民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「葬式は、要らない」 その7 島田 裕巳

2017年07月21日 00時27分18秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その7 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 葬式のオールインワン方式、ワンデーセレモニー P-36

 通常なら通夜と葬儀・告別式で2日かかるところを、1日にまとめた「ワンデーセレモニー」という形式も生まれている。
 もともと通夜は、近親者だけで営むものだという感覚があり、一般の会葬者が参列するのは葬儀・告別式のほうだった。

 (中略)

 故人がまだ若かったり、現役あるいは退職後それほど時間が経っていない場合には、会葬者はかなりの数にのぼり、通夜と葬儀・告別式を2日に分けて行う必要がある。だが逆に、会葬者が少なければ、通夜を含めた葬式を2日にわたってやる必要もない。

 そこからワンデーセレモニーという形式が生まれることになった。この場合には、通夜を葬儀・告別式といっしょにしてしまい、火葬は翌日の昼間に近親者だけで行うことになる。

 ワンデーセレモニーには、いろいろなバリエーションがあり、直葬がそこに含まれる場合もあるし、通夜は近親者だけで自宅などで行い、葬儀・告別式の方にだけ会葬者を招くというやり方もある。会葬者を呼ぶ機会を葬儀・告別式に限定するのがワンデーセレモニーだと考えていいかもしれない。

「葬式は、要らない」 その6 島田 裕巳

2017年07月19日 00時18分58秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その6 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 昔「密葬」、今「家族葬」 P-35

 家族葬は、葬儀の形式というよりも、近親者だけで行う規模の小さな葬式全般を指す。以前は「密葬」と呼ぶのが一般的だった。家族葬は1990年代になってから葬儀社が発案し宣伝したことばだとも言われる。
 葬儀社は時代の変化に敏感で、それに即して機敏に対応する。そして、新しいスタイルを作り上げ、新しい呼び名もすぐに用意する。その機敏さが葬式の変化を加速させている。

 一般の葬式では、生前、故人とゆかりのあった人たちに声をかけ会葬者を集めるが、家族葬の場合は、まったく声をかけないか、一部のごく親しい人たちだけに声をかける。あるいは、「家族葬なので会葬は不要である」、と告知することもある。

 これも、高齢者の大往生が増え、会葬者の数が自然と減ってきたことによる。会葬者の数が少ないのなら、近親者だけで済ませ、会葬者に負担をかけるまでのこともない。そうした遺族側の希望が強くなってきたのである。

「葬式は、要らない」 その5 島田 裕巳

2017年07月17日 00時51分53秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その5 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 直葬とはどんな形式か? P-33

 現在、大半の人は病院で亡くなる。直葬では、故人の遺体を寝台車に乗せ、自宅や葬儀社が用意する一時的な安置場所に搬送し、とりあえずそこに安置する。
 そこで遺体を棺に納め(納棺)、近親者だけで通夜をする。会葬者は呼ばない。いったん自宅などに搬送するのも、前の章で見たように、火葬までに24時間以上の経過が必要だからである。

 通夜が済めば、翌日、霊柩車で火葬場へ出棺する。そして、やはり近親者だけで故人に別れを告げ、遺体は荼毘にふす。最後に、収骨、骨あげをして葬式は終わる。

 これが、直葬のもっとも基本的なやり方である。

 (中略)

 葬式を近親者だけで営むのであれば、世間一般に向かって故人が亡くなったことを告知する必要もない。近親者が最後のけじめをつければそれで済む。直葬の増加は、寿命がのび、いわば大往生が増えてきたことが大いに影響している。

「葬式は、要らない」 その4 島田 裕巳

2017年07月15日 00時23分56秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その4 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 「直葬」登場の衝撃 P-31

 私が今、現代の葬式の問題を考える必要があると思ったのは、葬式をめぐる世界でそれだけ大きな変化が起こりつつあるからである。
 それをもっとも象徴するのが、「直葬」の増加という事態である。

 (中略)

 仏教界は「じきそう」と読み、葬祭業者は「ちょくそう」と読む。
 (中略)
 どう読むかはともかく、直葬とは、故人が亡くなった後、いったん自宅に遺体を安置し、近親者だけで通夜を行うものの、その後、遺体を直接火葬場に運び、やはり近親者だけで見送って、それで終わりにするやり方である。

 要するに、寺や葬祭場で最初の夜に通夜を営んで会葬者を呼び、翌日にも会葬者を呼んで葬儀・告別式を営み、それから火葬する一般的な葬式に比べて、直葬はかなりシンプルなのである。
 もともと直葬は、亡くなっても身元がはっきりしない人や生活に困窮していて十分な葬式代が出せない人のためのものだった。それが、一般の人々の葬式でも利用されるようになり、(後略)

「葬式は、要らない」 その3 島田 裕巳

2017年07月13日 00時10分52秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その3 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 葬式無用の主張 その2 P-22

 日本で最初に葬式無用論を唱えたのは、自由民権運動家の中江兆民だった。兆民が最初にそれを提唱したのは、1887(明治20)年だが、彼は1910年に咽頭ガンの宣告を受けてから、『一年有半』といった著作の中で、霊魂の不滅や紙の存在を観念的なものとして退け、唯物思想を展開した。

 兆民は、ガン宣告を受けた年に亡くなるが、遺言は「おれには葬式など不必要だ。死んだらすぐに火葬場に送って荼毘にしろ」というものだった。実際、葬式は行われず、遺体は当時としては珍しく解剖され、墓碑も建てられなかった。

 ただ、残された者たちは、彼の死を悼んだ。自由民権の運動に参画し、生前の兆民と親交のあった板垣退助や大石正巳たちが青山会葬場で、宗教的なものをいっさい排除した「告別式」を開いた。これが、今日一般化している告別式のはじまりだとされている。

 葬式を望まなかった兆民が、告別式の生みの親になるとは少し皮肉な話だが、葬式にかんして個人の遺志と周囲の意向との不一致はいくらでも起こる。そこに葬式の問題をめぐる難しさがある。