(承々前)
中原中也の初期未刊行詩は一般にはもちろん、愛好者にもあまり知られてゐない。とりわけ、中也が「ダダさん」と呼ばれてゐた1923~24年頃の詩は、習作と見なされまた大半が戦災で失われたといふこともあつて、中也の未知の部分となつている。
しかしながら中也が残した「ノート1924」と呼ばれるノートは、中也がダダイストを気取り、そして長谷川泰子との京都での暮らしの中で綴つたもので、興味がつきない。中也にとつてファムファタールたる年上のおんな泰子との、じつは生涯にわたつて懐かしみ、悔いに満ちてゐた日々なのであつた。
天才が一度戀をすると
思惟の對象がみんな戀人になります。
御覧なさい
天才は彼の自叙傅を急ぎさうなものに
戀愛傅の方を先に書きました
(「天才が一度戀をすると」)
さらに
汽車が聞える
蓮華の上を渡つてだらうか
内的な刺戟で筆を取るダダイストは
勿論サンチマンタルですよ。
(「汽車が聞える」)
などに至つてはシュールで涅槃的なイメージさえ感じる。そして、中也の中では、ダダイズムと抒情が矛盾していなかつた事を窺わせる。一般には中也は、初期のダダを否定して抒情詩人になつたと解釈されているやうだ。
「ノート1924」の中では、「古代土器の印象」「秋の愁嘆」が比較的有名だろうか。しかし、ボクは
飴に皮がありますかい
女よ
ダダイストを愛せよ
(「頁 頁 頁」)
や、
女はダダイストを
普通の形式で愛し得ません
私は如何(どう)せ戀なんかの上では
概念の愛で結構だと思つてゐますに
(「ダダイストが大砲だのに」)
などの詩句が好きだ。
名詞の扱ひに
ロヂックを忘れた象徴さ
俺の詩は
で始まる「名詞の扱ひに」には、中程に次のやうなフレーズがある。
ダダ、つてんだよ
木馬、つてんだ
原始人のドモリ、でも好い
歴史は材料にはなるさ
だが問題にはならぬさ
此のダダイストには
といふまるでキップの好い江戸弁ダダがあるし、それが原始人の口ごもりと展開するところに「聖なる野蛮人」さえ響いてくる。
この詩はかくのごとく断言されて終はる。
棺の形が如何に變らうと
ダダイストが「棺」といへば
何時の時代でも「棺」と通る所に
ダダの永遠性がある
だがダダイストは、永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ
(「名詞の扱ひに」)
(さらにつづく)
中原中也の初期未刊行詩は一般にはもちろん、愛好者にもあまり知られてゐない。とりわけ、中也が「ダダさん」と呼ばれてゐた1923~24年頃の詩は、習作と見なされまた大半が戦災で失われたといふこともあつて、中也の未知の部分となつている。
しかしながら中也が残した「ノート1924」と呼ばれるノートは、中也がダダイストを気取り、そして長谷川泰子との京都での暮らしの中で綴つたもので、興味がつきない。中也にとつてファムファタールたる年上のおんな泰子との、じつは生涯にわたつて懐かしみ、悔いに満ちてゐた日々なのであつた。
天才が一度戀をすると
思惟の對象がみんな戀人になります。
御覧なさい
天才は彼の自叙傅を急ぎさうなものに
戀愛傅の方を先に書きました
(「天才が一度戀をすると」)
さらに
汽車が聞える
蓮華の上を渡つてだらうか
内的な刺戟で筆を取るダダイストは
勿論サンチマンタルですよ。
(「汽車が聞える」)
などに至つてはシュールで涅槃的なイメージさえ感じる。そして、中也の中では、ダダイズムと抒情が矛盾していなかつた事を窺わせる。一般には中也は、初期のダダを否定して抒情詩人になつたと解釈されているやうだ。
「ノート1924」の中では、「古代土器の印象」「秋の愁嘆」が比較的有名だろうか。しかし、ボクは
飴に皮がありますかい
女よ
ダダイストを愛せよ
(「頁 頁 頁」)
や、
女はダダイストを
普通の形式で愛し得ません
私は如何(どう)せ戀なんかの上では
概念の愛で結構だと思つてゐますに
(「ダダイストが大砲だのに」)
などの詩句が好きだ。
名詞の扱ひに
ロヂックを忘れた象徴さ
俺の詩は
で始まる「名詞の扱ひに」には、中程に次のやうなフレーズがある。
ダダ、つてんだよ
木馬、つてんだ
原始人のドモリ、でも好い
歴史は材料にはなるさ
だが問題にはならぬさ
此のダダイストには
といふまるでキップの好い江戸弁ダダがあるし、それが原始人の口ごもりと展開するところに「聖なる野蛮人」さえ響いてくる。
この詩はかくのごとく断言されて終はる。
棺の形が如何に變らうと
ダダイストが「棺」といへば
何時の時代でも「棺」と通る所に
ダダの永遠性がある
だがダダイストは、永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ
(「名詞の扱ひに」)
(さらにつづく)
旧かなづかいがあたしにはムズカシ過ぎて
読めなかったんだと思うよ。
源氏物語も橋本治現代語訳で
初めて、全部読んだんだ。
あたしからすると
異国の言語なんだな・・・。
大阪弁オンリー(笑
読みにくいですか?
勿論、ボクとて戦後世代ですから、旧かなづかいで育った者ではありません。ボクにとっても、ある時期までは「異国のことば」です。というか「古代語」のように思えたものです。「古典」で習うものという感覚でした。
でも、中原中也体験で中也の詩を読む事で、旧かなづかいに中也の「息」を感じました。息づかいをです。
そして、旧かなづかいに文語というよりもうひとつのイキを感じます。これは「粋」と書く方です。
日本語に関して「数寄者」になろうかな?
といったところでの今回の趣向です。