ウヰスキーのある風景

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妖怪胃の頭 対 吸血鬼

2017-03-16 | 雑記
先日、気に入っていたマフラーをなくしたらしい。

らしい、というのは、どこでなくしたかすら判らず、部屋のどこかにもしかしたら、という可能性もありそうだという程度で、見当たるところにはななかった。

流石になくしたことに気づいた日はショックだった。そして、出かけようと思ってもいたので、立ち寄った店と道を辿り、夜勤明けで飲んだ店に忘れてないか確認するついでに飲みにいった。やはり、店にはなかった上に、帰りがけにしっかり首にかけていたとの証言も得て、やはり吹き飛ばされたか、家の中で煙の如く消えたか、と諦めている。

そして昨日、出勤時にふと、妙な話を思い出した。たいした話ではなく、水木しげるの漫画『猫楠』にあったものである。

和歌山の学者、南方熊楠(みなかたくまぐす)の伝記で、その中でこんな話があった。

「特に理由もないのに手ぬぐいがなくなったりするでしょ?あれ、猫の仕業なんです」とかなんとか。

猫の仕業なら仕方ないな。包まったり網状のどうみても寒いマフラーなのだが、それに爪を引っ掛けて遊んでいるのだろう、などと思い出勤すると、仕事場の一部のPCの壁紙が猫の写真になっている。

「お前の仕業だったのか・・・」と思わざるを得なかった、というわけである。マフラーは進呈する。


さて、先日は、自分の胃の中に妖怪が住みついて、そのせいで自分も妖怪になってしまったらしい、とかいう驚愕の話を書いた。

妖怪の名前はとりあえず、「胃の頭(いのかしら)」と名付けておいた。

胃に取り付くくらいだから、暴食なのかと思ったらそうでもなく、こっちが食べようと思わなければ働かないらしい。

「何が食いたい?」と聞いたら「まんじゅうこわい」としか答えない。ならもっと怖い茶でも飲め!とやったら、怖い怖いといいながら飲み干す。

おかげで退治にならない。胃の中で遊んでいるだけのようなので、好きにさせることにした。

こちらが食べたい量だけなら存分に食べまわってくれるが、食べ過ぎると「まんじゅうこわくない」と言い出すので、そうなるとこちらも気が引けて、やめるようにしている。

しかし、最近まんじゅうは食べた覚えがないので、たまにはまんじゅうを食わせようかと思うが、近所の和菓子屋は店を閉めてしまった。

代わりに西洋まんじゅうでも食わせようと考えたが、それに当たるものが思いつかないので、馴染みのケーキ屋のケーキでも食わせることにする。

それでも「まんじゅうこわい」とか言いながら食べているのだろう。わけのわからん奴である。


何が嫌いか聞いてみたら、妙な返答をする。

「吸血鬼は嫌いだ」と。同じ化け物の仲間じゃないのかと思うのだが、そうでもないらしい。

胃の頭がのたまわく、彼奴らは他人頼みで面白くないからだそうな。人に飯をたかっている分際で何を言うか。

そう返すと、胃の頭は言った。

「俺は飯と遊び半分で戦っているだけだ。そのおかげでお前も元気になっている。だが、奴らは掠め取っているだけで、何もしない」

ふーむ?妖怪のいう事はよくわからん。

ただ、吸血鬼という名前に纏わる話なら知っている。そのことを書き綴ろう。


吸血鬼とは読んで名の如く、生き物の血をすすって己の命を永らえさせる、人外のことである。

吸い取るものの違いで、吸精鬼というのもある。サキュバスというのがいて、夜、寝ている男性に襲い掛かるそうな。

恐ろしいことに、それで集めた精液を、今度はインキュバスとう男性型に変身して、女性を襲って孕ませる、ということもしているといわれている。

個別のものとも上記のように同一のものが変身して行うとも言われている。余談はさておき。


吸血鬼も色々と変身している。人と変わらない能力と姿で、実際は吸血鬼だった、という話が実はある。

本当に血を吸うわけではないのだが、欧米で研究されている事柄がある。オカルトではなく、心理学だとかの方面である。心理学もオカルト、とかいう向きもあるかしらんが、オカルトの原義は以下略。

いじめの理屈で、それは自分が他から受けた虐待などで減らされた生命エネルギーを補給するために、自分より弱いものをいじめて補給しているのだと。

これを「エナジー・ヴァンパイア」と呼ぶそうだ。

今の日本ではあまりわからなくなったかもしれないが、茶が飲みたいと思ったら丁度もってきてくれて、「なんでわかった?」みたいな、気が通じ合うといった事柄がある。

野口晴哉が言うには、日本人にはこれが当たり前すぎて呼称なんぞしなかったが、フランスの学者がこの現象を不思議がって研究し、「ラポール」と名付けたとかいう。

感覚としてはわかりづらいからこそ、興味が出て研究しているといえる。当たり前すぎるのも困ったものかもしれない。


それはともかく、エナジー・ヴァンパイアの話をする。


今の作物は生命力が弱っており、それだから我々の体も生命力が弱っているのだ!という話は、誰かさんにならってここでもやっていたものである。

美味いトマトの作り方というのを、今一度書くと、何か気づかれるかもしれない。

本来トマトは、水気の少ない過酷なところで育ってきた。それなので、わざと水をあまりやらずに育てると、実に栄養をぎゅっとたくわえる。

そうして熟したトマトはとても甘いそうだ。

トマトは赤いので、本当に血を吸っているかのようだ、などと揶揄すると、お怒りになる向きもあろうかと思うが、考えてもらいたい。

やってることはエナジー・ヴァンパイアの理屈とまったく同じではないのか?と。

植物だからやっていいのか?植物だってのんびり伸びたいのではないのか?まあ、あんまりだらだら伸びても仕方がないが。


野口晴哉は、「何を食っているから健康なのではなく、健康だから何をやっても疲れないし、何を食っても美味く感じる」みたいなことを言っていた覚えがある。

整体というものも、肩が凝ったからもんであげます、腰をもみましょう、という意味ではなく、己の身体は己自身の生命力を発揮させて健康にさせていくことなのだ、と語っている。

そして、胃の頭に取り付かれてから、ある言葉を思い出した。

「生のものを食べるというのを実践している人がいるが、人は地に伏し、四足で生きるものではない。火を通したものを食え」という風なことを。

昔はよくわからなかったのだが、胃の頭の言葉に思い当たる節がある。

「飯と遊び半分で戦っているだけだ。そのおかげでお前も元気になっている」

奴は遊び半分と言ったが、そこは照れ隠しで、己の命を賭して飯と戦っているのである。そこには、対象のエネルギーを吸収するとかいう邪な気持ちなどない。つまりは、己の生命エネルギーを力強く発揮させる修行を、日夜、わしの胃の中で続けていたのである。その余波で、わしも元気になったというわけだ。

火を通したものを食え、というのは、生食が正しいという人達の理屈から言えば、死んでいるものである。つまり、取り入れるつもりの生命エネルギーがない。

掠め取るのが当たり前なので、己自身の生命エネルギーは枯渇している。あるとしても、出し方を忘れたか、出そうとしたらひどくくたびれて病気になるくらい、病気なのである。

吸い取った生命エネルギーで見せかけの健康を繕えても、例えば、至高の思考回路で「バカな日本人は滅びろ」などと、そのバカと罵る存在と同じ論理でバカにするという、病的なことを平然と行えるくらい、病気になるのである。

どこが同じ論理なのか、という点は度々書いてきたので、割愛する。今回ので書いた分でも想像がつく人もいるだろうが。


何もないと思い込んでいるところに、生命の本質がある。見た目に踊らされ、舞い上がっているようでは、人間失格である。

それは、頽落というのである。森に入って自給自足で人間やめたというのは本当である。吸血鬼になった、否、元々なっていたのだから。


ここからは想像を含めて、胃の頭に取り付かれたわしの感慨を込めて書く。


人間がこの地球に降り立ったとき、本当に裸んぼうで生まれたとして、あったのは森や山だけ。

アヌンナキに金掘れお前ら食わせろとやられていたりもしたかしらんが、そんな状態だったのだろう。

歩いて森に入り、そこで暮らし始める。初めて食べた果物が実は有毒だったかもしれないのだが、健康な人間にはなんともなかった。

原初の人間がそこで子を作り、子孫が増えていく。ご先祖が果物を食べられるという遺伝子を作り上げて、子に受け継がせたので、子孫も果物を食べていた。ただそれだけだった。

しかし、「ここで生きていくのが目的だったっけ?」という暢気な調子で疑問が沸き起こる。皆もなんとなく思っていたのかもしれない。

それでまた、テクテク歩いて森を出て行ったり、天災を起こされたりしたのか出て行く羽目になるのだが、その先でも単語違いの流れとなり、現代に至る。

ちなみに、原生林というのは本当に生き物を拒絶している状態である。アマゾンだとかで暮らしている人は、先祖が暮らしていたからこそ、先日書いたように、環境を変えてきたからこそ生活できているといえる。言い方は悪いが、惰性の生命力を発揮して生活をしているといえる。

人間は、己の生命力を発揮して生きていくことが目的であって、その結果で出来上がった文明にすがるために生きてはいないのである。

森も、ビルも、どちらも人間が作った文明に過ぎない。

自然に回帰したとか自慢しているのは、かつての惰性に回帰したのであって、生命の本質の上っ面を見ているだけである。


人間を辞めると、そういう風には考えることが出来ないのである。伝承の話ではあるが、吸血鬼に脳みそはないのだから。


では、よき終末を。