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桜の美しさはどこからくるのか。
そんなことを、先日の復活の主日ミサの説教の導入として話させていただきました。
桜の花は、一年365日あるうちの、たった一週間か10日ほど。あとの350日ほどは、誰もじっくりと見ることはありません。
けれども、桜の木にとっては、花の時季は、木の生の中の(これを「桜の人生」と呼べるなら、その中の)ほんの一時。
桜には、新緑の季節があり、青々と茂る葉の季節があり、また紅色に染まって、葉を落とすときがあり、そして、雪の重さに耐えるときがある。
そんな人生の季節を、何年も積み重ねていきます。
そのことに目を向けなければ、本当の桜のうつくしさはわからないのではないかと気づいてきたのは、米沢教会時代、巡回教会の長井教会に通う途中の「久保の桜」を、通り越しに年中見ていたときでした。
この桜は、エドヒガンザクラで、樹齢1200年と言われ、国の天然記念物になっています。花の季節には、多くの人々が訪れます。が、花が終わると、もう誰も見る人はいなくなります。
桜の花は、写真に撮るのがどの花よりも難しいです。それは、桜の本当のうつくしさの、ほんの一瞬しか見ていないからかもしれないと思っています。
復活のイエスも同じ。人も同じ。
写真は、きのう撮ったばかりの桜。一瞬の出会いでしたが、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
そんなことを、先日の復活の主日ミサの説教の導入として話させていただきました。
桜の花は、一年365日あるうちの、たった一週間か10日ほど。あとの350日ほどは、誰もじっくりと見ることはありません。
けれども、桜の木にとっては、花の時季は、木の生の中の(これを「桜の人生」と呼べるなら、その中の)ほんの一時。
桜には、新緑の季節があり、青々と茂る葉の季節があり、また紅色に染まって、葉を落とすときがあり、そして、雪の重さに耐えるときがある。
そんな人生の季節を、何年も積み重ねていきます。
そのことに目を向けなければ、本当の桜のうつくしさはわからないのではないかと気づいてきたのは、米沢教会時代、巡回教会の長井教会に通う途中の「久保の桜」を、通り越しに年中見ていたときでした。
この桜は、エドヒガンザクラで、樹齢1200年と言われ、国の天然記念物になっています。花の季節には、多くの人々が訪れます。が、花が終わると、もう誰も見る人はいなくなります。
桜の花は、写真に撮るのがどの花よりも難しいです。それは、桜の本当のうつくしさの、ほんの一瞬しか見ていないからかもしれないと思っています。
復活のイエスも同じ。人も同じ。
写真は、きのう撮ったばかりの桜。一瞬の出会いでしたが、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
でも、わたしは神父さまのお撮りになる雑草の写真のファンです。
子供の頃に日本を離れたわたしにとって心のふるさとはぺんぺん草、オイヌノフグリ、タンポポ、ヒメジオン、ネジバナ。子供の視線に入ってきていたのは、小さな雑草の花々でした。
神父さまのお写真は子供の目線でこれらの植物が撮られていて、見ているうちにいつの間にか、忘れていたやわらかい心に触れていました。
時々は違う背丈になって世界を眺めると新たな発見があっていいですね。写真はそんな楽しみをみせてくれます。
コメントをどうもありがとうございます。
言われてみれば、このところ小さな草花を撮っていないですね。きっと、こころに余裕がないからかな、と思います。
気づかせてくださって、感謝です。