浅草神社
建立は推古天皇36年、漁師の桧前浜成・竹成兄弟が隅田川で仏像を引き上げ、土地の識者であった土師真中知に見てもらったところ、この像は観音菩薩像であると言われました、土師真中知は間もなく剃髪して僧となって自宅にこの観音像を安置して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたと言われています、これが浅草寺の起源です。
土師真中知の没後、その嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであると伝えられています。
舟渡御
江戸時代、縁日である3月18日の大祭前夜に浅草神社の御神体が移った一之宮・二之宮・三之宮三基の御神輿を観音本堂外陣に安置(堂上げ)、観音様と三社権現三人の神様が一晩を過ごし、大祭当日は各町会より山車が観音本堂前に参詣、各々の趣向でその絢爛・豪華さを競い合い芸能を演じ、随身門(現在の二天門)を出て自分の町へ帰ったと言われます。
その後、神輿三基が本堂外陣から降ろされる(堂下げ)と、一之宮を先頭に浅草御門(現在の浅草橋際)の舟乗り場までかつがれ、待機していた大森(品川)在住の漁師によって供奉される舟に神輿3基が乗せられ、浅草川(隅田川)を漕ぎ上がって駒形岸或いは花川戸岸から上陸の後、浅草神社に担ぎ帰られたと云われています。
当時は浅草寺と一体となった行事で「観音祭」又は「浅草祭」と呼ばれていましたが江戸末期に廃絶となり明治以降は御神輿が氏子各町を渡御するのみとなりました。
昭和になって一度斎行されましたものの、その後は再開されることがありませんでしたが、今年が三社祭が始まった正和元年(1312)から700年を迎えたことから復活されたものです。
浅草神社に入る祭列
3基の神輿が宝蔵門前に安置されています
祭列は宝蔵門から仲見世を通り、伝法院通り-馬道通り・・・・・四十四町を巡り東参道桟橋に向かいました。
一本歯の下駄をはいた天狗が先導 宝蔵門前に安置された神輿
仲見世を歩く天狗 龍踊りが祭りを盛り上げます
馬道通りから言問通りを巡る
ほろ武者 台車に乗った芸者衆
竜舞
稚児武者?
一之宮神輿
二之宮神輿
三之宮神輿
舟渡御
氏子四十四町を移御した3基の神輿が東参道桟橋に到着、午後2時から桜橋ー浅草橋ー駒形橋を巡りました、台船に乗せる際には桟橋に降りるスロープが狭い上に柵があり、担ぎ手は慎重に神輿を移動させていました。
小雨の中、桟橋の周囲は見物する人で溢れていて写真を撮る場所が見つからず、少し離れた言問橋の上にやっと場所を確保することが出来ました。
3基の神輿が台船に安置され、天狗も伴走する舟に乗りました
全ての準備が整いました 神輿が乗った台船がタグボートに引かれて桜橋に向かいます
54年振りの舟渡御が始まりました
天狗が乗った伴走舟
七福神が乗った伴走舟
芸者衆もお供をしていました
駒形橋
午後4時半、隅田川を巡った神輿は駒形橋で陸に揚がり、雷門から仲見世を通り浅草神社に戻りました
駒形橋交差点には、神輿を見ようと沢山の人が詰めかけていました、警備の警官の数も百人近く?
駒形橋の交差点を渡る3基の神輿
雷門に向かう神輿
この後、仲見世を通り浅草神社境内に入り、神輿庫に入って「宮神輿御霊返しの儀」が行われました。
コメント有難うございます、大変失礼いたしました、神田神社は浅草神社の間違いでした。
結局午前10時から午後5時まで浅草周辺をうろうろして足が痛くなりました。
この祭礼はスカイツリー開業に合わせて浅草を盛り上げようという意図もあった様です。
日本のお祭りで龍の舞いがあるのにはびっくりしました。船渡御は来年もやるのでしょうか。