すは放す

2021-06-02 | 雑記
たまに読んでいた引き寄せの法則のブログを、しばらくぶりに読んでみた。

中川翔子がデビュー時は売れず、他のアイドルの真似をして、ケーキを作ったこともないのにケーキ作りが趣味です、などとプロフィールに書いていた、などとあったものである。

それで半ばやけになって、元からのオタク趣味を全快にしていったら、あれよあれよと売れていったという話が書かれていた。やけになったわけではないが、自分らしく行こうと。

そうか。自分らしくか。というわけで、Twitterの方にブログのリンクを貼っておいた。余りフォローしてもされてもないが。
ツイッターのアドレスは@Himagineatpである。
一時期自己紹介の所に書いてあった、「Imagine」の替え歌が元ネタ。

そこで自分らしくってなんだ?と数日前から夜も眠れなくなるほど悩んでいたところ、やはりわからない。

昔やっていたゲームの実況プレイ動画か?と思ったが、そうとも言い切れない気がする。

自分らしくというのがわからない、という人は多い。上記のブログの人物のセッションとやらでもよくあると、昔読んだように思う。


自慢にしか聞こえないが、人と話すと「物知りで話が上手い」と言われることがよくあった。
具体的な指摘だと、「例え話だとかで分かり易く話す」と。ブログと大違いである。

そんな拙だが、かつて、ゲームの実況プレイ動画を始めた時、緊張するからと少々酒を呑んでから取り掛かる、という状態であった。思えば、ブログの初投稿もそうだったように思う。
要するに、人見知りで怖がりなところがある。

酒は人の本性を現すとはいう。人の本性とはいうが、そういうものはいくつかある側面の一つなので、必ずしも乱暴だけになるわけでもないのだろう。
と、そういう話はどうでもよくて、飲むと大体喋っていることが多い。

今はよくわからんが、かつては流行り言葉でいう「陰キャ」であったといえる。

話そうと思ってもどう話したらいいか分からない、相手にどう思われるか、といった不安がその人をその人らしく話させることが出来ない原因だったりするが、そういう具合だったのだと思われる。

というわけで、拙は人とおしゃべりしたかっただけだったのだろうと。対面による話が一番として、ゲームの実況プレイ動画でしゃべってそれにコメントが来る。それにまた対応してと。リアルタイムではないが、おしゃべりだったと。


正直言って、この世の中が北斗の拳みたいな荒廃した世界になろうがなるまいが、関係ないのかもしれない。

ここで今まで書いてきたような話が完全に疑いのないようなことなのかも、実際は分からない。

実際にそんな世界になるかどうかはその時まで分からない。それまでは仮説に推論で、つまりは情報である。

知行合一というのだったか、知識は行動に基づいてこそ本物になるというのが仏教にあるようだ。
頭に仕入れた知識というのは、それだけでは情報(知と呼ぶ)でしかなく、使いこなし(識と呼ぶ)て、初めて「知識」だという話も昔聞いたものである。この話は筋トレなどで例えている話を先日読んだものである。

話が横道にそれた。


拙は、情報はおしゃべりの手段でしかなかった(というと語弊があるが)のに、目的にしていたのだろうと。


世の中がよくなるに越したことはない。寧ろ望んでいる。

しかし、情報に翻弄されて、挙句の果てに目的になっているとしたら、楽しくなんかないだろう。楽しくおしゃべりも出来まい。それでは、よくなるものもよくなるまい。

未だ来たざるものが来れりとしても、それはそれで問題ない。それが良きにつけ悪しきにつけ。

この世全てを作り上げている「情報」は、どこまでいっても手段でしかないのだから。

というわけで、これからもよくわからない話を続けていくつもりである。


では、よき終末を。