さて、こうして再び1967年に還りついた。ボクは、その号を手に入れるまで気付かなかったが、連載(7)で紹介した『なまえのない新聞』にポン自身が求めに応じて「回想録」(ヒッピームーヴメント史 IN ヤポネシア)の連載をはじめている。ゆえに、「部族」の盛衰史は、ポン自身が書くのがもっとも適任である。
ただ、ボク自身は日本には「サイケ族」という風俗のトライブはいたが、「ヒッピー」は存在しなかったという意見をもつものである(「サイケ族」のファッションはいわゆるピーコック・カラー(いまならレインボウ・カラーと言うだろう)で、「ヒッピー風」ではあった)。
「部族」=バムアカデミー(ハリジャン)とて本格的な放浪を基盤においたフーテン=バムだったと考えるものである。それは以下のようなナナオの詩からもうかがえるであろう。
私は詩人 皆がそう言う
または 精神病院長 この世は みんなフーテンよ
私は人間 人間は自然 従って私は自然
私の愛は 自由
(略)
私は 第三石器時代人
(「私は」詩集『犬も歩けば』所収)
ボクもその渦中にいた1968年の「ジャン中村葬式ハプニング」もそうだが、初期のバムアカデミーには、ハプナー精神があった。それらのハプニングを「儀式」と呼んだ流儀もそうだが、バムアカデミーを形成した水脈には、60年代初めまで続いていた自由出品の美術展ヨミウリ・アンパン(アンデパンダン展)が、ネオダダを含めて多数の前衛芸術家を輩出した背景があろう。「世界の滅亡を予告する自由言語による集会と行列」にも「ゼロ次元」「ジャックの会」などのハプナー集団が加わっていた。破れかぶれで捨て鉢だが、若さとエネルギーだけはあったこの前衛美術運動は、それ自体が大正の自由主義の中から日本に根付いた、「ダダ」「シュールレアリスム」「主義者(マルクス主義・アナーキズムを問わず)」などの主流からはずれた反逆精神の継承だった。
かって、この国では前衛とは反逆のことだったのだ!
もうひとつ、これは指摘するまでもないが、武者小路実篤が提唱した「新しき村」といった理想国家建設のコミューンというかユートピア思想の系譜だ。世界政府提唱や、エスペラントの世界言語という考え方にも共通する理想主義だろうが、ここにはロバート・オーエンの「ニューハーモニー」から、カルト集団の宗教的共同体、サティアンまで含まれる実践をともなう系譜だ。
さらに、もうひとつはこの国の西行以来の、本来は中国の神仙思想にその根を持つのであろう風狂、脱俗・漂泊の思想と言うか「あくがれ」の系譜があることも忘れてはならない。これは、おそらく「無頼派」文学に脈々と流れてきたはずだ。このあたりのことも、第2部で検討することになるだろう。
山田洋次監督の人気シリーズ車寅次郎こと「フーテンの寅」さんによって、フーテンという名称は変質させられてしまった。あの映画シリーズによって「フーテン」という言葉を知った世代は、フーテンとは旅暮らしの香具師やテキヤのことだと思い込んでいることだろう。それは、山田洋次監督の功罪だが、大いなる間違いだ。
マンガ『フーテン』を月刊マンガ誌『COM』に連載して、1967年のフーテンブームに火をつけた張本人のひとりである永島慎二は、「風月堂」にたむろする「フーゲツ族」系のフーテンと、歌舞伎町のJAZZ喫茶をその主な棲息場所とする、「ウスラバカ・フーテン」の二種類がいると分類していた。その真意はともかく、深夜JAZZ喫茶にたむろしたいわゆる「新宿ビート」でもあったフーテンに次は視点を移して、この「1967年論」を継続することにしよう。
(第1部・完)
※文中敬称略
ただ、ボク自身は日本には「サイケ族」という風俗のトライブはいたが、「ヒッピー」は存在しなかったという意見をもつものである(「サイケ族」のファッションはいわゆるピーコック・カラー(いまならレインボウ・カラーと言うだろう)で、「ヒッピー風」ではあった)。
「部族」=バムアカデミー(ハリジャン)とて本格的な放浪を基盤においたフーテン=バムだったと考えるものである。それは以下のようなナナオの詩からもうかがえるであろう。
私は詩人 皆がそう言う
または 精神病院長 この世は みんなフーテンよ
私は人間 人間は自然 従って私は自然
私の愛は 自由
(略)
私は 第三石器時代人
(「私は」詩集『犬も歩けば』所収)
ボクもその渦中にいた1968年の「ジャン中村葬式ハプニング」もそうだが、初期のバムアカデミーには、ハプナー精神があった。それらのハプニングを「儀式」と呼んだ流儀もそうだが、バムアカデミーを形成した水脈には、60年代初めまで続いていた自由出品の美術展ヨミウリ・アンパン(アンデパンダン展)が、ネオダダを含めて多数の前衛芸術家を輩出した背景があろう。「世界の滅亡を予告する自由言語による集会と行列」にも「ゼロ次元」「ジャックの会」などのハプナー集団が加わっていた。破れかぶれで捨て鉢だが、若さとエネルギーだけはあったこの前衛美術運動は、それ自体が大正の自由主義の中から日本に根付いた、「ダダ」「シュールレアリスム」「主義者(マルクス主義・アナーキズムを問わず)」などの主流からはずれた反逆精神の継承だった。
かって、この国では前衛とは反逆のことだったのだ!
もうひとつ、これは指摘するまでもないが、武者小路実篤が提唱した「新しき村」といった理想国家建設のコミューンというかユートピア思想の系譜だ。世界政府提唱や、エスペラントの世界言語という考え方にも共通する理想主義だろうが、ここにはロバート・オーエンの「ニューハーモニー」から、カルト集団の宗教的共同体、サティアンまで含まれる実践をともなう系譜だ。
さらに、もうひとつはこの国の西行以来の、本来は中国の神仙思想にその根を持つのであろう風狂、脱俗・漂泊の思想と言うか「あくがれ」の系譜があることも忘れてはならない。これは、おそらく「無頼派」文学に脈々と流れてきたはずだ。このあたりのことも、第2部で検討することになるだろう。
山田洋次監督の人気シリーズ車寅次郎こと「フーテンの寅」さんによって、フーテンという名称は変質させられてしまった。あの映画シリーズによって「フーテン」という言葉を知った世代は、フーテンとは旅暮らしの香具師やテキヤのことだと思い込んでいることだろう。それは、山田洋次監督の功罪だが、大いなる間違いだ。
マンガ『フーテン』を月刊マンガ誌『COM』に連載して、1967年のフーテンブームに火をつけた張本人のひとりである永島慎二は、「風月堂」にたむろする「フーゲツ族」系のフーテンと、歌舞伎町のJAZZ喫茶をその主な棲息場所とする、「ウスラバカ・フーテン」の二種類がいると分類していた。その真意はともかく、深夜JAZZ喫茶にたむろしたいわゆる「新宿ビート」でもあったフーテンに次は視点を移して、この「1967年論」を継続することにしよう。
(第1部・完)
※文中敬称略
2009/04/14 13:40
サインは匿名
いちおー証拠おさえときます。
一茶が求めたものは三省的なものだが、その「俳諧」の世界は、むしろ「徘徊」(笑)! ナナオに近いでしょう。
事実、ナナオは一茶俳句の英文訳『Inch by Inch』という本もあらわしている。
このあたりのことも書いてみたいが、他に書きたいことが一杯あるからね。
無頼派に関しては、違う考えをボクは持っているよ。太宰でも、安吾でも、壇でもない……。無頼派とはスタイルなのだよ。
ボクは遁走はするが、無頼派にはなれないね。きっと。
無頼派の系譜でいうなら、親鸞さんからの系譜って視点もあるかと思います。
近代文学史において無頼派を自称している連中もいるようですが、ぼくの感覚からすると、ぬるい。実にぬるい。
著名な人たちですからさん付けで名前を挙げるなら太宰治さん、坂口安吾さん、壇一雄さん。
みんなぬるい。
言いっぱなしでは怒られるのでひとこと。
坂口さん。写真を見ました。とっちらかった部屋で無頼を気取るがその部屋は誰が掃除する?飯は誰が作ってくれる?母親がわりの女におんぶにだっこで無頼派か?
太宰さん。20世紀騎手、生まれてすみません、ってあーたねぇ、生き物はみんな自分の意志で生まれてくるわけじゃねぇからね。自分ひとりで大きくなったつもり?
壇さん。火宅の人ってあんたねぇ、看板くすねるならせめて法華経一本写経してからにしろよ、ケンカ売ってんのか?貴様ンこら[E:annoy]
ゲホゲホ。後半ちょっと取り乱しましたが、在命中の作家で言えば、前回の章でJUNさんが一平くんと呼んでいた宮内勝典氏あたりが、本然たる意味の無頼派になりうる可能性を持っているんじゃないかと私は睨んでいます。
「刃の先の先まで見切ったつもりの矜持」
小説『焼身』のワンフレーズです。
かっこいい。
はじめに言葉ありき。
やってくれるでしょう。
どうです。JUNさんも仲間入りしては!
遁走専門の無頼派(笑)
かなりかっこいいと思いますよ。
系譜という構図で考える時、西行からの流れに松尾芭蕉と小林一茶という流れを見てとることも可能かもしれません。
山尾三省は一茶的な着地を試みた、と捉える視点がぼくの三省観にはあります。
芭蕉への激しい憧憬。
それを“突き抜けて”
土に生死していこうとする
ある種、悲壮な決意。
王道なんだと思いますよ。
芭蕉は
未だ旅の「途上」
ON THE ROAD!