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気がかり故に

2017-06-09 | 雑記
拙の記憶が正しければ、四月のことだった。

近所の米屋で買い物をして、家の近くの住宅地の道路を歩いていると、反対側の道から、制服を着た中高生の女子が歩いてくる。

こちらがそれと認識した後だった。凡そ十メートルからもう少し離れていたと思う。

前髪をそろえた髪形だったのだが、何故かその辺りからずっといじりながらすれ違う。

風も吹いてないのに、どこが乱れていたのか。不思議でならないのだが、こう思うことにした。

拙も、まだまだもてるのかもしれないと。でなければ、不審者だったので、不安を紛らわせていたのだと言われそうだが。

昔、何かのテレビで、男性に対面した女性が前髪をいじるのは気を引くためというのがあると、心理学者が芸人だかとの対談で語っていた。

いきなり化粧を直すわけにもいかないので、すぐに直せて目立つ前髪を整えようとするのだという。

話は覚えていたのだが、余り気にしていなかった。

ただ、今年に入ってから、そういう話を思い出して人に語ったもので、それから見てると、前髪をいじってすれ違う人を多々見かける。

話で上げた例では、仕事の時に、カウンターにやってきた予約の女性客が、拙が応対に出ると、急に前髪をいじり、いじりながら「予約の○○です」などと言い始めた、なんぞとやったものである。これは数年前の話になる。

さらには、こっちを見ていないのに、前髪をいじっている女性を見かけるほどである。

そこはまあ、いいとして。

ただ、気がかりがある。

数こそ少ないが、何故か、男性まで前髪やらをいじって拙とすれ違うことがある。後に絶世の美女でもいたのだろうか、と思いたい。

もしくは、拙の背後に何かが・・・。見えない何かが・・・。しかし、背後に何かと言われても、首を捻ると背中はどっかいくので、いても見えない。映画『エクソシスト』ばりに、さらに九十度回さないことには無理である。


これらについて、別の視点を示す。まるで見た目がいいことを自慢しているだけになるからである。それだけではないが。


四月はまだ夜が寒い時があり、家でこうやってブログやらを書いている際に、厚手のシャツを羽織っていた。袖は通さず、肩に掛けている状態で。

今日はいるか、いらないか、などと、日によって気にしたりしてなかったりしていると、ある日、街中で上着をそうやって着ている女性を見かけたものである。

二度ほど見たような気がするが、同じ女性だったのかもしれない。他にもいたと思うが、数えていないので忘れた。


そこから考えてみると、こうなった。

拙はここしばらく、髪が伸び放題である。勤務中は整えてあるが、たまに崩れて顔にかかる。仕事以外で整髪料をつけていないと、『ゲゲゲの鬼太郎』にできるほどである。

つまり、前髪が気になって仕方がない。そんなわけで、街行く人々も、拙の気がかりが影響して、老若男女問わずに前髪をいじるのであろうと、そういうわけである。

向かい合ってすれ違った人はともかくとして、男性及びこちらが視界に入っていないのにいじっている人は、こういう影響なのだろうと考えている。


さて、いつもの話になる。


例えばキリストは、神の前では人類は平等、と謳っている。

それでもって、救済とやらも、釈迦の言にある「この世とあの世を共に捨て去る」というのと同じだという。

聖書の記述は詳しくないのだが、起こした行動の違いだけで、到達している地点は両者とも変わらないとのこと。

この場合の「神」というのが、アイクも言っている「意識」とほぼ同義といえる。だから、違って分かれているように見えるけど、皆一緒。だから、人類は平等という訳である。

ふざけた例えになるが、クトゥルーとかクトゥルフ神話と呼ばれる、小説群をご存知だろうか。

詳しい話はググってもらうとして、簡単に言うと、地球はずっと昔の神がかった宇宙生物やらが一杯いて、時折見かけて恐ろしい目に遭う、というような内容のホラー小説である。コズミック・ホラーという。

大抵は邪神だとか化け物で、そのうちの一つに、言い方が色々あるが、「ニャルラトホテプ」というのがいる。

ライトノベルの『這いよれ!ニャル子さん』のニャル子がそのニャルラトホテプである。元のクトゥルー神話からの意味合いからは少々ずれているが、とりあえず。

そのニャンとかいうのの特技というかで、自分の分身を作って人として過ごさせるというのがある。しかも、複数に。

ニャンとかいうのの眷属だという自覚があったりなかったりするそうだが、ないままに、お互い戦いあったりしているのだという。実に悪趣味だと言わざるを得ない。むろん、本体たるニャンとかは、誰が自分の分身かわかっている。


というわけで、「意識」とやらが邪神だと言いたいわけではないのだが、我々人類がやっていることは、ニャンとかのやっている悪趣味と同じ状態なのだといえる。

またもや悪口になるが、ついでに。


拙が一時期、仕事場で果物ばかり食べていたりしたのはとある人物の影響だったと、話をする機会があった。

アイクの翻訳をして、「意識」の話をしっかり読んでいたであろうその御仁は、「自給自足のフルータリアン生活こそ至高」とのたまい、アイクを超えたと語っていたと伝え、それを例えていった。簡単に、物質は意識が見せる幻である、という話もした上である。

人類皆平等(例えだと切り出したのに、聞き手は「人類は平等ではないですよ」と二度ほど茶々をいれてきた)だとその根拠を語っている人に、「これこれのことをしているから、俺のほうが偉い」と言っている状態だと。

聞き手は大笑いして、感想を述べたものである。

「今年で一番笑えた」と。


悪趣味は邪神の専売特許ではないのである。
生涯の笑い話とならぬよう、努々、精進を怠たることなかれ。


では、よき終末を。