先日、積んでみたらきっと人の背丈は越えるだろうほどある、書籍(漫画も多い)の中から、昔買っては放置していたものが出てきた。
積読、なんぞというが、危うく化石か、石油になるところだった。
しばらく前に書いた、反知性がどうこう、とかいう話の本もその一つだが、著者の謂わんとするところはよくある話である。
「どうして日本はこうおかしくなったのだ!?」というあれで、もう少し前に書いた、『心でっかち』な論といえるような感じではある。
とはいえ、最後の人が陥りやすい思考についての話は納得できる話だったので、そこだけ読んで書いたしだいである。
「あの手の話はいつぞやの心でっかちじゃないか?」と突込みがこないものか、と思ったが、自分で突っ込んでいたので、それで十分であった。
さて、他にも出てきた。岩波文庫の『伊勢物語』だとか、『五輪書』なんかも買っていたようだ。何を目指しているのか思い出せないが、少なくとも世界征服を目指しているわけではないのだと思われる。
世界を征服しようと思ったら、とりあえず英語の勉強からなので、かなり遠い。
さて、いきなり話が変わるが、実家が創価学会である、とは何度も書いた。何度もここを読んでいる人がどれだけいるかしらんが、また記しておく。
日本で最大規模といわれるその宗教団体は、大雑把に言えば、鎌倉時代の僧侶日蓮が開いた、日蓮宗の一派である。
つまりは仏教が基礎となっている。義仲は木曽である。
子供のころか若いころか、もう詳らかではないが、「仏教というが、それは何なのだ?」というのがずっとあった、と思う。
釈迦は「自分を拝めば幸せになる」といって布教なんぞしてないのに、創価学会の指導者たる池田の大ちゃんは「私についてくれば間違いないんだ!」とかほざいていた。実際にそうしゃべっているというか叫んでいるようなのを聞いたものである。
大体、日蓮宗なら、日蓮とその教えについていくべきであって、太ったジジイについていかなければならん道理はない。
いくらジジイが「蓮祖の通りにやってる我々は間違いはない」などと言おうが、それは指導でしかない。
これは冗談だが、日蓮が新聞配って選挙活動しろ、とは言っていないのである。
なんぞとずっと思っていたりしたので、たまたま目にした、中村 元訳の『ブッダのことば』というのを買ったようである。
大きくそう書いてある下に、「スッタニパータ」とある。これが、翻訳した経典の名前だそうで、最古にあたる経典といわれている。
いつもどーり長めの前振りであるが、別に話自体は短い・・・はず。
それはともかく。
仏教といえば、煩悩を断ち、それによって平穏な心を手にして幸せになる、というのが教えの骨子である。
で、煩悩を断つ方法はなんだというと、修行したりするというわけである。仏門に入った人たちの生活とほぼ同義である。
肉食をやめ、姦淫をしりぞけ、世俗に煩わされなくし、己の心を平成、じゃなくて平静にするべきである、と。
世の中の流れに一喜一憂するようでは駄目だ、と、釈迦は言っていたのだが、日蓮仏法がどうこうとかいう池田の大ちゃんファンクラブは、年に何回も念入りに選挙やっては一喜一憂したりさせたりしている。
その口から同じく、「世の中の流れに一喜一憂するようでは駄目だ」というのだから、どの口がいうのかと、笑わざるを得ないのである。
話を戻して。
その例の「スッタニパータ」には、これこれこういうのは邪なものであるだとか、またはこれが正しい状態である、とかいう話を色々書いているのだが、紀元前の昔から人は何一つ変わらんのだなぁ、と感じずにはいられなかったところがあった。
チュンダ、という題の章がある。
チュンダという鍛冶工がブッダに質問してそれに答えるという内容である。
その内容は、「世の中にはどれだけの修行者がいますか?」というものである。
釈迦が言うには、「四種類である。五種はない」と。
86 「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。
87 この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ
88 みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。
89 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──かれは<道を汚す者>である。
と、ある。これは手書きじゃなくて、どこかのページに書いてあるのをもってきた。以下も引用したらここである。ちょっと誤字があるようだが、そのままコピーしていく。http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
かれは<道を汚す者>である。
嗚呼、耳が痛い。と、言っておけばいいかな。ふっふっふ。
話が前後するが、冒頭の章は「蛇」となっている。ちと余談気味ではあるが、少し。
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
この世とかの世とをともに捨て去る、というのが何度か繰り返される。
この世とかの世というのを言い換えれば、過去と未来、かなと考えている。
この世というのは、自分が生きてきたことも含めた、全ての過去の執着地点に近い場所の広がりとでもいうわけで(上手い表現は期待しないように)、この世とは常に過去であると。
かの世というのは、約めていえば死んだ先である。全ての過去の集積したものが灰燼に帰した状態になる。かの世というのは、この世からしたら常に未来であるといえる。
それはともかく、以前にも何度か引用した、仏教学者のひろさちやの解釈では、「釈迦は今を生きなさいと言っている」と書かれていたのだが、この世とかの世をともに捨て去る、というのを指していたのかな、などと思ったものである。
さて、仏教といえば、不殺生で肉を食うことを戒律で禁じている、というのは一般に知られているところ。
だが、こんな話がある。
題して「なまぐさ」という章である。
242 「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、──これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
後に何行か、これがなまぐさである云々というのがあり、そしてこう続く。
249 魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみえることも、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供につとめることも、あるいはまた世の中でなされるような、不死を得るための苦行も、(ヴェーダの)呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。
250 通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執著を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない。」
別に肉を食べなさい、とかいう話ではない。ついでだが、釈迦の死因は、歓待されたときの料理に、誤って毒キノコが入っており、それによる食中毒、というのを昔聞いたのだが、豚の内臓を食べたせい、というのもあるそうだ。
肉を進んで食うわけではないが、人が出してくれたものにこだわることもないので、絶対に食わないという、執著(しゅうじゃく及びしゅうちゃく:上記の著作ではこの字が使われている)でやっていたわけではないのだろうと思われる。
出されても肉は食いません!なんぞというのは、そもそも真理に到達して世の中のことにこだわらない存在の姿ではないのである。執着しちゃだめ!と執着してやっていたらアホであろう?
そこはいいとして、上の引用箇所の249を振り返っていただきたい。
もろもろの精進潔斎というのは、それをただこなせば「その人を清める」ものではない、ということである。
手段ではあるが、目的ではないのである。
もういつものノリだな?とどれだけいるかわからんが、読んでる方はお気づきであろう。
肉を食わなくなれば、心が平静になって素晴らしくなる、などとのたまうのは、勘違いも甚だしいということである。
そして、そもそもが執著を去ってはいないので、「見聞きしたことに汚」されるのである。
ネズミの実験で、肉だけ与えられた方が共食いを始めたという結果を聞き、「肉を食うと悪魔になる」などといったり、「肉を食うと思考が乱れる」と言っていたわりには、年中乱れた思考だったりするのである。
ああ、この上記二つの発言は別人のものであることをお断りしておく。前者はどこぞでブログを書いているフルータリアン(一応「フタコブラクダ」でもないが、変わらんな)で、残りはマケヒコ上人である。
「見聞きしたことに汚され」、乱れた思考を持つものの行動を見よ!
肉を断って平穏な心を持っているはずが、馬鹿な人類は滅びよと、怒りによる執著を捨てられていない発言を繰り返し、「西洋医学は人を食い物にしている」といいつつ、その「馬鹿な人類」をたぶらかすために、たぶらかしの西洋医学の元へ赴いては血液検査とやらで異常がなかったことを自慢する。
己が体が生きている証を如実に表しているのに、「食ったものが悪い」などと、自身の生命を卑下し、片や「人類の食すべきものは果物である」とのたまい、それを食している己は神聖であるかのように思い上がる。
これが人類を超越したなどというのなら、もう全ての人類は人類を超越してきた。それは、思い違いというものである。釈迦が説法していた時代から、何一つ変わらない。
904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。
あれが人間やら人類を超えた、というのなら、下の意味で超えて(頭の脂肪も肥えて)猿になっただけである。ただし、本物の猿の方が上等である。
──これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
と、こうやって怒ったようになにやら書いているうちは、わしもスッタニパータで書かれているような<道を汚す者>には違いない。まあ、それがどうした?としか思わないが。
なんか仙人みたいだとか言われることがあったが、修行らしい修行もした覚えはないので、仙人ではなく仙人のなりそこないを専任しているということにしておいて欲しい。
では、よき終末を。
積読、なんぞというが、危うく化石か、石油になるところだった。
しばらく前に書いた、反知性がどうこう、とかいう話の本もその一つだが、著者の謂わんとするところはよくある話である。
「どうして日本はこうおかしくなったのだ!?」というあれで、もう少し前に書いた、『心でっかち』な論といえるような感じではある。
とはいえ、最後の人が陥りやすい思考についての話は納得できる話だったので、そこだけ読んで書いたしだいである。
「あの手の話はいつぞやの心でっかちじゃないか?」と突込みがこないものか、と思ったが、自分で突っ込んでいたので、それで十分であった。
さて、他にも出てきた。岩波文庫の『伊勢物語』だとか、『五輪書』なんかも買っていたようだ。何を目指しているのか思い出せないが、少なくとも世界征服を目指しているわけではないのだと思われる。
世界を征服しようと思ったら、とりあえず英語の勉強からなので、かなり遠い。
さて、いきなり話が変わるが、実家が創価学会である、とは何度も書いた。何度もここを読んでいる人がどれだけいるかしらんが、また記しておく。
日本で最大規模といわれるその宗教団体は、大雑把に言えば、鎌倉時代の僧侶日蓮が開いた、日蓮宗の一派である。
つまりは仏教が基礎となっている。義仲は木曽である。
子供のころか若いころか、もう詳らかではないが、「仏教というが、それは何なのだ?」というのがずっとあった、と思う。
釈迦は「自分を拝めば幸せになる」といって布教なんぞしてないのに、創価学会の指導者たる池田の大ちゃんは「私についてくれば間違いないんだ!」とかほざいていた。実際にそうしゃべっているというか叫んでいるようなのを聞いたものである。
大体、日蓮宗なら、日蓮とその教えについていくべきであって、太ったジジイについていかなければならん道理はない。
いくらジジイが「蓮祖の通りにやってる我々は間違いはない」などと言おうが、それは指導でしかない。
これは冗談だが、日蓮が新聞配って選挙活動しろ、とは言っていないのである。
なんぞとずっと思っていたりしたので、たまたま目にした、中村 元訳の『ブッダのことば』というのを買ったようである。
大きくそう書いてある下に、「スッタニパータ」とある。これが、翻訳した経典の名前だそうで、最古にあたる経典といわれている。
いつもどーり長めの前振りであるが、別に話自体は短い・・・はず。
それはともかく。
仏教といえば、煩悩を断ち、それによって平穏な心を手にして幸せになる、というのが教えの骨子である。
で、煩悩を断つ方法はなんだというと、修行したりするというわけである。仏門に入った人たちの生活とほぼ同義である。
肉食をやめ、姦淫をしりぞけ、世俗に煩わされなくし、己の心を平成、じゃなくて平静にするべきである、と。
世の中の流れに一喜一憂するようでは駄目だ、と、釈迦は言っていたのだが、日蓮仏法がどうこうとかいう池田の大ちゃんファンクラブは、年に何回も念入りに選挙やっては一喜一憂したりさせたりしている。
その口から同じく、「世の中の流れに一喜一憂するようでは駄目だ」というのだから、どの口がいうのかと、笑わざるを得ないのである。
話を戻して。
その例の「スッタニパータ」には、これこれこういうのは邪なものであるだとか、またはこれが正しい状態である、とかいう話を色々書いているのだが、紀元前の昔から人は何一つ変わらんのだなぁ、と感じずにはいられなかったところがあった。
チュンダ、という題の章がある。
チュンダという鍛冶工がブッダに質問してそれに答えるという内容である。
その内容は、「世の中にはどれだけの修行者がいますか?」というものである。
釈迦が言うには、「四種類である。五種はない」と。
86 「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。
87 この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ
88 みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。
89 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──かれは<道を汚す者>である。
と、ある。これは手書きじゃなくて、どこかのページに書いてあるのをもってきた。以下も引用したらここである。ちょっと誤字があるようだが、そのままコピーしていく。http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
かれは<道を汚す者>である。
嗚呼、耳が痛い。と、言っておけばいいかな。ふっふっふ。
話が前後するが、冒頭の章は「蛇」となっている。ちと余談気味ではあるが、少し。
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
この世とかの世とをともに捨て去る、というのが何度か繰り返される。
この世とかの世というのを言い換えれば、過去と未来、かなと考えている。
この世というのは、自分が生きてきたことも含めた、全ての過去の執着地点に近い場所の広がりとでもいうわけで(上手い表現は期待しないように)、この世とは常に過去であると。
かの世というのは、約めていえば死んだ先である。全ての過去の集積したものが灰燼に帰した状態になる。かの世というのは、この世からしたら常に未来であるといえる。
それはともかく、以前にも何度か引用した、仏教学者のひろさちやの解釈では、「釈迦は今を生きなさいと言っている」と書かれていたのだが、この世とかの世をともに捨て去る、というのを指していたのかな、などと思ったものである。
さて、仏教といえば、不殺生で肉を食うことを戒律で禁じている、というのは一般に知られているところ。
だが、こんな話がある。
題して「なまぐさ」という章である。
242 「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、──これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
後に何行か、これがなまぐさである云々というのがあり、そしてこう続く。
249 魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみえることも、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供につとめることも、あるいはまた世の中でなされるような、不死を得るための苦行も、(ヴェーダの)呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。
250 通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執著を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない。」
別に肉を食べなさい、とかいう話ではない。ついでだが、釈迦の死因は、歓待されたときの料理に、誤って毒キノコが入っており、それによる食中毒、というのを昔聞いたのだが、豚の内臓を食べたせい、というのもあるそうだ。
肉を進んで食うわけではないが、人が出してくれたものにこだわることもないので、絶対に食わないという、執著(しゅうじゃく及びしゅうちゃく:上記の著作ではこの字が使われている)でやっていたわけではないのだろうと思われる。
出されても肉は食いません!なんぞというのは、そもそも真理に到達して世の中のことにこだわらない存在の姿ではないのである。執着しちゃだめ!と執着してやっていたらアホであろう?
そこはいいとして、上の引用箇所の249を振り返っていただきたい。
もろもろの精進潔斎というのは、それをただこなせば「その人を清める」ものではない、ということである。
手段ではあるが、目的ではないのである。
もういつものノリだな?とどれだけいるかわからんが、読んでる方はお気づきであろう。
肉を食わなくなれば、心が平静になって素晴らしくなる、などとのたまうのは、勘違いも甚だしいということである。
そして、そもそもが執著を去ってはいないので、「見聞きしたことに汚」されるのである。
ネズミの実験で、肉だけ与えられた方が共食いを始めたという結果を聞き、「肉を食うと悪魔になる」などといったり、「肉を食うと思考が乱れる」と言っていたわりには、年中乱れた思考だったりするのである。
ああ、この上記二つの発言は別人のものであることをお断りしておく。前者はどこぞでブログを書いているフルータリアン(一応「フタコブラクダ」でもないが、変わらんな)で、残りはマケヒコ上人である。
「見聞きしたことに汚され」、乱れた思考を持つものの行動を見よ!
肉を断って平穏な心を持っているはずが、馬鹿な人類は滅びよと、怒りによる執著を捨てられていない発言を繰り返し、「西洋医学は人を食い物にしている」といいつつ、その「馬鹿な人類」をたぶらかすために、たぶらかしの西洋医学の元へ赴いては血液検査とやらで異常がなかったことを自慢する。
己が体が生きている証を如実に表しているのに、「食ったものが悪い」などと、自身の生命を卑下し、片や「人類の食すべきものは果物である」とのたまい、それを食している己は神聖であるかのように思い上がる。
これが人類を超越したなどというのなら、もう全ての人類は人類を超越してきた。それは、思い違いというものである。釈迦が説法していた時代から、何一つ変わらない。
904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。
あれが人間やら人類を超えた、というのなら、下の意味で超えて(頭の脂肪も肥えて)猿になっただけである。ただし、本物の猿の方が上等である。
──これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。
と、こうやって怒ったようになにやら書いているうちは、わしもスッタニパータで書かれているような<道を汚す者>には違いない。まあ、それがどうした?としか思わないが。
なんか仙人みたいだとか言われることがあったが、修行らしい修行もした覚えはないので、仙人ではなく仙人のなりそこないを専任しているということにしておいて欲しい。
では、よき終末を。