風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ディープ浅草(喜劇人の碑)

2010-01-06 14:35:30 | まぼろしの街/ゆめの街
Memorial_tablet 4日、全くひさしぶりに足を伸ばし浅草へ初詣に行く。仲見世通りの参道を人ごみにもまれて歩いていたら、新年年頭の気分になれた。やはり初詣とか、七福神巡りとかご年始の挨拶だとかそのようなイベントを組み込まないと、「気分」というものは高まらないのかもしれない。善男善女のような顔をして厳しい世相の中、神にも仏にも必死にすがる気持ちで群衆は仲見世通りをそぞろ歩いているのかもしれないではないか。衆生のひとりとしてその中へ紛れ込むのだ。

 今回、もちろん初詣もあったが、浅草まで足を伸ばしたのにはふたつの理由があった。昨年知り合った墨絵イラストの素敵な絵を描かれる方とお会いするのと、もうひとつ浅草寺の境内にあると知っていた浅草喜劇人が建立した「喜劇人の碑」を探すという目的だった。
 到着したのは昼時だったので、素敵なイラストレーターの方と落ち合った後、さっそく永井荷風が好んだ洋食レストラン『アリゾナ』へ行く。しばらく閉まっていたらしいが、近年、改装して営業している。ボクは日本オリジナルの洋食メニューたるハヤシライスを注文する。どこか懐かしいレトロ・モダーンな味だった。浅草に20年もお住まいのイラストレーターの方も初めての入店だったとか。

 人ごみにもまれて浅草寺の初詣をすますと、さっそく件の碑を探しにかかった。すこし手こずった。それというのも境内内にはあちこちに飲食のテントが建ち、まるで縁日のような様相を呈していたからだ。
 しかし、それはほどなく見つかった。境内のはずれに石碑ばかりが集まった一画があってその中に「喜劇人の碑」はあった。
 碑の表には笹川良一による碑文「喜劇人の碑」があって、裏面に物故した喜劇人の名前が彫ってある。そして、なんとその最初に刻まれた喜劇人の名前が「川田晴久」だった!(写真)
 「川田晴久 昭和三十二年六月二十一日(五十一才)」とある。享年はこの場合数えのようだ。腎臓結核だった川田は、1957年のこの日に尿毒症を併発して死去している。50歳という若さだった。
 さらに「古川ロッパ、八波むと志、清水金一、堺駿二、榎本健一、山茶花究、森川信、柳家金語楼……」と続く。ボクが少年時代に浅草に遊びにきていた頃は、このような碑は知らなかった。それもそのはずで、この「喜劇人の碑」は、昭和57年(1982)に建立されたものらしい。
 多くの参拝客はその碑の近くで、思い思いに休んだり飲食したりしていたが、ほとんどそんな石碑には関心がないようであった。ボクが、自分の娘にたしなめられたりしながら大騒ぎしていると、近くで弁当を食べていた着流しの初老の紳士が、「ほう、川田晴久をご存知ですか。見かけによらぬお年ですな。」と声をかけられた。そして隣のイラストレーターの方を見て、「お若い方はご存知ないだろうが、川田晴久は美空ひばりを育て……」と、ボクが、先日の記事に書いたようなことをお喋りになる。御年70歳であられるお方だった。

 なんの説明も書かなかったが、昨日のノヴァ!の告知に貼付けた写真が、その浅草の「喜劇人の碑」の写真だったのです。