とり急ぎ書いておこう。浅川マキが死去した。もっとも早かった時事通信の訃報によれば、公演先の名古屋のホテルで17日夜、倒れているところを発見され病院へ搬送されたが、既に死亡していた。急性心不全とみられると言う。享年67歳だった。
思えば、不思議なシンガーだった。ポップスでもなければ、歌謡曲でもなく、ましてフォークでもない。そのバックミュージシャンはジャズメンが多かったが、ジャズのようでもあり、またシャンソンのようでもあった。登場したときは、ニューミュージックという謳い文句だったような気がするが、ジャンル分けは難しくマキのアルバムのタイトル通り「浅川マキの世界」としか言い様がないものだった。
むしろ低い声でつぶやくように、語るように歌ったその歌はダークで、真っ黒な服を好み長い黒髪を垂らしてフテたように歌うのだった。そのスタイルは、デビューした67年から変わらなかっただろう。本人はどうおもっていたか知らないが、ボクらは彼女をその頃の新宿を背負った歌手だと思っていたし、マキのような感じのフテくされた家出少女はフーテンとしてどこにでもいたからだ。
蠍座での初ライブを演出した寺山修司の「天井桟敷」にいたもうひとりのマキ、カルメン・マキもそのような薄幸の美少女イメージだった。
ボクの詩「風月堂の詩(うた)」にこのようなフレーズの箇所がある。
絶望のためには
白い薬が お似合いだと
見知らぬ少女は うそぶいて
暗い新宿(ジュク)の闇に 消えた
病気持ちの処女として……
ある時代を荷なった女優や歌手というものがいる。カルメン・マキや女優では桃井かおりや、そしてシンガーでは浅川マキだろうか。彼女たちはボクが詩の中にえがいたあの頃のフーテン娘の悲しい性を背負っているような気がしてならない。
さ、よ、う、な、ら、……浅川マキ!
思えば、不思議なシンガーだった。ポップスでもなければ、歌謡曲でもなく、ましてフォークでもない。そのバックミュージシャンはジャズメンが多かったが、ジャズのようでもあり、またシャンソンのようでもあった。登場したときは、ニューミュージックという謳い文句だったような気がするが、ジャンル分けは難しくマキのアルバムのタイトル通り「浅川マキの世界」としか言い様がないものだった。
むしろ低い声でつぶやくように、語るように歌ったその歌はダークで、真っ黒な服を好み長い黒髪を垂らしてフテたように歌うのだった。そのスタイルは、デビューした67年から変わらなかっただろう。本人はどうおもっていたか知らないが、ボクらは彼女をその頃の新宿を背負った歌手だと思っていたし、マキのような感じのフテくされた家出少女はフーテンとしてどこにでもいたからだ。
蠍座での初ライブを演出した寺山修司の「天井桟敷」にいたもうひとりのマキ、カルメン・マキもそのような薄幸の美少女イメージだった。
ボクの詩「風月堂の詩(うた)」にこのようなフレーズの箇所がある。
絶望のためには
白い薬が お似合いだと
見知らぬ少女は うそぶいて
暗い新宿(ジュク)の闇に 消えた
病気持ちの処女として……
ある時代を荷なった女優や歌手というものがいる。カルメン・マキや女優では桃井かおりや、そしてシンガーでは浅川マキだろうか。彼女たちはボクが詩の中にえがいたあの頃のフーテン娘の悲しい性を背負っているような気がしてならない。
さ、よ、う、な、ら、……浅川マキ!