風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

花盗人後日譚(はなぬすっとごじつだん)

2005-11-19 00:34:42 | コラムなこむら返し
花が根こそぎ盗まれた話は、その花をいただいたNさんの耳に入り、なんとNさんはふたたび同じ数ぶんのパンジーのビニール鉢を届けてくれたのである。
ボクは恐縮するばかりだった。この鉢はNさんが試みで栽培しているもので、出荷はしていないらしいが、それも数としては、大量にある訳ではない。ハウスの一画で可憐な花をつけていたものだ。

こんどは、プランターを窓辺におくことにしよう。聞いてみれば、Nさん自身も花を盗まれたことがあるらしい。だからひと一倍心配してくれたのだろうが、それにしてもひとの心が荒れすさんでいる方が幾倍もおそろしい。
花盗人は自分のこころを自分で盗んでいることに気付かないのだろう。
花盗人(はなぬすっと)などという詩的な呼び方をしたからと言って、こうしてひとのこころを閉じさせ、壁を作っていく行為にむすびつくことに気付かないらしい。

それにしても、下町の縁台の上の花々や鉢植え、盆栽などはどのようなこころないイタズラや、悪意を受けていることだろう。下水口にタバコを投げ入れているひとが何をしているのか無自覚なように、丹精込めて育てられた立派な盆栽にタバコを押し付けて灰皿代わりにしてみたりとか、ゴミを捨ててみたりとかしているはずなのである。
自分の目の前からとりあえずなくなれば、ゴミや吸い殻などどうなろうと知ったことじゃないと考えているのだろう。
ゴミの問題にたとえてみれば、そのようなエゴは誰しもの中にあることがわかってもらえるはずだ。ゴミとは文明を享受することの結果かならず生み出されるエントロピー負荷みたいなものだからである。
もちろん、ボクの中にもあるものなのだ。

きっと下町のお年寄りたちは怒りながらも黙々と手入れをし、こころを込めて育て、樹木も少ない東京の下町にうるおいを与え、緑のオアシスを作っているのだ。

そんなこころやさしいお年寄りに一歩でも(年齢としても)近付いたのかと自覚することはよろこびではないだろうか。そう思うことにしよう。