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ウヰスキーのある風景

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手紙の件とあなどり難い話

2017-03-10 | 雑記
昨日は、スタッフの女性がなんとなく語った言葉から何か考えてもらおうと、その女性のロッカーに恋文をしかけておくか、と書いたものだが、書く暇がなかった。※恋文ではありません。

実を言うと迷っていたのと、タイムカードを打った後に書くにしても、夜勤が詰めているので書きにくいだろうとは予測していたから、そのとおりになったようだ。

後は、わけのわからん気迫で提案していた時に傍らにいたもう一人に言うかな、とは思っている。

あの日あの時、驚きのあまり、飯を食っていたのについ電話に出てしまった、と言っていた。申し訳ない。驚かせるつもりはなくて、自分のほうも驚いている。


さて、今日はあなどり難い話をする。別にあなどり難いわけではないのだが、ついそう書いた。


とあるおっさんが脱サラして、翻訳出版やらHPでも翻訳記事を載せる、ということをやっていた。誰とは知っていた人は知っているだろう。

そのおっさんが、海外の同じタイプの話をしている活動家というのか、その人物の本を出版した。

そのイギリス人の本を読み、彼がたどり着いた境地とでもいうものと、その理論や目的などに触れ、痛く感動したものである。

言ってしまえば、「人類に目覚めて欲しい」と感じ、それを己の使命として日夜励んでいるのだと理解したものである。

講演をやると、最初の時は0に近いくらいの人数しかこなかったので、キャンセルしたこともあったとか書いていた。

しかし、彼は別に講演で人を集めて人気者になるのが目的ではなかったので、ずっと講演を開いては本を書き、色々情報を集め回り、自身の神秘的とも言える体験や、出会いを通じて、今も現役で喋ったり書いたり講演している。


それを翻訳した日本人のおっさんは、毎日のように言っていた。「日本人はバカだ」と。滅んで当然だと言っていた。

講演を頼まれたこともあったそうだが、やりたいことがやれないのと、講演向けに喋るように喋ることは出来ないだとかで断ったとか言っていた。

はて?日本人に、海外で問題になっている、決して日本にも関係がないとは言えない話を翻訳してHPに載せていたのはなんだったのか?

その情報やらを知らしめるのが目的ではなかったのか?そのために色々やってきたのではなかったのか?どうやらそうではなかったようだ。

上記のイギリス人の著作を翻訳出版した当初は、絶賛していたものである。ただ、あとがきに奇妙な言葉があった覚えもある。

「彼はもう十分やった」という風な言葉があった気がする。もしくはHPだったか。HPは消えてなくなったので、そちらでは確認しようがないし、本も原著者には申し訳ないと思うが、捨ててしまった。


イギリス人の著者は、最新物理学の話などを引用し、我々が普段認識しているような確固たる物質世界はないと述べていた。

それを見せているのは、ユングでいえば集合的無意識とでもいうような、「コンシャスネス」だという。

細かい話は忘れてしまったが、我々の本質は、この見えてる肉体や自我ではなく、霊的なものなのだといえる。

我々は「人間という体験」をしているのだ、と。

「あなたは何をするために生まれてきましたか?、バスの運転手ですか?警察官ですか?」という風に質問を並べる箇所があったことを、この話を書こうと思ったときに思い出した。
彼がなんと言ったかはその言葉を忘れてしまったので、こちらの言葉で書くが、それはつまり、「人間として生きるということは何かを知らねばならない」と、そういうことを書いていたと思う。


そういう話を書いていた本を間近にし、翻訳していたおっさんは、「森に入って物質文明を捨てて、地球と共に暮らすことこそ至高」とのたまいだした。
よくもまあ、マスコミは人を洗脳するだのなんだのと書いていたのに、「自然は素晴らしい」とマスコミと同じ口ぶりで言えるものだと思う。

イギリス人活動家の上記の理論を簡単に言うと、我々は幻を見ているのだ、という。

彼の思いつきではなく、それを裏付ける話を持ってきた上での言である。


翻訳したおっさんは、その件を論破することもなく、「どちらにしてもこの肉体を持って生きていることは覆せないので、自給自足の自然に沿った生活をすべし」と述べた。

そして、「彼を超えた」と言い出したのである。


この二人の違いを述べる。


イギリス人活動家は、「物質に惑わされているだけで、これらは幻だと認識すれば、人間は本来無限の可能性のある存在なんだ」と、人間であることを、人間を素晴らしいと言っている。
野口晴哉も、「もしかしたら人間も羽が生えて飛べるようになるかもしれないじゃないですか」と、そこだけ聞いたら妙にも聞こえるが、人間に潜む、生命の無限の可能性を見出していたのだといえる。

表面上のバカさ加減だとかは意味がない。そもそも幻に惑わされて、自分が分からなくなっているだけだというわけだ。気づいてくれなきゃどうしようもないかもしれないが、それでも人間の本質というものを追求し、それを信念を持って語っている。


翻訳のおっさんは、さっきも書いたが、「日本人はバカだ」と言っていた。

講演を断ったのも、バカに話をしたくないからだろうと思う。そのための言い訳だったのだろう。

やる気の話とも言えなくもないのだが、そのおっさんはわしに、「やる気ありゃなんでもできるだろうが」みたいな説教をしてきたことを覚えている。
そっくりそのままお返ししておけばよかったなと、今は後悔してはいないが、それを言った時点でフォーラムから放逐だったろう。

イギリス人活動家は、人間をあなどらなかった。そもそも、あなどるところなどなかったのだから。

翻訳のおっさんは、人間をあなどった。表面上のくだらなさにたぶらかされ、人間をバカにし続けていたが、それはつまり、己をあなどっていたのである。己という人間の可能性をあなどったのだ。

HPで翻訳やら随筆やら書いていたのは、「バカな日本人に本当のことを知らしめれば動いて当然だ」というあなどりからやっていただけなのである。
「社会運動を起こしたかった」などと慨嘆していたが、人をあなどっている奴に動かせる社会など、そもそも存在しなかったのである。

イギリス人活動家の言にならって、「マインドの牢獄がどうこう」と言っていたが、自分がその牢獄の真っ只中にいることに気がつかなかったのである。

「人を呪わば穴二つ」と、古来より言う。日本人はバカだと呪い続けた結果は、本質を見抜く目を完全に曇らせただけだったのである。


人間とはあなどり難い存在なのである。


いい具合に来た、まったく当てはまる話をしておこう。


ずっと気持ちの悪いコメントをしてくる御仁がいた。コメントまで読んでいる人はいないかもしれないが、文からかもし出す雰囲気が気持ち悪かった。

「あなたを助けてあげてるんですよ」と迫ってくるような感じが当初からあったのだが、本当にそうだったようだ。

お仲間に引き入れたかったので、わしを「あなどって」、正しい知識を身に付けさせたかったらしい。

それで、どれほど正しい知識をお持ちだったのかというと、「これ以上言ってたらあのおっさんと同じといわれかねないので」などと、どう見ても小ばかにしてるようなことを言ってきたので、ふざけるなと言ったら、「あのおっさんを攻撃してたつもりだったんです」と、どう考えても生き物の思考回路とは思えないことをのたまっていた。

かつて、その御仁に「その考え方はあのおっさんと同じですよ」と、今まで書いたことを読んで覚えているなら分かるはずの流れで指摘したことがあったのだが、そういう返し方ををする。

ちなみに、何をこれ以上言ってたら、という話かというと、オススメの映画の推薦評の最後に言っていたのである。攻撃も何もないし、こちらの意図は何一つ伝わっていないのだろう。

正しい知識とやらをお持ちなら、まともな言葉を扱う正しい知識も持っていないと、伝えようも伝わりようもないのである。


わしに、人間をあなどらせないで欲しいものであるが、恐らく、至高の思考回路をお持ちなのだろう。人間の可能性とは素晴らしい。


さて、なんでこんな話をしたのかというと、自分でも感じるところがあったからである。

いつからかは分からないが、人間をあなどることは、人間の本質をあなどり、そして、己自身の本質をあなどる。そう感じ始めていた。

今ほどはっきりとそう感じてはいなかったのだが、かつて、そういう気持ちを捨てようと思いながら街を歩いたり店で人と喋ったりしていたら、こちらの身長が実測より高く見えるだとか、身なりがいいだとか、品がよいだとか、風呂敷結んで肩掛け鞄にしてたらおしゃれだとか、歳言ったら20代かと思ったとか言われたり、こっちとしては別に物を多く知ってる覚えはないのに、話の引き出しが多いだのといわれたり、不思議でならなかった。

仕事場ではあまり、そういうことはなかったと思う。おそらく、わしが人をあなどっていたからだろう。ブンピツカですか?と言ってきた新入アルバイトのおじさんには、同上で、もっと若いと思った、とは言われた。

そこまでなら、別によくある話とは言えるので、例えである。そんなつもりがないのに、そう見えるというのは不思議だな、と思ったと。


前に、とある女性に出会って、「サインくれ」といわれた、と書いた。今後、このブログの存在をその女性に知られると、どう思われるか分からんが、書きたいことを書く。まあ、後日ばらすに違いない。

出会うしばらく前のことだった。「自分と話の合う、年下の女性が欲しいな」と、こうはっきり思ったことがあった。

そして、練習で書いているという小説を書き始めたころに、その女性と会った。


その小説のヒロインは、自分より少し背の低い、髪の長い女の子である。ヒロインの一人、なのかもしれないが、ともかく。

本人の直接の問題でもないのに周囲から白眼視され、ねじくれたところがあり、生意気で高飛車というか傲慢というか、そういう性格という話である。話である、というのは借りてきたキャラだから。

そういう性格というのは、本来は素直な子だと思われる。周囲からあなどられれば、それに対抗するような性格になっていくわけだ。根が素直ならなおさらである。


例の女性に戻る。


二回目の、なんとなく「サインねだってるのかな」と考えながらその店に訪れたら、本当に現れた、という話も以前書いた。

仕事に行くときとは違う髪形で、なんと、ロングヘアーだったのである。前に見たときは束ねていたのである。


そして三回目。

わざわざ着物ででかけ、来るだろうと予測していったら本当に来たのだが、そこは措く。よく来る日をいっていたからだ。

夜の営業の閉店までしゃべって、終わり際に、わしが着物姿なので、皆で記念撮影しておこうとなった。前々から撮っておきたかったとも、店員の女性が言っていたのもあったので、承諾した。

その女性が立ち上がり、その後自分も立ち上がる。そして、背後からその女性の背丈を検めてみたところ、小説のイメージぐらいだったのである。

中では「頭一つ分くらい」と大雑把に書いたが、丸々一つ分ではない。だが、大体これくらいと考えていたのに近かったのだ。

それに気づいたとき、わしは自分の片てのひらを頭にあて、「なんだこれ?」と自分の目を疑いかけたほどである。

そのお店の女性店員は、例の女性とLINEだとかで馴染んでいるのもあり、例の女性を評して「素直ないい子」と言っていたと思う。

「素直でいい子だったのに」みたいな話なんかがニュースで流れたりするが、そんな冗談は忘れよう。


人が人をあなどってはならないのである。自らの無限の可能性を閉じるだけなのだから。

あなどっていると、至高の思考回路が宇宙人的言語を操り、人心を誑かすので、注意されたし。


では、よき終末を。


シャイン氏とポンコツ環境についての所見

2017-03-08 | 雑記
シャイン氏について、布団の中でゴロゴロしていながらふと、思ったことがあった。

シャイン氏そのものではなく、周りについてである。

本人については、仕事となると意識過剰になって、仕事に身を入れてるつもりが実際は入ってないのと同じ状況なのだろうと推測している。

だから、仕事中は何をやってもぎこちなくなると結論付けた。それで、意識の集中の仕方を変える方法を教えたわけだ。

「恋煩い」だのなんだのと冗談めかして書いたが、つまりは瞑想である。

瞑想状態の感覚が分かれば、何事を行うにも、日々是修行となる。

瞑想の状態というのは、ひとことに意識を集中させているのだが、それはゆるやかな集中である。意識がガタガタの人に、己の意識のあり方を知らせるにはいい方法である。
ただ、参考にしたところにも書いていたのだが、「寝食を忘れるほど没頭するものがある人には瞑想は不要」という。
座禅を組んで瞑目して、というのが瞑想というわけではないのである。そういう話とやり方を伝えた。

大脳生理学だか、脳神経学だか、精神科だかは忘れたが、瞑想には高い効能があるという。


さて、そこは本人の話。


ある日、仕事場で面白いことを言っている人がいた。スタッフの女性で、先日のアニソンとかをステージで歌っているのとは別人となる。

「体調の悪い人がいると、なんだかひきずられて自分も気分が落ち込む」といっていた。

ほお?と思い、「なら、元気な人がいたら、元気になるのかね?」と問うと、「そんな感じですねぇ」と答えていた。


その女性は穏やかな感じの人物なのだが、シャイン氏と仕事に入るたびに、いつもやきもきしていた。

ある日、余りにも腹が立ったのだろう、当人に向かってではなかったようだが、「あのポンコツ!」といっていたと聞く。

あの人がポンコツなどと罵るとは・・・という驚きもあったのだが、ポンコツなんて久しぶりに聞いたな、という方が大きかった気がする。


ポンコツ具合を毎日見ていたら、流石にそう思っても仕方がないとは思う。

しかし、先ほどの彼女の言を思い浮かべてもらいたい。

「体調が悪い人がいるとひきずられる」と。

これは別に彼女だけの特殊体質ではなく、感じように違いはあるのだが、皆持っているものである。

なんとなく、という雰囲気のように感じる人もいれば、彼女のようになる人もいる。

フランス語でいう、ラポールという奴だろう。なんとなく言わなくても言いたいことが分かった、というような通じ合いのことである。


毎日のようにポンコツ振りを見せ付けられて、「このポンコツ!」と思い続けているから、シャイン氏はさらにポンコツになっていくという悪循環。
そして、ポンコツが反射して、その女性のお顔もポンコツになりかねない。それは困る。

別に、その女性だけがポンコツだと思っているわけではなく、現場全員がそう思っているので、シャイン氏は包囲網にはまっているわけだ。

仕事自体はともかく、シャイン氏自体がポンコツではないことを先日は書いておいたが、そんな状況である。

それなので、上記のやり取りの件を含めた手紙でもロッカーに貼り付けておこうかと思う。提案と指摘である。

恋文と間違えられるとお互い困るが、そんな勘違いはしないように、※恋文ではありません などと書いてはおく。

「ポンコツと思いながら相手に接すると、本当にポンコツになってしまって、さらにあなたのお顔もポンコツになるので、それは困ります」とやら書くつもりはあるが、渡すのに躊躇しそうである。
効果が出てくるかは当人次第だが、本人の意識変革を促す手法も伝えたので、ポンコツと思いながら接するのはおやめいただきたい、という旨である。怪しげな言い方になるが、これはあなたのためでもあるのです、などと。
皆がどこまで思っているのかはわからないが、決してボケて脳機能がおかしくなっているわけではないことも伝える予定である。



上記で、「現場全員が思っている」と書いた。先日も、業を煮やした後輩バイトが、「社員全員無能だ!」と怒鳴り散らすということがあったそうな。

ポンコツなのは、実際に全員である。その件は先日にも書いた気がする。

そして、本当に全員なのである。「無能社員」と罵ったほうも、である。


こちらと同じ身長で、70kgだかになったとお嘆きであったその荒廃、じゃなくて後輩。

考えてみると無意味だったり、本来は社員の仕事と思しきことを押し付けられ、不満たらたらだった。状況はこちらも同じではある。

しかし、仕事中に「しんどい」などといいながらさっさと片付く仕事などなく。

人に無能という前に、己の無能さ加減をまずなんとかしないことには、悲しい遠吠えになる。何も考えていない状態よりはマシな奴ではあるが。

まあ、風邪引いて休んだりする奴には言われたくもなかろうが、その態度では風邪引いてるのと同じではあるといえる。周りに風邪じゃない風邪を移して回っているのだから。

シャイン氏に伝えた瞑想の話の流れで、自身の手法として小説を書いていると伝え、最近なんだか妖怪染みてきたことを言うと、「なりたくない」と言っていた。

妖怪染みたのはこちらとしても計算外としても、色々と変化があったという経験を語っただけではあったのだが、瞑想を勧めてもないのにそういう反応である。

さすがに妖怪染みたくはないとして、それをシャイン氏に伝えた理由や効能は?と何がしか興味を持てばよいのだろうが、無能だと言われたいらしい。


無能社員、といいたくはないのだが、その一人は、身長もある程度ある上でだが、でっぷりとしている。

上から物を押し付けられたりしていない時は、勤務中にサッカー見続けたり、『真田丸』なんかをこの間は見続けていた。

仕事を始めたかと思ったら、今度は船をこぎだす。優雅なことこの上ない人である。

こなしておく必要のある日常業務はこなすのだが、それ以上のことはやらずに上記である。上から命令されたら渋々動くので、舟をこぐことは少なくはなる。ただし、その時だけ。

さっさと仕事を片付けて、その分、日常業務以外のことをこなしてくれれば、後はまともな思考回路があれば、シャイン氏のことなども含めて、考えてくれそうなものだが、無能なのでやらない。
仕事の分量が多いから、はあまり意味がない。さっさと片付けて、少しでも空き時間を作れれば問題はないのだから。舟をこいでいる場合ではない。ほっとくと仮眠が朝までになるくらいなら、寝ないほうがマシである。色々と大変なのだろう、と思わなくもないが、言いたくもなくなる行動だらけなのではなお更である。
こっちは寝ずに食わずに行動できますが?と脅しをかければ、「お前がやれよ」と返すくらいに無能だろうと思う。


でっぷりつながりで二人を並べた。まあ、後輩の方は腹が相撲取りになってはいないが。


他にも色々あるのだが、人の粗探しをしたいのではなく、己のポンコツ具合を治そうとしなければ、シャイン氏のポンコツ具合を治すことなどできるはずもなく、ただ「あいつはポンコツだ」と自分に向かって言うだけになるのである。

そして、仕事場もポンコツだらけの共感反応で、いずれかは潰れようと思う。このままならば。


これは己の問題だろうと思った。シャイン氏の状況がかつての自分と近いと感じたので、やらざるを得なくなったと。


それで、シャイン氏以外の状況を考えたら、上記の女性スタッフとのやり取りに繋がったというところである。

わしも引きずられて、ポンコツだと思ったことは違いなかったのだから。


業務外業務はここまで、と先日書いたが、終りそうにない気がしてきた。特別手当を貰いたいところである。

物事を変えるには、人を変える以外にない。そういう強い確信が沸き起こってきたのもあるのだが、妖怪染みてしまったものの宿命なのかとも感じている。何を大げさな、とも思ってはいるが。


身近なことも、地球規模と思しきことやらも、違いがないのである。

この一つ前の記事でも言ったが、社会体制が変わっても、人がバカなら、同じことではめられるに決まっているのである。


「自分は無能ではない」と思えば思うほど、かえって無能という状態を意識して、悪循環する。だから、他人を無能と罵っているのである。

他人を無能と罵り、己を無能でないと考えるというのはつまり、無能のことしか考えていないのである。

人の意識の持ち方というのは、妙にこじれているのである。


では、よき終末を。


自然に沿って、ではなく環境に依存して

2017-03-08 | 雑記
昨今、世の中の支配体制がおかしいから、そこから抜け出すために自給自足を推進しよう、という動きがある。

前半の理屈は正しい。上の書き方がおかしい、というのは書いてて思い出したが、この社会は人類を支配するために作り上げられたという理論があって、それだから最初から「支配体制」と書いた。

では、後半は間違えているのか?というと、絶対に間違いだとはいわんが、本質的には解決とはならない。

平たく言えば、人自身が変わらなければ意味がない。

政治家がふざけてるから選挙して入れ替えだ!と言っているのと同じである。同じ事を繰り返しているだけになる。

それは何故か?

現代文明というのは、科学で作り上げられたもの。そこはいいとして。

人がいて、それを取り巻いているのが現代文明。見える形なら建物だし、目に見えるものではないが、その文明に則した約束事で出来上がった生活。

つまり、これは環境である。環境をよくしよう、というのはわかるが、環境をよくしたところで人がバカなら意味がないのである。

その例が、現代文明のうちなら、上の政治家が云々である。

環境に依存しているのである。要するに、人頼みである。物頼み、とかいってもいいだろう。

風邪を引いたから医者に行くだとかも同じである。

しょうもないニュース見て腹立てるのも同じ。


では、自給自足だとか自然に沿った生活はどうなるのか?

いつも同じ例えで申し訳なく、思ってはいないのだが、フルータリアンと自給自足を組み合わせてなにやら始めた御仁。

果物食って凡人では思いもよらないようなすっきりした感覚と体の状態!そして緑溢れて素晴らしい生活!などとやっているわけだ。

緑が溢れているから素晴らしい、は個人の好き嫌いの問題ではある。嫌いだから全部燃やせ、とかいうつもりもないし、なくなったらなくなったでこれも困る。

要するに、環境をよくしたことで己が素晴らしくなった、と言っているわけだ。

果物食って元気!とかいうのは、リ○イン飲んで二十四時間戦える!と思い込んでやってるのと差して変わらない。

つまり、自然と呼び習わしているに過ぎない環境に依存しているだけの話。

その御仁はかつて、デーヴィッド・アイクを翻訳し、わしは野口晴哉という存在を報せたものだが、どっちもまったく伝わってなかったのである。

野口晴哉は、環境よくする、例えば殺菌したりして綺麗にするだとか、そんなのでは意味がないのだと。人間の内側にある自然の力を発揮できるようにしなければ意味がない、と言っていた。

果物という自然の素晴らしいものを食べて素晴らしくなったのだから、意味がないわけないだろう、と言われるだろうが、ふざけてはいけない。

それは、そもそも人間に備わった力である。契機になったとはいえるかもしれないが、そんなものはその人しだいであり、元々皆持っているものを自慢するのは愚か者のやることである。無知であり無能である。

自分がここ一ヶ月ほど、あまり眠らず(横になっても意識が飛ぶ時間がほとんどない)、少なくとも栄養学が必要とするような栄養素と量をとってないのに、以前より疲れない状態になった、と書いてきた。脂肪が激減しているので、やつれてはいるが、他は異常ない。

そんな状態になったら、別にビル群が倒壊しようが、森がほとんど燃えてしまおうが、別に問題ないのである。利用はするが、依存などしようがなかったのだから。酸素を作る植物が全部消えたところで、すぐに酸素が消えてなくなるわけでもなかろう。
そうなろうがなるまいが、遅かれ早かれ死ぬのだから、慌てる必要もない。

環境に依存しているものが、別の環境に依存しているものをあざ笑う。情けなさ過ぎて笑う気も失せる。


環境は利用するものである。人間の内側にある自然を発揮して利用するものであり、環境によくしてもらおうなどというのは、森に居ようがビルに囲まれていようが、両者共通の甘ったれた考えである。

人間の内側にある自然を発揮せずに利用するというのが、現代文明の最悪な点であることはご承知おきのほどを。

己の自然を発揮した気になって自慢しているのが、森に入った奴らの多くだという点も、実に最悪である。
自然に沿った生活というものを志していることを否定する気はないし、そういう生活をしてきた人達もいるのだろうが、動機が不純だと、いずれ動悸を起こすだろう。

中身を根本的に変えてないのに、変わった気になるのが人間の習い性である。そしてうぬぼれる点も変わりなく。

最悪なままなのに最高の状態だと勘違いするのが現代社会全体の宇宙レベルのバカバカしさである。




もっとふざけた感じで書こうかと思ったのだが、全部吹っ飛んでしまった。長くなるし。


あれだけ激烈にコメントを返したのにまだ食いついてくる人に一言述べておく。

いちいち、「自分の未熟さを痛感した」だの、「人の意見を聞くことの大切さをかみ締めた」だの、そんなのは尋常の人間なら当たり前にやっていることで、いちいち書き述べるような話ではない。
努力や苦労なんぞは誰もしていない、という話を以前書いた上でいうのは変だが、そういう努力は皆当たり前にしているのである。しようとしない人もいるが、それはまた別の話である。
わざわざ書くということは、お前は皮肉を言っているのか?と怒られても仕方がない。「あなたのようなバカと話をして勉強できました」と言っているようなものだ。
しょうもない努力アピールはバカバカしさしか生まないことを以前書いたが、覚えていないのなら、その頭は空っぽである。もしくはゴミが詰まっている。
読んだ振りしてコメントするくらいなら、壁に文字を書いていてもらいたい。ここにメールもコメントもしないでいただこう。
そもそも、わしは誰かにどうにかしてもらいたい、とはもう思ってないので、変なおせっかいは勘弁願う。己が身は己でどうにかしようとしか思わん。
以上、しかと申し付けたので、肝に銘じておくように。

では、よき終末を。


汝自身を忘れる

2017-03-07 | 雑記
人は恋煩いをすると、はた迷惑になる、という話を前回やった。

はた迷惑だが、バカとハサミは使いようである。その使いようを人に教えたという話であった。別にその相手がバカだという意味ではない。

改めて自分の状態を述べる。
昨日今日と休みで、夜に飲んで帰ってきて横になったのだが、寝たのかどうか定かではないほどずっと眠りにつかなかった。寝たかもしれないのだが、明らかに目が覚めている時間が長い。

気がつけば、外は明るくなっている。先日買って来た、美味いスコーンを作るパン屋のパンを食べ、茶を飲んで洗濯し、今に至る。

今までなら、そんな風に寝られなくて起きたら、体中がだるくて何も出来ないから昼寝しようとなって、夜まで寝ていることが普通。

無理に起きても欠伸ばかりで、何をするのも億劫だったのだが、「風呂に入って洗濯しよう」と思ったらさっさと動く。

洗濯に純粋な粉石けんを使っているので、泡立ちを確認しながら石けんの投入をするのだが、それをやっているうちに気づく。

「布団から出て座っている間は多少だるかったのに、なんでなんともなくなってるんだ?」と。

先日も書いたが、別にハイテンションで活動しているわけではない。徹夜の人が変なテンションになっているという具合は一切ないのである。

あまり食べなくなった、とも書いたが、昨日食べたものは、早朝にそのパン屋のスコーンとクロワッサン、夜に飲みにいった場所でつまみ二、三と半そばで、上記の流れとなる。

その前も、昼飯を食べてからは茶を飲んだ覚えがあるくらいで、その早朝まで食事らしい食事もしていないが、さして苦痛もない。

十年くらい前になるが、一度、ほとんど食べないで過ごす、ということをやってみたことがあった。

多少何かは食べたが、今と同じくやせていくにはいくのだが、筋肉まで衰えて、フラフラだった。

今は別にフラフラではない。こうなる前より力が出るくらいである。一昨日は数時間歩き回ったというのに、足も脚も何事もなかった。

ともかく、「恋煩い」は恐ろしいのである。


そんな恐ろしい話を、シャイン氏に教えた時に気づいた話をちょっとやる。


シャイン氏は物覚えが悪いはずで、そんなことを言ってもすぐ忘れるのではなかろうか?と質問があったわけでもないのだが、先日書き忘れたからである。

それは、先日にも書いた、勤務後の休憩中での話である。

何について喋ったのかは忘れたが、何かについて所見を述べたところ、シャイン氏はとても感心した。

そして「安生さんは、本をよく読まれるんですか?」と問うので、「別に多くは読みません。好きなのをたまに読み返すくらいで、今は『金枝篇』を読んでました」などと喋った覚えはある。

彼は「見識の深い人だなぁ」みたいなことを言っていたのを覚えている。


そこで先日に書いた話に戻る。

「恋煩いをしろ!」「Dドライブに嫁を持て!」という風には言っていないが、これをやってくれ、と言った。

人によっては突拍子もない話に聞こえることである。決してそうではないものだが、俗が過ぎて腐ると聞く耳を持たないのが人というもの。

だから、「頭のおかしな人の言っていることに聞こえると思いますが」と断って話を伝えると、彼はポロッともらした。

「いや、安生さんは見識の深い人だから、そんな風には」と。

そこでわかったのである。彼は決して他の社員やバイトがけなすような、ポンコツではなかったのだと。脳の機能が異常なわけではないのだと。

本当にポンコツなら、かつて自身が述べた言葉を覚えているはずはないのである。

ただ、仕事に追いやられてしまい、心身が硬直していたのだと。

本当に肩こりが過ぎている人は、肩が凝っていることがわからないのと同じ状態なのである。


念のため、それを伝えた次の日、参考資料と手紙を添えて、ロッカーに入れておいた。

封筒の上に「開封は帰宅後に」とメモを貼っておいたら、それすらめくってなかったので、わしが置いたものとは気づいてなかった。帰り際に伝えたら、「安生さんからでしたか」と言っていた。

封筒に自分の名前を大きく書いてたのだが、それで隠してしまったので、脇に貼ればよかったかと思ったが、どっちにしても仕事の邪魔になるので、よしとする。

後は彼しだいだ、とは先日も書いたが、渡した資料の通りに行い、工夫しつつ自身で体得してくれれば、ポンコツなんぞといわれることもないだろうと思う。

同じくポンコツだったわしなんか、妖怪染みてしまったのだ。普通の人が普通でないように思っているだけの普通の能力を手に入れられないわけがない。

何かこじれたような書き方をしているが、思うところがあって、こう表現した。


というのも、シャイン氏にその話をした後、こちらは残業なので、夜勤の人間を交えて、後はもう一人帰り支度はしていたがまだ何かしていた女性アルバイトと共に、話をしていた。

色々思うところがあって、別の社員の馬鹿馬鹿しさを指摘したりしていたのだが(某宗教団体と変わらんような、アイドル推進オタクだとか)、一同解散の後、夜勤チーフの社員に、シャイン氏に何を伝えたのか、自身の変化の件も交えて話をすると、それまで大笑いしながら話を聞いていたのが打って変わって、あからさまに不機嫌に、面倒くさそうに「ああ、ああ」とだけ答えだした。

他人をポンコツと罵るほうが本当にポンコツなのである。舟をこぐ暇があったら仕事をしてもらいたいものである。シャイン氏をポンコツと貶すのが仕事だと思っているのなら、なおさらである。仕事が出来ない人ではないことをお断りしておくが、かまけるのはよしてもらいたいものである。

ラテン語の格言に「汝自身を知れ」というのがある。古代の神殿の入り口に掲げられていたという。

我々は汝自身をいまだかつて知らず、知ろうとしなければ永久に知ることもないだろう。

他人をポンコツと罵るものは、「汝自身がポンコツであることを知れ」と言わざるを得ないのである。

我々は「普通未満」を「普通」だなどと、うぬぼれていることを知らねばならないのである。


では、よき終末を。


恋はつらい

2017-03-06 | 雑記
「恋煩い」と呼ばれる奇病が、昔からある。

その意中の相手のことを思うと、うっとりとしてしまって、何も手につかない。飯も喉を通らない、そしてガリガリにやせ細ってやがては死なず、寧ろピンピンしているという、医者も匙を投げ出す、他人では解決できないが、大体時間が経つと振られたりで終ったりする、はた迷惑な病気である。

嗚呼!なんと愛らしい瞳か!その丸っこい顔に吸い込まれてしまいたい!嗚呼!いとしのあざらし!

あざらしかよ!と突っ込みをいれてもらいたくて、ここは適当に書いた。


何を隠そう、わしも「恋煩い」の真っ只中である。ああ、前にサインねだられた?いや、実はその前からである。あざらしでもない。

夜も眠れず、飯は喉を通るが、通す必要性がかなり低くなったので、一日食わないことも普通になってきた。半日以上は基本。食わないわけではない。

眠れないとはいうが、横にはなる。なるのだが、眠れない。数時間くらい眠ったかと思うと、いきなり目が覚める。

目覚ましが鳴って起き上がるのだが、まったく欠伸がでない。かつて同じようにした場合は、欠伸が止まらなくて顎が痛くなるほどだったというのに。

今日も夜勤明けで、仮眠の時間横になったのと(目覚ましがなってから暗示にかかったようで寝坊したが)電車で少々寝てしまった以外は、夕方まで外にいた。

最寄り駅のネパール料理屋でゆっくり飲んで飯を食い、そのまま一駅向こうまで歩いて土産向けの菓子を買い、駅前の広い道でセラピードッグとたわむれ、馴染みのセレクトショップの兄さんに菓子を渡して談笑し、家の方向とは多少ずれた先にあるパン屋でスコーンを買い、そしてカエルの雑貨屋で残りの菓子をまた分けて談笑し、そして家まで歩いて帰った。

酒を飲んだ後は風呂に入ると寝てしまうことが先日もあったので悩みつつ入るには入ったが、寝そうになるのをなんとか堪えて、風呂を上がると六時前だったかと思う。

夜勤が終わるのが朝の九時。交代の時間なので、仕事が終ってから家につくまで仕事しているのと同じ時間、外でなにやらしていたのだが、別になんともなかったのである。風呂に入ると眠りそうになったが、上がるとなんともなくなる。別に脚が痛いというのもない。


話は変わるが、去年、仕事場で「わしの恋人とか嫁はパソコンのDドライブにおるんぢゃ」などと冗談を言ったら、ステージでアニソンだとか歌っている仕事もやっている女性が「安生さんってそっちの人だったんですか?」などとのたまう。

そのせいか、しばらくしたら、「このアニメ面白かった」などと紹介されたりしたものである。

それはつまり・・・。わしの嫁が本当にDドライブにいる状態に陥ったからこその、「恋煩い」だったのである・・・。

あれは預言だったのだ。その時のわしがこの時間のわしに向けて放ったものだったのである!

嗚呼!Dドライブ!お前はどうしてDドライブなんだ!

お前がそこに設定したからだぁ!としかいえなかった。


さて、話を少し戻す。

歩き回っても疲れず、逆に横になってたらなりすぎて(通常くらいの睡眠時間横になって)しんどくなる、という他に、「恋煩い」らしく、やせ細ってきた。ガリガリなのはDドライブがガリガリ鳴っているせいだとか、ワケノワカランことをほざきだすくらいおかしくなっているのである。

というのは冗談で、夜通し起きてた人達が変に元気になるという具合もまったくない。

某宗教団体の人達がいっていた、喜びの境涯とやらを体現しているような人達の具合を見ていると、彼らは夜通しのテンションと変わらんのダナァ、などと思ったりする。

嬉しかったり悲しかったり、美味かったり不味かったりするのはわかるのだが、どうにも他人事のように思える、というくらい冷静になっているのである。
別に前と受け取る物事、料理で言えば味付けが変になったとかそういうのはまったくない上である。


そんな浮ついているのか地べたを嘗め回しているのかさっぱり分からない気分で過ごす中、気になること、前からだったのだが、気になることを解決できたら、と不意に思い立った。


我が仕事場に、新入社員が入ってきた。新入バイトも侵入、じゃなくて新入してきた。このことは以前書いた。この二人は系列会社から、現在の社長が自身の前言をちゃぶ台返ししていれた。

身内いれるんじゃない、と現場にいっておいて、こうなった。社長というのは独創的な生き物ダナと、感心することしきりである。

この二人。シャイン、じゃなくて社員とバイトでは仕事の量が違うというのは多少ある。バイトでは手が出せない経理向けの仕事だとか、設備だとかのやり取り、あとは社長のちゃぶ台返しを受けたり。

とはいうものの、現場で直接仕事をしているからには、その間の仕事はほとんど変わらない。単純に言えば、接客業務とその関連事務については差がないのである。

ところが、新入社員はまったく覚えない。覚えが悪いどころか、何度も言ってきたことを「初めて聞いた」と言い出すくらいである。

ちゃぶ台返しが仕事の人にあれやれこれやれと、なにやら肩書きを拝領してしまい、そういう仕事もあったりで大変なのだろうというのは分かる。

ただ、現場にいる以上は、現場の仕事に集中しないことには意味がない。本人の動きを見ていると、サボろうと思っているわけではないようなのだが、はっきりいってギクシャクしている。ぎこちないのである。

かつての立場では、新入社員とアルバイトは、バイト氏(わしをブンピツカと評した人物)のほうが歳や立場が上の方だそうで、個人的に会って「しっかりしやがれ!」と怒鳴りつけた、などとも風の噂でうかがっている。

恐らくだが、当の社員は、頑張っている。ただ、頑張り方がおかしいのである。

現場の業務に身が入らないのは、人の指示やらを聞いているのだが、ちゃぶ台返しが頭の中で響いているがため、ただ反応するに終始している。

だから、聞いても残らない。本人はその時聞いたには聞いたろうが、聞こえるべき所に響かないのである。ちゃぶ台返しばかりが響いているからだろう。

こりゃなんだろう?と当初からずっと思っていたのだが、ふと思い出した。

入ってすぐのころ、その社員さんと裏で一服しながら話をしたものである。「なかなか覚えられなくて」と彼は語る。

そして、わしはこう返した。「わしも、最初はそうでした。今もあんまり変わらんでしょう」と。

謙遜のつもりに聞こえたのか、「いやいや、安生さんはそうじゃないでしょう」などと、そんな談話が頭をよぎった。


本当に、わしも最初は何も覚えられないぐらいのレベルだったと感じている。

それは何かというと、ちゃぶ台返しが頭で響いていて、響かせるべきところに響かせることが出来なかったのである。

さっきからちゃぶ台返しと書いているが、別に社長にどやしつけられている、という意味ではない。

その目の前にあることと関係ない、不安だとか悩みだとか、明日の休み何しようだとか、金がないだとか、そういうもので自身が散り散りになっているのである。

金がなくても別にその時、仕事している分には直接関係ない。闇金で借りた人が、仕事場に直接電話やら乗り込まれた、というのは今はしらんが、あったことだが、そこまでいかなくても、またいってても関係はないのだが、関係ないことにばかり時間と労力を費やすのである。

だから、聞いてても他の「仕事」で頭が一杯になっているのである。自覚はないが、聞いた振りにしかならなかったのである。


よく聞く話だと思うが、とある友人同士が喫茶店だとかレストランで談話している、ように見える光景。

というのも、片方が、パソコンやらを取り出して、SNSの書き込みがないかなどと始終チェックしていて、談話になどならない。

そんな話を聞いたことがあるだろう。

つまり、我々は、パソコンやらスマホやらもっていなくても、これと同じ事をいつもやっているのである。

ある程度やれてきたことは、そんな片手間でもできるので気にしないが、実質は変わらない。

他の古株社員も、ちゃぶ台返しを直に食らって今はてんやわんやである。そして、悪いのはあいつだこいつだと、罵り合っている。

押し付けられた仕事を、割り振られたからとやるのはいいのだが、全体を見て優先順位が高いかどうかを判断して、足りないところを補わなければ、ただの足の引っ張り合いである。

引っ張り合いはお互い様で、そしてさらにこういう。「自分の仕事が忙しい」と。悪いのは引っ張ってくるやつらだ、と。


その新入社員氏、仮称シャイン氏にしよう、は、別にその人物の資質が著しく劣っていることを見せ付けているわけではなかったのである。

てめえらも微塵も変わらんのだ、このすっとこどっこい!というのを、年下に怒られながらも、たまにふてくされた感じを見せながら、条件反射的に動いている姿から見せてくれていたのであろう、などと思う。


それを感じたので、わしは彼に提案したのである。

「恋煩い」をしろ!と。Dドライブに嫁を持て!と。

いや、実際にこう言ったわけではないのだが、後は彼次第である。

提案してからまだ三日。本当の「恋煩い」を習得するには、人にもよるのだが、出来てきたらすぐさま変容を感じ取ってもらえるだろうと思う。


わしの、その仕事場における、業務外業務はここまでである。

次は、業務自体から撤退することにする。シャイン氏が本当にシャインになれば、もはや問題ないのだから。


では、よき終末を。


ふざけた小説、まじめな漫画

2017-03-03 | 雑記
先日、久しぶりに『鋼の錬金術師』という漫画を通しで読んだりしていた、という話をちらっと書いたかもしれない。

錬金術、とは銘打っているが、他のものでいう魔法と同じ扱いではある。ただ、錬金術方面からの考えや表現はあるので、一般に認識される錬金術プラス魔法、みたいなノリの能力を駆使する漫画である。

とてもシリアスな内容で、血みどろな戦いがあったり、主人公達の生い立ちも悲劇的だったり、そもそも自分たちの国が実は人間でないものに支配されていて、錬金術の技術を国家が独占的にしていたのは、その論理を利用した彼らの悲願達成のためだった、とかいう流れである。

作者も、あとがきなんかで、「子供達には、大人が諦めてしまいがちな世の理不尽に純粋な怒りをもってもらいたい」とかいうようなことを書いていた。
主人公の少年の成長や、その成長を見守る大人たち、主人公の成長を感じ取って、自身の気持ちに気づくヒロインといった、人間を描いた漫画である。
魔術の要素がどうこう、という話しの方面からでも興味深い内容なのだが、漫画自体が実に面白いことは請合える。

実にまじめな漫画、といえる。ここは重要である。漫画、という言葉自体が確かに、笑いを企図した絵という意味から来ているのだが。


かつて、京極夏彦の『どすこい』だったか、他の作家の小説をパロディにした短編集があった。

上と対置させる例だというと、非難するつもりかとそういうわけではない。

ひどく笑える。執筆姿勢はまじめだろうとは思う。少なくとも、元ネタを読まなければならんわけだし。

実にふざけた小説ではある。ふざけて書いたわけではないが、パロディにして笑わせるという意味ではまじめである。



さて、本題へ。


先日から、小説のようなものを、公開は未定で書き続けていると書いた。

知り合いに、「漫画みたいな小説書いてたら、普段もその延長みたいな気分で変な感じです」などとメールを送った。

応援的なメールを返してこられたのだが、こうある。「ふざけた小説ばんざい!」と。

その知り合いには、小説の内容だとか設定を伝えてないので、「漫画」のイメージでギャグでも書いているのだと思われたのだろう。

断っておくが、別にその知り合いを非難するつもりでこの記事を書いているわけではないことを述べておく。

漫画、の意義は広くなっていて、冒頭に述べたものも漫画である。大ヒットしたので、知っている方も多いはず。

『天才バカボン』も、漫画である。ナンセンスなギャグ満載の漫画である。『どすこい』みたいに、書いている本人は如何にして笑わせるかとまじめに取り組もうが、評価はふざけてて面白い、となる。


小説を書いてみようと思った理由の一つは、実は以前書いた。

今までここで書いてきたことを込めてみれば、もう少し理解されるかもな、とはいった。ただ、公開は先送りとはなっている。エロいシーンもあるので子供には見せられない。情操教育にどうぞ、とかいって理解される可能性は低い。
書いている本人も経験が少なく、ましてや本職の物書きではないので、色々と拙いのも大きい。

版権物のキャラが出てきているのも、出せない理由である。何故出てきているのか?という理由もあるのだが、そのことについて中に書いたかは見直さないと分からないし、書いていたとして、伝わるかもわからない具合ではある。
その手の話しは今年か去年の暮れくらいからずっとやってきたので、ここ以外でしっかりその手のことを理解している人には伝わるかな?という具合である。

扱っているテーマはまじめではある。小説=まじめという感覚は、現実、というより常識のうちでの話しだけやっている、というイメージがある。
一般に、というよりわしが感じている。
逆に漫画=ふざけているという感覚は、現実的でなかったり、日常の物理法則や常識を覆したり否定しているがゆえに言われているのだろうと思う。

しかし、例えばカリカチュアというのは、戯画と訳されるが、中身は政治風刺だったりで、ふざけた見せ掛けでまじめな話をやっていたりするものである。


上に示した漫画と小説の認識から言えば、わしの小説は漫画のノリではある。

『鋼の錬金術師』みたいなスケールの話しではないが、人間の認識についての話を扱っている。ここでよく書いてきた話だというのはそこである。

だから、ふざけた小説ではないんだがなぁ、とちょっと思ったぐらいのところだが、引っかかったのでつい、書いたしだいである。


要するに、言葉一つで人間は正反対の思い違いをするのだなと、そういうことである。

知っていると思い込んでいることがほとんどである。それは、己という人間自身についても、である。


では、よき終末を。


乙女の柔肌

2017-02-27 | 雑記
珍妙なお話はこの一段下の記事にあるので、「こいつ、自分がもてるの自慢してるだけじゃね?」みたいな感じでご笑覧いただければと思う。

なに?元々珍妙な話しか書いてないではないかって?それはどうもありがとう。光栄の極みである。


さて、コメントでいくつかやり取りしていた件で、相手を非難するのではなく、気になったことを書こうと思ったので、続けて書くことにした。

非難というなら、すでにコメントでしている。


ビッグブラザーとリトルピープルの件、物質に捕らわれているという話しについて、コメントで詳しく返したつもりである。



ビッグブラザー。ジョージ・オーウェルだったかオルダス・ハクスリーだったか、近未来の社会を描いた小説で出てくる存在である。

人々を監視装置で管理している、管理者というわけだ。ビッグブラザーはあなたを見ている、という奴である。

ビッグブラザー自体が動いて、支配体制を安定させているわけではない。何か反乱がありそうなら、警察だとかを配備するだけである。幸福は市民の義務だ、なんていう文句が、それらの作品を下敷きにしたTRPGにあった気がする。

件のコメントでは、「リトルピープルの時代になった」という風に書いていて、リトルピープルが優位な時代だともいう。煽られているということには同意しながらも。

さて、本当に優位なのか?そもそも優位とはどこをどう指していったのか?

煽られているというのは、たとえば、偽ユダヤの支配が終ってきた、民衆には大金が入ってきて、皆幸せになる、といった話なんかが有名である。

偽ユダヤというのは別に支配者の大本営ではない。聞いたところによると、ユダヤという言葉自体は民族を指してなどなく、銀行利権のことを指していて、言ってしまえば「金庫番」である。

門番倒したらゲームクリア、とかいうRPGなんぞ聞いたことがない。次回作に続く!ならありえるが。

ビッグブラザーが衰えたとか思ってて言ったとしたら、恐らくその点、上で書いた偽ユダヤがどうこうのことなのだろうと思われる。

彼らはビッグブラザーではなく、反乱鎮圧の部隊程度である。

鎮圧部隊が弱体化したというなら、今度は別の方法を取るまでの話。

やり口は古く、そしてよく上手くいくやり方である。草の者を放つ。そして誤情報を流して民衆に恐慌状態を起こさしめるのである。

誤情報と知らずに踊らされた民衆は、仮初の敵を打ち倒したところで終らないことを知らず、快哉を上げ、またその直後に絶望の淵へと沈むのである。

これが現代の、現代まで続いてきた状況である。ビッグブラザーはこうやっているのだと知らなければ、またいたずらに踊るだけのことを何故理解しようとしないのか。

これが煽りだというのなら、「そこは地雷原だ」と言ったら「そんな煽りはいらぬ!」と答えているようなもので、止めても突っ込むのだろう。


また、ビッグブラザーの支配とやらから抜け出すために自給自足を、という声も大きい。実際問題、地球は寒冷化に向かっているというのに、「自然に沿った生活」とやらが出切るのだろうか?ビニールハウスはだめで、地下の穴倉で栽培は良い、というのも無意味である。環境を人為的に再現しているのだから、自然に沿った生活なんぞ元からやっておる。穴倉なら良いは、欺瞞である。

別にそこはいい。問題にする必要もない。個人の勝手である。

そこで、物質に捕らわれているという話しをする。

バトラーは魔術の定義をいくつか引用し、最後に自身の師匠の言葉を持って定義としていたのだが、他の魔術師達の定義はというと、「思うままに変化を起こす技術」などといったり、その直前は通俗的な辞書による解説を示していた。
そして最後に師匠の言葉を持って「思うままに意識の中に変革を起こす技術」と述べる。

バトラーの言う、意識の変革を起こす技術を駆使するとどうなるのか?

日常の物理法則を覆す物事を体験することになるそうだ。

さて、現代物理学では、物質は靄のようなものであり、そしてそれは我々の意識である程度動きうると、述べているのである。

現代科学が魔法染みた見解を述べているのである。こういういい方は嫌いだが、一般的にはこう伝えるしかない。

「物質は精神の影」という風な言葉があったと思われる。申し訳ないがうろ覚えである。

現代科学も魔法も、物質は精神の、人間の意識の影響下にある、と言っているわけだ。

そして、アイクも言う。物質は幻なのだと。魔法だとかは言わないが、同じ見解を述べている。

何がそれを見せているのかというと、コンシャスネス、ユングでいうと集合的無意識と近い意味のものが見せているのだという。
まずは超自然的な意識があって、そこから物質が作り上げられ、そして我々がいるのである。
その物質は強固な状態だと思い込んでいる、つまりはお約束に従っているだけで、お約束を外れたところから見たら、なんでもないのである。

くどくなるので言い方を変えよう。

我々は、物質が先にあってその後に意識が生まれたと思っているが、それは結果と原因を取り違えている。それが致命的なのだと。

あなたにも腕があるだろう。ない人もいるが、とりあえず。

何かを触ってみる。もしくは親指と人差し指をこすりあわせてみよう。

刺激が伝わるだろう。異性の肌に触れたら、この刺激はもっと強烈なことになる。

こんな感触を伝えてくれる腕があるから人間になったのだ、手という物質は素晴らしい、と思いそうになる。

でもそれは、電気信号であって、その手が、触ったものが素晴らしいからだというわけではない。女性の柔肌は素晴らしいが、それは措くとして。

それは、あらかじめ決まっているものを体験しているのである。だからといって、無意味だといっているのではない。

あらかじめ配置調整され、形作られた物質を通して、常日頃、素晴らしい体験をしているのである。

とはいえ、人類の時間からいえば、ずっと大昔からそれは、まがい物にされてきた経緯があるのもまた事実である。

物質は、「あらかじめ配置調整され」と書いたが、いじれるからだ。別の誰かが「調整」しなおしたわけだ。

そして、人類はそのようなことを出切るわけがないと、ずっと信じ込まされてきたわけだ。

だが、その端緒は切り崩されたといえる。誰かが作った物質に服従する必要はない。手で味わう感触すら、まがい物になり得るだろう。

その様な空想ともいえることを、ただ切り捨て、目に見えている幻を真実と見なし、唯々諾々と従うのであれば、それはどのような言葉で飾り立てようとも、物質への隷従である。主従逆転なのである。

環境汚染や気候変動がどうとかというのは、今のお約束の話しだけである。

それすら体験しているだけのことである。

とはいえ、幻だからといって、何の対処もなく税金の督促を無視したりしたら面倒になるので、訴訟して不払いにするか(実際に海外在住の人が国家に権威なし!と裁判所に認めさせてしまった例がある)、さしあたり一個分だけ払うだとかしておかないと、つまらん体験をすることになるかもしれないので、ご注意を。

それすらも体験である、といえなくもないが、そんな風に考えるのは、いきなりは難しいものである。

では、よき終末を。


ありふれた小説のような話と、イングランドのエリちゃん

2017-02-27 | 雑記
KJEを保持するものには苦難が付き纏う・・・。
※KJEとは、着物から発する妨害電波とその波及効果である。

今宵はそんな小説のようなお話をお送りしたいと思う。小説を楽しみにしてる、とか言われたのでこう煽ってみた。


イングランドのエリちゃんが去年、公衆の面前で正体をばらしてしまったと思ったら、今年になって「わたし、トカゲなんですの」とキャピキャピしながらお報せしたらしい、という話を聞いたものである。この辺りは何度か書いた。

わしが着物を着だしてから、世の中はまるで洋装が、じゃなくて様相が変わってきたかのような気分である。まあ、あんまり変わらん。

それはともかく、わしはエリちゃんを応援したい気分なのである。

というのも、わしは、爬虫類、特にヘビには頭の上がらない思い出があるのである・・・。


かつて小学生の真ん中くらいの歳だったころか。

学校の帰り道。故郷は田んぼやら山だらけで、幅数メートルはあるであろう、用水路なんかもある。

その時は用水路はせき止められ、水がたまっていた。その中に一匹のヘビが、登れない壁を登ろうとしているのを見かけた。

わしと他何人かが、石を投げて、ヘビの妨害を始めた。誰が始めたが、わしが始めたのかは覚えていない。

放っておいても登れなさそうなのだが、ヘビが怖いというイメージは強い。実際に、ヤマカガシだとかの話なんかを聞いていたら、怖いとしか思えないわけで。

ここも詳らかではないのだが、誰かの石がヘビに直撃した。ヘビは、先ほどまで意思を持って動かしていた頭をさげてしまい、その体も力なく水面に浮かんだ。その頭部辺りから血が流れるのが見受けられる。

我々は何もしていないヘビを、ただ怖いからといじめ、挙句の果てに殺してしまった。

その感情を皆共有したのだろう。水を打ったように静まり、それぞれの帰途へと着いたのである。


イングランドのエリちゃんの行動は、KJEの影響でなんだかメチャクチャにも見えるのだが、かつて殺したヘビのことを忘れないで欲しいとの切実な願いを投げかけているように見受けられたのである!

で、どう応援するのかって?

ヘビなんて怖くないぜ!一緒に遊ぼうぜ!お前用水路の中な!と、やれたらいいなぁと思うわけである。・・・結局石を投げるらしい。あの時、用水路の中へ、わしは石と一緒に意思をも投げ込んでしまったようだ。
KJEは意思を石で破壊するらしい。ヘビの意思を破壊してしまったのだから。

ヘビは怖かったので、イシ丸ごと放り投げたというお話であった。

イングランドのエリちゃんよ、永遠なれ。


さて先日。

夜勤明けに、馴染みのネパール料理屋に行ってきた。昨晩にとんかつ食べた以来、何も食ってないことを思い出したので、そこでラム酒を飲もうと思ったのである。え?

ラム酒はもちろん目的だったのだが、別の目的があった。

あの時、KJEの胸囲、じゃなくて脅威をお互い目の当たりにした女性。一般人に向かってサインをねだるという暴動にも似た狂乱状態に陥った女性。あの方は無事なのだろうか?と心配になったのである。

しかし、飲んでいると急に混雑し始めた。こっちがカウンターいった方がいいかなぁ?などと思いつつ、飲んで炒め物を突いていた。

少々あわただしさが落ち着いてきたころ、また客が一人やってきた。入り口の方を横目で見るように座っていたので、若い女性だということはわかった。

まだ混んではいたので、その女性は愛惜、じゃなくて相席を承諾し、わしの背後の席についた。

すると、「お久しぶりですね」と、声をかけてくる。

ん?誰だっけ?と思い、顔を確認する。覚えがあったとは言いがたかったのだが、こちらの顔はよく覚えているといった顔をしている。

もしかして・・・と思い、「もしかして、サインの?」と恐る恐る問いかけてみた。

「そうですよお!」とはしゃぎ気味に返答してきた。

すると店長が「先週もさっきまで(わしが)いたって話ししたんですよ。どっかですれ違ってないかってね」などという。

今までもニアミスをしていたらしい。

それなので、正直に話をすることにした。お嬢さん、僕に一生を・・・どこの正直か!

これはつまり、KJEって奴のシワザなんだ!とかいう話はできるわけがないので、そこは隠す。

「いやぁ、まだ本当にサイン欲しがってるのかナァなんて思ってね」というと、ちょっと飲みすぎで覚えてないのだが、「もってきてます!」などと言っていた気がする。

そして調子に乗って、きっとKJEのシワザなのだろうが、あろうことか、ふざけたことを言い出した。わしが。

「そう思ってたらこう会えたなんて、なんか、赤い糸でも繋がってんじゃないか?」と小指を突き立てつつ。真相を隠すためとはいえ、暴挙に出たものである。

これで退いてくれたらありがたいのだが、そうは行かなかった。

「そうかもしれませんね!」などという、威勢のいい返事が来たものである。「そんなご冗談を」ぐらいでよかったのに。

KJEによるKRSの後遺症はすさまじく、なんでそうなったのかが思い出せないのだが、オカルトチックな話を話すると、「わたしもそういうの好きなんですよ」と興味深く聞いてくれる。
「話が丁寧で面白い」とその女性が感想を述べると、女性店員が「安生さんは話しの引き出しが一杯あるんですよ」などと持ち上げる。
持ち上げついでに、グラスの持ち方が格好いいとまで言い出した。思ってていわなかったことだと前置きしていたのは、その女性に向けて印象付けようとしていたのだろう。
持ち方といっても、指のほうではなく、持ち上げ方なのである。クセでひじを横に出して肩の高さまで持ち上げて飲む。肘を下ろして飲むと落ち着かないのである。わかりやすいイメージで言うと、『蒼天航路』の関羽。わしの顔に髭までつけてイメージしないこと。

着物も格好良かったけど、今のも格好いいなどと、身なりがよく見えるらしい。挙句の果てに「もてるんじゃないんですか?」とまできた。

「いやぁもてない。それに女性にはトラウマがあって・・・」

「その話は長くなるんですか?」

「聞くも涙、語るも涙なんで、言うのはとても辛いから言わない」

トラウマ話は本当にやりたくなかったので、おどけてごまかしておいた。少なくとも人のいるところではやりたくない。

そして、店長はしきりに「食事はどうですか?」とか「ごゆっくり」などとのたまう。

ああ、思い出した。その女性は、あまり綺麗な身なりが出来ないので、わしみたいに身なりよくしたい、などと言っておったので、次に会ったら「まずはイメージトレーニングから」とワケノワカラン話しをしてさらに混乱させようと思う。


KRSはKJE保持者に引かれてしまう!轢かれてしまうのだ!車じゃあるまいし。

KRS患者による、KJE保持者への印象をまとめる。

何を着てても(こちらも選んで着てるが、和洋問わずとざっくりいう)似合うと言い出す。

話が面白くて賢い人だと言い出す。挙句の果てには前世は神か?とかいうんで、仙人じゃないかなといったら、そっちのほうが納得していた。

背が高く見える。160しかないといったら、170はあると思っていたとのこと。

そして、KJE保持者の意思に引かれてしまう。この日になんとなく思ったらばったり出くわしたのがその証拠!意思は用水路に投げ込んだはずでは・・・。

危険だ・・・。KJEは墓か来世までもって行かねばならぬ話だというのに。イングランドのエリちゃんもおかしくなってしまうわけだ。

でんでん?あれは元からじゃないかな。

かようにわしは、生き辛い世界を歩んでおるのである・・・。KJE保持者の未来はいかに!?





いかがであろうか・・・。これが全部現実に起こったということを信じられるであろうか・・・。

KJEはイングランドのエリちゃんの本性を暴露し混乱せしめ、一般人女性はわしが美男子にシェイプシフトしている(もしくは混乱して見えない)ことをわからずにほめちぎってしまうのである・・・。女性ばっかりかこれ?

苦難の時代到来である。KJEをなるべくよき方向に活用し、罪滅ぼしをしていく所存である。でんでん。



最近、小説を書いているといったものだが、どっちが小説なのかわからなくなってきた。

だが、ありふれたお話ではあろうと思う。

是非とも、区別はつかないだろうが、KJE保持者には警戒を。


では、よき終末を。


素朴な、あまりに素朴な疑問

2017-02-24 | 雑記
デーヴィッド・アイクは、「この世界は映画の『マトリックス』同様にマトリックスなのである」という話をしている、というのは度々してきた。我々が現実だと思っていることは、映画館で映画を見ているのと同じであるというわけだ。

いくら映画の主人公に自分を重ねても、その主人公が劇中で怪我をしたところで、こちらも傷が入るわけではない。痛そう、と思ったりして、気分の変動があったりはしても。

それが過ぎると聖痕になるやもしれないが、その映画を見ている存在はそもそも、我々が思っているような物質的な存在ではないわけで。

アイクは、コンシャスネスと言っていたが、ユングで言えば、集団的無意識と重なる話だと思われる。

そのアイク自身は、サッカー選手でその後キャスターやったり政治活動やったりと、バックアップを受けていると思しき状態である。
MAGICA魔法入門カバラの管理者氏によれば、魔法の結社のバックアップを受けているはず、とのことである。でなけりゃテレビ出たり出来ないから、とう前提を踏まえておいてもらわないと、訳のわからない話だと思うが、もっとも、理解しようとしない人には端から訳のわからん話ではある。

ついでに、ユング自体も、その出自がオカルトの系譜であるという。興味のある方は色々お調べになると、面白いと思う。
オカルト=キチガイという、教え込まれただけの方程式を金科玉条にしている人にはそもそも上記の如しである。
そういう奴に限って、「常識を疑え!」なんぞと言っている例は、前に書いたかな?もしくはわし自身であったか!

かつてアイクのその話を読んだときは、『マトリックス』の例えから理解する形ではあったのだが、バトラーの『魔術入門』にも、やはり同じ事が書かれている。

人によって解釈が分かれる、という常識的な言い方を一応しておくが、アイクもユングも、魔術が解き明かしてきた内容を、魔術といわずに公表しているのである。


アイクの話に戻す。

つまり、映画を見ているような状態というのは、硬いとか柔らかいとか形状を持っているというのは幻だというわけである。

実際に、科学者がそんな話をしている、というのも著作に引用されている。

子供のころの理科とか科学の話だと、物質は分子にまで分かれて、それらは原子が結合している、などと習ったはず。わしより年上の方は恐らく、そこで止まっている。

実は原子は素粒子というもっと細かいものが集まっている、という話は少し前から出ていた。丁度、わしが子供の時に学校で聞いた。
「こういう風に教科書に書いてるけど、素粒子が云々」という風に。

素粒子の先は、もはや波のようなもので、掴みようのない状態だとも、アイクは引用していた、と思うのだが、面識のあった邦訳者との諍いの腹立ち紛れに捨ててしまったので、確認は出来ない。

数年前に出版された、別の翻訳者による追加の書籍もあるので、興味のある方は読んでみよう。『金枝篇』みたいに増補改訂するように著作を出しているので、上の話もあると思われる。


さて、タイトルが素朴な疑問、という風に書いたが、そこに触れたい。

少し前にも書いたが、映画『マトリックス』で、主人公のネオは、脳みそに、支配するに都合のいい夢を見せているマトリックスから抜けた後、戦いを挑む。何をしたかというと、イメージトレーニングだと書いた。
マトリックスのやり方を逆用して、劇中だと憲法、じゃなくて拳法を覚えたりしていたわけだ。
そして、またマトリックスに入り込んで、言ってしまえば、強くなった夢で、敵の夢を打破するというわけである。

これも度々書いたが、アイクは、『マトリックス』で間違えているのは、マトリックスを抜けた先に、物質的な現実世界があるように描いていることだという。それ以外はまったくその通りだと。

それならば、皆が今の常識、つまり変な夢に縛られない自由な状態で生きられて、別に環境汚染も何もない状態の世界になったとしたら?
『マトリックス』よろしく、見たい夢を見るだけで全てが完結してしまう状態ならば?

「森で自然に沿って地球とともに生きることこそ至上!」という口ぶりは、何も意味を持たないことになるのである。己が好きでやる分には問題ないのは言うまでもなく。

森?地球?それ自体幻ではないのか?自然というなら、物質至上主義の目で見ているだけの森や地球にはなく、我々が見たいと望むこと、見たい夢にしかないのでは?となる。

そんな漫画や映画の話なんぞ来るわけがない、という時点で、もはや変な夢のとりこであることを自覚しない。

こんなことを書くわし自身がそんな確信を強くもっているとは言いがたいのだが、とはいえ、人の形のみの凝り固まった理性というものに縛られている、わしも含めた我々には(いつも書く「我々」には元々わしも含めているが敢えて)、そもそも、想像もつかない話なのだから。
だから、想像が出切るまで、夢を見るしかないのだと思う。寝てる時に見る夢、というだけの意味ではないことをご承知願う。


では、よき終末を。


妨害電波による、ありふれた事案及びKJE保持者の肉体的変化について

2017-02-23 | 雑記
先日は、「着物からの妨害電波が街行く人を恐怖と混乱に陥れている」という恐ろしい事実を公開した。

これを書いたわしはきっと殺されるであろう。なるべく拡散のほどをお願いしたい。

とはいうものの、その影響はまだ強いとはいえず、世を崩壊させるほどではない。一般人にサインをねだるとか、あまり見覚えのない少女に挨拶されるとか、もう少し広くなったところで、総理がでんでんと言ったりするくらいのものでしかない。昔の総理はWho are you?である。これもきっと、着物ジャミング効果、略してKJEが相手の大統領が何者かどころか、何か判らないくらい認識阻害を与えていたと思われる。

でんでんとかWho are you?はまだ強い効果ではなく、ただ広範に渡っていたがために、あの程度で済んでいるだけで、一般人にサインをねだるだとか、見知らぬ少女に挨拶されるなどというのは、強烈に浴びたせいでショック状態になったからといえる。つまり、正気を一時的に失ったというわけだ。

このショック症状を、とある漫画にあった名前を借りて、「キモノ・リアリティ・ショック」と名付ける。略してKRS。

いかなる時に起きるのかというのは、そもそもKJEのせいではあるのだが、「日常に着物が存在するはずがない」という固定観念が突き崩され、一時的に自我が崩壊するためと推測されている。

ネパール料理屋に着物がいるはずがない、といった日常の当たり前の感覚がKJEに対する抵抗力をひどく衰えさせ、KRSを引き起こしたという寸法である。

でんでん辺りは、影響があるのかないのかはっきりしないため、軽視されがちであるが、これも実は恐ろしいのである。

かつて、広島と長崎に原爆が落とされた。そこから引き上げてきた作業員達だとか、肉親を探して戻ってきたとかいう人達に、妙な病気が発生していたいという。
通称「ぶらぶら病」という。やる気を出したくても出ない、体がいうことを聞かない。特に異常が見当たらないのになっていく、という話である。チェルノブイリの原発事故や、フクシマ以降でも見かけられているという。
広島及び長崎や、原発事故で、詳細なカルテやレポートがないため、目撃はされているのに「科学的検証がなされていないので存在しない」といわれている症例について、広島及び長崎当時に、現地で診察をしていた医師が恐ろしい証言をしている。
「カルテを書いても、次の日には意味がなくなっていた」という風に。なんだったかわからなくなっていたというのだ。

それと同じく、KJEの効果は確実にあるのだが、「カルテが次の日には意味がなくなっている」から科学的に立証しづらいがゆえに、一般には認知されないのである。


そこで、KJEのキャリアとなってしまった己の状況を書き述べることにする。どうか、これが未来の平和に役立たんことを・・・。

具体的には、食欲がなくなった。食べなくても、別に問題がない。めんどくさいから食べない、ではなく、食べる必要性が薄まってきているのである。半日は当たり前、最近では一日食べてなくても、駅まで歩いて仕事に行っていたりする。
これは恐ろしい。どんどんと衰弱していって、仕舞には尸解仙へと成り果てるのだろう。尸解仙がそういうものだったかは知らない。
が、顔がやつれてベルトの穴が一つ減ったが、寝て起きたらふらふらかと思ったら、別になんともない。
返って性欲が強まったという、世の女性にとっては危険な状況にはなっているので、ご注意のほどを願う。
きっと生存本能が高まったせいであろう。

睡眠も減っている。寝るには寝るのだが、寝てる途中で「何で寝てるんだ?」といった具合になって、無理して寝なくてもいいのかもしれない、などと夜な夜な、仕事柄、朝な朝な、という言葉があるのか知らないが、思ったり思わなかったりしたら、寝ていたりする具合である。

髪の毛もつやつやのサラサラになっていたりする。これは恐らく、純粋な石鹸で頭を洗っているせいだろうが、ついでに記しておく。

そして、通常では見えないものが見えるようになったのである・・・。といっても幽霊だとかトカゲの人は見たことがない。

ある日の夜勤中、夜中から早朝の人がほとんどこない時間に、事務所内で、先日書いた、バイオンだとかプラーナを見る視線をやってみた。

モノが近いとあまり上手くできないのだが、それでも普段と違う焦点にはなったかと思ったら、部屋中に白い靄のようなものがが薄く漂うようにあるのが見えた。

バイオンではないのだろうが、エアコンの風に乗って漂っているともそうでないともいえる感じで、なんともいえなかった。

加湿器の蒸気が見えたのだろう、とは思う。だが、一言お断りしておくと、加湿器をかけてもそれほど湿度の上がらない事務所ではあるし、見た先には湯気が立つものはなかった。

同じようにある日、駅のホームで電車を待っているとき、正面左の方を見た。
その瞬間、まるで、そこに亀裂が走ったかのような白い線が走ったのを目の当たりにした。目が霞んだのかと思ったが、目をこすった時だとかの感じではなかったように思う。その白い亀裂のようなものは、視線の先にいた二人組みのうち、女性の方あたりで走ったように思う。
まあ、何かの見間違いであろうということにしておく。
また見たら、その時は覚悟しなくてはなるまいな。

この先、わしの身に何かさらなる変化が起こったとしたら、それはもはやKJEの影響以外のものとは考えられないのである!



さて、先日に続いて、冗談から出てきた着物ジャミング効果なる、馬鹿馬鹿しい話をやった。だが、まだ部分的に続いているのでご注意を。

すぐ上の、事務所内での話は、靄のようなモノの正体は定かではないが、エアコンの影響とは思う。ただ、焦点を通常に戻したら見えなくなった覚えはある。

バトラーも書いているのだが、魔術結社に入って修行していると、普通とは違うことを覚えたりして、実際に能力を得ていくとはいえども、それで偉くなったように勘違いしていく人は多いという。つまり、うぬぼれるのだと。

オウム真理教とやらでも、変な修行で自分は偉くなった!という、高揚感を覚えたと、元信者が証言していたりする。
眠くなくなった!性欲もなくなった!とか喜んでいたとかいう。性欲についてはわしとは逆だな。


「自分は人には出来ないことを修行して手に入れた、選ばれた存在なのだ」と、何かにつけて人はうぬぼれる。

どこかの誰かも、同じく「努力して痩せた」と、自慢げに書いていたものである。どこかの誰かは一杯いるので、当てはまるなら誰でもであるが。ついでに、わしも入れてくれたらいい。

こちらなんぞ、着物を着ていたら痩せて、おまけに変な能力(仮)まで開発されている。しばらく前まで弱っていた性欲までアップして、泣きたいやら喜びたいやらである。
元々痩せているから、骨と皮になるところだが、腹筋は割れている。どちらにしても真に受けなくてもいいが、見たい人は女性限定で夜のお相手のみ、ということにしておく。・・・本当に見に来られても困るが。
つまりは、その程度なのである。もしくは、恐るべし!KJE!

ありふれたことを、さも特殊なことのようにうぬぼれる、人間のありふれた性(さが)という奴である。


では、よき・・・まだ早かった。


真に受ける奴はいないだろうが、着物を着てるだけで痩せはしないので、ご注意を。人によっては、自律神経の調子がよくなったりで、元気になったせいで太る可能性もありえる。
腹や腰を締めるせいで、物理的に圧迫されて食欲が減る、というのもありえるのだが、飯が食えなくなるほど締めるのは、結婚式などで着崩れが許されない場合くらいである。

それでは改めて、よき終末を。



妨害電波による、ありふれた事案

2017-02-22 | 雑記
先日は、「着物から妨害電波が発生しており、他人の認識をおかしくしている」という大発見をした、という記事を書いた。

一般人なのに、サインくださいとか、普通じゃない。そうやって普通じゃない状態にしてしまうに違いないと睨んだのである。

それにしては、まったく関係ない話を延々していたが、そこは忘れてもらおう。

さて、ここまでまったく冗談だが、妨害電波に違いない、という冗談で続ける。

どこまで冗談で、どこからが冗談でないか、というと、サインをねだられたのは実話である。

書いてくれ!と詰め寄られたわけではないのだが、そんな発言が飛び出すことが不思議でならなかった、というわけだ。ちなみに、その女性の方は飲んでいなかった。

その着物ジャミング効果、略してKJEの効果は、着物を着ていなくても、もはや強烈な静電気を帯びたかのような、否!例えが悪いが、体内に取り込まれた放射性物質よろしく、我が身から放出され、他者を蝕んでいるに違いないのだ!

そのような事案をいくつかご紹介する・・・。事実は小説よりも奇なり!


仕事場の社長が、入れ替わり、人事に異動があった。大本の経営会社からの社長で、現場に人手が足りないと聞いたら、自分が元からいた所の社員を二名ほど連れてきた。
そのうちの一名はアルバイトとして編入された。仕事の覚えが速く、物腰の良い紳士であった。こちらより二廻りほど年上である。

その件の紳士と夜勤の折り、休憩時間には少し早いが、個人的な調べ物をしようと、ロッカーから本を持ち出し、PCの前に座った。

すると、こう尋ねられた。

「安生さんは、他にお仕事を何かされてるんですか?」

こちらもアルバイトなのは既知の事であったので、別に何もやってないと答えると、さらに言う。

「いや、文筆家かなにかかと。そんな雰囲気がしたもので」

などといわれる。

「いやぁ、顔がやつれてるから、芥川龍之介みたいな顔かもしれませんね」

などと答えておいた。

これはきっと、KJEによるものだ!と、今になって思う。

ブンピツはしてるかもしれない。妨害電波を分泌しているのである。分泌ではなく、放射というところだろうが。


さて、他にも続けてまいる。

このKJEの効果は凄まじく、純真な子供の心までかき乱している。近所に学校があるので、わしはきっと、石もて追われるに違いない。

何年か前、夕方くらいだったが、着物で外にいた。すぐ隣に猟犬が飼われてる牢獄のような小屋があり、そこに行こうとしてたか、そこを出た後だろうか。

下校の時刻だったのだろう、女の子が一人、歩いてくる。途中で曲がるか、わしの傍らを過ぎていくのだろう。

そのあたりの記憶は曖昧だが、ともかく、近くまで来ていた。そして、「こんにちは」と言って通り過ぎた。

細菌の、じゃなくて最近の学校では、怪しげな人に会ったら、先に挨拶するように教えているらしいが、やはり怪しかったのであろう、仕方あるまい。
それに、マントで歩いていたら、近所の男の子供に、「カンタロウ!」などといわれたこともあった。

からかわれていることよりも、「なんで、お前らがそれを知っている!?」という疑問のほうが大きかった。これもきっと以下略!

さて、話を戻す。

背丈に歴然の差のある上に一人で、マントを羽織った謎の人物に対しての態度としては普通だろう、と思ったものだった。

さて、わしが普段、仕事に行くときに歩く道は通学路らしく、子供達が各々つるんでいる奴らとまとまって歩いていく姿を見受ける。

そしてまたある日・・・。今度は洋装でその下校の集団の横を歩いていた。

すると、「こんにちは!」の集中砲火を浴びた、ということではなく、数人くらいいたと思うが、女の子の一群の傍らを通り過ぎたときである。

そこで、その中の一人が「こんにちは」と言ってきた。

反射的にそっちの方を見て、こちらも「こんにちは」と返したが、暗がりで出くわしてびっくりしたように言ったわけではなかった。その時は「こんばんは」である。そんなこともあったが、それは別の話。

はて?どこかで見たことあるような?と思ったら、上記の一人ですれ違ったときに挨拶してきた子であった。

先週だったかも、それと思しき女の子が挨拶をしてきた。通勤中のわしは、こっちもよく存じ上げている人間以外にはひどく無表情にしか反応しないのだが、それでも見かけると声をかけてくるようである。

不審者だと認識されていたら、他の子供も一斉に「こんにちは」である。ある意味、有名人だが、そんな有名人にはなりたくない。

これはどう介錯、ではなく、解釈すればいいのかはわからないが、KJEのせいには違いない!とすることにした。

※これも推測だがかなり正確であろうことを述べると、昔、着物で出歩き始めたころ、馴染みの近所の沖縄料理屋で飲んでたとき、子供連れの母親がいて、少々おしゃべりをした覚えがある。そのお子さんの内に女の子がいたので、その子ではないかと思われるが、確認は取れていない。
まさか、挨拶されたときにスッと近づいて「どこかであったっけ?」などと言ったら子供を傷つけるかもしれないし、古いマフィアみたいな格好したおっさんが女の子に急に近づいたという事で、事案になりかねぬ。

KJEの効果に、実際の身長より高く見える、というものあるらしい。ハットと靴を合わせたらそう見えるのかもしれないが、かつてハットもなく、多少底の厚い靴も履いてない時、実際の数値を伝えていたにも関わらず、サイズ合わせの際に「もっと高いと思ってた」といわれたことがあった。これは、きっと態度がでかいのだろう。


恐るべしKJE!これならきっと世界を手中にできる!


着物ですら、こんな芸当が出切るのである。人外と言える存在はもっと上手くやっているらしい。

やっているけどたまにポロっと出てしまう、などというのは、例えばイングランドの女王の話なんかが最近では有名であろう。


なんだか気に入ったスピ系ブログの、『空色ノート』というところがある。つい最近の更新では、日本のもうなくなった村で行われた火葬の際の出来事の話が載っていた。

詳しくはそちらを見ていただくとして、内容を簡単に書く。

その村は、火葬の際は野焼きみたいな感じで、外で焼く。キャンプファイヤーにご遺体をぶち込むのだと思えばいい。

さて、ある村人が逝去され、火葬することになった。その村人は、残虐非道な、人なのか疑われるくらいの気性で、「鬼」なんぞと呼ばれていたぐらいの鬼女であったそうな。

焼き始めてしばらくすると、首の辺りが持ち上がってきた。村人がその持ち上がった焼けた首のほう見ると、その頭部には角と思しきものが生えていたらしい。
慌てて坊さんにお経読んでもらって、骨も徹底的に焼いて跡形もなくしたとのこと。

その離村した村人が年に一、二回ほど集まって飲み会をするのだが、じいさんばあさんがそんなこといってた、という話を聞いて書き込まれたものだそうな。

死ぬまで姿だけはボロを出さなかった人もいれば、ボロを出しまくりの存在もいる。これはきっとKJEの仕業!


着物を着て出歩き始めてすぐくらいだったと思われる。今は辞めていなくなったバーの店長が、言っていた。

「この間、ツイッターで『ここ(本当は地名が書かれている)にブ○ーチのコスプレしてる人がいる!』って書かれてたよ・・・」と。

当時のわしは流石に憮然としたものである。だが、KJEの存在と、人の姿を纏っている存在がそこらにいることを考え合わせると・・・。一つの答えにたどり着いた。

そいつは、節穴が人間のコスプレしてるんだなと。

節穴が人間のコスプレしてるなんて、実にありふれた話ではないか、と思うのである。

KJEもたまには役に立つようだ。ありがたやありがたや。


では、よき終末を。


ありふれた妨害電波

2017-02-20 | 雑記
歳の割りに、若く見られるということがたまにある。

といっても、今年35歳。赤ん坊に見える、とかいう訳ではない。「20代だと思った」といわれることがあったりする。

反対に、ぴったり30過ぎと言い当てる人もいるわけで、驚いたり、結局驚いたりしている。

先月も、そんなノリの話があった。馴染みのお店で飲んでたら、後から入ってきたそのお店の常連の女性。店員と話をしていたりする。

軽く酔ってきたので、何かの拍子に話しかけて、少々しゃべっていたら、やっぱり突っ込んでくる。「どうして着物なんですか?」と。その後の流れは、よくあるもので、その中で「とても落ち着いて見えるけど、20代だと思いました」となった。どうやら、着物が妨害電波でも発していて、他人の認識をおかしくしているのだろう。すごい着物だ。

妨害電波(仮)の力は凄まじく、その女性は「ファンになりました!今度色紙もって来るんで、サインください!」と言い出した。

すると店長が、店に飾ってあった七福神スタンプラリーの色紙を取り上げ、「この裏なんかどうですか?」などと言い出すしまつ。

ファンです、なんていわれると、実に不安になる・・・というダジャレは、ずっと昔にやったものであるが、その理由を思い出したりしたものである。
別にその話をやるわけではない。

つまりは、ありふれた話だということである。妨害電波(仮)でジャミングされた女性が、一般人にサインをねだる、というのはありふれているのかは知らんが、こちらにとっては、ファンだのサインだのを除けば、ありきたりである。まあ、その女性にとってはそんなことを口走ってしまいたくなるような出来事だったのだろう、とは思うが、人の事はわからない。

と、ここまで書いたのを読み返したが、「こりゃ一体なんなんだ?」と、笑ってしまった。自分に起こったことなのに、なんだか漫画か何かを見ている気分である。

それはともかく。ありきたりな話をしようと思う。といっても、他人の話であるが。

ある女性がいた。今も存命だとは思うが、知らない。

幼少のころは、余り親に大事にされた覚えがなかったと述べていた。細かいことは忘れたが、虐待に近い状態だったようなことを言っていたと思う。

つまりは、愛情に飢えた女性だったというわけだ。その空白を埋めるために、色々やっていたとも自身を顧みて述べる中に、例えば食べることだったり、服を作ることだったりがあったという。

そんな彼女は、歳長じて、紹介された男性と結婚し、二児を儲ける。とはいえ、旦那に対して愛情はなかったいう。

子供は、長女、長男の順に生まれた。この長男を溺愛することが、かつて色々やっていたという、空白を埋める行動の一つになったそうだ。

彼女には、特に子供が生まれてから顕著になった問題があったそうだ。それは、体型がとても豊満になってきたことである。

豊満、などというの冗談で書いただけだが、要するに醜く太ってきた、というわけだ。

ダイエットしよう、ということで、これまた色々やり始めた。運動したり、ダイエット本を読み漁ったそうだ。

そして、食べ物がいけない、当たり前だと思っていた食べ物は、実は色々とおかしくされていた、という話に行き当たる。

そういう話を翻訳したりしている人物に、思い切ってメールした。以来、交流が深まり、よくメールし合っていたという。

そんな日が続いたある日、その様子に腹を立てた旦那が、「お前とは離婚だ!」と怒鳴って、離婚になった、という風に語っていた。

彼女から離婚の話を切り出したわけではなかったのだが、向こうから来たという。

そして、彼女は独り身になり、そのメール相手の殿方の元へと旅立ったとさ。めでたしめでたし。



離婚に至るまで、彼女は、その旦那に、勉強した食べ物のことや、食肉の作られ方の凄惨さだとかを、事あるごとに旦那に理解して欲しいと伝えてきたのだが、まるで取り合わなかったと言っていた。

だが、メールの殿方は素晴らしい!そして相手方もこちらのことを理解してくれている!と。そして、相思相愛状態になったという。

いかに元旦那がバカか、いかにその殿方が素晴らしいか、を延々述べていたものである。

その殿方も、彼の言葉を借りて言うならば、「食い改めて」、デブデブだった身体を細くするという魔法使いだった。(この場合の魔法は単なるジョークである)

そのことで意気投合し、一緒になったというのだが、とんでもない話を、後年聞かされたものである。

件の殿方の交流関係があったある女性。共通の知り合いというわけだが、その女性へのメールに、にわかには信じられないような発言があったとのこと。

「その人を太らせるのが楽しい」と、楽しそうに書いていたそうだ。

「今まで色々やってきたのはプラスするだけで、意味がなかった。無駄をそぎ落としてよくなったのだ」という風に語っていたが、心の空白を埋め合わせる手作業だけは忘れられなかったようである。

二番目に生まれた長男を溺愛していた、と書いたが、それがその殿方になったというわけであろう。

いかに自分が苦労してきたか、回り道してきたか、バカな結婚をしたものだ、そして、今はこの人がいて幸せだ、という風に語る。

そして、そのきっかけになった理屈というものを理解した自分は素晴らしい、世の中のバカとは違うのだ、と言っていた。だから、元旦那をボロクソにけなしていたわけだ。

嗚呼!なんとありふれた話であろうか。


これでは、テレビに映る芸能人とやらが、「子供のころのいじめや病気を克服して今に至った」とかいうしょうもない話を美談のように語っているのと何が違おうというのか。
そして、そんな発言をする奴に限って、精神障害と思われても仕方のないようなことを裏でしていたりする。そんな芸能人が前にいた気がするな。


人に貶されてきたから、人を貶す立場になろうと努力してきた、と言われても仕方のない話である。

旦那を貶すために、紹介されただけの相手と結婚したようなものである。太って痩せたのも、また人を貶すため。


過去の経緯があったから、今の自分がいる、と誇らしげに語るのは構わないのだが、ねじくれているのを誇っているだけなのである。

その殿方と女性は、自給自足の生活をするとして、農地を買い取り、件の殿方は始める直前に語っていた。

「Y子さんは、自分たちの生活を見せびらかしたいと思うだけになった」と。所謂啓蒙活動は意味がないと悟ったから、という文脈だったか。

物質文明でのた打ち回る衆愚に対し、いかに自然に囲まれた生活は豊かで素晴らしいか、自慢したいというわけである。

だから、人を貶すために、そういう生活を始めたといっても過言ではないのである。元旦那しかり、ダイエットしかり、である。

その彼女自身の発言を取り上げる。

「人間社会から離れます」

本人の自覚のほどはさておき、いかに他人を貶すかに腐心しつづけたその心根は、人間そのものである。

かような心根は、人間から微塵も離れていないことを如実に物語っている。「人間やめます」とも言っていた。

己だと思い込んでいる、その意識を疑うことなければ、「わたしは今を生きている」などと言っても、元旦那を貶している時となんら変わらない。「他人を貶す今を生きている」のである。
過去から微塵も離れられておらず、それすなわち、己がバカにしている人間の姿そのものである。
己の理性が粗雑に組み上げた、記憶に対する条件反射を辞めるべし。人間を辞めるというのなら、まずはそこからである。


現代社会に対して、自然文明の優越を説くその姿勢は、ただ、現代社会における見せ掛けの飾りを取り替えたに過ぎない。

確固たる土台だと思い込んでいた、己の自負(良いも悪いも)は、今にも崩れ去りそうな足がかり程度でしかないのである。

そんな足がかりを繕うことに腐心するのが人間である。見せ掛けだけかえて愉悦を覚える、上記の如き人間である。


余りにも、余りにもありふれた、人間の話である。


では、よき終末を。


なまけたナマケモノ

2017-02-17 | 雑記
今は亡き、水木しげる爺は、かつてこう述懐していたという。

「わたしは努力なんてしてません」と。

若きころ戦地に借り出されて片腕をなくして日本に戻った後、貸し本漫画を描き始め、現在では知るもののないようなレベルの存在となった人物は如何なる努力をしてきたのか?と、思ったら、そんなことを言う。

あるいは、人柄がそういう風な物言いをさせたのか?ある思想家は、若いころに水木と面会した際のことを書いていたが、他人がどう思っているかをまるで意に介さないかのような振る舞いだったという。
具体的に何をされたのかを思い出して書くと、こんなことがあったといっていた。

訪問して、リビングだかで待っていたら、水木がやってきて、片腕に持っていたものをいきなり渡されたという。

「ヨーグルトです」

そして、戻っていったそうな。他人の状況を伺うこともせず、いきなり渡してそう一言だけ残していったそうな。

別の機会でも、同じことをされたそうである。

「バナナです」

お腹すいてませんか?よかったらどうぞ、とか、そういう普通の物言いではなく、いきなり渡しただけだったとか。

こういう人だから、そういう風に言うものなのだろうか?と考えてみても答えは出ない気がする。あの人柄だからだと結論づけるのもありとはいえる。

MAGICAカバラの管理者が推測するに、漫画家共有のネタ保管庫があって、そこからネタを引っ張り出しているのだろうという。
だから、「何々をパクリました」と公式に言ったりしているが、特にお咎めも何も無かったりする。
そして、そのネタ保管庫から取り出した話をアレンジしたりする程度なので、一般に思うような凄まじい努力をしたから面白い話を描けているわけではないのだと述べていた。
それは、先日書いた、宮崎駿や庵野秀明の言などにも繋がる。

そこから考えると、水木の言葉は、他人を意に介さないような所から出ているとしても、本当のところなのかもしれない。多少でも人目を憚って言うなら、「ちょっとはしたかもしれませんね」等と言う所かと思う。
だが、そんな人には見えない。

秘密結社で知識を授かってでんでん、じゃなくて云々、というのを抜きにして考えても、人間はその身だけの力で事を成しているのではない、という話がある。

まずは物質的な範囲に絞って物をいう。とはいうものの、いきなり野生動物の話である。
ナマケモノと名付けられた動物がいる。彼らは彼らなりの生活をしているだけなのだろうが、そんな名前を人間はつけた。

だが、そんな彼らの名前通りともいえる状況があったりする。

余り日に当たっていない状況が続いたりすると、腸内の細菌の活動が芳しくなくなり、満腹でも餓死するという、耳を疑うような話があるそうだ。

餓死とは一体・・・。これはつまり、ナマケモノは細菌に生かされているといえる。

人間とナマケモノを一緒にするな、とお叱りを受けそうな気もするが、実は色々とある。
健康のために腸内の状態をよくしよう、そのために乳酸菌を、などと宣伝されていたりするが、人の感情は、その腸内の細菌の具合でコントロールされているのではないか、という研究報告がある。
西洋の科学というのは、結果と原因をひっくり返して、つまり勘違いして報告していることが多々ある。もしくは意図的に。
例えば、骨髄が血を作っている、というのが定説だが、実際は生きた人間の身体を調べて得た結論ではない。
遺体を解剖したら、骨髄に血があるのを見出したので、骨髄が血を作っているに違いない、と結論付けられただけだそうな。
フッ素の過剰摂取で歯に変化が起こっている人達がたまたま虫歯が少なかったから、フッ素は歯に良い、とそれ以上の調査をせずに定説にしている歯科学の例もある。
こういう風に話をしても、取り合わない人がほとんどなので、正直諦めている。
医者にも名誉欲があるわけで、目新しい学説を見つけたなら、広めたいと願うものである。金にもならない真実だけを追い求めるほど、人間を捨てた存在がそこに集まっているわけではないのである。金を求めるな、というわけではないが。

愚痴はともかく。腹を立てたから腸内細菌が死んでしまった、ともいえるわけだが、ここまで書いておいてなんだが、腸内細菌に感情がコントロールされている、というのは間違いではないかもしれない。

腸が免疫の要といえるらしく、調子が悪いとイライラしたりするのが腸から始まった不調だとするならば、腸内細菌が感情を動かしている、となるわけだ。

ナマケモノと同じく、人間も細菌に生かされている、といえるのである。さすがに、満腹で餓死の報告は受けていないが。

細菌は人の目には写らないが、実際に存在する生物である。顕微鏡の開発以来、ずっと認識されっぱなしである。細菌なんていう存在を、生まれた時に認識していただろうか?顕微鏡で発見される前の人間は認識していただろうか?

風邪を引いて寝込んだとする。何日か寝込んだとして、そして元気になったと。寝ていたのを努力だというのも変だが、安静にするよう勤めたから治ったのだ!と考える。
果たして、その「努力」が風邪を治したのだろうか?
あなたは確かに、安静にするように勤めたが、実際はその意志が具体的に風邪の治癒を指示などしていないのである。安静にしようというのは、確かに風邪に対するものだといえども。
寝込むほどの症状ならわかり易いが、気づかない程度の症状の場合ならなお更である。
あなたの気づかないところで、あなたは生かされている、と言えるのである。

それと水木翁の話とどう関係あるのか?という辺りに戻る。

人間の脳というのは、経験や情報による記憶を駆使し、また五感からの情報を記憶する器官、というのが一般的な認識である。確かに、なければ話したりすることはおろか、生きているという状態にはならない。後天的な記憶とは別に、心臓を動かしたりするのもまた、脳の一部が行う。
だが、脳というのは一般に思われているような、命令を下すだけのものではないのではないか?という話がある。ラジオのアンテナだというのだ。
ソクラテスは、「わたしは、頭の後から少し上のところから聞こえてくる言葉に従っているだけだ」という風に語っていたという。
もしかしたら、聞こえてないだけで、自分がやっていると思っていることは、実は何かの指示通りなのかもしれない。まともな指示なのか、指示通り動けているのか、という問題もあるだろうとして。
それが何なのかというのは、人によっては宇宙からのメッセージだとか言う。アイクが言っていたが、現在の地球は様々な電波(ラジオや電話、テレビ等の)が全体を覆うように飛び交っていて、宇宙からの周波は遮断されているそうだ。

要するに、わしら自体がすでに、目に見えないものに多大な影響を受けているのだというわけで、「努力したんだ」というのは自意識にうぬぼれているだけだということである。
さっきも言った風邪で寝込んだ話と同じである。安静にしていたことは治す要因の一つであろうが、風邪を治したのはあなたの「努力」そのものではないのだと。

こんな話をしているのは、また例のおっさんの話を思い出したからではある。

何かにつけて「努力した」だの、「苦労してきた」だのといっていた。
努力だの苦労だのと人に言うのは、嫌々やってきたからそういうわけで、それならば、あの言葉はどう解釈すればよいのだろうか?と思い至ってしまったのである。
「わたしとY子さんが今の関係になるまで、色々と苦労したんだ」と。
そういえば、「努力して痩せた」ともかつてのHPに書いていたわけだ。
その人と一緒になりたいとお互い感じて動いてきたことを、「嫌々やってきた」と述べる。
デブデブに肥えた身体を「嫌々痩せさせた」という。
160cmちょいの身長で、80kgオーバーまで太らせたというのは、相当努力なさったんでしょうな、と皮肉も言いたくなるわけだ。

皮肉とはいったが、デブデブにならなければ、我が身を省みて、痩せようとは思わなかったわけで、これはつまり、「太ったから悪い、痩せたから正しい」ではなく、「太ってそこから痩せるという流れでもって我が身を省みさせるという一連の動き」だっただけのことである。それを痩せるために努力したと述べるのは傲慢だと言える。痩せる努力をしたのなら、太る努力もしていたとも言わなければならないからだ。
「あの時太ってたから、我が身を省みることが出来たんで、太っててよかった」とでも考えられない様では、人間を肥える、ではなく、超えるとは情けなくて言えなくもなろうものである。もしかしたらそんな風なことを言っていたかもしれないが、忘れた。少なくとも、かつてのHPにはそんな言葉はなかったと思われる。間違った食べ物や知識で太らされた、とばかり述べていたはず。

長くなったが、つまりは、自発的な努力なんぞないのである。過程に努力もなかった。活動することで疲労を負う、というのはあるが、それは何事にもついて回ることである。
だから、水木翁も「努力してない」と言ったのであろうな、などと思うのである。

それで、目に見えないものがどうたらとかいうけど、それって無茶苦茶じゃないか?と思われるだろう。とはいえ、テレビやラジオの電波も見えないのに、しっかり働いている。これを無視して言うのもどうだろうかとは思うが、一つ、普段目に映っているが見えていないものについて。これについては度々書いてはいるが、改めて。

晴れた日がいいだろう。ある程度視界の開けたところがいい。個人的には近所の川原なんかが最適だった。
とりあえず、川原だとして、空のほうでも見る。そして、焦点を内側にするような具合にする。眼球の表面に漂うゴミが見えたりするだろう。あの視線を意識して、それを強める。
すると、目の前にキラキラした物体がわんさか漂っているのが見えてくるはず。
別段、特殊なものではない。ただ、焦点を変えるだけで見えてくる、ありふれた存在である。ちなみに、水場のほうがよく見える。だから、川原がいいと述べた。水気のないところだと、動きが鈍くなる。機会があったらお試しあれ。
インド方面の言葉ではプラーナ、ウィルヘルム・ライヒはバイオンだとかビオンと名付けた。
我々は、知らず知らずのうちに、これらを吸い込み、また身に纏っているともいる。
この様なものに囲まれていることは普段意識していない。眼前にあるのに、これである。
バイオンは、我々を取り巻いている、目に見えない何かの一部である。もしくは、見える形になった状態とでもいうべきか。つまりは、物理的な目の焦点を変える程度では見えないものが、我々を包み込んでいるのである。もしくは、我々もそれの一部なのである。
それなのに、見えるものだけが自身を培っていると思うのである。まだ具体的な細菌の例や風邪の例にしてもだし、すぐ上の「努力」にしてもだ。

目に見えない、感じ得ないものはなんだろうか?などと考えるのは夢想だと思われるだろうが、実際はありもしなかった「努力」とやらにうぬぼれるほうがよっぽど夢想だろうと感じるのである。

冒頭の水木しげるの言葉は、何の衒いもない、素直な感想だったのだろうと思われる。あの人柄なら、なお更であろう。


では、よき終末を。


妄想日記

2017-02-15 | 雑記
今日はそうでもなかったのだが、先日、ブログを書こうと編集画面を開くと・・・。なんだかテレビを点けたような嫌な感覚が起こった(その感覚がわからない人には伝わらない例えだが)。それなので、前回の記事は、メモ帳に書き込んでそれを貼り付けるという形をとった。今、こうやって書き始めていると、少々気分が悪くなってきた。

ここにコメントを好んでする人はほぼいないので、コメントについての記事といったらもう特定の書き込み相手しかいないのだが、それでもやる。

しばらく前から度々引用していたMAGICAカバラというブログ。これで検索したら出てくるので、リンクは貼らない。

有名シナリオライターは実際はアレンジャー程度の存在だったという話を、あれやこれやと書いていて、実際に、例えば宮崎駿の発言だったり、最近見たのでは、庵野秀明の発言を取り上げていた。

そういう話を書いていたら、噛み付いてきたわけだ。噛み付くならわしに噛み付くんじゃなくて、その脚本家だとかに噛み付くほうがいいかもしれんのだが。

そのブログの管理者もシナリオライターだそうな。具体的な作品名などはあげていないので、実のところはわからんが、くだらない嘘をついても仕方ないので、疑う理由もない。
それで、件のコメントはなんと噛み付いてきたのかというと、「その程度でシナリオライターを自称するなんぞ、たかがしれた奴だ」などと。見返したくないので、コピペではないことをお断りしておく。

わしは別に、そのブログの人と面識があるわけでもないし、擁護しようとかそういうつもりはないのだが、そやつが罵倒するのがまずおかしい。
なぜならば、有名脚本家に限って、自分自身の才能はたいしたことがなかった(宮崎)だの、あの話は体験でしかなく、話を何もないところから作れると思うのは傲慢だ(庵野)と語っているのを無視している。

有名脚本家の自嘲、といえなくもないかしらんが、コメントの台詞は、有名脚本家に向けていわなくてはなるまい。
「その程度でシナリオライターとはおこがましい」だったかな?

ここでさらに問題がある。こんな妙ちきりんなブログにコメントをしにきていた、というのが問題だ、とかいう話ではなく。
読んでたであろうに、人の話を理解していないか、端から理解するつもりがなかったとしかいえない。
それほどたいした話はしてはなかったが、それはともかく。わしは散々、「我々が当たり前だと思っていることは嘘偽りだ」という話をしていた。あのおっさんの元で、後半はたわけた自慢話が目立つラヂヲをやっていた時からずっとだ。行きつ戻りつだったが。

そのコメントはつまり、こう考えているとなる。
「才能のあるシナリオライターというのは、何もないところから素晴らしい作品を作り上げているのだ」と。

誰でもなんとなくそう思うだろう。わしだって思っていた。だが、これもまた、思い込みでしかなかったと。

その思い込みを疑え、覆せ、と言っているのに、思い込みを金科玉条にしてモノをいう。モノを言っているつもりで何も言っていない。

そして、それに纏わるコメントで「世界と社会のバランスがどうこう」などと言ってきたのに対し、こう返した。

「世界と社会のバランスを取るというのが、既成概念の強化のつもりなら、このブログのコメント欄で議論をする意味はない。自身でその自説を流布すべし」と。

以来、数ヶ月は過ぎたか。未だにコメントはない。そのつもりでないなら書けばよかろうが、そういう風に取る以外ない。
「今は上手く書ききれないが、そのつもりではない」と一言コメントぐらい出切るであろうが、そうもしない。PCが壊れた、とかいうならしらんが、埋め込まれた常識を大前提にして話をしているのを自身で理解していないのだから、こう言われれば多少は理解するだろうと思う。


さて、本当につまらない話はここで終る。

次は少々つまらない話である。



先月から、作文の訓練として、小説のような何かを書いていると述べた。

後悔するので公開しないとも言ってある。それはともかく。

いわゆるライトノベル的なノリの、漫画を小説にしたような内容ではある。具体的にどの作品かと問われると、書いた本人もわからないと答えるであろうが、どこかで見たようなシチュエーションがてんこ盛りという有様である。

それを、無い頭を捻って一字一句悩みながら書いている・・・のではなかった。
こういうと、頭がおかしくなったと言われるだろうが、体験したことを思い出したり、忘れている部分を補ったりして、あったことを日記に丸々書き込んでいるんじゃないか?というような、変な感覚なのである。正直、ブログを書くほうがしんどいレベルである。
だから、あれは小説じゃなくて「妄想日記」なんだろうと、思い至った。

そこで、上記の庵野監督の発言に戻る。「あれ」はエヴァンゲリオンのことだそうだが、自分の経験を元にしたもので~という発言だったそうな。

『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦は、自身をモチーフにしたキャラ(漫画家)に、「自分が体験したことを作品に盛り込むと面白くなる」といった趣旨の発言をさせている。あのシーンは強烈だった。クモをグチグチさして、体液をなめるとかいう。

人間の記憶というのは、脳が五感を通して覚えた情報である。ならば?

そう。妄想や夢というのもまさしく、記憶なのである。そして、夢の中などでは、見たこともない光景や存在を目の当たりにすることもある。

映画『マトリックス』で、主人公のネオがマトリックスの支配について知らされ、戦いを挑むのだが、その際に何をしていたかというと、イメージトレーニングである。脳に夢を見せているマトリックスのやり方を利用して、超人的な動きや能力を仕込んでいた。そして、マトリックスの中にまた入りなおして、言ってしまえば強敵と渡り合う夢を見に行っているわけだ。

アスリートなんかもそうである。試合前に、自身の最高のプレイを現実のものとしてイメージする、ということを行っている。


いわゆる常識は、誰かが、何かが作って見せている夢である。

あなたが見るべき夢の中では、あなたは主役なのである。

夢を、夢の中で眠らせたままでは、目覚めることもままならないであろう。



などと、意味不明な供述をし・・・。




つまりは、有名な脚本家やらがあの様な発言をするという理由が、なんとなく感じ取れたような気がする、という話である。

では、よき終末を。


痴はカンカンたり

2017-02-05 | 雑記
折に触れて、誰かの悪口を書き綴ってきた。
普段は思い出さないし、思い出す必要もないので忘れていたくらいだが、つい思い出してしまった、というところか。
いつもなら、デーヴィッド・アイクの著作等を翻訳していたこともあった、おっさん。
今回もう一つは、以前知り合ったことのあった女性。
因果なもので、両方のことをまとめて、そして絡めて思考を巡らすという面倒なことになった。
分かりやすく、下段の一般女性の方から書くとする。

ある日、知り合ったお店の改装前パーティーの時、その友人を挟む形でカウンターに席を占めていた。
その友人と女性が話している状態で、こっちは一人である。聞くともなしに聞こえてくる。「男ってバカよ」などと、しきりに繰り返す声が。
この話は昔やったかもしれない。取るに足らない、よくある話である。

男がバカかどうかなんぞはどうでもよいが、バカを貶したところで、女性たるその人物の株があがろうはずもない。
そもそも、バカと見下す存在ならば、次元が違おうもの。バカを証明したところで虚しいだけではないか、などと思ったりした。当時ではないが。

酔っていたので単なる愚痴だったのだろうが、そんな愚痴が出る理由に思い当たる節がある。恐らく、わし自身も絡んでいるのだろうが。
知り合った当時、その女性は、結婚を申し込まれていた男性がいたそうな。
その女性から一目ぼれしたとかいっていた。で、なんやかんやで嫌になった、という風に語っていた。
あまり思い出したくもないのだが、その女性から「好きになりかけたのよ!・・・でもだめだった」という、反応に困る言葉を頂いたこともある。要するに付き合えないと。こっちは何も言ってないのだが。

初めて会った時に、和装で颯爽と現れ(遅刻したけど)、趣味にも多少知識があったりで、何かひかれたのだろう。ちなみに、わしゃなんとも思ってなかった。今思えば、初対面の市内のイベントで街中を歩いているとき、途中で雰囲気が違ってきたような気もしないでもないが。
と、自慢のような変な話をしても仕方ない。自慢にもならんか。言い訳してるようにも聞こえようし。

その女性が男性にひかれる理由は恐らく、自分を変えてくれると期待できる存在を探しているのだと思われる。白馬の王子様を待っているわけだ。
一目ぼれして付き合っていたのに、結婚を申し込まれる段になると嫌になったりだとか、上記のわしの件からの推測ではある。わしがダメな理由は恐らく、所謂まともな生活をしてないから、というのがあろう。それ以外もあろうが、どうでもいい。
勝手に見上げて、勝手に幻滅し、「男ってバカ」と言い募る。最初から最後まで幻を追いかけていたというのに。さて、バカは誰であろうか?
まあ、一般女性の悪口はここまで。今も思考回路が同じなら、幻を追いかけていような。
風の噂によると、声優のイベントに通ったりしているそうな。ここまで書くと追い討ちがすぎるかな。

では、それとあのおっさんに何の関係があるのか?
別の意味で関係はあるといえばあるのだが、今回は発言の内容である。
あっちが「男はバカ」である。それならば?
そう。「人はバカ」である。
世を取り巻く陰謀とやらに気づいて、情報を発信したはいいものの、反応が芳しくなく、業を煮やして、「人間社会から離れます」とのことで自給自足の生活を始めた。
離れたら離れたで、結局HPをまた運営してはいる。健康的で地球と共にある生活のために、以前翻訳して出版した自著なんかの宣伝はしていたりする。再出版要請の票集めページを載せてたかな。
詳細は昔書いたが、表では基本、直接的な表現はしてなかったと思うが、裏で「人口削減の陰謀に皮肉な賛同をする」などと掲げた集まりを運営していた。
以前のHPを運営していた当初からかは知らんが、「人はバカだ」と言っているわけだ。
次元が違うのなら、バカにしたところで勝負にならん。勝っていたとして虚しいだけである。それは前述の通り。
最初から他人なんぞ思惑になければ、あの様な間抜けなスローガンなんぞ掲げぬ。さらに、「最早日本人は救いようがないので滅ぶのもやむなし」などと、わざわざぬかす始末。

勝手に見上げ、勝手に幻滅し、「人ってバカ」と言い募る。お迎えは白馬でなく、蒼白の馬がお似合いである。
世の人々が操られているというのなら、金持ちになるとかで大成功でもして、多数の人を唆せるようになるのが一番だったろうが、何故かしなかった。出来なかった、かもしれない。とはいえ、講演を頼まれたこともあったそうだが。
性欲は良くも悪くもエネルギー(そもそも、エネルギーと呼べるものから出ていないものはないので、これ自体間抜けな表現である)、だとかいうのなら、その有り余るエネルギーを直接行使しうる舞台に持っていけばよかったろうに、などと思う。

誰が広めているのかは知らんが、自給自足を!というのは最近、広がりつつある政治思潮である。
自然、というより森に囲まれた生活で自給自足、とかいうのは、ニューエイジにも繋がりうるので、出所はその陰謀組織と同じではないかと思うのだが、何故かそうは考えないようだ。両面から人心を揺さぶりに掛けるのが常ではなかったのか。
書きながら思い出したが、地球の環境汚染は実は全然大したことがないかもしれない、という研究報告もあったらしい。実際にすぐ上流で毒を流されて被害を被っているだとかはあるとしても、だ。そういう、スポンサーを困らせない、スポンサー好みの環境汚染の話はテレビでも大盛況であるならば、やはり、昨今流行の政治思潮には全面的に賛成できるものではない。

などと、思い至ったわけである。以前述べたことと大同小異ではある。

この流れを眺めて、悦に浸った、というわけではない。
誰も彼も、わし自身も、大なり小なり、「バカ」に過ぎないのだなと、笑えて来ただけである。
「バカと言ったほうがバカ」と、子供の言い草があるが、そんな気分である。
バカと言われたら、「よくわかったな。お前は天才だな」と返すのが一番である。

知は閑閑たり、小知は間間たり、という言葉がある。
正しい智恵を持つものは悠々としていて、そうでないものはせかせかしている、といった意味である。
さしずめ、あの時あのおっさんはわしを見て、カンカンになったというところであろう、などと思うのである。
では、よき終末を。