風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

隣の中也(10)/ダダの受容 その9「ノート1924/ダダさんと戀」

2007-06-26 00:43:44 | コラムなこむら返し
(承々前)
 中原中也の初期未刊行詩は一般にはもちろん、愛好者にもあまり知られてゐない。とりわけ、中也が「ダダさん」と呼ばれてゐた1923~24年頃の詩は、習作と見なされまた大半が戦災で失われたといふこともあつて、中也の未知の部分となつている。
 しかしながら中也が残した「ノート1924」と呼ばれるノートは、中也がダダイストを気取り、そして長谷川泰子との京都での暮らしの中で綴つたもので、興味がつきない。中也にとつてファムファタールたる年上のおんな泰子との、じつは生涯にわたつて懐かしみ、悔いに満ちてゐた日々なのであつた。

 天才が一度戀をすると
 思惟の對象がみんな戀人になります。
 御覧なさい
 天才は彼の自叙傅を急ぎさうなものに
 戀愛傅の方を先に書きました
       (「天才が一度戀をすると」)

 さらに

 汽車が聞える
 蓮華の上を渡つてだらうか

 内的な刺戟で筆を取るダダイストは
 勿論サンチマンタルですよ。
       (「汽車が聞える」)
 
 などに至つてはシュールで涅槃的なイメージさえ感じる。そして、中也の中では、ダダイズムと抒情が矛盾していなかつた事を窺わせる。一般には中也は、初期のダダを否定して抒情詩人になつたと解釈されているやうだ。
 「ノート1924」の中では、「古代土器の印象」「秋の愁嘆」が比較的有名だろうか。しかし、ボクは

 飴に皮がありますかい
 女よ
 ダダイストを愛せよ
       (「頁 頁 頁」)

や、

 女はダダイストを
 普通の形式で愛し得ません
 私は如何(どう)せ戀なんかの上では
 概念の愛で結構だと思つてゐますに
       (「ダダイストが大砲だのに」)

などの詩句が好きだ。

 名詞の扱ひに
 ロヂックを忘れた象徴さ
 俺の詩は

で始まる「名詞の扱ひに」には、中程に次のやうなフレーズがある。

 ダダ、つてんだよ
 木馬、つてんだ
 原始人のドモリ、でも好い
 歴史は材料にはなるさ
 だが問題にはならぬさ
 此のダダイストには

といふまるでキップの好い江戸弁ダダがあるし、それが原始人の口ごもりと展開するところに「聖なる野蛮人」さえ響いてくる。
 この詩はかくのごとく断言されて終はる。

 棺の形が如何に變らうと
 ダダイストが「棺」といへば
 何時の時代でも「棺」と通る所に
 ダダの永遠性がある
 だがダダイストは、永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ
       (「名詞の扱ひに」)

(さらにつづく)


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2 コメント

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ああ、昔の文学 (南国素)
2007-06-26 07:48:18
ああ、昔の文学
旧かなづかいがあたしにはムズカシ過ぎて
読めなかったんだと思うよ。

源氏物語も橋本治現代語訳で
初めて、全部読んだんだ。

あたしからすると
異国の言語なんだな・・・。
大阪弁オンリー(笑
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南国素さん! 今回この中原中也をテーマとした論... (フーゲツのJUN)
2007-06-26 23:40:33
南国素さん! 今回この中原中也をテーマとした論考は旧かなづかいで書いています。わざと、自覚的に……。
読みにくいですか?
勿論、ボクとて戦後世代ですから、旧かなづかいで育った者ではありません。ボクにとっても、ある時期までは「異国のことば」です。というか「古代語」のように思えたものです。「古典」で習うものという感覚でした。
でも、中原中也体験で中也の詩を読む事で、旧かなづかいに中也の「息」を感じました。息づかいをです。

そして、旧かなづかいに文語というよりもうひとつのイキを感じます。これは「粋」と書く方です。
日本語に関して「数寄者」になろうかな?
といったところでの今回の趣向です。
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