「葬式は、要らない」 その1 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年
どんなに寿命がのびたとしても P-15
葬式は贅沢である――これが、本書の基本的な考え方であり、メッセージである。
贅沢とは何か。それは、必要の限度を超えて、金銭や物などを惜しみなく消費することである。
葬式が贅沢であるなら、それは本当は必要のないものなのではないか。議論は最終的に、「葬式無用論」に行き着くはずだ。
ではなぜ葬式は贅沢なのだろうか。
まずはその点から考えてみたい。
人は死ぬ。これは動かしようのない事実である。
(中略)
しかし、いくら長寿になっても、私たちが死を免れられるわけではない。将来、不死が実現する見込みもない。人間が生物である以上、死は避けられない。
ただ、宗教の世界には、死を免れた人物が存在する。
高野山は真言宗の総本山だが、その奥の院に葬られた弘法大師・空海は、まだ生きているとされる。今でも高野山の僧侶たちは一日に三度、弘法大師のもとに食事を運ぶ。その様子を尋ねると、僧侶たちは「お大師様はお元気です」と真顔で答える。
どんなに寿命がのびたとしても P-15
葬式は贅沢である――これが、本書の基本的な考え方であり、メッセージである。
贅沢とは何か。それは、必要の限度を超えて、金銭や物などを惜しみなく消費することである。
葬式が贅沢であるなら、それは本当は必要のないものなのではないか。議論は最終的に、「葬式無用論」に行き着くはずだ。
ではなぜ葬式は贅沢なのだろうか。
まずはその点から考えてみたい。
人は死ぬ。これは動かしようのない事実である。
(中略)
しかし、いくら長寿になっても、私たちが死を免れられるわけではない。将来、不死が実現する見込みもない。人間が生物である以上、死は避けられない。
ただ、宗教の世界には、死を免れた人物が存在する。
高野山は真言宗の総本山だが、その奥の院に葬られた弘法大師・空海は、まだ生きているとされる。今でも高野山の僧侶たちは一日に三度、弘法大師のもとに食事を運ぶ。その様子を尋ねると、僧侶たちは「お大師様はお元気です」と真顔で答える。