風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

花盗人(はなぬすっと)とエゴ地獄

2005-11-17 00:34:46 | コラムなこむら返し
先日、ボクが世話人をやったイモ掘り会の畑に畑の持ち主のNさんから白菜を取りに来ませんかとお誘いを受けた。
そこで、土曜日の午前中に畑へ出かけていった。その畑でボクはまだ援農どころかまだ何のお手伝いもしていない。いつかはその畑の一画が借りられないものかと願っているが、まだきちんとしたお手伝いは出来ないでいる。Nさんとはたまたま御近所つきあいをしているだけで、まさか近所にそのような広い畑を所有するひとが住んでいるなんて事は、最近知ったばかりなのである。

そして、小世帯であるボクらが食せるだけの白菜、大根、小松菜などを、それでも袋いっぱいいただいて帰ってきたのであったが、Nさんはハウスで作っている小さな鉢植のパンジーも持っていきなさいと言って、20ケばかりのビニールの鉢をいただいてきたのであった。

その可憐なパンジーは日曜日に家人の手によって鉢からプランターや素焼きの植木鉢に植え変えられた。
日曜日に外出していたボクはその鉢植えのパンジーが、どのような彩りをはなって我が家を飾ってくれることになるのか楽しみだった。
だが、帰ってくるなり家人は植え変えられたばかりのパンジーがすべて引き抜かれてなくなったと言うのである。一瞬、ボクは訳が分からなかった。プランターごと持っていかれたというのなら理解したのかも知れないが、プランターも素焼きの鉢もそのままに花だけが見事にすべて引き抜かれていったのだと言うのである。
どうやら庭もない我が家でガーディニングをきどったのか家人は、プランター、素焼きの鉢を玄関脇にならべておいていたらしい。そう縁台でもあれば、下町の光景を考えたのかも知れない。
しかし、その花たちは無惨にも根から引っこ抜かれていったのだ。

もっともそれが植えかえたばかりで、まだ根付いていないことはすぐ分かったのかも知れない。土は黒かっただろうし、花のまわりには雑草も生えていないことで……。
しかし、どうするつもりなのだろう?
それが花を愛づる行為とでもいうのだろうか?
山へいって希少な高原植物を平気で引き抜いてくる心ないひとがまだ絶えないらしい。それが花を愛するひとの行ないなのだろうか?
自分の庭に高原植物を移植することは、庭を深山のようにしたいという願望なのだろうか?
目に付いたひとの家のガーディニングがあれば、その花を引き抜いて自分の家を飾れば事足りるのだろうか?
それで、満足できるのだろうか?

そのひとのこころはエゴの固まりではないのだろうか?
ボクは泥棒だとか、窃盗だとかの次元で非難をしたい訳ではない。そのこざかしい自分のエゴにもとずいた行ないが、みずからたましいを貧しくし、地獄におちいらせることだと気付いていないのかと憐れんでいるだけである。

その夜、理解できないままモヤモヤとした人間不信に陥っている時、TVのニュースはどこかの霊園で多数の地蔵の首がハンマーではねられていたというニュースを流していたのだった。

(もっともその地蔵はその霊園のあちこちに建てられたコンクリート性のどうやら型抜きの地蔵のようだった。そのとんでもない被害総額に霊園経営のシステムが透けて見えるようであったが、それにしてもホトケの似姿をしたお地蔵さまの首をはねるなんてことが良くできるものである!?)