民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「葬式は、要らない」 その2 島田 裕巳

2017年07月11日 00時49分08秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その2 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 葬式無用の主張 その1 P-22

 白洲は大の車好きで、大正時代、イギリス留学時には、高級スポーツカー、ベントレーを乗り回した。そこにはモダンでスマートだった白洲の生き方が示されている。
 その白洲が死の五年前に残した言葉が、
「一、葬式無用
一、戒名不用」
 であった。

 これが彼の遺言のすべてで、生前の白洲は、知りもしない人間が義理で葬式に来るのを嫌い、正子夫人には「葬式をしたら化けて出るぞ」と脅かしていたという。
 無駄なことはしないという白洲の合理主義は、留学先のイギリスで培われたもので、彼は宗教も嫌った。結婚式も、神社ではあげず、京都のホテルに親族を20人ほど集めて行った。

 白洲の葬儀は、遺言どおり遺族が集まって酒盛りをしただけだった。正子夫人が亡くなった際も葬式や告別式は行われなかった。

「葬式は、要らない」 その1 島田 裕巳

2017年07月09日 00時49分14秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その1 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 どんなに寿命がのびたとしても P-15

 葬式は贅沢である――これが、本書の基本的な考え方であり、メッセージである。
 贅沢とは何か。それは、必要の限度を超えて、金銭や物などを惜しみなく消費することである。
 葬式が贅沢であるなら、それは本当は必要のないものなのではないか。議論は最終的に、「葬式無用論」に行き着くはずだ。
 ではなぜ葬式は贅沢なのだろうか。
 まずはその点から考えてみたい。
 人は死ぬ。これは動かしようのない事実である。

 (中略)

 しかし、いくら長寿になっても、私たちが死を免れられるわけではない。将来、不死が実現する見込みもない。人間が生物である以上、死は避けられない。

 ただ、宗教の世界には、死を免れた人物が存在する。
 高野山は真言宗の総本山だが、その奥の院に葬られた弘法大師・空海は、まだ生きているとされる。今でも高野山の僧侶たちは一日に三度、弘法大師のもとに食事を運ぶ。その様子を尋ねると、僧侶たちは「お大師様はお元気です」と真顔で答える。

「やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人」 その2 ケント・ギルバート

2017年07月07日 00時00分15秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人」 その2 ケント・ギルバート 1952年生まれ 株 PHP研究所

 横行する「怠け者の商法」 P-19

 そもそも、私の意見が気に入らないからといって「ネトウヨ認定」する人たちの共通点は、勉強不足であり、怠け者であり、マゾヒストだとも思います。日本は、それこそ中韓とは違い、望めばいくらでも正しい情報を収集できる国だからです。

 これだけ自由で情報の溢れる国に住みながら、単純かつ明白な事実でさえ自分の目で確かめようとせず、ただ学校で習ったことや、左派の政党やメディアが言うことだけを信じつづけるのは「あまりに不勉強」であるし、それ以外の意見を頭から拒絶するという態度は「怠け者」以外の何者でもありません。見ているこちらのほうが恥ずかしい。喩えるならば、中学生レベルの数学の公式を理解できない人間同士が、「相対性理論は絶対にまちがっている!」「電子力学って笑えるよね」などと言っているようなものです。

 それに、生まれた祖国や故郷、そしてご先祖様や先人のことを悪し様に言って喜ぶのは、「マゾヒスト」とでも呼ばれるべき、みっともない姿勢だと思います。現在、自分が日本で享受している恵まれた環境は、先人たちの努力なしではあり得なかったものです。それを、過去の悪かった部分だけを切り出して、何十年経っても文句を言いつづける。「あなた方に、感謝の気持ちはないのか」と言いたい。

「やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人」 その1 ケント・ギルバート 

2017年07月05日 00時51分03秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人」 その1 ケント・ギルバート 1952年生まれ 株 PHP研究所

 まえがき

 おかげさまで前作「まだGHQの洗脳に縛られている日本人」は、多くの方に読んでいただけました。読者の皆さんの書評や激励のお言葉がとても温かく、もっと勉強して、日本と日本人をおうえんしたいという気持ちを新たにしました。

 その一方で私は、ここまで大きな反響があったことに、別の意味で驚きました。この反響の大きさは、それだけ日本の皆さんの多くが、GHQ(連合国軍司令部)が命じたプレスコードや、それに基づく徹底的な検閲が存在した事実をまったく知らず、それらがもたらした洗脳効果を、何も意識していなかったことを意味するからです。

 前作にたいしていろいろなコメントをいただくなかで、もう一つ感じたのは、「日本は悪い国だった」という自虐史観を強く植えつけられたせいで、多くの読者の皆さんが、日本人としてのプライドや誇りを持つことに、どこか抵抗感があるらしいということです。

 日本人のDNAの問題なのか、あるいは謙遜や謙譲のような習慣や精神性のせいかはわかりませんが、「自分のことを褒めるのは、みっともない」「自分や自国を悪く言っておくほうが安心する」「外国から文句を言われたら、素直に従う」といったマインドを、多くの現代日本人が無意識のうちに持っていることは、間違いないようです。

「大放言」 その13 百田尚樹

2017年07月03日 00時18分17秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その13 百田尚樹  新潮新書 2015年

 やればできると思っているバカ その4

 「やればできる」は、「やればできた」者の言葉 P-28

 あまりにも当たり前のことなので、言うのも気が引けるが、「やればできる」という言葉は、「やればできた」者が言う言葉だと思う。過去に頑張った結果、あることを達成した経験のある者だけが口にできる言葉なのだ。人は努力を重ねることで、どれだけ「やれば」どれだけ「できる」かということを体で覚えていく。「やればできる」という自覚と他からの評価はそうやってできていくものだと思う。

 あるいは一度でも実力の片鱗を見せた者ならそう思う資格もある。おかしなことを言うようだが、亀との競争に負けて落ち込んでいるウサギになら、「君はやればできるんだから」という言葉を掛けてもいいかもしれない。

 世の親や教師に言いたい。何もやったことのない子に「やればできる」と言うのはやめようではないか。彼らに言うべきことは、

「やらないのは、できないのと同じだ」

 という言葉だと思う。もうこれ以上、日本にバカを増やしてほしくない。