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鳩が飛ぶ

2018-11-04 | 雑記
先日、毎週金曜と土曜を予約して来店する常連の方が、キャンセルの電話を入れてきたという。今回は土曜のみの予約だったが、木曜に電話を入れてきた。

高齢ではあるが、よぼよぼとは言えない、しっかりしている方なのだが、たまに、今までで数えるほどしかなかったが、体調を崩したりでキャンセルするということはあった。体調不良以外でのキャンセルもあるが、キャンセル自体が珍しい。

だが、今回は毛色が違った。

手術をするという。その時に応対に出たスタッフは今朝も出勤だったので、改めて話を聞くと、死にそうな声でどうなったか、何の手術をするのか、日程はと語るのを聞いていたら、泣きそうになってきたほどだったと答える。

余談だが、そのスタッフ(女性)は、感受性が強いというのか、日本人にやたら多いという、エンパス的なところがあるようで、何かでそういう風に思われることを語っていたものである。エンパスとは何ぞや?というのは、この世には便利なものがあるので、ここでは書かない。

とはいえ、たびたび会う機会があり、たまにお土産を貰ったりする相手が、電話口で死にそうな声で語っているというのでは、恐らく、拙でも同様に動揺するだろう、などとダジャレを言っている場合ではなかった。

話を戻すとして、心臓が悪く、鼻血が止まらないと言っていたとか。心臓で鼻血?と少々疑問に思ったが、スタッフに問い返しても意味がないので、「不思議だな?」とは口に出すにとどめた。後は、上京の理由が仕事のこと以外では趣味で来られている方で、それが体を動かすものなのに、来店時や退店時に、ひどく辛そうな具合の時があったのを思い出したので、あれは今回の手術に至ったものの兆候だったのでは?と所見を述べておいた。

書きながら思ったが、心臓が悪いの種類が違うのだろう。当初思ったのは、心臓の動きが弱っているのだと考えた。
しかし、異常に拍動するのもまた、心臓が悪いとなる。それなら、気血の巡りが激しすぎたりで、鼻血になるのだろうと。

そして、手術をこの日に行うとも言っていたという。それが実は、本日なのである。

その客がキャンセルしていたというのは、金曜の夜には知っていたのだが、その時は体調不良としか聞いておらず、あまり気に留めていなかった。

それとは関係なく、「最近、お参りしてなかったから、帰りは近所の神社に寄っていこう」などと、なんとなく考えていたら、上記の話に行き当たったというわけである。

帰り際、例の電話に出たスタッフに、「じゃあ、最近行ってなかったから、帰りにお参りしてくるわ」と言い残し、帰途に就いた。

そして、その神社に行ったのはいいものの、電車を降りると雨が降っている。

雨は問題なかった。最近、空気が乾燥していたので、唇が渇いたりで、少々うんざりしていたからだ。

問題、というほどではなかったのだが、神社に着くと、着飾った親子が集まってきている。

なんと、今日は七五三だったのである。そういう行事に疎い生まれなので、こういう日にあるとは知らなかった。

拝殿に人が集まって出入りしているので、「辞めた方がよかろうか」とも考える。

とはいえ、時間を空ければよかろうと思い、近所の店で昼食を摂り、引き返したが、やはりまだ人はいる。

「七五三なんで、今日は貸し切りです」というのは、普通のお店ならあり得るだろうが、ここは神社。

そんな神様がいるか!と考え(そこまで乱暴な言葉で考えてはいないが)、意を決して鳥居をくぐった。

話は前後するが、先ほどあきらめかけて通り過ぎた時は聞こえなかったと記憶していたのだが、戻ってくると、境内の木々から小鳥の鳴き声がしきりにしていた。先ほどは聞こえてなかっただけなのかもしれないとはいえ、妙に聞こえる。

念のため、拝殿のすぐ脇にある、お守りやらを売っているところに人がいたので、「お参りしてもいいですよね?」と尋ね(残念ですが、というような答えはなかった)、しばらく振りのお参りを済ませ、先ほどお尋ねをした神社の方に軽く会釈しつつ、階段を下りた。

五、六段ほどの階段を降り切ったと同時に、左手から鳩が十はいなかったと思うが、何羽か飛び立った。すぐ近くに一羽がいたりで驚いたからとは思えなかったのだが、計ったように飛び立ち、こちらの頭上の少し上を飛び越して、鳥居から拝殿に続く道を斜めに横切り、境内の大きな木が植えられている、土のところに全羽が降り立った。

こう書きながらその光景を思い浮かべると、まるで映画か何かのようだなと思うのだが、その時も、実は同じことを思っていた。

さて、帰宅し、ポストを確認すると、これまた予想通り、宅配の不在通知が入っていた。その差は十分未満といったところ。

そして現在進行形だが、この上の行を書いていると、再配達を頼んだ宅配が丁度やってきた。冗談のようである。

ここからはあまり冗談にしたくないというか、少し気分の良くない話である。


再配達を頼んでから、ゲームをしていた。オンラインゲームというのは、物にもよるが、決まった時間に起こるイベントがある。

それに出撃していたのだが、少々調子が悪いなと思っていた。夜勤明けでゲームをやるものではない、というのは忘れてもらおう。

その時間制のイベントが終わって後始末をしていると、ドアをノックする音がしたので、頼んだ宅配が予定より(電話口では、早くて二時から四時の間と言っていた)早く来たのかと思い、確認せずにドアを開けると、見知っている人物がいた。

何のことはない。近所のなんとかインの人である。ビョウインとかオクノインではない。


開口一番、その人の口癖なのだろうが、「忙しいところごめんね」か「ごめんね」という。

こちらは煙草を詰めて火をつける前だった煙管を咥えたままドアを開け、その人が何事かを言ったのを確認した後、こう言ってドアを閉めた。

「ああ、どうも。では、さようなら」

向こうもあっけに取られたかと思うが、五分もしないうちにノックをしてきた。

こういう、あからさまに相手にする気がないような態度を取っているというのに、理解してくれないのが癪に触ってしまったのだろう。以前から言いたかったことを吐き出してしまった。

「もう僕は、創価学会の相手をしたくないんです」と。

いつも困ったような顔をしているその人は(理由の一つとしては、こちらがまったくその方面の公に顔を出さないからだろうともいえるが、そこまでは知らない)、戸惑ったような声で(表情のせいかもしれないが)、「何かあったの?」と聞く。「元から嫌なんです。辞めたいぐらいです」と言って、ドアを閉めた。辞めたいぐらい、となったのは、実家のしがらみがどうこうと続く予定ではあったのだが、そんなことを延々話しても仕方がないので、それ以上は語らないことにしたのである。


ドアを閉めてからは少々落ち着かなかったが、腰を下ろして、ふと思った。

「新聞を止めてもらうように言えばよかったな」と。

感情的になるのは、いい結果を招かないものである。それで、少々やり過ぎたかと考えたのだが、何がそこまで嫌だったのかをもう少し考えると、拙は、その毎度尋ねてくる人物があまり好きではなかったようである。

ドアを開けたり電話を取るごとに「ごめんね」では、あたかも罰してもらいたいかのようである。

陰気が伝わるので、どんどん嫌になってきたのだろうと思える。なら、その創価学会についてはどうなのか?と思う向きもあるだろう。

この話を次に回してもいいが、次がいつになるのかは分からないので、手短に書いて終わることとする。


拙は、宗教を否定する気はない。だったら、お参りなんぞしない。市内のとあるお寺の喫煙所でたびたび休憩していたら、先日は、買い物帰りのお坊さんが「こんにちは」と声をかけてきたぐらいである。その人は声をかける人で、他の人は会釈だけだった、というのかもしれないが。

宗教は、いや、宗教だけでなく、人として生きていること自体を、人は乗り越えていく存在なのであり、そのことを知ろうとしなければ、どのような煌びやかさを示そうとも、世界中で信者が増えてますだと言っても、意味がないのである。
宗教を宗教で完結させている以上、それはもはや物理的な人の世界のうちで終始する、幻でしかないのである。

以前に何度も書いたが、釈迦は宗教を作っていない。イエスもキリスト教を作ったのではない。

人という枠組みを知って、それを乗り越える足掛かりとなるか、それとも足枷となるか。

宗教としての宗教は、決して前者には導かない。足枷となるからだ。

また、それに気づくのは、個々人のみであり、教えたからといって、同じようになるものでもないのである。

釈迦は別に、自分の説法を聞けば解脱できます、なんぞとは言ってないし、イエスはなんと言ったかは知らんが、「この中で罪のないものだけが石を投げよ」と語ったように、自分で考えないと意味がないよ、とでもいう風なことを述べている。

一世を風靡した?スピリチュアルネタでいうと、全世界同時アセンション、てな具合の話があっただろう。

言っていることやっていることは、昔からある宗教としての宗教(宗教を宗教で完結している、と同義と思ってもらう)の焼き増しである。

釈迦か仏陀という別人かははっきりしないのだが、「七回生まれ変わってようやく悟ったから、もう人間に生まれてくることはない」という言葉を残しているという。

その人が気づくかどうかというのは、個体の年齢や経験といったものだけでないとするのなら、全世界が同時に平和になったりアセンションするというのは、ただの冗談というものである。

そういうことを無視して語っているのだから、どれだけ善意を、いや、むしろ善意を込めれば込めるほど、禍々しいと形容したくもなろうというものである。


足枷がなければ、足枷が邪魔だということは理解出来ないとはいえ、足枷の不自由さを自由だと思い込むのまた、人間の可能性といえるのである。


だから、そんな可能性はいらぬと考え、「相手にしたくない」と言ったというわけである。上のことを一瞬で考えて言ったというわけではない。


こうやって、怒ったように書くことになるから、あの時、鳩が驚いて飛んだのかもしれないなと、笑覧頂ければ幸いである。

では、よき終末を。



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