道なき道
2012-12-14 | 雑記
いつも剣呑な話を呑気にやっているので、呑気な話を剣呑にやろうかと思う。いや、冗談である。呑気は呑気でも、呑(む)気の間違いだろう。
スポンサーの「フレンズ歯科クリニック」さんで、ここのラヂヲがBGMになっている、という話は以前に書いたりしゃべったり、というよりその前に書かれていたが、BGMにどうだろうという話と同時に、ポスターもやろうとなっていて、実際に出来上がった。
出来上がったうちの何枚かはこちらも戴き、先日、募集も行った(現時点で応募者は見事無しである)。
早くしないと腐ってしまうので、気がついた方から応募してもらいたいものである(腐るのは主に写真に写った人)。応募方法はすぐ上のリンク先の記事にあるので、そちらを参照のこと。
まず腐ることはないので、その話は措く。
そのフレンズ歯科さんでポスターを貼ったという。
こちらがその記事である。
といっても、記事の一番下に紹介されている。いや、まさか紹介されているとは思わなくて、いつものように「今日はどんな記事かな」と読んでいたら、え?となったところである。
貼ったという話もさることながら、いや、その前に記事自体を注目すべきところ。
そこらに生えている雑草が、人間にとってとても有用なものである、という話を書いた本の紹介である。原著は英語で、未邦訳。
雑草といえば、先月ようやく見た『地球少女アルジュナ』で、主人公が自然農法をやっている爺さんに「雑草なんて食えるの?」と問うと「野菜は皆元々雑草だ」と平然と答えるシーンがある。
現在我々が食する「野菜」なるものは、動物でいうところの「家畜」である。ある程度命の形はあるが、命の力はかなり弱まったものであろう。
何をもって雑草と「野菜」に違いが出ているのか(そういう風に話は触れられていないが)。それは、雑草は地中深く根を張っているというのである。
人口に膾炙される言でも、「根気」などという。文字通りの「根気」が雑草にはあるといえよう。
ほぼ似たものでも、まったく違うと感じさせられるものの例を挙げておく。
スーパーで買える、長薯というものがあるだろう。定かではないが、「自然薯」と呼ばれるものの品種改良品だという(近所の割烹店主の言)。いつもの嫌味で「改悪だ」と言いたいところである。
自然薯は、地中に真っ直ぐ深く根を張る。人が食べようと掘り出して丁度いいくらいで、数メートルからその倍以上になり、石などの根を通せないものを迂回しつつ鉛直線に伸びる。
一方の長薯はというと、人の都合で掘り出しやすくするために、パイプに根を這わせ、地面と平行に植えておき、伸びたらパイプごと掘り出すという。
この姿、現代人と野生動物の違いが思い浮かばないだろうか。「人間と動物は違う」という、捻じ曲がった前提は忘れてもらう。
レールの上をその通り進めと命令される現代人(長薯)。レールを逸れれば抹殺されるのか、出来ないと思っているようである。もしくは逸れたとしたら天地が引っくり返る(それがなんだ?)と教え込まれたのか、逸れようとするものは少ない。
道なき道を行く野生動物(自然薯)。道なきとはいえ、彼らには各々、天賦の「歩む才」がある。続くものに道を示し、また己自身の道を切り開いている。(自然薯は掘り出すと、また同じところで伸びていたりするそうな)
自然薯が石を迂回しつつも真っ直ぐに地中を進む姿と重なるのである。
我々は舗装道路を作りすぎた。また、その上を歩かされることに慣れすぎた。我々が歩んだところが道だったのに、いつしか道は後から辿る以外のものは無いと思うようになった。
雑草が人にとって有用だというこの話は、我々が舗装道路の上で忘れてしまった、「歩む才」を示しているのだろうと感じる。
とはいえ、いきなり山に入ってそこらの草を食えばいいというものではない。天賦の才が腐っているか弱っているので、自殺行為ではある。
案外死なないので、思い切ってやれば大丈夫かもしれないがキノコは辞めておこう。1UPキノコは生えていない。毒キノコならうなるほどある。
それはつまり、続くべき、歩むべき道を知ることが出来る可能性があるということである。人の歩むべき道は舗装道路ではないのである。必要に応じて使う分にはいいだろうが。
と、堅苦しく書いたが、自然薯は本当に美味なので、よかったら近所の割烹に一緒に行ってみないかね?いつもあるわけではないが、この時期はたまにあるようだ。だが、こちらは募集しない。
本題はそちらだった気がしないでもないが、こちらも負けじと、自宅に貼ったポスターの写真を載せて終わりとする。
クリックで原寸大へ
こちらはラヂヲでも語ったが、「部屋の周波数が変わった」と、制作された為清さんの言がある。
周波数かどうかは、写っている本人にはよく判らないというと情けないところだが、実物を間近にすると、妙な説得力を感じる。実物が実物を?判り難いな。ポスターの実物を、である。
これからは毎日、目が覚めると自分の着物姿を見ることになる。「わしは今、こういう経験をしているのだなぁ」と感慨に耽るのであろう。
ところで忘れていた。
その記事の最後の方で「売り出し中の俳優」という謳い文句でポスターを貼り出したというのである。
これは然る方の冗談なんだが・・・と思ったが、このまま「道なき道」を行ってみるのもいいかもしれないと思うしだいである。
なぁに、靴で舗装道路はバカでも歩けるが、下駄で舗装道路はバカではこける。靴でもこけそうな、もしくはこける奴はゴロゴロしているが、こちらは下駄でもほぼこけない。
そろそろ舗装道路を下駄で歩くのもバカバカしくなってきた。新しく道を拵えるのも一興であろう。では、また。
スポンサーの「フレンズ歯科クリニック」さんで、ここのラヂヲがBGMになっている、という話は以前に書いたりしゃべったり、というよりその前に書かれていたが、BGMにどうだろうという話と同時に、ポスターもやろうとなっていて、実際に出来上がった。
出来上がったうちの何枚かはこちらも戴き、先日、募集も行った(現時点で応募者は見事無しである)。
早くしないと腐ってしまうので、気がついた方から応募してもらいたいものである(腐るのは主に写真に写った人)。応募方法はすぐ上のリンク先の記事にあるので、そちらを参照のこと。
まず腐ることはないので、その話は措く。
そのフレンズ歯科さんでポスターを貼ったという。
こちらがその記事である。
フリーフード(雑草)と薬1(原文で1は1に○で囲ったもの)
といっても、記事の一番下に紹介されている。いや、まさか紹介されているとは思わなくて、いつものように「今日はどんな記事かな」と読んでいたら、え?となったところである。
貼ったという話もさることながら、いや、その前に記事自体を注目すべきところ。
そこらに生えている雑草が、人間にとってとても有用なものである、という話を書いた本の紹介である。原著は英語で、未邦訳。
雑草といえば、先月ようやく見た『地球少女アルジュナ』で、主人公が自然農法をやっている爺さんに「雑草なんて食えるの?」と問うと「野菜は皆元々雑草だ」と平然と答えるシーンがある。
現在我々が食する「野菜」なるものは、動物でいうところの「家畜」である。ある程度命の形はあるが、命の力はかなり弱まったものであろう。
何をもって雑草と「野菜」に違いが出ているのか(そういう風に話は触れられていないが)。それは、雑草は地中深く根を張っているというのである。
人口に膾炙される言でも、「根気」などという。文字通りの「根気」が雑草にはあるといえよう。
ほぼ似たものでも、まったく違うと感じさせられるものの例を挙げておく。
スーパーで買える、長薯というものがあるだろう。定かではないが、「自然薯」と呼ばれるものの品種改良品だという(近所の割烹店主の言)。いつもの嫌味で「改悪だ」と言いたいところである。
自然薯は、地中に真っ直ぐ深く根を張る。人が食べようと掘り出して丁度いいくらいで、数メートルからその倍以上になり、石などの根を通せないものを迂回しつつ鉛直線に伸びる。
一方の長薯はというと、人の都合で掘り出しやすくするために、パイプに根を這わせ、地面と平行に植えておき、伸びたらパイプごと掘り出すという。
この姿、現代人と野生動物の違いが思い浮かばないだろうか。「人間と動物は違う」という、捻じ曲がった前提は忘れてもらう。
レールの上をその通り進めと命令される現代人(長薯)。レールを逸れれば抹殺されるのか、出来ないと思っているようである。もしくは逸れたとしたら天地が引っくり返る(それがなんだ?)と教え込まれたのか、逸れようとするものは少ない。
道なき道を行く野生動物(自然薯)。道なきとはいえ、彼らには各々、天賦の「歩む才」がある。続くものに道を示し、また己自身の道を切り開いている。(自然薯は掘り出すと、また同じところで伸びていたりするそうな)
自然薯が石を迂回しつつも真っ直ぐに地中を進む姿と重なるのである。
我々は舗装道路を作りすぎた。また、その上を歩かされることに慣れすぎた。我々が歩んだところが道だったのに、いつしか道は後から辿る以外のものは無いと思うようになった。
雑草が人にとって有用だというこの話は、我々が舗装道路の上で忘れてしまった、「歩む才」を示しているのだろうと感じる。
とはいえ、いきなり山に入ってそこらの草を食えばいいというものではない。天賦の才が腐っているか弱っているので、自殺行為ではある。
案外死なないので、思い切ってやれば大丈夫かもしれないがキノコは辞めておこう。1UPキノコは生えていない。毒キノコならうなるほどある。
それはつまり、続くべき、歩むべき道を知ることが出来る可能性があるということである。人の歩むべき道は舗装道路ではないのである。必要に応じて使う分にはいいだろうが。
と、堅苦しく書いたが、自然薯は本当に美味なので、よかったら近所の割烹に一緒に行ってみないかね?いつもあるわけではないが、この時期はたまにあるようだ。だが、こちらは募集しない。
本題はそちらだった気がしないでもないが、こちらも負けじと、自宅に貼ったポスターの写真を載せて終わりとする。
クリックで原寸大へ
こちらはラヂヲでも語ったが、「部屋の周波数が変わった」と、制作された為清さんの言がある。
周波数かどうかは、写っている本人にはよく判らないというと情けないところだが、実物を間近にすると、妙な説得力を感じる。実物が実物を?判り難いな。ポスターの実物を、である。
これからは毎日、目が覚めると自分の着物姿を見ることになる。「わしは今、こういう経験をしているのだなぁ」と感慨に耽るのであろう。
ところで忘れていた。
その記事の最後の方で「売り出し中の俳優」という謳い文句でポスターを貼り出したというのである。
これは然る方の冗談なんだが・・・と思ったが、このまま「道なき道」を行ってみるのもいいかもしれないと思うしだいである。
なぁに、靴で舗装道路はバカでも歩けるが、下駄で舗装道路はバカではこける。靴でもこけそうな、もしくはこける奴はゴロゴロしているが、こちらは下駄でもほぼこけない。
そろそろ舗装道路を下駄で歩くのもバカバカしくなってきた。新しく道を拵えるのも一興であろう。では、また。