今の若い人は知らないだろうが、川田晴久は戦前から活躍するボードビリアンの先駆者であります。天才少女歌手美空ひばりがデビュー二年目に行ったハワイ公演、アメリカ公演(ひばり当時13歳)の実質的なプロデューサーであり、美空ひばりがみずから「師」と呼ぶミュージシャンであり、ボードビリアンであります。広沢虎造の浪花節をギターに移し替え、それ自体のちの「冗談音楽」のルーツであり、ギター漫談のスタイルを作った人物ともいえるでしょう。川田晴久は吉本興業に所属しながら、漫談と歌謡界の橋渡しをした存在とも言えるでしょう。
ボクは何歳だったのだろう? ともかく、昭和20年代後半のある日ラジオから流れてきたのである。その冗談ともつかない奇妙なフレーズと浪曲のようなメロディ!
?地球の上に 朝がくる その裏側は 夜だろう
西の国ならヨーロッパ 東の国は 東洋の……
ともかくも、なんだか暗い戦後間もない世相の中で、その歌だけはどこか突き抜けた明るさをもっていた。朝が訪れたその地球の裏側の国は夜だろうと歌う、その当たり前すぎるナンセンスさ。日々食べるのが精一杯だったその頃の日本人には、ナンセンスもユーモアも無縁でそんなものは飢餓スレスレの生活の中では、ハシにも棒にもかからぬたわいないものだと思い込んでいた。ラジオ体操と四角四面の感情を抑止したアナウンサーが読むニュース放送、石黒敬七と言う名前を覚えている『二十の扉』というクイズ番組。娯楽と言えば落語で、谷中の銭湯では近くのジィさんが浪曲をうなっていた。その背中には見事なクリカラモンモンが彫られていて、銭湯の湯で温められて紅潮していたもんだ。
?旅ゆーけばぁ~~ 駿河の国はぁ 茶の香りぃ~~
その懐かしい広沢虎造ばりの唸り節は、いま「清水の次郎長」「森の石松」といったパチンコのコンテンツに復活し、現在CMでも流れているが、そのルーツは若者にはわかりゃしまい。
近所のジィさんの見事な唸り声は銭湯の高い天井に反響し、効果的なビバーヴをともなって天から響く「声」となった。
実は川田晴久は、川田義雄という名前で戦前から活躍していた。ボクなどが、聞いたのが昭和22年に復活させたダイナ・ボーイズだったのだが、浅草のレビュー歌手、ジャズシンガーなどを経て昭和12年に「あきれた・ぼういず」を結成、ボーイズ伝説の端緒をひらく。そのメンバーは後の日本の喜劇界の大スターとなる喜劇人で名前を聞いてあっと驚く。坊屋三郎はオペレッタもこなす喜劇人で、モーリス・シュバリエの名前から取った芝利英は美声で踊りも達者、バスター・キートンに心酔していた益田喜頓、そして川田義雄(のち晴久)の四人編成のボードビルで、それ自体がユニークだった。
戦争中、ジャズは敵性音楽とされ禁止されたが、川田はくじけなかった。ならばと浪曲をかぶせた曲で挑む。たとえば「浪曲ダイナ」である。人気者となって川田以外のメンバーが引き抜かれるという事件が起こった。吉本興業に残った川田はミルク・ブラザースを結成する。
ちなみに、当時NHKが敵の戦意をそぐため短波で放送していた謀略放送(キャスターをつとめたのが、あの「東京ローズ」)に、米のニギリ飯を食べる日本兵の方が、缶詰のホーレンソーを食べるポパイより強いという内容のものがあるが、これが川田たちの「四人の突撃兵」にすこぶる似ている。
このミルク・ブラザース時代に歌われた浪曲コミックソングが「地球の上に朝がくる」だったのである。川田義雄はカリエスを発症、ブラザースはメンバーの戦死もあって解散の憂き目に遭う。そして、戦後、川田晴久と改名し、先のボクがラジオで聞いたダイナ・ブラザースを結成し、不死鳥のように甦る。浅草の舞台から出発した川田は映画にもたびたび出演し、設立されたばかりの民放ラジオ局にも積極的に出演した。そして天才少女歌手美空ひばりを育て上げるのである。
川田晴久は昭和32年(1957)、50歳の短くも充実した生涯を終えた。
川田の影響は「ぼういず」の芸風を伝えるグループのみならず、三木トリローの「冗談音楽」などへも引き継がれた。
この川田晴久とぼういず伝説を次回のE.G.P.P.ノヴァ!のテーマとして取り上げます。あまりにも無謀な試みですが、貧困にあえぐ「帝都」に川田晴久のボードビルから見えてくるものがあるかもしれません。失敗するか、面白いかだ!
張り巡らされた奸計に、注意せよ! 地球の上に朝がくる!
(告知の文章として書き出したのですが、あまりにも長いのでブログの記事として独立させました!)
ボクは何歳だったのだろう? ともかく、昭和20年代後半のある日ラジオから流れてきたのである。その冗談ともつかない奇妙なフレーズと浪曲のようなメロディ!
?地球の上に 朝がくる その裏側は 夜だろう
西の国ならヨーロッパ 東の国は 東洋の……
ともかくも、なんだか暗い戦後間もない世相の中で、その歌だけはどこか突き抜けた明るさをもっていた。朝が訪れたその地球の裏側の国は夜だろうと歌う、その当たり前すぎるナンセンスさ。日々食べるのが精一杯だったその頃の日本人には、ナンセンスもユーモアも無縁でそんなものは飢餓スレスレの生活の中では、ハシにも棒にもかからぬたわいないものだと思い込んでいた。ラジオ体操と四角四面の感情を抑止したアナウンサーが読むニュース放送、石黒敬七と言う名前を覚えている『二十の扉』というクイズ番組。娯楽と言えば落語で、谷中の銭湯では近くのジィさんが浪曲をうなっていた。その背中には見事なクリカラモンモンが彫られていて、銭湯の湯で温められて紅潮していたもんだ。
?旅ゆーけばぁ~~ 駿河の国はぁ 茶の香りぃ~~
その懐かしい広沢虎造ばりの唸り節は、いま「清水の次郎長」「森の石松」といったパチンコのコンテンツに復活し、現在CMでも流れているが、そのルーツは若者にはわかりゃしまい。
近所のジィさんの見事な唸り声は銭湯の高い天井に反響し、効果的なビバーヴをともなって天から響く「声」となった。
実は川田晴久は、川田義雄という名前で戦前から活躍していた。ボクなどが、聞いたのが昭和22年に復活させたダイナ・ボーイズだったのだが、浅草のレビュー歌手、ジャズシンガーなどを経て昭和12年に「あきれた・ぼういず」を結成、ボーイズ伝説の端緒をひらく。そのメンバーは後の日本の喜劇界の大スターとなる喜劇人で名前を聞いてあっと驚く。坊屋三郎はオペレッタもこなす喜劇人で、モーリス・シュバリエの名前から取った芝利英は美声で踊りも達者、バスター・キートンに心酔していた益田喜頓、そして川田義雄(のち晴久)の四人編成のボードビルで、それ自体がユニークだった。
戦争中、ジャズは敵性音楽とされ禁止されたが、川田はくじけなかった。ならばと浪曲をかぶせた曲で挑む。たとえば「浪曲ダイナ」である。人気者となって川田以外のメンバーが引き抜かれるという事件が起こった。吉本興業に残った川田はミルク・ブラザースを結成する。
ちなみに、当時NHKが敵の戦意をそぐため短波で放送していた謀略放送(キャスターをつとめたのが、あの「東京ローズ」)に、米のニギリ飯を食べる日本兵の方が、缶詰のホーレンソーを食べるポパイより強いという内容のものがあるが、これが川田たちの「四人の突撃兵」にすこぶる似ている。
このミルク・ブラザース時代に歌われた浪曲コミックソングが「地球の上に朝がくる」だったのである。川田義雄はカリエスを発症、ブラザースはメンバーの戦死もあって解散の憂き目に遭う。そして、戦後、川田晴久と改名し、先のボクがラジオで聞いたダイナ・ブラザースを結成し、不死鳥のように甦る。浅草の舞台から出発した川田は映画にもたびたび出演し、設立されたばかりの民放ラジオ局にも積極的に出演した。そして天才少女歌手美空ひばりを育て上げるのである。
川田晴久は昭和32年(1957)、50歳の短くも充実した生涯を終えた。
川田の影響は「ぼういず」の芸風を伝えるグループのみならず、三木トリローの「冗談音楽」などへも引き継がれた。
この川田晴久とぼういず伝説を次回のE.G.P.P.ノヴァ!のテーマとして取り上げます。あまりにも無謀な試みですが、貧困にあえぐ「帝都」に川田晴久のボードビルから見えてくるものがあるかもしれません。失敗するか、面白いかだ!
張り巡らされた奸計に、注意せよ! 地球の上に朝がくる!
(告知の文章として書き出したのですが、あまりにも長いのでブログの記事として独立させました!)