ウヰスキーのある風景

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見下しの仕草に見える心理構造

2017-03-22 | 雑記
前回は「人をやめて妖怪になろう」という、前人未到でもないらしいが、理解不能な記事を書いた。

改めて具体的に書くと、人類には三つほどあって、「人」と、人でなしと音声では伝えざるを得ない「ヒト」と、後はその他諸々である。

何でその他諸々か!意味がわからんぞ!と言われても、こちらとしては困る。

前述二つに完全には当てはまらない存在が、妖怪だの魔法使いだのなんだのと呼ばれたりするだけのことなので、なんだかんだで一緒ではあるのだが、その他諸々としかできない。

それで、「人」と「ヒト」との間、人類の間という意味で、「人間」と呼称しようというわけである。

なら、人でいいじゃないかというが、これには問題がある。

ニーチェが『権力への意志』で書いていたかと思うが、「人間とは本質的に利他的な生き物だ」という。

この場合の人間は、わしが定義して書いた「人」に当てはまる。そういうわけで、他所でいきなりこの定義を持ち出して騒いだりしないこと。

騒いでいる人がいるかはしらんが。

この定義をいつまで使うかはしらんが、さしあたって、括弧をつけてない人とか人間は、人類と言っているのと同じだと理解していただければよろしい。


さて、前回の復讐、じゃなく復習として、ニーチェの言う人間は利他的というのが問題になる、と一つ書いておく。

「人」はつまり利他的で、悪く言えば自分がないので周りに流される。

それなので、「エナジー・ヴァンパイア」に吸われると、「利他的」に同調してしまうのだといえる。

エナジー・ヴァンパイアというのは、日本語だと「生霊」になるとかいう話も、ずっと昔に書いた覚えがある。「ラポール」と同じで、当たり前だから気にしてなかったとか、胡散臭いものだということで存在しないことにされたという流れなのだろう。

しかし、「自分をしっかり持て!」なんぞと頭に言いつけても出来やしない。そんな説教もしたくない。

それなので、ちょっとした姿勢の変更をしていただく。

よく、背筋が曲がっている奴は心も曲がっているといわれるだろう。そして「背筋を伸ばせ!」と続けて罵声が飛ぶのも日常だった。今はそう言っている人がどれだけいるのかはしらん。

そうして背筋を無理矢理伸ばすと、肩が凝る。疲れる。飯も喉を通り難い。息もしづらくなる。

すると、どんどん悪いほうになる。しっかり背筋を張っているはずなのに?と。


まずは、背中の力を抜いていただく。胡坐でも正坐でも椅子に座ってでもいい。椅子の場合は、足を地面にしっかりつけておくこと。

そして、腰を少し前に出す感じにする。尾てい骨の位置が変わるのがわかる動きである。するとアラ不思議。

勝手に背筋が伸びるじゃありませんか。肩も凝らない、息もすんなり通る、気持ちのよさを実感できれば出来ている。

肩の凝る凝らないは別としても、息の通り方やら上半身に無駄な力がない状態で姿勢を維持できるのはわかるかと思う。お試しあれ。

野口整体のいう、正坐というやつである。この状態で背骨呼吸のイメージでもって体全体で息をするようにやると、姿勢が悪い状態で無理矢理行う深呼吸は全然深くなかったことも理解できるであろう。人の体の癖によっては違いがあるので、必ずしもそうだとはいえないところではある。

吸うときは鼻、吐くときは口だそうな。忘れて両方鼻でやってるが、吐く時に口でやると違いがあるように思う。

この姿勢は、立って歩いているときでも有効である。腰というか尾てい骨の位置を意識して、少し前に出すような具合にするのである。

颯爽と歩く姿は異性の目を引くこと間違いなし。さあ!今すぐ外へ行くのだ!


さて、姿勢について話をしたついでに、心理構造的な話を追加で行う。

つまりは、タイトル通りの本題というわけだ。


「人を見下すことは、己を見下すこと」と、明記したかは実はよくわからんのだが、そういうものだと確信している。

そのいい振りからは少し外れるが、オカルト的に言えば、相手を見下すと、見下されたほうは嫌な気持ちになる。気持ち悪くなるわけだ。

そこで発生するネガティブな精神エネルギーを吸い取るのが、エナジー・ヴァンパイアの理屈だといえる。

されたほうはされたほうで、わけもわからずムシャクシャしたりして、ストレス解消と銘打っては何事かいらんことをして、さらにストレスを広げていく。
ほんの少しの積み重ねだったとしても、毎時毎日続いていくのなら、それは立派な吸血鬼になっていく修行の有様だといえよう。

ローマは一日にして成らず。吸血鬼は三日くらいで出来上がりそうなぐらい、日常茶飯事だというわけだ。

オカルト、と言ったが、真面目に心理学者が研究している話でもある。オカルトの界隈では当たり前のことを、さも新発見のように学者がやっているだけ、ともいえるが、そういう突っ込みは別のところがやっているので、ここでは割愛する。
ついでに、何度か書いたが、オカルトの原義はラテン語で「隠されたもの」であって、超常現象という意味は後々の認識の齟齬で付け加えられたものであることも、留意願いたい。知らなかっただけで、超常現象でもなんでもないのを、勝手にそう呼びつけたというわけだ。


タイトル通りの話に戻す。

その前に、昔話を一つ。

十年くらい前だろうか。買い物に出かけて、目的の場所のある通りを歩き始めたところ、向かいから二人組みがやってくる。

小柄な日本人と、西洋人らしい背丈の外国人が、スーツを着て歩いている。しかも横に並んでいて、邪魔臭いと思って歩道から出て避けていこうとした。

すると、西洋人のほうが、少し顎をしゃくるような仕草をした。顔もなんだか興味を持ったかのような具合で、言葉こそださなかったが、もし出していたら、「ほお?」とでも言いたげな具合である。

そして、二人してわしに話しかけてきた。さて、彼らの正体はというと・・・。

この話は実はかなり昔にやったものである。彼らはモルモン教だった。キリスト教のカルト宗派とも言われている。

なんやかんやで振り払ったものである。終わり際の西洋人はやたら熱意のこもった演説をしかけていたが、わしも熱っぽくなるとああなるのかもしれんと、戦々恐々としておる。わしもまだまだ修行が足りぬ身でのぉ・・・。

冗談はともかく。


彼らは勧誘しようとして歩いていたのだろう。そして、「正しいことを知らない一般人」を見つけて、ああいう態度を取ったというわけだ。

つまりはタイトル通り、「見下し」があったわけだが、その仕草から、何か奇妙なものを感じないだろうか?

比べようのないものを、例えば、地面を歩いている蟻を見て、顎をしゃくって下目に見るような仕草をする奴はいるだろうか?する奴もいるかしらんが、「蟻が行列してるな」ぐらいに見るだけだろう。

虫に興味のある子供なら、蟻の行列を見つけたら喜んでかけつけ、近くにしゃがみこむだろうが、見つけたときに上のようなことをするだろうか?

つまりは、自身がちっぽけだから、上に立ったような仕草をしないでは人を見下せないのである。別に、「人を見下せ」と言っているわけではないが、その内面は、自分が人の風下に常々立っているような寂寥感を抱いているから、と言える。

つまりは、己を見下しているからこそ、他人をことさらに見下す。己が何もないことを無意識に自覚しているからこその、自然極まりない動作による不自然な自身への見下しというわけである。

話は関連するが、少々違うことを。知識というのは、知、つまり情報を、識、扱うという意味である。

人に物を伝えたいからとか、自分がどう考えているかを伝えるために、「知識」がある。別にこれは思想だとか科学技術の話だとか陰謀論だとかに限らず、平生の言葉自体がすでに「知識」である。

正しい知識がおありなら、どんな言葉でどう伝えたらどう反応するのか、それぐらい判って、考えて当然であろうが、「知識」なんぞもともとないので、話になどならないのは当然なのである。
これは、情報にたぶらかされているだけで、情報に膝を屈しているアワレな子羊に自ら成り下がっているだけである。
上のモルモン教徒のことだけを言っているわけではない。


というわけで、あなたという存在を自身で理解するための一助として、姿勢についての「知識」を本題の前に書いた。


あなたは周りがあなたを理解しないと嘆いているかもしれない。まあ、無理に理解してもらう必要なんぞ端からないのだが。

それは実は、あなたがあなた自身を理解してないからかもしれないのである。というわけで、まずは己の姿勢についての「知識」から実践していってもらいたい。

あなたの、あなた自身への理解が深まれば、自然と周囲に対する理解も深まっていくものである。

それで、そうならなかったらどう責任取るんだ?なんぞと言い出すと、こういうしかない。

人にすがるのは「吸血鬼」のやり口なので、「汝自身を知れ」という言葉をかみ締めていただこう、と。


では、よき終末を。