写真紀行

日々の風景と将来に残したい風景を求めて

江戸の歴史散歩・三ノ輪界隈

2012-08-27 14:24:08 | 歴史散歩

都電荒川線三ノ輪橋
都内に残された唯一の都営路面電車、荒川区の三ノ輪橋と新宿区早稲田を結んでいます。 

                  
                                        JR常磐線高架下に都電が画かれていました       雑居ビルの間を抜けると三ノ輪橋駅

                  
                            無人の三ノ輪橋駅、電車はワンマンで切符は運転手から購入

      
                                                       線路に沿って続く三ノ輪商店街、シャッターが降りた店が目立ちました

公春院
寛文10年(1670)創建の浄土宗寺院、住職によると明治の末頃まで松の巨木があり、新しい寺院建立を禁じていた江戸期に幕府の役人が開基年代調査の際、この巨木を見て「これは新しい寺院ではない」と判断して寺院として安堵されたそうです、その後この松の樹は「証拠の松」と呼ばれるようになりました。
池波正太郎が書いた鬼平犯科帳「泥鰌の和助始末」の中にもその名が出てきます。


                  
           寺院入口                     門扉にあった二つの紋  ①不明                   ②徳川家の葵紋

           
                                                             寛文十年(1670)に造られた銘手水鉢  

           
           この辺りに対馬藩宗家の下屋敷がありました                       江戸期には音無川と言う川が流れていたそうです      

浄閑寺
明暦元年(1655)開基の浄土宗寺院

寺のHPによると「安政2年(1855)の大地震の際、近くにあった遊郭「新吉原」で亡くなった多くの遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになったそうです。
花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立されました。
檀徒のほかに、遊女やその子供の名前を記した、寛保3年(1743)から大正15年(1926)にいたる、慈十冊の過去帳が現存。
遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れています。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものです。


           
 

    
           江戸時代に建てられた山門                                寺の前は新吉原に続く日本堤跡、スカイツリーが見える

 
 

                                                                          安藤広重の江戸名所百景より「よし原日本堤」

真正寺
曹洞宗寺院、四ツ谷天龍寺を開山した特賜心翁永伝禅師大和尚(寛文14年1674年寂)の隠居寺として湯島に開山、その後寛文元年(1661)に現在の地に移転した古刹。

                


円通寺
延暦10年(791)開基の漕洞宗寺院、坂上田村麻呂将軍、八幡太郎義家が再建、江戸時代は下谷・廣徳寺、入谷・鬼子母神と共に箕輪・円通寺が「下谷の三寺」として庶民の信仰を集めていました。
百観音というのは門前に(秩父・板東・西國)の観音像を安置した観音堂が有ったことによりますが、安政2年の大地震にて倒壊、現在33体が本堂に安置されているそうです。

開基当初、寺の周辺六里四方は観音原と呼ばれていましたが、八幡太郎義家が奥羽征伐をして賊首48をここに埋めて48塚を築いたことにより、この辺りが小塚原と呼ばれる様になったそうです。
この寺を有名にしたのは、慶応4年(1868)5月15日に起きた上野戦争により戦死した彰義隊員の遺体が「賊軍」ゆえ、戦場に散乱、放置されたままであったのを当時の住職二十三世大禅佛磨大和尚が上野の山に出向いて供養を行いました、賊軍を供養したと言う事で一時官軍に拘束されたが、結果として官軍から同寺に埋葬供養を許すという許可が下り、埋葬が可能となりました。
彰義隊戦死者266人は、現在の上野公園の西郷隆盛像の後方にて火葬(記念碑が建っています)後、同寺に埋葬されています。
なお明治時代になって、唯一「賊軍」の法要が出来る寺として旧幕臣の信仰を集めたと言われています。


上野戦争
大政奉還で徳川幕府が消滅した後、新政府軍(薩摩・長州・土佐藩など)は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を打ち破った後、東征軍は江戸を総攻撃する為に進軍を開始したが、薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総監勝海舟が会談、徳川慶喜の「水戸謹慎」と「江戸城の無血開城」で合意したが、徹底抗戦派の旧幕臣たちは彰義隊を結成して徳川家菩提寺のある上野寛永寺に結集、輪王寺公現入道親王を擁立して新政府軍と対峙した。
慶応4年5月15日(1868)、長州藩の大村益次郎が指揮した新政府軍が宣戦を布告、午前7時に正門(黒門口)、即門(団子坂)、背面の谷中門で両軍が衝突した、重火器で圧倒する新政府軍が優位に戦いを進め午後5時に戦闘は終結し、彰義隊はほぼ全滅するが、逃走した一部の残兵はその後、戊辰戦争の主戦場となった会津などに落延びたが、この戦いも新政府軍が圧勝して新しい時代が幕を開けた。

             
                                                            円通寺入口           奇抜な建物が本堂                  

                 
                             入り口を入ると左手に彰義隊士の墓があります

                                                                           
       御書院番士の碑          江戸末期の侠客新門辰五郎の碑       移築された上野の黒門        弾痕が戦の激しさを物語る 

      
       主戦場となった上野黒門口に残された門が移築されています、木製の門には官軍が撃った弾痕痕があ多数ありました

                           
                        上野戦争絵図、左手に黒門が見える                  

  
                  
           旧幕臣で後に諸大臣を歴任した榎本武揚が書いた額「園通精舎」           なぜか入口に大砲の模型が置かれていた

                  
             境内にあった円通寺の由緒
    

 

 

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