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手紙の件とあなどり難い話

2017-03-10 | 雑記
昨日は、スタッフの女性がなんとなく語った言葉から何か考えてもらおうと、その女性のロッカーに恋文をしかけておくか、と書いたものだが、書く暇がなかった。※恋文ではありません。

実を言うと迷っていたのと、タイムカードを打った後に書くにしても、夜勤が詰めているので書きにくいだろうとは予測していたから、そのとおりになったようだ。

後は、わけのわからん気迫で提案していた時に傍らにいたもう一人に言うかな、とは思っている。

あの日あの時、驚きのあまり、飯を食っていたのについ電話に出てしまった、と言っていた。申し訳ない。驚かせるつもりはなくて、自分のほうも驚いている。


さて、今日はあなどり難い話をする。別にあなどり難いわけではないのだが、ついそう書いた。


とあるおっさんが脱サラして、翻訳出版やらHPでも翻訳記事を載せる、ということをやっていた。誰とは知っていた人は知っているだろう。

そのおっさんが、海外の同じタイプの話をしている活動家というのか、その人物の本を出版した。

そのイギリス人の本を読み、彼がたどり着いた境地とでもいうものと、その理論や目的などに触れ、痛く感動したものである。

言ってしまえば、「人類に目覚めて欲しい」と感じ、それを己の使命として日夜励んでいるのだと理解したものである。

講演をやると、最初の時は0に近いくらいの人数しかこなかったので、キャンセルしたこともあったとか書いていた。

しかし、彼は別に講演で人を集めて人気者になるのが目的ではなかったので、ずっと講演を開いては本を書き、色々情報を集め回り、自身の神秘的とも言える体験や、出会いを通じて、今も現役で喋ったり書いたり講演している。


それを翻訳した日本人のおっさんは、毎日のように言っていた。「日本人はバカだ」と。滅んで当然だと言っていた。

講演を頼まれたこともあったそうだが、やりたいことがやれないのと、講演向けに喋るように喋ることは出来ないだとかで断ったとか言っていた。

はて?日本人に、海外で問題になっている、決して日本にも関係がないとは言えない話を翻訳してHPに載せていたのはなんだったのか?

その情報やらを知らしめるのが目的ではなかったのか?そのために色々やってきたのではなかったのか?どうやらそうではなかったようだ。

上記のイギリス人の著作を翻訳出版した当初は、絶賛していたものである。ただ、あとがきに奇妙な言葉があった覚えもある。

「彼はもう十分やった」という風な言葉があった気がする。もしくはHPだったか。HPは消えてなくなったので、そちらでは確認しようがないし、本も原著者には申し訳ないと思うが、捨ててしまった。


イギリス人の著者は、最新物理学の話などを引用し、我々が普段認識しているような確固たる物質世界はないと述べていた。

それを見せているのは、ユングでいえば集合的無意識とでもいうような、「コンシャスネス」だという。

細かい話は忘れてしまったが、我々の本質は、この見えてる肉体や自我ではなく、霊的なものなのだといえる。

我々は「人間という体験」をしているのだ、と。

「あなたは何をするために生まれてきましたか?、バスの運転手ですか?警察官ですか?」という風に質問を並べる箇所があったことを、この話を書こうと思ったときに思い出した。
彼がなんと言ったかはその言葉を忘れてしまったので、こちらの言葉で書くが、それはつまり、「人間として生きるということは何かを知らねばならない」と、そういうことを書いていたと思う。


そういう話を書いていた本を間近にし、翻訳していたおっさんは、「森に入って物質文明を捨てて、地球と共に暮らすことこそ至高」とのたまいだした。
よくもまあ、マスコミは人を洗脳するだのなんだのと書いていたのに、「自然は素晴らしい」とマスコミと同じ口ぶりで言えるものだと思う。

イギリス人活動家の上記の理論を簡単に言うと、我々は幻を見ているのだ、という。

彼の思いつきではなく、それを裏付ける話を持ってきた上での言である。


翻訳したおっさんは、その件を論破することもなく、「どちらにしてもこの肉体を持って生きていることは覆せないので、自給自足の自然に沿った生活をすべし」と述べた。

そして、「彼を超えた」と言い出したのである。


この二人の違いを述べる。


イギリス人活動家は、「物質に惑わされているだけで、これらは幻だと認識すれば、人間は本来無限の可能性のある存在なんだ」と、人間であることを、人間を素晴らしいと言っている。
野口晴哉も、「もしかしたら人間も羽が生えて飛べるようになるかもしれないじゃないですか」と、そこだけ聞いたら妙にも聞こえるが、人間に潜む、生命の無限の可能性を見出していたのだといえる。

表面上のバカさ加減だとかは意味がない。そもそも幻に惑わされて、自分が分からなくなっているだけだというわけだ。気づいてくれなきゃどうしようもないかもしれないが、それでも人間の本質というものを追求し、それを信念を持って語っている。


翻訳のおっさんは、さっきも書いたが、「日本人はバカだ」と言っていた。

講演を断ったのも、バカに話をしたくないからだろうと思う。そのための言い訳だったのだろう。

やる気の話とも言えなくもないのだが、そのおっさんはわしに、「やる気ありゃなんでもできるだろうが」みたいな説教をしてきたことを覚えている。
そっくりそのままお返ししておけばよかったなと、今は後悔してはいないが、それを言った時点でフォーラムから放逐だったろう。

イギリス人活動家は、人間をあなどらなかった。そもそも、あなどるところなどなかったのだから。

翻訳のおっさんは、人間をあなどった。表面上のくだらなさにたぶらかされ、人間をバカにし続けていたが、それはつまり、己をあなどっていたのである。己という人間の可能性をあなどったのだ。

HPで翻訳やら随筆やら書いていたのは、「バカな日本人に本当のことを知らしめれば動いて当然だ」というあなどりからやっていただけなのである。
「社会運動を起こしたかった」などと慨嘆していたが、人をあなどっている奴に動かせる社会など、そもそも存在しなかったのである。

イギリス人活動家の言にならって、「マインドの牢獄がどうこう」と言っていたが、自分がその牢獄の真っ只中にいることに気がつかなかったのである。

「人を呪わば穴二つ」と、古来より言う。日本人はバカだと呪い続けた結果は、本質を見抜く目を完全に曇らせただけだったのである。


人間とはあなどり難い存在なのである。


いい具合に来た、まったく当てはまる話をしておこう。


ずっと気持ちの悪いコメントをしてくる御仁がいた。コメントまで読んでいる人はいないかもしれないが、文からかもし出す雰囲気が気持ち悪かった。

「あなたを助けてあげてるんですよ」と迫ってくるような感じが当初からあったのだが、本当にそうだったようだ。

お仲間に引き入れたかったので、わしを「あなどって」、正しい知識を身に付けさせたかったらしい。

それで、どれほど正しい知識をお持ちだったのかというと、「これ以上言ってたらあのおっさんと同じといわれかねないので」などと、どう見ても小ばかにしてるようなことを言ってきたので、ふざけるなと言ったら、「あのおっさんを攻撃してたつもりだったんです」と、どう考えても生き物の思考回路とは思えないことをのたまっていた。

かつて、その御仁に「その考え方はあのおっさんと同じですよ」と、今まで書いたことを読んで覚えているなら分かるはずの流れで指摘したことがあったのだが、そういう返し方ををする。

ちなみに、何をこれ以上言ってたら、という話かというと、オススメの映画の推薦評の最後に言っていたのである。攻撃も何もないし、こちらの意図は何一つ伝わっていないのだろう。

正しい知識とやらをお持ちなら、まともな言葉を扱う正しい知識も持っていないと、伝えようも伝わりようもないのである。


わしに、人間をあなどらせないで欲しいものであるが、恐らく、至高の思考回路をお持ちなのだろう。人間の可能性とは素晴らしい。


さて、なんでこんな話をしたのかというと、自分でも感じるところがあったからである。

いつからかは分からないが、人間をあなどることは、人間の本質をあなどり、そして、己自身の本質をあなどる。そう感じ始めていた。

今ほどはっきりとそう感じてはいなかったのだが、かつて、そういう気持ちを捨てようと思いながら街を歩いたり店で人と喋ったりしていたら、こちらの身長が実測より高く見えるだとか、身なりがいいだとか、品がよいだとか、風呂敷結んで肩掛け鞄にしてたらおしゃれだとか、歳言ったら20代かと思ったとか言われたり、こっちとしては別に物を多く知ってる覚えはないのに、話の引き出しが多いだのといわれたり、不思議でならなかった。

仕事場ではあまり、そういうことはなかったと思う。おそらく、わしが人をあなどっていたからだろう。ブンピツカですか?と言ってきた新入アルバイトのおじさんには、同上で、もっと若いと思った、とは言われた。

そこまでなら、別によくある話とは言えるので、例えである。そんなつもりがないのに、そう見えるというのは不思議だな、と思ったと。


前に、とある女性に出会って、「サインくれ」といわれた、と書いた。今後、このブログの存在をその女性に知られると、どう思われるか分からんが、書きたいことを書く。まあ、後日ばらすに違いない。

出会うしばらく前のことだった。「自分と話の合う、年下の女性が欲しいな」と、こうはっきり思ったことがあった。

そして、練習で書いているという小説を書き始めたころに、その女性と会った。


その小説のヒロインは、自分より少し背の低い、髪の長い女の子である。ヒロインの一人、なのかもしれないが、ともかく。

本人の直接の問題でもないのに周囲から白眼視され、ねじくれたところがあり、生意気で高飛車というか傲慢というか、そういう性格という話である。話である、というのは借りてきたキャラだから。

そういう性格というのは、本来は素直な子だと思われる。周囲からあなどられれば、それに対抗するような性格になっていくわけだ。根が素直ならなおさらである。


例の女性に戻る。


二回目の、なんとなく「サインねだってるのかな」と考えながらその店に訪れたら、本当に現れた、という話も以前書いた。

仕事に行くときとは違う髪形で、なんと、ロングヘアーだったのである。前に見たときは束ねていたのである。


そして三回目。

わざわざ着物ででかけ、来るだろうと予測していったら本当に来たのだが、そこは措く。よく来る日をいっていたからだ。

夜の営業の閉店までしゃべって、終わり際に、わしが着物姿なので、皆で記念撮影しておこうとなった。前々から撮っておきたかったとも、店員の女性が言っていたのもあったので、承諾した。

その女性が立ち上がり、その後自分も立ち上がる。そして、背後からその女性の背丈を検めてみたところ、小説のイメージぐらいだったのである。

中では「頭一つ分くらい」と大雑把に書いたが、丸々一つ分ではない。だが、大体これくらいと考えていたのに近かったのだ。

それに気づいたとき、わしは自分の片てのひらを頭にあて、「なんだこれ?」と自分の目を疑いかけたほどである。

そのお店の女性店員は、例の女性とLINEだとかで馴染んでいるのもあり、例の女性を評して「素直ないい子」と言っていたと思う。

「素直でいい子だったのに」みたいな話なんかがニュースで流れたりするが、そんな冗談は忘れよう。


人が人をあなどってはならないのである。自らの無限の可能性を閉じるだけなのだから。

あなどっていると、至高の思考回路が宇宙人的言語を操り、人心を誑かすので、注意されたし。


では、よき終末を。