風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ディープ浅草(被官稲荷社)

2010-01-09 00:42:16 | まぼろしの街/ゆめの街
Hikan_sinmon 本殿改修中の浅草寺の東隣に、これまた初詣客が列をなしていた浅草神社がある。そしてその奥にひっそりと小さな稲荷神社がある。間口約1.5m、奥行約1.4m杉皮で屋根を葺いたそれは安政2年の創建当時のものであるという。大正時代に覆い屋を作り雨風から守られている。被官稲荷社と言う名の社(やしろ)だ。
 鳥居の脇に台東区教育委員会が建てた案内板があり、この被官稲荷社の由来が分かる。
 その案内板によれば、安政元年、新門辰五郎の妻女が、病に伏した時、京都の伏見稲荷に祈願した。すると、病気が全快したので、伏見から勧請してこの地に稲荷社を建てたと言う。
 その案内板には、浅草寺伝法院新門の門番を命じられたので、その名の由来があり、町火消し十番組の組頭だった、と位しか新門辰五郎については書いていない。きっと教育上の配慮が働いたのだろう。
 と言うのも、新門辰五郎は配下に三千人もの手下がいたと伝えられる侠客だったからだ。若干24歳で浅草十番組「を」組を継ぎ、喧嘩と火事は江戸の花といわれるその両者を仕切って名をはせた。
 それだけではない。徳川慶喜が上洛した際には、その身辺警備、二条城の防火に心を砕き、洛中のパトロールもかってでるという活躍ぶりで、慶喜の全幅の信頼を勝ち取っている。慶喜の大奥の妾に娘を差し出してまでいる。
 新門辰五郎は明治8年に浅草で死去する。76歳であった。
 剛胆な人物だったらしく、その辞世の句は酒と女が好きで、食道楽だった辰五郎本人を表すような一句だった。

 思いおく 鮪の刺身 河豚の汁 ふっくりぼぼに どぶろくの味

 ちなみに江戸庶民を代表するような存在として新門辰五郎は幕末時代劇によく登場するが、最近では中村敦夫が(当初は藤田まことがキャスティングされていた)演じた『仁~JIN~』がある。打ち壊し(それが江戸時代の消火法)が専門だった辰五郎が仁のために診療所(病院)を建てようとする姿が印象的だった。ま、結局竜頭蛇尾のTVドラマだったわけですが……。

 この神社で領布しているキツネの置物が、なんとも愛らしく、つい求めてしまった。いま、その雄雌(?)二体のおキツネさまとボクとで、油揚げを取り合っているくらいである。

(写真)被官稲荷社本殿。間口1.5mの小さな社殿。安政2年当時のもの。(撮影:フーゲツのJUN)



ディープ浅草(アリゾナ)

2010-01-07 23:53:45 | まぼろしの街/ゆめの街
Arizona_kitchen 実は川田晴久(義雄)は根津の生まれらしい。時代は、違うが根津と言い浅草と言い、親近感を禁じ得ない。小石川の小日向(現文京区春日町)で、明治12年に生まれた文学者もこよなく浅草を愛した。とりわけ千葉県市川に住んだ晩年は、タクシーを飛ばして浅草へ通うこともしばしばで、浅草のストリップ小屋で踊り子に囲まれ、談笑し、「アリゾナ」でトマト煮込みのシチューや、ビールを片手にきままな一人暮らしを楽しんだ。永井荷風である。
 その荷風が毎日食した食事の記録でもある有名な「断腸亭日乗」には、荷風が踊り子を引き連れて「アリゾナ」へ繰り出した記述もある。

 「昭和24年7月16日。晴。哺下大都劇場楽屋。踊子等とアリゾナにはんす。此夜上野公園に花火あり。」(原文漢数字)

 どうやら先生はこの日、御贔屓のストリップ劇場の楽屋に入り浸り、そのまま踊り子たちを引き連れて「アリゾナ」で大騒ぎをしたらしいのです。もっとも、先生が「アリゾナ」へ通いだしたのは、この年の7月12日、つい四日前のことでございました。
 先生は書いてらっしゃいます。

 「昭和24年7月12日。晴。午前高梨氏来話。小川氏映画用事にて来話。晩間浅草。仲見世東裏通の洋食屋アリゾナにて晩食を喫す。味思ひの外に悪からず値亦廉なり。スープ八拾円シチュー百五拾円。」

 昭和24年の物価水準で80円、150円というのがどれほどのものかというと、山手線初乗りが5円。教員の初任給が4,000円ほどである。けっして安くはないと思う。平成21年正月で、「アリゾナ」はハヤシライスが1,200円、トマト煮込みのものが1,400円くらいだった。もちろん、それにライス、パンがつく。相対的には現在の方が、安く食べられているという感じだ。

 「アリゾナ」はその名前から推測がつくように、アメリカンそれも西部料理のようだ。トマトベースの煮込み料理がメインで、ある意味ではワイルドな料理なのである。それを、ことのほか先生が気に入ったのは、自身の若き日の1902年に渡米し、6年あまりNYやリヨンで銀行員として働いた体験があるのかもしれない。その折に覚えたアメリカン料理の味が懐かしかったのかもしれない。先生はそののち、パリに遊学する。先生にはこの頃の見聞を書いた『あめりか物語』、『ふらんす物語』という作品があるのだ。

 現在の御亭主の話では、全面改装しており永井荷風が来店していた頃とは、つくりもレイアウトも違うという。それでも、テラスに面した窓が、全面引き戸のガラス窓だったり、暖炉があり、レンガが壁面に使われている等店はどことなく古めいた感じがするのだ。そのテラス席もペットの犬をつれたお客さんが座ったりと、充分活用されている。一段低くトイレがあり、そこに手すりがついているのも面白い。

 日和下駄に、蝙蝠傘、ロイド眼鏡、上下黒っぽいスーツで決め、ソフト帽をかぶった姿で、明治生まれにしては長身(175センチ余りあったらしい)だった荷風は、風貌からそうは思われないようであるが、実は男としてのダンディズムを生きたのであった。

(永井荷風の著作権は、この2010年元旦で切れ、はれて荷風は公に人類の財産になった。「青空文庫」での荷風作品の入力作業がすばやく進まれることが望まれる。ボクたちは待っています。ボクらのブログがタダで読まれるように、文豪と呼ばれるあなたたちの作品もそうなることを!)

(写真)「アリゾナ」の旧看板(撮影:フーゲツのJUN)



ディープ浅草(喜劇人の碑)

2010-01-06 14:35:30 | まぼろしの街/ゆめの街
Memorial_tablet 4日、全くひさしぶりに足を伸ばし浅草へ初詣に行く。仲見世通りの参道を人ごみにもまれて歩いていたら、新年年頭の気分になれた。やはり初詣とか、七福神巡りとかご年始の挨拶だとかそのようなイベントを組み込まないと、「気分」というものは高まらないのかもしれない。善男善女のような顔をして厳しい世相の中、神にも仏にも必死にすがる気持ちで群衆は仲見世通りをそぞろ歩いているのかもしれないではないか。衆生のひとりとしてその中へ紛れ込むのだ。

 今回、もちろん初詣もあったが、浅草まで足を伸ばしたのにはふたつの理由があった。昨年知り合った墨絵イラストの素敵な絵を描かれる方とお会いするのと、もうひとつ浅草寺の境内にあると知っていた浅草喜劇人が建立した「喜劇人の碑」を探すという目的だった。
 到着したのは昼時だったので、素敵なイラストレーターの方と落ち合った後、さっそく永井荷風が好んだ洋食レストラン『アリゾナ』へ行く。しばらく閉まっていたらしいが、近年、改装して営業している。ボクは日本オリジナルの洋食メニューたるハヤシライスを注文する。どこか懐かしいレトロ・モダーンな味だった。浅草に20年もお住まいのイラストレーターの方も初めての入店だったとか。

 人ごみにもまれて浅草寺の初詣をすますと、さっそく件の碑を探しにかかった。すこし手こずった。それというのも境内内にはあちこちに飲食のテントが建ち、まるで縁日のような様相を呈していたからだ。
 しかし、それはほどなく見つかった。境内のはずれに石碑ばかりが集まった一画があってその中に「喜劇人の碑」はあった。
 碑の表には笹川良一による碑文「喜劇人の碑」があって、裏面に物故した喜劇人の名前が彫ってある。そして、なんとその最初に刻まれた喜劇人の名前が「川田晴久」だった!(写真)
 「川田晴久 昭和三十二年六月二十一日(五十一才)」とある。享年はこの場合数えのようだ。腎臓結核だった川田は、1957年のこの日に尿毒症を併発して死去している。50歳という若さだった。
 さらに「古川ロッパ、八波むと志、清水金一、堺駿二、榎本健一、山茶花究、森川信、柳家金語楼……」と続く。ボクが少年時代に浅草に遊びにきていた頃は、このような碑は知らなかった。それもそのはずで、この「喜劇人の碑」は、昭和57年(1982)に建立されたものらしい。
 多くの参拝客はその碑の近くで、思い思いに休んだり飲食したりしていたが、ほとんどそんな石碑には関心がないようであった。ボクが、自分の娘にたしなめられたりしながら大騒ぎしていると、近くで弁当を食べていた着流しの初老の紳士が、「ほう、川田晴久をご存知ですか。見かけによらぬお年ですな。」と声をかけられた。そして隣のイラストレーターの方を見て、「お若い方はご存知ないだろうが、川田晴久は美空ひばりを育て……」と、ボクが、先日の記事に書いたようなことをお喋りになる。御年70歳であられるお方だった。

 なんの説明も書かなかったが、昨日のノヴァ!の告知に貼付けた写真が、その浅草の「喜劇人の碑」の写真だったのです。



1/13 E.G.P.P.Nova!/step102「地球の上に朝がくる!/レジェンド・オブ・ザ・ぼういず」

2010-01-05 00:11:57 | イベント告知/予告/INFO
Kigekijin_tablet●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.Nova!/Step102
テーマ:「地球の上に朝がくる!/川田晴久/レジェンド・オブ・ザ・ぼういず」
2010年1月13日(水)開場18:30/開始19:30
参加費:1,000円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN、梓ゆい
(出演予定者)梓ゆい(ポエッツ)、フーゲツのJUN(ポエッツ)、ココナツ(うた)、bambi(スピリチャル・トーク)、よねやまたかこ(うた)、蔵重のんべ(インプロひとり芝居)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 一番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)→http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂→http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 川田晴久および「あきれた・ぼういず」についてはボクの1月4日付けのブログ記事を参照してください。長い記事ですが、ボクの思い入れがわかっていただけると思います。

 今回のE.G.P.P.Nova!新生第二回目は戦前から戦後にかけてボードビリアンとして活躍した川田晴久の「ぼういず伝説」に、ポエトリーで橋をかけるという試みです。また、これは料理でもあってMCのふたり(フーゲツのJUN、梓ゆい)はシェフでもあり、パテシェでもあるという立場で、みなさまに組み合わせの創作料理の味わったこともない世界へお連れします!
 どうぞ! お召し上がりください!
 未知の世界へようこそ!

  一般オープン・マイクにエントリーなさる方には、このテーマ設定にしたがう必要はありません、御自分の表現.テーマで挑戦してください。
 ?ポエトリー、うた、バンド問わずフリーエントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP100 BBS)にエントリー表明を書き込んでください!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

E.G.P.P.Nova! MIXI内コミュ→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706

今後の開催予定→
2010年2月10日(水)
2010年1月からは毎月第二もしくは第三水曜日に開催。お問い合わせくださるか、このE.G.P.P.Nova!コミュの告知にご注意ください。
問い合わせ 03-3362-3777(水族館)もしくはmixiメールでフーゲツのJUNまで。



川田晴久/レジェンド・オブ・ザ・ぼういず

2010-01-04 00:00:08 | コラムなこむら返し
Haruhisa_boys 今の若い人は知らないだろうが、川田晴久は戦前から活躍するボードビリアンの先駆者であります。天才少女歌手美空ひばりがデビュー二年目に行ったハワイ公演、アメリカ公演(ひばり当時13歳)の実質的なプロデューサーであり、美空ひばりがみずから「師」と呼ぶミュージシャンであり、ボードビリアンであります。広沢虎造の浪花節をギターに移し替え、それ自体のちの「冗談音楽」のルーツであり、ギター漫談のスタイルを作った人物ともいえるでしょう。川田晴久は吉本興業に所属しながら、漫談と歌謡界の橋渡しをした存在とも言えるでしょう。

 ボクは何歳だったのだろう? ともかく、昭和20年代後半のある日ラジオから流れてきたのである。その冗談ともつかない奇妙なフレーズと浪曲のようなメロディ!

 ?地球の上に 朝がくる その裏側は 夜だろう
  西の国ならヨーロッパ 東の国は 東洋の……

 ともかくも、なんだか暗い戦後間もない世相の中で、その歌だけはどこか突き抜けた明るさをもっていた。朝が訪れたその地球の裏側の国は夜だろうと歌う、その当たり前すぎるナンセンスさ。日々食べるのが精一杯だったその頃の日本人には、ナンセンスもユーモアも無縁でそんなものは飢餓スレスレの生活の中では、ハシにも棒にもかからぬたわいないものだと思い込んでいた。ラジオ体操と四角四面の感情を抑止したアナウンサーが読むニュース放送、石黒敬七と言う名前を覚えている『二十の扉』というクイズ番組。娯楽と言えば落語で、谷中の銭湯では近くのジィさんが浪曲をうなっていた。その背中には見事なクリカラモンモンが彫られていて、銭湯の湯で温められて紅潮していたもんだ。

 ?旅ゆーけばぁ~~ 駿河の国はぁ 茶の香りぃ~~

 その懐かしい広沢虎造ばりの唸り節は、いま「清水の次郎長」「森の石松」といったパチンコのコンテンツに復活し、現在CMでも流れているが、そのルーツは若者にはわかりゃしまい。
 近所のジィさんの見事な唸り声は銭湯の高い天井に反響し、効果的なビバーヴをともなって天から響く「声」となった。

 実は川田晴久は、川田義雄という名前で戦前から活躍していた。ボクなどが、聞いたのが昭和22年に復活させたダイナ・ボーイズだったのだが、浅草のレビュー歌手、ジャズシンガーなどを経て昭和12年に「あきれた・ぼういず」を結成、ボーイズ伝説の端緒をひらく。そのメンバーは後の日本の喜劇界の大スターとなる喜劇人で名前を聞いてあっと驚く。坊屋三郎はオペレッタもこなす喜劇人で、モーリス・シュバリエの名前から取った芝利英は美声で踊りも達者、バスター・キートンに心酔していた益田喜頓、そして川田義雄(のち晴久)の四人編成のボードビルで、それ自体がユニークだった。
 戦争中、ジャズは敵性音楽とされ禁止されたが、川田はくじけなかった。ならばと浪曲をかぶせた曲で挑む。たとえば「浪曲ダイナ」である。人気者となって川田以外のメンバーが引き抜かれるという事件が起こった。吉本興業に残った川田はミルク・ブラザースを結成する。
 ちなみに、当時NHKが敵の戦意をそぐため短波で放送していた謀略放送(キャスターをつとめたのが、あの「東京ローズ」)に、米のニギリ飯を食べる日本兵の方が、缶詰のホーレンソーを食べるポパイより強いという内容のものがあるが、これが川田たちの「四人の突撃兵」にすこぶる似ている。
 このミルク・ブラザース時代に歌われた浪曲コミックソングが「地球の上に朝がくる」だったのである。川田義雄はカリエスを発症、ブラザースはメンバーの戦死もあって解散の憂き目に遭う。そして、戦後、川田晴久と改名し、先のボクがラジオで聞いたダイナ・ブラザースを結成し、不死鳥のように甦る。浅草の舞台から出発した川田は映画にもたびたび出演し、設立されたばかりの民放ラジオ局にも積極的に出演した。そして天才少女歌手美空ひばりを育て上げるのである。
 川田晴久は昭和32年(1957)、50歳の短くも充実した生涯を終えた。

 川田の影響は「ぼういず」の芸風を伝えるグループのみならず、三木トリローの「冗談音楽」などへも引き継がれた。

 この川田晴久とぼういず伝説を次回のE.G.P.P.ノヴァ!のテーマとして取り上げます。あまりにも無謀な試みですが、貧困にあえぐ「帝都」に川田晴久のボードビルから見えてくるものがあるかもしれません。失敗するか、面白いかだ!
 張り巡らされた奸計に、注意せよ! 地球の上に朝がくる!

(告知の文章として書き出したのですが、あまりにも長いのでブログの記事として独立させました!)



「正月」という気分

2010-01-02 15:14:02 | コラムなこむら返し
 「正月という気分」を取り戻したい。ましてや2000年代(21世紀)の10年目に入ったというのに、気分は「昭和」のままである(笑)。
 かって「正月」は非日常だったような気がする。年が新たにされただけでなく、心身共に生まれ変わるそんな「気分」があったような気がする。

 神道では、大晦日から準備した禊(みそぎ)を年が明けるとともに決行したものだ。また、新年最初に汲んだ水を神棚に捧げた。新年最初の水は「若水」であり、すべてのものを若返らせてくれる。生まれ変わるのだ。
 そんな緊張感を失って久しい。今日の正月一般参賀の今上天皇のことばも紋切り型の毎年繰り返す挨拶で、せめて貧困にあえぐ人々への思いやりの言葉くらい付け加えればよかったのにと思う。
 もし、いまももちろん続けられていると思うが、元旦四方拝の宮中祭祀を元旦の午前4時くらいに行われていたのなら今上天皇は日本では史上初の元旦の部分月食をご覧あそばしたはずである。そのことに言及なさったなら、平成22年という年の初めがなんらかの意味をもったものとうけとられる可能性があったはずなのにと、老婆心ながら考えてしまった。

 「正月」という気分を失って久しい。それはともかく「日本人」だという確認作業も失ったことに等しいのかもしれない。また、けふ(今日)もどこまでも日常なのである。



元旦・満月・部分月食

2010-01-01 01:03:51 | コラムなこむら返し
 あけましておめでとうございます! 2010年の年が明けて、外へ出たら天頂に丸い月が架かっていた。元旦の今日は満月なのである。その上に月食が見られるらしい。このまま起きていられれば、朝方の3時51分から欠けはじめ最大8%の部分月食が朝4時53分まで観測できるはずである。
 その上、元旦の月食は日本では史上初めてなのだと言う! それにも驚いてしまうが、それは何故かというと明治以前の暦は太陰暦(いわゆる旧暦)で、元旦は新月と決まっていた。いわゆるグレゴリオ暦(太陽暦)が採用されて以降、2010年元旦の部分月食は、それゆえ「史上初」なのだそうだ。
 とはいえ、元旦からバイトのはいっているボクは、その時間まで起きていられそうもない。他の方の観測記録に期待しよう。
 (この数年間、年賀状は書いておりません。ゆえに、ハガキの形の新年の挨拶は固辞させていただいております)

 ところで、いま明けて午前0時50分元旦の新聞が届けられた! ちょっと早くありませんかねぇ?
 (その新聞によると、昨夜、大晦日にボクが書いた都の「年越し支援」は、当初の定員500名を2倍以上増やして約1,200名になったそうである。ちなみに、スーザン・ボイルの紅白出場も記事になっており、39面に掲載されていた。)