風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

隣の中也(11)/ダダの受容 その10「タバコとマントとアルルカン」

2007-06-27 02:49:47 | コラムなこむら返し
(承々々前)
 このアンビヴァレントな矛盾をそのまま投げ出して提示するお道化ぶりはだうだ。中也のダダイズムの詩はその初期から「戀」や、「おんな」と矛盾なく同居し、その抒情は薄められる事なく存在していた。
 だが、現存しない「ダダ手帖」にあつたといふこのダダ詩のトーンは晩年にまで継続したと思ふ。なぜ、現存しないのに詩が残つたかといへば、河上徹太郎がその著作(「中原中也の手紙」)に引用したためにかろうじて残つたのだ。初期中の初期のダダ詩。

 タバコとマントが戀をした
 その筈だ
 タバコとマントは同類で
 タバコが男でマントが女だ
 或時二人が身投心中したが
 マントは重いが風を含み
 タバコは細いが輕かつたので
 崖の上から海面に
 到着するまでの時間が同じだつた
 神様がそれをみて
 全く相對界のノーマル事件だといつて
 天國でビラマイタ
 二人がそれをみて
 お互の幸福であつたことを知つた時
 戀は永久に破れてしまつた。
       (「タバコとマントの戀」)

 タバコが中也で、マントが泰子かと考えさせてしまふ作品だが、それは相対界の平凡な事件だと客観視してお道化ているところが、中也らしいところかもしれなゐ。なにしろ神様がビラを天国で撒くのだ。フォークルの「帰ってきたヨッパライ」のコミック・ソングに通じるユーモアぶりではないだらうか。

 晩年の中也も意に反してダダ詩を書いている。「道化の臨終」といふ詩で、サブタイトルは「Etude Dadaistique」で「ダダ風の習作」といふ意味だらうか。
 この詩の丹下左膳も登場する奇妙な展開に、さらに輪をかけて

 シネマみたとてドッコイショのショ、
 ダンスしたとてドッコイショのショ。

と、囃されて辿り着くのはまたもや祈り、もしくは哀願。

 希(ねが)はくは お道化お道化て、
 ながらえし 小者にはあれ、
 冥福の 多かれかしと、
 神にはも 祈らせ給へ。

 中也は祈りはするが(そもそもカソリックの家庭で育つた)、成長しない。詩を祈りの方途としたり、悲歌を歌い上げはするが、そこから学ぶ事は一切なゐ。
 中也こそが「おほきな赤ちゃん」(年上の友人たちを揶揄して呼んだ中也のことば)だつた。中也は親掛かりだつた。その短い30年の生涯において翻訳、詩業の他は働いた事は一度もない。遠縁の孝子と結婚した後も、二人の子どもをもうけ、長男文也を病気で失つて後も母からの仕送りで生計を営んだ。一度だけ、日本放送協会つまりNHKに就職しようと考えた事があるらしいが(死の前年)、それとて採用にならなかつた(29歳無帽の応募写真が残つてゐる)。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿