FOOTBALL LIFE

~サッカーを中心に日々の雑感など~

日本語文法

2006年07月05日 | Weblog
白い薔薇も清楚な色で花壇に清潔な姿で立っている。この薔薇はホワイトクリスマスというアメリカ産の薔薇。アポロという黄色い薔薇が満開になったら、その大輪ぶりに驚いている。こんなにおおきくなるんだなあー。

今朝の新聞の文化欄に劇作家、井上ひさしさんの新作「夢のかさぶた」が、23日まで東京・初代の新国立劇場小劇場で上演されているという記事が載っていた。「東京裁判3部作」完結編。歌と笑いをまぶしつつ「あの戦争の責任は誰にあるのか」を問う井上さんは「いろいろ考えていったら、日本語文法を被告人にすることになってしまった」そうだ。

こういうほんとにみたい舞台劇は地方にいては見られない。せいぜいWOWOWの舞台中継に期待するしかないかー。

「夢のかさぶた」では、東北の屋敷を舞台に、元大本営参謀で今は古美術商手伝いの徳治(角野卓造)と、どんな見合い相手より文法を愛する国語教師・絹子(三田和代)を軸に物語が進む。敗戦を境に、手のひらを返したように変わった日本。その原因を絹子は日本語に主語がないから、と指摘する。

「日本語は主語を隠し、ごまかす。責任を曖昧にするにはとても便利な言葉」「”私”の代わりに主語になっているのは”状況”。あの時はああいう状況だったから、今はこういう状況だったから、とコロッと切り替える。大変だったね、まあ過ぎたことは水に流して、はい次は民主主義ーー。こんなことが出来たのは日本人だけです。」反省や総括を放り出す日本人の悪癖は今も同じ、と井上さんは見る。

「サッカーだって、なんで負けたのか考えるのはもうやめて『さあオシムだ』でしょう。でもことが戦争になれば、そんな風に済ませるわけにはいかない。」・・・・


このところのオシム報道、中田引退報道ー。これはあの次々と目の前の獲物を追うTV番組報道を見せられるうちに、考える能力を失っていった総選挙の刺客報道、とおんなじではないかと腹を立てていた。井上ひさしさんの言葉は、じつにすーっと胸の中に入ってきた。

ワールドカップで1勝も出来なかった反省と責任はどうするんだ、でしょう?と。ジーコを監督にした側の責任の取り方が何もでてこないんだからね。持病を抱えるオシム監督が道半ばで代表監督を辞任するという事態になるのでは、といまからシナリオを想定!してしまいそうだ。俺たちのオシムを渡せないとジェフ千葉のファンが怒るのも当然・・・。
















自作目録

2006年07月05日 | Weblog
ワールドカップの試合に追われて、「毎日モーツァルト」を書くのが遅れてしまった。毎日、番組は見ているんだけど、それを文章にするという作業まで行かなくて滞っている。このところの高温続きで庭仕事も忙しくなってきて、などといっぱい言い訳をする羽目になる。

97回、自作目録。ピアノ協奏曲第14番変ホ長調。K.449.第1楽章より。
ゲストはドイツ文学者、池内紀さん。
ピアノコンチェルト(協奏曲)っていうのは、それまでもあったんでしょうが、モーツァルトがほとんど形を決めて完成させたというか、そういう意味では一番才能が溢れて発揮された場ですね。だから終始作ってますよね。幼いまだ10代の頃からー。

その前までは、あの人は几帳面な人ではなかったんだけど、作品目録、気に入ったものをきちっと書いて行くって事を始めたんだけど、それも確か、ピアノコンチェルトからはじめたんです。絶えずモーツァルトが作曲の基本にしたところ、そんな風に考えていますね。

ピアノ協奏曲は送られてきたCDがあるので、ずっと聞いている。17番の鳥の鳴き声などというのは、実に楽しいものだ。それぞれに個性的ではあるけど、何番は出だしはこうで、というほど記憶がない。もう一回聞きなおし、あー、そーだったのかーということになる。

モーツァルトはこの年から自分の作品の記録をつけ始めた。いわゆる自作目録だ。曲ごとに冒頭の部分、楽器編成、作曲した日付がていねいに記されている。自立した音楽家を目指すモーツァルト。その並々ならぬ決意を示しているようだ。

わが全作品の記録。1784年2月より
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
冒頭を飾るのはこのピアノ協奏曲第14番。
1、ピアノ協奏曲
伴奏:ヴァイオリン2 ヴィオラとバス(オーボエ2、ホルン2は任意に)右のページには曲の冒頭部分、最初の4小節が書かれている。必要なとき、すぐに譜面を出せるように工夫された作品目録。

グラーベン。
ウィーンの中心に位置するグラーベンは町の目抜き通りのひとつ。ここはモーツァルトの時代も貴族や裕福な市民で昼夜にぎわっていた。1784年1月、モーツァルトはグラーベンに引っ越してきた。モーツァルトが住んでいたトラットナー館には演奏会を開ける大広間があり、さまざまな芸術活動の拠点だった。このピアノ協奏曲も1784年3月、トラットナー館で初演されたといわれる。演奏会の前評判は高く、モーツァルトは期待を込めて父親に伝えた。

父への手紙、1784年3月3か
”すでに100人の予約者があります。まだ軽く30人は集まるでしょう”

父への手紙、1784年3月20日
”演奏会は無事にいきました。広間は超満員でした。ぼくの弾いた新しい協奏曲は特に受けました。どこへ行ってもこの演奏会を褒め称えています”

モーツァルト28歳ー
この後、自作目録には自信と意欲に満ちた作品がつづられていく。

ピアノ協奏曲のどれも素晴らしい。歌劇の中のテーマ曲も一緒に歌いたくなる。(歌えるかどうかは別として)。今まで聴いた中でのベスト1はクラリネット協奏曲。第2楽章のえもいわれぬ静けさは、なんとも形容しがたい、魂を揺さぶられるようなとでもいうのか。胸の奥の奥に入り込んでくるようなクラリネットの調べ。死の2ヶ月前に作曲されたのだそうだ。いわれているように、死を予感していたのだろうか。そういう心境だからこその静けさにも思える。