あさって29日は、ぼくの司祭叙階記念日。ちょうど10年になります。
たったの10年。されど10年。
まあ、10才と考えれば、まだ小学4年生。ひよっこです。トサカも生えていません。(でも、髪は薄くなるばかり。。。)
通常の司祭叙階のお祝いは、25周年の銀祝とか、50周年の金祝とかになりますので、10周年では何もしないはず。それでもすでに、あちこちからお祝いのメッセージをいただきました。
取手でも、なにやら日曜日にお祝いしてくださるとのこと。
振り返ってみれば、なんとも密度の濃い10年でした。もう、20年も30年も経験させていただいたような気分です。
それにしても、神さまのご計画は人間にはわからないものです。
叙階式のときに皆さんの前で言わせていただいた、「人のこころの痛みのわかる司祭になりたい」との願いを、神さまは、じつにさまざまな手段で、かなえてきてくださいました(ちょっと、その願いを取り消したくなるほど)。
25周年をお祝いするときには、もう61才になってしまいますけど、そんな先のことまでわかるわけはありません。
しかし、少なくともこれまでやってこられたのは、神さまの助けと、皆さまの祈りのおかげです。これからも、そう思います。
carpe diem (ラテン語で「今日を楽しめ」の意)
これは、今年の初め、ぼくがクリスマス・プレゼントに差し上げた聖書のお返しにと、ひろさちやさんが彼の新著『「狂い」のすすめ』(集英社新書)を送ってくださったのですが、その頁の始めに署名とともに手書きで書き入れてくださった言葉です(ちなみに、とてもよい本です)。
その日、楽しいこともつらいことも、何が起ころうとも、それを十分に生きよ、との教え。
そのような境地に至るには、まだまだと思います。が、日々感謝とよろこびを忘れないように、こころがけていきたいと思います。
これからもどうぞよろしくお願いいいたします。
写真は、きのうの風景。ホトケノザの花々が、手を合わせて祈ってくれているように見えました。
たったの10年。されど10年。
まあ、10才と考えれば、まだ小学4年生。ひよっこです。トサカも生えていません。(でも、髪は薄くなるばかり。。。)
通常の司祭叙階のお祝いは、25周年の銀祝とか、50周年の金祝とかになりますので、10周年では何もしないはず。それでもすでに、あちこちからお祝いのメッセージをいただきました。
取手でも、なにやら日曜日にお祝いしてくださるとのこと。
振り返ってみれば、なんとも密度の濃い10年でした。もう、20年も30年も経験させていただいたような気分です。
それにしても、神さまのご計画は人間にはわからないものです。
叙階式のときに皆さんの前で言わせていただいた、「人のこころの痛みのわかる司祭になりたい」との願いを、神さまは、じつにさまざまな手段で、かなえてきてくださいました(ちょっと、その願いを取り消したくなるほど)。
25周年をお祝いするときには、もう61才になってしまいますけど、そんな先のことまでわかるわけはありません。
しかし、少なくともこれまでやってこられたのは、神さまの助けと、皆さまの祈りのおかげです。これからも、そう思います。
carpe diem (ラテン語で「今日を楽しめ」の意)
これは、今年の初め、ぼくがクリスマス・プレゼントに差し上げた聖書のお返しにと、ひろさちやさんが彼の新著『「狂い」のすすめ』(集英社新書)を送ってくださったのですが、その頁の始めに署名とともに手書きで書き入れてくださった言葉です(ちなみに、とてもよい本です)。
その日、楽しいこともつらいことも、何が起ころうとも、それを十分に生きよ、との教え。
そのような境地に至るには、まだまだと思います。が、日々感謝とよろこびを忘れないように、こころがけていきたいと思います。
これからもどうぞよろしくお願いいいたします。
写真は、きのうの風景。ホトケノザの花々が、手を合わせて祈ってくれているように見えました。