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■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)

新型コロナ禍で、寺社様によっては御朱印授与を休止されている場合があります。
ご留意をお願いします。

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2019/01/25 補足UP
2021/01/31 補足UP
2022/01/15 補足UP
2022/06/03 補足UP

■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)

43.如意山 宝蔵院 大乗寺(高崎市棟高町)
44.烏子稲荷神社 (高崎市上小塙町)
45.新比叡山 本実成院 天竜護国寺(高崎市上並榎町)
46.我峰八幡神社 (高崎市我峰町)
47.上野國一社八幡宮 (高崎市八幡町)
48.神通山 遍照王院 大聖護国寺 (高崎市八幡町)
49.慈雲山 養寿院 福泉寺 (高崎市鼻高町)
50.少林山 達磨寺 (高崎市鼻高町)
51.八幡山 月光院 常安寺 (高崎市下豊岡甲)


43.如意山 宝蔵院 大乗寺
高崎市棟高町2234
真言宗豊山派
御本尊:

開山、沿革などは不詳ですが、高崎市の指定重要文化財である「農耕図屏風」を所蔵する寺院として知られています。

「農耕図屏風」は、源信寿(みなもとののぶひさ)の筆による「農事一式の図」六曲一双の屏風です。
江戸前期の農作業を描写したもので、脱穀に「くるり棒」(回転式の稲打ち棒)を使わず、二股の自然木を利用している様子が時代を反映するものとされます。
女が頭上に舟・えび・うさぎ等の型を乗せて、五穀豊穣を祝う踊りの姿などが見どころとされます。

大乗寺のそばにある高崎市立堤ヶ岡小学校は大乗寺山内の発育小学校が発祥、堤ヶ岡幼稚園、堤ヶ岡保育園ともに大乗寺を母体としているそうで、児童教育とゆかりの深いお寺さんと思われます。



【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山内

堤ヶ岡幼稚園横が参道入口で、山号標と寺号標が建っています。
その先の山門は桟瓦葺で、薬医門形式と思われます。
本堂と左手に宝形造桟瓦葺向拝付きのお堂があります。



【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は寄棟造桟瓦葺で、正面に軒唐破風の立派な向拝を起こしています。
大棟の棟飾りは経の巻獅子口。
水引虹梁両端、正面と側面に雲形の木鼻。中備に花紋様の板蟇股。頭貫上の斗栱は斗が5つです。

唐破風下に大瓶束笈形を置き、兎毛通に蕪懸魚、破風上の鬼板に経の巻獅子口を置いているので、下から水引虹梁、板蟇股、虹梁、大瓶束笈形、蕪懸魚、経の巻獅子口という見どころの多い構成となっています。
向拝見上げの扁額は「如意山」の山号です。

霊場札所ではないですが御朱印を授与いただけました。
ただし、ご不在や法事によりいただけない場合もあり、3度目の参拝で授与いただけました。

〔 不動明王の御朱印 〕

中央に不動明王の種子「カン/カーン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「不動明王」の揮毫。
左下に寺号の揮毫と寺院印が捺されています。


44.烏子稲荷神社
高崎市上小塙町564
御祭神:宇迦之御魂命、大日霊命、素戔嗚命、菅原道真公
神饌幣帛料供進社

「すないご」という難読の社号をもつ稲荷神社です。
境内由緒書きなどを参考に、創祀・沿革をまとめてみます。

延暦二年(783年)に公卿の藤原金善という人が、山城国(現 京都府)の藤ノ森稲荷神社の御分霊をこの地に勧請したのが創祀とされます。
この地は古くは須苗郷(須苗子・烏子)と呼ばれ、当社は須苗郷(すないご・ごう)の総鎮守として崇敬されてきました。

戦国時代、甲斐の武田信玄公が箕輪城攻略の際に戦勝祈願をし、大願成就の後、武田家臣の浦野家、新井家とゆかりをもち、後世まで関係を保っているようです。
江戸時代には徳川家より代々御朱印を頂いています。
明治三十九年(1906年)、神饌幣帛料を共進しうべき神社に指定。

社殿は六世紀前半の上小塙稲荷山古墳の上に祀られ、本殿裏には巨大な石で築かれた石室があります。
「上小塙稲荷山古墳」は高崎市の指定史跡に指定され、石室の穴は都に通じているとか、白狐が住んでいるなどともいわれて稲荷信仰の対象となっていました。
そのために、古墳が状態よく保存されていたものと評価されています。
社宝として所蔵されている須恵器類も附指定されています。

平地のなかにこんもり丸く盛り上がった社叢は、いかにも古墳を思わせるもの。
かなり離れたところ(北部環状線沿い)に朱塗りの大鳥居を構えています。


【写真 上(左)】 社頭から境内
【写真 下(右)】 境内案内図

参道階段下に駐車場。右手に社務所。参道手前に石灯籠一対。すでにこのあたりから神さびた雰囲気をまとっています。


【写真 上(左)】 身代り達磨
【写真 下(右)】 弁天様

社務所のそばには、身体の痛いところをさすると痛みがなおるという「身代り達磨」。
左手の池に御座す弁天様は、もともと古墳外堀に祀られて霊験確かな弁天様として信仰を集めていたところ、外堀改修工事に際しご神像の奉納がなされて現在の位置に御遷座されたとのこと。


【写真 上(左)】 鳥居
【写真 下(右)】 産泰様

参道階段手前に狛犬一対。その先左手に手水舎と朱塗りの台輪鳥居で鳥居扁額は「稲荷大神」。
鳥居左手には朱の鳥居が連なる参道?があり、稲荷神社らしい空気感。

階段途中にも石造の台輪鳥居があり、その先左手には子授り、子育て、安産の神様、産泰様のお社が鎮座しています。
産泰様の手前には、高崎城主・安藤対馬守が参詣のおりにお手植えされたという「逆さもみじ」があります。この木は逆さに挿したのに根付いた生命の強い木とされ、諸願成就の所以となっています。


【写真 上(左)】 神楽殿
【写真 下(右)】 拝殿

階段の左手奥には朱塗りで均整のとれた神楽殿。
階段正面が拝殿で、位置的に屋根構造がうまく確認できないのですが、おそらく入母屋造瓦葺唐破風向拝付きで、妻入りかもしれません。
朱塗りの柱が意匠的に効いた、華やかな印象の社殿です。


【写真 上(左)】 頭貫の彫刻
【写真 下(右)】 中備の彫刻

朱塗りの向拝柱の上に古色を帯びた水引虹梁を置き、両端に精緻な彫刻木鼻(正面獅子、側面象鼻)を備えています。
中備にはボリューム感のある龍の彫刻。唐破風軒の懸魚部にも彫刻を置いています。
唐破風の鬼板は、綾筋付きの経の巻獅子口のようにも見えました。

十八世紀末の築と推定される本殿は、「烏子稲荷神社本殿」として高崎市の指定文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 本殿
【写真 下(右)】 烏子天神

正面はよく見えないのですが、境内説明板によると一間社入母屋造で現在は銅板葺。
組物は三手先詰組、蛇腹支輪。
向拝に虹梁形頭貫で連三斗積上、木鼻は正面を獅子、側面を象鼻。頭貫おくに力感あふれる海老虹梁。
中備に蟇股。向拝正面打越二軒繁垂木。
妻飾りは虹梁大瓶束式笈形付。屋根に千木と堅魚木を置いています。
脇障子の透かし彫りも見事なもので、すこぶる存在感のある本殿です。

本殿右手に鎮座する天神様のお社は、一間の切妻造銅版葺正面桟唐戸で「烏子天神」の扁額を掲げています。

御朱印は社務所にて揮毫のものをいただけました。

〔 御朱印 〕

揮毫は「烏子稲荷神社」で、神社印が捺されています。


45.新比叡山 本実成院 天龍護国寺
高崎市上並榎町922
天台宗
御本尊:釈迦如来
札所:群馬郡三十三観音霊場第31番

山内掲示板などから開山・沿革をまとめてみます。
貞観六年(864年)、比叡山延暦寺に模して建立され、延暦寺第三代座主の円仁(慈覚大師)が開山された天台宗の名刹です。
往時は境内に僧坊三百余を擁し、関東を代表する大伽藍であったと伝わります。

寺格は高く、歴代髙﨑藩主の祈願所として安藤家や松平家などから崇敬され、本堂の軒瓦には葵の御紋が刻まれています。

寺宝に延長六年(928年)の勅命による小野道風真筆「天龍護国寺」の勅額があり、これは醍醐天皇が下賜されたものと伝わります。
「天竜護国寺の寺号勅額」として市指定重要文化財に指定されているこの額の裏面には、次のように書かれています。

醍醐天皇依勅定
延長六戌子歳従四位上小野道風書
其後額之縁再興元和六庚申年
高崎城主安藤対馬守重信

また、文化元年(1804年)著名な絵師、神宮寺守満による「並榎八景絵巻」も残されており、その絵巻には当寺の住職一元上人を中心に高崎の風流人が詠んだ漢詩と和歌が添えられています。


【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 本堂

参道入口に山号標と寺号標。参道両側な広大な墓地で、正面、階段上に山門、くぐると正面が本堂です。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

入母屋造桟瓦葺で正面に唐破風の向拝をおく、整った伽藍です。
唐破風鬼板には、金剛界大日如来の種子「バン」とみられる梵字をおいています。
水引虹梁まわりはシンプルで、向拝見上げに寺号の扁額。これは小野道風真筆の勅額かと思われます。


【写真 上(左)】 唐破風まわり
【写真 下(右)】 扁額

山内のすぐ西側には日枝神社が鎮座します。
貞観年間(859-877年)に当寺の鎮守として近江国坂本の日吉大社から勧請と伝えられています。


【写真 上(左)】 日枝神社拝殿
【写真 下(右)】 日枝神社扁額

御朱印は趣きのある庫裡にて、揮毫のものを授与いただけました。

〔 厄除 元三大師の御朱印 〕

中央に御寶印(蓮華座+火焔宝珠)と「厄除 元三大師」の揮毫。
右上には菊花紋の印。左下に山号、院号、寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
御寶印の種子は、金剛界大日如来の種子「バン」のように思われます。

元三大師は如意輪観音の化身とされ、元三大師の御朱印では如意輪観音の種子「キリーク」が用いられることがありますが(例.深大寺)、他の例もあるようです。
天台宗の宗旨本尊として、釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来などが挙げられますが(資料によってことなる模様)、こちらでは宗旨本尊として金剛界大日如来の種子を使われているのかもしれません。(筆者の根拠のない憶測です)


46.我峰八幡神社
高崎市我峰町263
御祭神:品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、建御名方命、八坂売命(素戔嗚尊)、大日孁命(天照大御神)、宇迦之御魂命、豊宇気毘売命(豊受大神)
旧社格:村社、神饌幣帛料供進社

境内掲示の由緒書などより。
創祀は明らかでないようですが、「口碑によれば、現社殿の前の神殿の奥に天平元年(729年)と記したる木札ありと言われ、また鎌倉時代の設立とも言伝える。」とのこと。

社殿横を流れる烏川の水流は当社付近で一大深淵をなし、無数の鮭がここに集まりこれより上流には遡らないことから「鮭の森」と呼ばれ、参拝者が多く訪れました。
古来より勝利の神として尊崇され、雛供養、人形供養の神社としてもよく知られています。

境内にある經塚は、永禄四年(1562年)の武田勢による箕輪城攻略の折に、住吉城(箕輪城の支城のひとつ)の城主・清水小内記藤原正智が宝物・経典を埋蔵した場所と云われています。
現在、この場所には息長足姫命(神功皇后)のお社が鎮座され、雛供養がおこなわれているようです。


【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 鳥居

境内はかなり広く、社頭に「八幡神社」の社号標と、すこし離れて茅の輪が設えられた朱塗りの明神鳥居。
鳥居から先は社叢におおわれ、朱塗りの灯籠が並んで神域ならではの厳粛な気がただよいます。
境内は清々しく整い、地元の方々の尊崇の篤さがうかがわれます。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 拝殿

拝殿はおそらく入母屋造桟瓦の妻入りで、妻部の鬼板と懸魚部の彩色彫刻が見事。
水引虹梁両端木鼻と中備に彫刻を備え、正面桟唐戸の小ぶりながら端正に整った社殿で、本殿は拝殿内部に鎮座されているようです。
向拝見上げの扁額は「八幡神社」。


【写真 上(左)】 息長足姫命(神功皇后)のお社
【写真 下(右)】 鮭の森大神

参道向かって左には上記の息長足姫命(神功皇后)のお社と「鮭の森大神」が鎮座しています。

こちらは通常非常駐のようで、御朱印はすこし離れた社務所(ご神職宅/高崎市我峰町72)で授与いただけます。

〔 御朱印 〕

「鮭乃森大神」「我峰八幡神社」のふたつの揮毫と3つの印判(神璽印、神社印、宝珠印)が捺された華々しい印象の御朱印です。


47.上野國一社八幡宮
公式Web
高崎市八幡町655
主祭神:品陀和気命、息長足姫命、玉依姫命
旧社格:郷社
御朱印揮毫:上野國一社八幡宮

ふるくから「一国一社の八幡宮」として、広く尊崇を集めてきた八幡様です。

公式Web、境内掲示などから由緒・略歴などをまとめてみます。
平安時代の天徳元年(957年)に京都の石清水八幡宮を勧請して創祀。

尚武の神として代々源氏の崇敬が深く、源頼義・源義家(八幡太郎)は奥州征伐の折に当社に必勝祈願し、戦勝の結果、社殿を改築したと伝わります。
「永承年間の改築」という説があるので、永承年間(1046-1053年)の改築は源頼義の前九年の役(1051-1062年)、源義家は後三年の役(1083-1087年)の際のもので、おのおの別の改築かもしれません。
また、永承年間(1046-1053年)は未だ前九年の役が真っ盛りですから、永承年間に源頼義が必勝祈願し、その勝利ののちに頼義の子義家(八幡太郎)が改築したのかもしれません。

源頼朝は鎌倉に幕府を開くと、当社に神田百町を寄進し社殿の改築などを行いました。
新田氏、足利氏、武田氏(信玄公)、豊臣秀吉、徳川家康などの武家・武将からも厚く尊崇を受けたと伝わります。

江戸時代に入っても徳川家光以来、社領百石の朱印地を受けて興隆。
江戸期は神仏混淆の色合いが強まり、別当神徳寺をはじめ社僧・神主・社家合わせて28家(24家とも)を数え、毎年75回の神事を営んだといいます。

明治初期の神仏分離ののち、明治5年7月に郷社に列せられ、「八幡の八幡様」(やわたのはちまんさま)とも呼ばれて広く尊崇を集めて今日に至っています。

「一国一社の八幡宮」とは、ふつう国府八幡宮をさします。
国府(こくぶ)八幡宮(府中八幡宮/国分八幡宮)とは、令制国の国府の近くに創建された八幡宮で、国衙(国司の役所)の鎮守や国分寺の鎮守として伝わるものがあります。

関東周辺の国府八幡宮(論社を含む)は、
 武蔵国:武蔵国府八幡宮 (東京都府中市)
 相模国:平塚八幡宮 (神奈川県平塚市)
 伊豆国:八幡宮来宮神社 (静岡県伊東市)
 安房国:鶴谷八幡宮 (千葉県館山市)
 上総国:飯香岡八幡宮 (千葉県市原市)
 下総国:葛飾八幡宮 (千葉県市川市)
 甲斐国:大井俣窪八幡神社 (山梨県山梨市)/八幡神社 (山梨県甲府市)
 下野国:下野國一社八幡宮 (栃木県足利市)
とされています。

上野国については、上野國一社八幡宮(当社)とする説と、当社が国府(現・前橋市元総社町)から離れていることから、国府に近い前橋八幡宮を比定する説もあるようです。


境内案内図


【写真 上(左)】 社号標
【写真 下(右)】 神門(旧仁王門)

境内は南に碓井川を見下ろす高台に広がり、川寄りの神門(旧仁王門)からの登り参道です。
なお、大鳥居は国道18号(旧中山道)の八幡大門交差点そばにあるそうです。

神門(旧仁王門)は切妻造銅板葺三間一戸の八脚単層門で、脇間には真新しい仁王像が鎮座しています。扁額は読解不能。
神門手前には「上野國一社八幡宮」の社号標。


【写真 上(左)】 参道階段
【写真 下(右)】 一の鳥居

階段の上に一の鳥居。石造の両部鳥居で「八幡大御神」の扁額。
そのすぐ先に江戸時代中期の造営とされる随神門。切妻造銅板葺木部朱塗り、三間一戸の八脚単層門で、脇間には随身像(神像)が安置されています。
あざやかな朱塗り、むくり気味の屋根で勢いを感じるつくり。


【写真 上(左)】 随神門
【写真 下(右)】 鐘楼と随神門

随神門の右手に神楽殿、左手に唐破風屋根の手水舎と鐘楼。
いずれも朱塗りで意匠を凝らしたもので、華やいだ雰囲気の境内。


【写真 上(左)】 神楽殿と鐘楼
【写真 下(右)】 拝殿

随神門正面が拝殿。
拝殿前の唐銅燈籠は高崎出身の豪商野澤屋(茂木)惣兵衛(惣兵衛)が大旦那となり、主に糸繭商人に浄財を募って慶応三年(1867年)に奉納されたもので、高崎市の指定重要文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 唐銅燈籠と拝殿
【写真 下(右)】 斜めからの向拝

入母屋造銅瓦葺で正面に千鳥破風、その前面に唐破風付きの流れ向拝を置いています。
後背の幣殿、本殿が一体となる権現造の様式で、宝暦七年(1757年)、御鎮座八百年を記念して新築されたものです。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 天井絵と奉納額

向拝は4本の向拝柱を擁し、水引虹梁には立体感あふれる彫刻が施されています。
見上げれば、二連の破風(唐破風と千鳥破風)の変化に富んだ構成も見応えがあります。
ふところが深く内陣寄りには拝殿幕が張られています。
彩色天井絵や奉納額も見事なものです。



【写真 上(左)】 拝殿~本殿の見事な意匠
【写真 下(右)】 本殿身舎の斗栱

側面の仕上げが豪華です。
彩色の桟唐戸、花頭窓、幣殿~本殿の木鼻や斗栱、脇障子の精緻な彫刻、二色塗りの二軒繁垂木など、寺社建築の合わせワザが展開されています。
なんとなく、神社の建築としては異色な感じがしたのですが、この拝殿内部は旧護摩堂とのこと。
神仏混淆式の建物として、高崎市の指定重要文化財に指定されています。


【写真 上(左)】 天満宮
【写真 下(右)】 向拝の彫刻と斗栱

拝殿向かって右には天満宮が鎮座します。
入母屋造妻入り金属板葺で正面唐破風向拝付。
入母屋の屋根勾配が急で、妻入りの棟飾りと向拝の唐破風がコントラストをなす華麗な社殿で、これはかつての本地堂とのこと。
向拝や身舎まわりの木鼻や斗栱の構成も見事です。

なお、「本地垂迹資料便覧」様によると、当社の本地仏は阿弥陀如来・観世音菩薩・大勢至菩薩の阿弥陀三尊で、本地堂には阿弥陀三尊が安置されていたようです。

境内には参拝順路が設定され、これに従うと拝殿、本殿、本殿背後の摂社二十二社、東照宮(疫斎神)、御輿庫、地主稲荷社、日枝社(山王宮)と巡拝することができます。
地主稲荷社は当社の元宮で、例祭に頒布される餅は「子授け餅」(はらみもち)として、子宝に恵まれる奇瑞のあるものとして知られています。

さすがに「一国一社の八幡宮」だけあって、境内は見どころにあふれています。
とくに神仏混淆の遺構を辿るには、最適な神社ではないでしょうか。

〔 御朱印 〕

授与所にて御朱印に書き入れいただきました。
社号の揮毫、社号印、鎮座地の印で構成されています。


48.神通山 遍照王院 大聖護国寺
公式Web
高崎市八幡町675-1
真言宗豊山派
御本尊:愛染明王・不動明王
札所:


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 愛染明王の御朱印

開山は健保四年(1216年)、地方本寺として五十三ヶ寺を有していたという名刹です。
公式Webによると、定弘和尚が高野山清浄心院より御本尊愛染明王及び不動明王を奉じられて開山。
上野国和田城主和田八郎信業、北条氏政、徳川家康公等の尊崇を受け御朱印を授かっているとのことです。
五代将軍綱吉公の母君桂昌院は当山二十四世亮賢和尚への信頼篤く、延宝二年(1674)、当寺に多くの仏像を寄進し伽藍を建立、仏具などを奉納しました。
また、天和元年(1681年)亮賢和尚を護持僧として幕府所属の高田薬園の地に招き、堂宇を建立し、桂昌院の念持仏、天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊として神齢山 悉地院 護国寺が創建されました。

この由緒は護国寺の公式Webにも明記され、そのなかで当寺は「上野国碓井八幡宮の別当、大聖護国寺」と記載されています。
また、山内由緒書にも「寛永年間までは隣接する上野国一社八幡宮の別当寺でした。」とあります。
当寺は、上野國一社八幡宮のすぐとなりにあり、上野國一社八幡宮は「碓井八幡宮」とも称されたことから、すくなくとも寛永年間までは隣上野國一社八幡宮の別当であったものとみられます。
(なお、上野國一社八幡宮の境内由緒書には「明治維新まで別当神徳寺ほか社僧・社家合わせて二十四家による神仏混淆の神事を執行す)とあるので、寛永年間までの別当は大聖護国寺、それ以降は神徳寺となった可能性があります。)


【写真 上(左)】 不動明王の御朱印
【写真 下(右)】 阿弥陀如来の御朱印

境内は名刹らしくよく整っています。
堂宇のほとんどは開放され、仏像を間近で拝めます。
音羽の護国寺も本堂内にあげていただけますから、このあたりは護国寺の伝統なのかもしれません。

御朱印は庫裡にて拝受できますが、筆者参拝時は「拝観・御朱印受付は、金・土・日・月10時から4時までです」との掲示がありました。


49.慈雲山 養寿院 福泉寺
公式Web
高崎市鼻高町707
天台宗
御本尊:聖観世音菩薩
札所:

絵御朱印で有名な天台宗寺院です。
筆者は「武田二十四将ゆかりの寺社と御朱印」という記事をとりまとめ中で、こちらにはこれまで未参拝で気になっていましたが、ようやく参拝が叶いました。

いただいた由緒書と山内の供養塔建立の説明板には以下のとおりあります。
・福泉寺東側は、箕輪城の出城(内出)があった所とされ、永禄年間、武田軍の六回に及ぶ箕輪城攻撃の際、武田信玄公がその本陣に使用し、激闘がおこなわれたとも言われています。
・福泉寺には、この合戦の戦死者を供養する供養塔が建立されています。
・説明板の日付は昭和56年(1981年)秋、そこから450年前の開創ということなので、1531年、室町時代の享禄年間ということになります。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御本尊 聖観世音菩薩の御朱印

山内には多くの供養佛(露仏)が並びます。
本堂はいささか無機質な建物ですが、花手水などが山内各所に配されて手入れが行き届いた印象です。


人気の「風林火山」の絵御朱印

当寺では、上記の所縁から武田信玄公の「風林火山」の絵御朱印を授与されています。
絵御朱印にはさほど興味がない筆者ですが、この「風林火山」の御朱印はすばらしいもので、御本尊、聖観世音菩薩の御朱印とともに拝受しました。

さすがに絵御朱印で人気のお寺さんらしく、私が参拝したときも先客が2組ほどいました。
御朱印授与日・時間は公式Web(インスタ)で随時案内されているようです。


50.少林山 達磨寺
公式Web
高崎市鼻高町296
黄檗宗
御本尊:北辰鎮宅霊符尊
札所:



高崎の縁起だるま発祥の寺として知られる名刹てす。
公式Webなどから由緒をとりまとめてみます。
室町時代末期より、鼻高村の高台には行基菩薩の彫刻とされる観音様を祀る観音堂がありました。

延宝年間(1673-1681年)に大雨で碓氷川が氾濫したとき、香りを放つ古木が流れつき観音堂に納められました。
一了居士という行者の夢枕に達磨大師が立たれ、この霊木で達磨大師の像を彫るようお告げがあり、一了居士は、沐浴斎戒、一刀三礼で達磨大師の坐禅像を彫りあげました。
この観音堂のあたりはいつしか“達磨出現の霊地”として「少林山」と崇められ、時の領主・酒井雅楽頭忠挙公は厩橋城(前橋城)の裏鬼門を護る寺として、水戸光圀公の帰依された僧・東皐心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じて、元禄十年(1697年)少林山 達磨寺を開創しました。

以降、衆生の尊崇篤く、享保十一年(1726年)には水戸徳川家から三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い、永世の祈願所とされました。

山上に、達磨堂、霊符堂、観音堂と並びます。
御本尊は、北斗星を神格化した北辰鎮宅霊符尊です。
達磨寺は前橋城から見て南西に鎮座し、前橋城の裏鬼門を守護する寺として創建されたこともあり、現在も関東隋一の方位除・八方除の祈願所として参拝客を集めています。

御朱印は、原則として写経納経者にのみ授与されますが、山内の瑞雲閣に十文字写経の用紙が用意されており、こちらを写経して納めることでも授与いただけます。
オリジナルの御朱印帳も頒布されています。


51.八幡山 月光院 常安寺
公式Web
高崎市下豊岡甲1405
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛

信濃国の名族滋野氏は小県郡、佐久郡を中心に勢力を張り、分流した海野氏・根津氏・望月氏は「滋野三家」と呼ばれ、滋野氏嫡流の家柄とされました。
禰津(根津)氏は滋野重道の二男道直が禰津を称したのが始まりとされ、以降、信濃の名族として諏訪氏と姻戚関係にあったとされます。

また、真田氏の出自はナゾが多いですが、滋野氏の流れで、禰津氏の支流という見方が有力のようです。

禰津氏の本拠は禰津古御館ないし禰津(祢津)城(現・長野県東御市)で、古くから武勇の家柄として名を馳せ、保元・平治の乱や源平合戦での活躍が伝わります。

南北朝期には南朝方にくみしたとされ、ここでも数々の戦功が伝わります。
「滋野三家」の結束は堅く、室町期にも小県郡、佐久郡、更級郡、上野国吾妻郡にまで及ぶ勢力を有していたとみられます。

天文十年(1541年)春、甲斐の武田信虎公が村上義清、諏訪頼重と謀り小県郡へ侵攻(海野平の戦い)。
滋野一族は手痛い敗北を被りましたが、禰津元直は諏訪神氏の姻戚であったことから本領を安堵されています。

禰津元直は天文十一年(1543年)正式に武田氏に臣従、同年末には元直の娘・禰津御寮人が晴信(信玄)公に嫁ぎ、武田信清をもうけています。(『高白斎記』)

元直ののち禰津氏家督は紆余曲折を経て、次男の政直(松鴎軒常安)が継ぎ、常安は武田氏の先方衆として真田氏など滋野一族と連携して上野国方面に進出しました。
常安は北信濃の飯山城の城代も任されていたため、天正十年(1582年)春の織田・徳川連合軍の甲州征伐でも命を落とさず、徳川家康公に臣従。

常安は徳川家家臣となった際に「禰津」から「根津」に名字をかえたとされます。
家康公の関東移封後、上野国豊岡に5千石の所領を得、これを継いだ常安の甥、信政は慶長七年(1602年)5千石の加増を受け、一万石の大名として上野豊岡藩を立藩しました。
しかし寛永三年(1626年)、三代藩主・吉直が若くして死去すると無嗣断絶となり、上野豊岡藩は惜しくも廃藩となりました。

禰津(根津)氏はふるくから鷹匠の家柄として知られていたため、廃藩後根津一族は幕臣となり、鷹匠元締めをつとめたと伝わります。

上野豊岡陣屋跡は、現在の常安寺付近と伝わります。

常安寺の公式Webによると、当寺は祢津(根津)常安が生前に自らの供養のため元亀元年(1570年)に豊岡陣屋内に箕郷の金龍寺二世大雲吟撮大和尚を開山として開基。
みずからの名から常安寺と号したといいます。

常安(禰津公)の墓所は長野県東御市の定律院とされますが、常安寺にも墓石が残ります。


【写真 上(左)】 公道まで延びる参道
【写真 下(右)】 山門

倉渕方面からの烏川と、碓井から流れ下る碓井川が合流し、中山道と三国街道が分岐する地勢的な要衝で、そんなこともあって豊岡陣屋が置かれたものと思われます。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 本堂
山門は明治中期の火災を免れた唯一の遺構で、切妻屋根桟瓦葺の四脚門。
妻側にかかる唐破風風のやわらかな曲線が個性的で見上げに山号の扁額。


【写真 上(左)】 庭園からの本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝

本堂は入母屋造桟葺流れ向拝で、大がかりな軒唐破風を構えています。
水引虹梁両端に禅宗様の木鼻、中備に板蟇股。水引虹梁斗栱は左右各二連で複雑な意匠。
身舎側に海老虹梁、向拝見上げに院号扁額を掲げています。

大棟や唐破風まわりに掲げられた紋は、おそらく禰津氏の家紋「丸に月の字」と思われます。


【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 本堂向拝唐破風

本堂向かって右に地蔵菩薩坐像、左には阿弥陀如来坐像が御座し、おのおの献花がそえられて華やぎのある堂前です。

閻魔様とゆかりのふかい寺院で、本堂内には閻魔大王像、山内には奪衣婆像も奉安されています。

こちらは札所ではなく、これまでノーマーク。ウクライナ難民支援御朱印関連で参拝しましたが、ウクライナ支援御朱印のほかに御本尊の御朱印も拝受できました。
ただし、書置のご用意はない模様で、ご住職ご不在時には拝受できないかもしれません。


【写真 上(左)】 御本尊の御朱印
【写真 下(右)】 ウクライナ難民支援御朱印(期間限定)
※尊格御朱印は常時授与されていないかもしれません。


これで「伊香保温泉周辺の御朱印」はひとまず完結ですが、エリア内で御朱印を拝受した場合は適宜追加していきます。


■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)


■ 伊香保温泉周辺の御朱印-1(前編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-2(前編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-3(中編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-4(中編B)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-5(後編A)
■ 伊香保温泉周辺の御朱印-6(後編B)

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