もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

181011 本田圭佑選手。お見それしました。男前だね、格好いい! 「メッセージ~朝鮮学校訪問の理由、愛国心とは、日本人であることとは~」

2018年10月11日 18時57分46秒 | 日記
10月11日(木):

一部でビッグマウスとも呼ばれる本田圭佑選手のまっすぐさに、久しぶりに気持ちの良いさわやかな話を聞いた気分になった。よっ!おっとこまえだね、格好いい!

金明昱 | スポーツライター :
独占告白!本田圭佑から届いたメッセージ~朝鮮学校訪問の理由、愛国心とは、日本人であることとは~
  10/11(木) 7:00
 7月に朝鮮学校の生徒たちの前で講演した本田圭佑(写真提供・神奈川朝鮮中高級学校)
 絶対に無理だと思った。
 だが、どんな困難にも常に真っ直ぐに立ち向かい、時には猛烈な逆風からも逃げずに立ち向かってきた彼なら、しっかりと答えてくれるのではないか。
 直感的にそう思った。本田圭佑だ。
 現在はオーストラリアAリーグのメルボルン・ビクトリーで現役を続けながら、カンボジア代表のGMとして実質的な監督を務めている。さらに2020年東京五輪にオーバーエイジ枠での出場を目指すことを公言するなど、目標達成に挑み実現していこうとする姿勢を貫いている。
 7月19日、本田は横浜市にある神奈川朝鮮中高級学校を訪れた。名古屋グランパスエイトでチームメイトだった在日コリアンの安英学の招きを受けて実現したサプライズ訪問だった。
 予想もしなかったゲストの登場に、悲鳴にも近い歓声はしばらく止まなかった。
 熱烈な歓迎を受けた本田は、生徒たちの前で講演し、別れ際には色紙に“仲間”という文字を書き残して行った。
 しかし、日朝間には拉致問題など様々な問題が横たわり、朝鮮学校もそれと関連してネガティブなイメージを持たれてしまっているのが実情だ。
 普通であれば、訪問を敬遠するのではないか。だが、なぜ本田はこのタイミングで訪問を決意したのか。兄貴と慕う安英学のお願いとはいえ、そう簡単に決断できることではなかったはずだ。
 その本心を知りたくて、取材を申し込んだ。もちろん、ダメ元で、だ。ただ、こちらの熱意も伝えたつもりだった。
 2週間後、本田のマネジメント事務所から返事があった。
「直接会って取材時間を作るのは難しいです。けれど、書面ならお答えできる可能性はあります」と。
 プロサッカー選手である本田に、失礼だとは思いながらも、サッカーとはほとんど関係のないぶしつけとも思える質問をたくさん送った。
 個人的なインタビューをするのは初めての選手、しかも日本を代表するトップアスリートである。少し遠慮して、「答えられる範囲で結構です」とも伝えてもらった。
 だが、彼はすべての質問に答えてくれた。正直、そのことに驚いた。その文面も本人が直接打ちこんだもの。今にも本田の声が聞こえてきそうだった。
「夢や希望を与えることが本職の僕が断るわけがない」
――朝鮮学校を訪問してから約3カ月が経ちますが、そこに至るまでの経緯について教えてください。名古屋グランパスでチームメイトだった安英学さんから連絡があったと聞きましたが、お願いされたときどのように思いましたか?
どうも思わないです。英学さんのことをヒョンニン(兄)と呼んで慕っているのですが、尊敬している人から『子供たちに夢や希望を与えてあげて欲しい』とお願いされた。夢や希望を与えることが本職の僕が断るわけがありませんよね。ワールドカップ(W杯)後で忙しかったのでスケジュール調整が一番大変でした(笑)
――日本と北朝鮮の間には、様々な問題が横たわっていて、朝鮮学校訪問が自分にとって“マイナス”になると考えてもおかしくありません。その中で、なぜ行動に移せたのでしょうか。
自分の損得以上に大事なことだと思ったからです。そして抱えている様々な問題を解決していくためにも、そういった小さい努力の積み重ねが最も大事だと思っています
 この頃、本田はロシアW杯が終わり、多忙な日々を過ごしていたのは記憶に新しい。朝鮮学校を訪問する前日の7月18日には、アメリカの俳優ウィル・スミスと共にベンチャーファンド「ドリーマーズ・ファンド」の設立を発表した。
 「世界中の人々の生活を良い方向に変えていきたい」という本田の強い意志があってのことだが、ファンド設立に向けた交渉、構想や理念を発表するという準備だけでもかなりの労力を割いていたのは想像に難くない。
 しかも、メキシコのパチューカを退団し、新天地選びにも慎重を重ねていた時期。
 本田は歴史的な南北首脳会談が実現したあと、安英学とメールをやり取りし、その流れで朝鮮学校訪問の話が出たのだという。
――朝鮮学校の第一印象。生徒たちの印象はどのようなものでしたか?
元気がいいな!って印象でした。元気がいい子供と接するのは、上手く説明出来ないけど、良い気分なんですよね!
――朝鮮学校の生徒たちには、何を一番伝えたかったでしょうか。
僕が一番伝えたかったのは、両国の間に歴史として様々な事があったとしても、僕らが人である限り、“仲間”になれるんだ!ということを伝えたかったんです。そして少なくとも僕とヒョンニン(安英学)はそういう関係だということを伝えたかった。そして朝鮮学校を訪問することで、間接的に日本人にも同じことを伝えられればという想いがありました
 名古屋グランパスエイトで一緒にプレーした安英学から朝鮮学校訪問の要請を受けて実現した(写真提供・神奈川朝鮮中高級学校)
 ロシアW杯でベスト16入りを果たした日本代表。選手たちの活躍ぶりを、日本に住む朝鮮学校の生徒たちも目に焼き付けていたはずだ。
 ただ、どこかで“私たちとは無縁な人”と思わざるを得ないのも事実だ。そもそも、現役の日本代表の選手が朝鮮学校を訪れたという話は聞いたことがない。
 朝鮮学校の子供たちにとってサッカー選手のヒーローといえば、北朝鮮代表として2010年南アフリカW杯に出場した安英学や鄭大世(清水エスパルス)、梁勇基(ベガルタ仙台)ら在日コリアンの選手たちになるのだろう。
 ただ、欧州のビッグクラブでプレーする日本代表選手を一目見てみたい、会ってみたいと憧れても決して不思議ではない。朝鮮学校の生徒たちはみな、日本で生まれ、日本の文化の中で育っているからだ。
 それに朝鮮学校に通う男子生徒たちは、ほとんどがサッカーを経験している。というのも、日本学校では盛んな野球部が朝鮮学校には存在しないからだ。
 あくまでも部活動のメインは小学校からサッカー部で、授業の合間の休み時間には、校庭で自然とボールを蹴る子供たちの姿が見られる。学校単位によっては、バスケットボール部などその他の部活も行っているが、どの学校にも存在するのがサッカー部なのだ。
 私の時代のヒーローは、多くの日本人のサッカー小僧と同じく、カズ(三浦知良)やラモス瑠偉だった。当時、もしもカズが朝鮮学校に現れたらなら、同じく学校中が大騒ぎしていただろう。
 それに似た感覚が、今回の本田の朝鮮学校訪問にもあったと思う。サッカー界のスーパースターである本田を目の前に、生徒たちは大興奮だったというが、それはごく自然なことなのだ。
「一番最初に変えないといけないのは、“自分”」
――(朝鮮学校では)具体的にどのような話をされましたか?
僕は基本的には夢の話をしました。大きな夢を持って、それを忘れずに諦めずに追い続けて欲しいというようなことを話しました。彼らの環境は、僕の想像をはるかに超えるレベルかもしれない、ということには同情します。でも僕が自分の人生で学んだことは、置かれた状況を良くしたいなら、一番最初に変えないといけないのは、“自分”だということです。簡単ではないですが、ポジティブに考えて何にでも挑戦して欲しいと思います
――本田選手は過去に在日コリアンの方などとの関わりはありましたか?もし、何かエピソードがあれば教えてください。
中学の時に在日の友人がいたので、一度、朝鮮学校の運動会を訪問したことが記憶に残っています。あとは大人になってからもそうですが、在日の友人が多かったです
 現在、日本各地には60余の朝鮮学校が存在する。近隣住民とも交流を続けながら地域に根差した学校運営を続けているが、近年は拉致問題などの日朝問題によって、それと関連付けられ、批判の対象となることも多い。
 学校への補助金交付を取りやめる自治体が増え、高校無償化の対象外とされていることで、各地で裁判に発展していることも周知の通りだ。こうした状況だけを見ると朝鮮学校の生徒たちは完全に被害者だと言ってもいい。
 意図せず、難しい環境に置かれている朝鮮学校の生徒たちには、本田のような考え方を持つのは難しいかもしれない。
 だが、その高い壁を乗り越えるために、まず変えないといけないのは“自分自身”ということを伝えてくれている。
「自分の国しか愛せないのは悲しいこと」
 朝鮮学校の話から話題を変えた。本田に聞いてみたかったのが、「愛国心」についてだ。
 日本代表としてW杯に3度も出場し、国の威信をかけた真剣勝負の場所にいたからこそ、感じるものもあっただろうし、世界のクラブを渡り歩いてきたからこそ「日本人」である大切さを感じることも多かったのではないか。勝手ながらそう想像していた。
 彼が朝鮮学校訪問を決意したことも、そうしたことと無関係ではないのではないかと思ったからだった。
――話が変わりますが、日本代表としてワールドカップにも出場した本田選手にとって、「愛国心」とは何でしょうか?「国籍、民族、人種」とはなんでしょうか。世界に出て様々な経験をされた本田選手が感じたものがあれば教えてください。
家族を愛することと近いかなと。自分の国を家族と思えることが愛国心かなと。ただ問題なのは自分の国しか愛せないこと。それは悲しいことだし違うと思う
――サッカーでは日韓戦になると両国とも熱くなりますが、実際に韓国と対戦した経験から、日本と韓国では気持ちの入り方は違うものなのでしょうか?
いえ、僕は他の試合と変わりませんが、メディアが問題です。それを意識させるように必要以上に掻き立てることで、仲を悪くさせようとする。本当にこのメディアの問題というのは変えないといけません
“何人であるか”よりも、“人としてどうあるべきか”
――一方で「何人である」ことを強調したり「愛国心」の強さは、一歩間違えると、対立したり紛争が起こったり、世界が間違った方向へ向いてしまうと感じます。本田選手は「日本人」であることをどのように表現していくべきだと思いますか?
そうですね。確かに繊細な問題であり、少しの表現で争いになってはいます。でも僕は日本人である前に“人”です。何人であるかを前面に表現するよりも、人としてどうあるべきかを表現することが最も大事なことだと考えています
  朝鮮学校の生徒たちに「僕らが人である限り、“仲間”になれるんだ!ということを伝えたかった」という本田(写真提供・神奈川朝鮮中高級学校)
「自分の国しか愛せないのは問題」とは、あまり考えたことのない視点。目からうろこだった。
 さらに、日韓などの対立構造を「煽っているのはメディア」とも言い切っている。確かに現在の日本において、ネット上には煽り記事が数えきれないほど見受けられる。
 ただ一部の保守的な人々が、特に政治的に対立する国には、絶対に負けられないという気持ちが強いのも事実だろう。
「メディアの問題を変えなければならない」とは本音で、いずれこの手の問題を解決するために、本田は次の一手を考えているのかもしれない。
 ところで、なぜこのような質問をぶつけたのか――。
 2012年ロンドン五輪の3位決定戦で、韓国が日本に勝利し銅メダルを獲得したが、そのあとスタジアムで韓国の選手が「独島は我が領土」のプラカードを掲げたことが大きく取り上げられ、問題になった。
 そのことについて同年9月に本田が日刊スポーツの取材にこう答えていたことがあったからだ。
……オレは愛国心というのか、そういう気持ちが強い。例えば、いい悪いは別にして、この間のオリンピックの竹島の問題がある。韓国の選手が試合後にボードを持った。いい悪いは別として客観的に見たら、彼は韓国を愛しているんだな、と思った。オレは日本を愛している。もしかしたら同じような状況になれば、同じように行動したかもしれない。それはその場になってみないと分からないことだけど。
 勝ち負けという観点からすると、韓国人が韓国を愛する気持ちに、日本人は負けているんじゃないか。これは政治的な問題ではない。単に自分の国を愛しているか?という気持ちをくらべると、日本は韓国よりも劣ってるんじゃないか、という気持ちにさせられた

 あれから6年が経ち、本田の「愛国心」は「自分の国を家族と思えることが“愛国心”」という、もっと広い見地になっていた。
 それこそ自分の国を大事にしながらも、“日本人”である前に“人”であることが大事。“何人”である前に、“人としてどうあるべきか”を表現することが大事だという。
 人として努力を怠らない本田らしい言葉だと思う。そして最後に聞いた。日本人の良さ、この先に見据えているものについて――。
「勤勉さは日本の最大の強み。“働き方改革”は強みがなくなる」
――世界に出て感じる「日本」の良さはどこにありますか?若くして世界に出ることで俯瞰的に「日本」という国を見ながら、気付いた良い部分がたくさんあると思います。
日本の良さは本当に沢山あります。その良い部分は世界一な部分も数多くあると思います。一方で反省して改善しないといけない点も数多くあると思っています。特に勤勉さという点は、日本の最大の強みだと思っているので、最近の『働き方改革』は日本人が幸せに向かっている反面、強みをなくしていく可能性があると言えます
――「働き方改革」の話が出たので聞きますが、サッカーだけでなく、広くビジネスも展開されている本田選手から見て、特に政治の世界での日本は日韓、日朝、日中の東アジアの平和構築、日米関係など、果たすべき役割はたくさんあると感じていますか?政治家が果たす役割など、個人的な見解があれば教えてください。
すべてにおいて簡単なことではないですが、結果から言うと世界を平和にすることではないでしょうか?国益だけを考える政治家は、今後は必要とされなくなっていく時代になると思います
――最後に。現在、様々な事業展開、新たなクラブを渡り歩き挑戦を続ける本田選手ですが、これから目指すものとは何でしょうか。
短期的な目標は東京五輪です。中長期的な目標は人がお互いを尊敬して信じ合える世界の実現を夢見ています」
 本田が政治への関心も高いのはかねてから知っていたが、日本人の強みが働き方改革によって、なくなるのではないかと疑問を投げかけている。
 政治家への転身は想像もつかないが、本田は世界をより良いものにしていくための活動を、今後も続けていくのだろう。それも我々が想像しない領域へどんどん手を伸ばし、もっと驚かしてくれるに違いない。
 個人的には本田の熱い志と決断力と行動力、そしてサッカーが持つ力、スポーツにおける国際交流が、今も対立しあう国の人々の心を溶かして欲しいと切に願う。

8 013 古田足日/田畑精一「おしいれのぼうけん」(童心社:1974)感想4

2018年10月10日 23時30分18秒 | 一日一冊読書開始
10月10日(水):        :    

79ページ    所要時間0:25(音読)    ブックオフ460円

著者 作家、古田足日47歳(1927生まれ)/ 画家、田畑精一43歳(1931生まれ)

昨日読んだ藤原和博「本を読む人だけが手にするもの」で推薦図書として紹介され気になっていた絵本である。ブックオフで偶然目の前に発見。「これも何かのご縁だろう」ともう一冊の絵本「ずーっと ずっと だいすきだよ」(460円)と一緒に購入した。いつも86円~200円の価格帯狙いの俺にしては、ちょっと勇気を出した買い物である。

2冊とも今日の内に目を通したが、後悔はない。その内の一冊が本書である。俺が買った2005年4月20日の古本で168刷、2015年7月23日時点で227刷なのには、ちょっと驚いた。ロング・ベストセラーである。読み聞かせ3・4才から、自分で読むなら小学生から。

「自我の目覚め」「他者の存在の認識」を題材にした夢のある上出来な物語になっている。

【みどころ】*さくら保育園にはこわいものが2つあります。ひとつはおしいれで、もうひとつはねずみばあさんです。先生たちがやる人形劇に出てくるねずみばあさんは、とてもこわくて、子どもたちは「きゃーっ」といったり、耳をふさいだりします。でも子どもたちは人形劇が大好きです。おしいれは、給食のときやお昼寝のときにさわいで言うことをきかない子が入れられるところです。まっくらでこわくて子どもたちは泣いてしまいます。「ごめんなさい」と言っておしいれから出てくるとき、出てきた子も、おしいれに入れた先生も、ほっとします。ある日の昼寝の時間、着替えようとしたあきらのポケットから赤いミニカーが落ちました。さとしが「かして」と言い「だめだよ」と言うあきらととりあいになって、ふたりは昼寝している子どもたちの上を走り回りました。先生が「やめなさい」と言ってもやめません。ふんづけられた子どもたちが「いたい!」と悲鳴をあげ、怒った先生はあきらをおしいれの下の段に、さとしを上の段に入れてぴしゃっと戸をしめてしまいました。最初は泣きべそをかき腹をたてたふたりですが、なかなか「ごめんなさい」を言いません。そろっておしいれの中から戸をけとばし、汗ぐっしょりで戸を押さえる先生たちも困ってしまいます。とうとうあきらが「ぼく、もうだめだよ」とあきらめそうになりました。さとしとあきらは上の段と下の段で、汗でべとべとの手をにぎりあい、おしいれの冒険がはじまります・・・。1974年に発売されて以来、子どもたちの圧倒的な支持を誇り、読み継がれる本になった『おしいれのぼうけん』。作者の古田足日さんと田畑精一さんはじっさいに保育園で取材をし、話し合いを重ねて物語を作り上げたそうです。ほぼ鉛筆一本で描かれた世界のなかに、ねずみばあさんの存在感と子どもたちの躍動感があふれ、物語にぐぐっとひきこまれていきます。発売から何十年たってもねずみばあさんがすぐそばにいるような、子どもたちの汗がにじんだ手のひらの熱さが伝わってくるような気がする読み物絵本です。(絵本ナビライター 大和田佳世)
*さくら保育園では、何度注意されても言うことを聞かない子は真っ暗なおしいれに入れられて、あやまるまで出してはもらえない。おしいれの奥に広がる夜の街で、不気味な「ねずみばあさん」と遭遇したさとしとあきら。「さとちゃん,てをつなごう」。お互いの手のぬくもりに勇気をもらって、ふたりの大冒険が始まった。 / 子どもだけでなく、成長する大人の姿もきちんと描かれているのが本書の魅力のひとつ。さとしとあきらがおしいれのなかで戦っている間に、おしおきをしてしまった先生も心のなかで自分と戦い続け、最後にきちんと答えを見つけている。 / 友情について、しつけについて、多くのことを考えさせられる絵本である。だが、まずは「おしいれ」というこわくて不思議な空間と日常に潜む冒険の世界を、わくわくしながら楽しみたい。絵は、基本的に鉛筆だけで描かれている。その白と黒の世界に、ほんの少しのカラーページが差し挟まれ、暗闇に幻想的な光が射す瞬間が美しく効果的に表現されている。(門倉紫麻)

8 012 藤原和博「本を読む人だけが手にするもの」(日本実業出版社:2016)感想3+

2018年10月09日 21時51分15秒 | 一日一冊読書開始
10月9日(火):  

271ページ     所要時間2:30      図書館

著者61歳(1955生まれ)。『日経ビジネス』で8年間にわたって書評を執筆。講演会が1000回を超える人気講師でもある。

著者を俺はそれほど好きではない。著者が櫻井よしこや百田尚樹の著作を平気で推奨するところなど正直「こいつ、どうかしている」と感じる。俺とは相容れない感性の持ち主だ。頭は良いので、意識的ノンポリを演じてるのだろうが、俺はそこがいやなのだ。

一方で、著者の著作は内容的に軽い分、読み飛ばしやすい。そして、一概に否定しきれない実用性を持っている。国語学者の齋藤孝に対する印象に近い。常にある水準をキープし、(俺にとっての)ヒット作も出ているのだ。例えば、注文住宅で今の家を建てた時には、著者の本を何度も何度も熟読して建てた。そして、俺は今の家に満足している。

1980年代までの成長社会の「みんな一緒」で情報処理能力が重視されたが、長く経済停滞が続く現代は成熟社会の「それぞれ一人ひとり」で情報編集力が必要である。そのためには読書が大事である。とのたまうのだが、「読書が大事」という理由付けは何を言っても可能だと思うので、この時代認識自体に大した意味はない。

ただ「読書は大事」という事実の確認本の一冊としての価値は認める。「読書によって、人生の<鳥観図>を獲得する」「量は質に転化する-300冊のブレイクスルー」など気の利いた言葉、指摘も随所に出てくる。

【目次】序章 成熟社会では本を読まない人は生き残れない :現在は、「本を読む習慣がある人」と「そうでない人」に二分される階層社会になりつつあると警告。
第1章 本を読むと、何が得か? :「読書と収入の密接な関係」「読書によって身につく、人生で大切な2つの力」など、ズバリ、読書のメリットを答えていきます。
第2章 読書とは「他人の脳のかけら」を自分の脳につなげること :「1冊の本にはどれほどの価値があるのか」「本を読むことは、2つの『みかた』を増やすこと」/「脳をつなげて未来を予測する」など、本を読むことの本質に迫っていきます。
第3章 読書は私の人生にこんな風に役立った :「人生を変える本との出合い方」「自分の意見を述べるための読書」「読書で人生の鳥瞰図を獲得する」など、人生と読書との関連性がリアルに綴られています。
第4章 正解のない時代を切り拓く読書 :21世紀の成熟社会に不可欠な「情報編集力」とそれを構成する5つのリテラシー「コミュニケーションする力」「ロジックする力」「シュミレーションする力」「ロールプレイングする力」「プレゼンテーションする力」を、いかに読書で磨いていくか解説していきます。
第5章 本嫌いの人でも読書習慣が身につく方法 :読書嫌いの子も少なくなかった中学校の校長時代の経験なども踏まえ、いかに読書を習慣化させるかを現実的な側面からポイントを押さえていきます。
巻末――「ビジネスパーソンが読むべき11冊」「小中高生を持つ親に読んでほしい本」 :「親が子どもに読ませたい10冊」という著者のおすすめ本も紹介します。

8 011 ジョージ・オーウェル「動物農場〔新訳版〕 山形浩生訳」(ハヤカワepi文庫:1945/2017訳)感想5

2018年10月09日 00時41分52秒 | 一日一冊読書開始
10月8日(月):    

206ページ(本文は155ページ)   所要時間5:45     ブックオフ510円

著者42歳(1903~1950:46歳)。英国領インドのベンガルに生まれる。文学のみならず、二十世紀の思想、政治に多大なる影響を与えた小説家。名門パブリック・スクールであるイートン校で学び、その後、数年間ビルマの警察に勤務。やがて職を辞し帰国すると、数年間の放浪を経て、作家となった。主な著作に長篇小説『一九八四年』(ハヤカワ文庫)やスペイン内戦に参加した体験を綴ったルポルタージュ『カタロニア讃歌』などがある。

翻訳者:山形浩生(ヤマガタヒロオ)1964年生、東京大学大学院工学系研究科都市工学科修士課程修了。翻訳家・評論家。

本書は、本文の前に<著者の序文案>と<訳者あとがき>から読んだ。そこで、本書がスターリンのソ連邦をかなり正確に写し取った<おとぎばなし>であることを確認した。そして、オーウェル自身が社会主義者であり、スターリン支配下のソ連邦の社会主義のあり方のゆがみを強く批判し、根本的改善を求める内容になっている。その後、冷戦下で西側から東側への批判のため、格好の材料とされた本書であるが、出版時にはソ連政府への批判を許さない親ロシアプロパガンダ勢力が強かった
イギリス国内の状況下で、ほとんどの出版社に断られて苦労したそうだ。

<著者の序文案>は、死後20年以上たってからタイプ原稿が見つかり、1972年に初めて雑誌掲載されたものである。自由と民主主義のあり方、リベラルの変節と全体主義化などについて考えるうえで、これだけでも十二分に読む価値がある。

<訳者あとがき>も、冷戦崩壊後も失われることのない本書の普遍的存在価値を示してくれていて良かった。

本文を読む際には、ウィキペディア「動物農場」を開いて、登場動物と実在の人物を大勝しながら読み進めた。追放される農場主ジョーンズ氏がロマノフ朝、予言を残すブタの老メイジャーがレーニン、指導的ブタのスノーボールがトロツキー、ナポレオンがスターリン、昔の迷信を広げるカラスのモーゼスがロシア正教会、農場で最も知能が高かったブタ(共産党?)が、9匹の獰猛な犬たち(GPUゲーペーウー)を使って、スノーボールを革命から追放し、独裁的指導力を握ったナポレオンによる夢も、希望も、花もない自主自由なのに苛烈な労働を強いられ続ける。知能の低い馬や羊やめんどり他が無教養に放置され、違和感を覚えても、どう猛な犬たちと、ナポレオンの手先で雄弁家のブタのスクィーラー(モロトフ)に丸め込まれて、ナポレオンの恐怖支配を受け続ける。

動物農場と手を組むピルキントン氏が大英帝国で、対立するフレデリック氏がナチス・ドイツである。

物語りの終わり、ブタたちは禁断の二本足で歩くようになり、人間との関係を再開し、外見的にもどちらが人間でどちらがブタなのかわからなくなった。つまり、社会主義には社会主義特有だが階級的搾取構造が出来上がり、それは資本主義的搾取構造と何ら変わらない不公平・不公正なものになり果てているのだ、というオチである。<序文案>で著者は、「多くの読者は、本書を読み終えて、最後にブタたちと人類が完全に和解したような印象を持つかもしれない。でもこれは私の意図とはちがう。その逆で、私は本書を盛大な不協和音で終わるつもりだった」と記している。ソ連と西側とのなれ合いは長く続かないということだ。

最後に、『カタロニア讃歌』を読んでいた時もそうだが、本書を読んでいても「ここに書いてあることは、アベ政権下のまさに今の日本でも当てはまることばかりだ」と考えることが非常に多かった。オーウェルの社会民主主義者としての透徹したまなざしは、21世紀の日本の現状を考える場合にも、ベースとなる思想であると言える。オーウェルはメディアについても極めて批判的で不信感を持っている。<真実の報道>などありえないのだ。俺は今回オーウェルをよりよく知ることができて本当に収穫があったと思っている。

ブタのナポレオン(スターリン)の政策に強い違和感を覚えても、考えることをせず、抵抗をせず、すぐに忘れて済ませてしまう無知な馬や羊やめんどりらが今の日本人のように思えて仕方がない。また、ナポレオン(スターリン)の政策の失敗はことごとく、もはや死んでるか、無力化されているスノーボール(トロツキー)の陰謀のせいにされてしまうのが、安倍政権にとって何か都合が悪い状況になると持ち出される拉致被害者家族と北朝鮮の脅威論として持ち出されることと非常に戯画的に重なり合って感じられるのだ。

また、これまで『一九八四年』のような徹底的なディストピア小説をオーウェルがどうして書くことができたのかわからなかったが、今回の読書で「オーウェルには、十分なイメージがあったのだ」と納得することができた。要するに、『カタロニア讃歌』での苦い経験と、スターリン批判の<おとぎばなし>の『動物農場』を本格的に発展させた延長線上に『一九八四年』ができ上っているのだ。

【目次】本文155ページ/報道の自由『動物農場』序文案19ページ/『動物農場』ウクライナ語版への序文10ページ/訳者あとがき22ページ

【内容情報】動物たちは飲んだくれの農場主を追い出し理想的な共和国を築こうとするが……。全体主義やスターリン主義への痛烈な批判を寓話的に描いた作品 ///飲んだくれの農場主ジョーンズを追い出した動物たちは、すべての動物は平等という理想を実現した「動物農場」を設立した。守るべき戒律を定め、動物主義の実践に励んだ。農場は共和国となり、知力に優れたブタが大統領に選ばれたが、指導者であるブタは手に入れた特権を徐々に拡大していき…。権力構造に対する痛烈な批判を寓話形式で描いた風刺文学の名作。『一九八四年』と並ぶ。オーウェルもう一つの代表作、新訳版。

181008:【政治断簡】逃走中なのか、挑戦中なのか 編集委員・高橋純子 ※感想5。このコラムは良い!(もみ)

2018年10月08日 18時32分39秒 | 時代の記憶
10月8日(月):      ※よくぞ言ってくれた。まさにその通りだ!

朝日デジタル【政治断簡】逃走中なのか、挑戦中なのか 編集委員・高橋純子  2018年10月8日05時00分
 見るともなくつけていたテレビから「『逃走中』を『挑戦中』と偽り……」と聞こえてきた。はて何事かと目をやると、画面には警察署から逃走して盗んだ自転車で「日本一周」していたとされる容疑者の笑顔、別人としての人生を謳歌(おうか)していたに違いない充実の笑顔が映しだされていた。
 逃げているのか。
 挑んでいるのか。

 その境目は実はさほど明確なわけではなく、何かから逃げている人は、何かに挑んでいる人として在ることも可能だということなのだろう。逃げるには挑むしかない――。
    *
 おや。いつの間にか私は安倍政権の話をし始めてしまっていたようだ。
 ブレーキを踏まない。さすがにいったん止まるだろうというコンディションの悪い道であえてエンジンを吹かす――そんな政権の特性が、今次の内閣改造と自民党役員人事にもよく表れている。
 説明責任を果たすことから逃げ、政治的責任を取ることから逃げ、不信の目からいまだ逃れられずにいるお友達を集めてみせる。公文書の改ざんや隠蔽(いんぺい)、虚偽答弁で政治不信を招いた責任を感じたり反省したり信頼回復に努めたりする必要はない、わかってくれる「身内」さえ固めればそれでいいという、幅広い合意形成からの逃走宣言と受け取れる。「全員野球」と言えば聞こえはいいが、詰まるところは、監督に忠実な者たちが一丸となって憲法改正に挑みますよという闘争宣言でもあるだろう。しまっていこう!おう!という掛け声が、対戦相手のいない、自軍の応援団しか入れないグラウンドにこだましている。
 安倍政権がこの6年のうちにあげた「業績」のひとつは、ブレーキを踏まないことを既成事実化したことではないだろうか。課題山積、国難突破、とにかく走り続けてもらわないといけない、そのためなら多少のズルには目をつむるという世論を一定程度形成することに成功した。継続は力なり。ほめてないけど
 メディアや野党による批判、権力を持つ者自身の自省と自制、そして何より権力を縛る憲法。ブレーキとして機能してきたものへの忌避感が徐々に強まり、効きが悪くなっている。世論調査で内閣を支持する理由「安定感がある」と、しない理由「人柄が信頼できない」。ブレーキを踏まないことを「安定」と捉えるか、そんな権力者は「信頼できない」と捉えるか、この対立は案外と根が深い。

    *
 それにしてもなぜ、悪路であえてエンジンを吹かすのか? おそらくそうすれば、険しい道をあえて行く挑戦者として振る舞うことが可能になるからだろう。首相は自らを挑戦者のごとく演出するのがうまい。「危ない」「止まれ」と批判されると、いま険しい道を一生懸命進んでいるのに足を引っ張るつもりかと、勝手に走り出したことを棚に上げて被害者モードで反論する姿を何度も見てきた
 政界を引退したら映画監督かプロデューサーになるのが夢だという首相。向いてないことはないのかもしれない。なんなら応援したい。

181008 一年前:171008 【寄稿】総選挙、日本の岐路 作家・中村文則 ※感想5 よく整理されている。

2018年10月08日 18時20分56秒 | 一年前
10月8日(月):
171008 【寄稿】総選挙、日本の岐路 作家・中村文則 ※感想5 よく整理されている。
10月8日(日):    amamuの日記:以下、朝日新聞(2017年10月6日05時00分)から。【寄稿】総選挙、日本の岐路 作家・中村文則  衆議院が解散となった。解散理......

181008 一年前:171006 今朝の作家中村文則の寄稿論説が非常によくできていて腑に落ちた。残念ながら掲載できない。1年10カ月前の良質な寄稿論説を再掲載。

2018年10月08日 16時18分39秒 | 一年前
10月8日(月):
171006 今朝の作家中村文則の寄稿論説が非常によくできていて腑に落ちた。残念ながら掲載できない。1年10カ月前の良質な寄稿論説を再掲載。
10月6日(金):  (この写真は、ネットで拾ってきたものである。)今朝の朝日朝刊の作家中村文則の寄稿論説が非常によくできていて腑に落ちた。是非皆さんに読んでもらい、内容を広......


181005 一年前:171005 高野孟「民進党をブチ壊し 前原代表の政治的幼稚さは万死に値する」(永田町の裏を読む )

2018年10月06日 01時00分00秒 | 一年前
10月5日(金):
171005 高野孟「民進党をブチ壊し 前原代表の政治的幼稚さは万死に値する」(永田町の裏を読む )
10月5日(木):    日刊ゲンダイ:高野孟「 永田町の裏を読む 民進党をブチ壊し 前原代表の政治的幼稚さは万死に値する 」 2017年10月5日  私は8月10日付本欄で民......

8 010 ジョージ・オーウェル「カタロニア讃歌/スペイン戦争を振り返って(橋口 稔訳)」(筑摩叢書:1938&1942/1970訳)感想特5

2018年10月04日 01時55分24秒 | 一日一冊読書開始
10月3日(水):    

「3 095 ジョージ・オーウェル「一九八四年 (高橋和久訳2009)」(ハヤカワepi文庫;1949) 感想特5」も是非併読して下さいませm(_ _)m。

309ページ     所要時間12:45      ヤフオク505円(内、送料305円)

著者35歳&39歳(1903~1950:46歳)。下級官吏の子としてインドに生まれ、奨学金でイギリスの名門イートン校を卒業。大学に進まず、ビルマで警察官となる。5年後に辞職、パリで貧乏生活を体験したのちイギリスに帰り、ルポルタージュや小説を発表。スペイン内戦では義勇軍に参加した

翻訳者:橋口稔(ハシグチミノル)1930年生まれ。専攻は英文学。

知人の薦めで読み始めた。久しぶりにどつぼに落ち込んだ。一向にページが進まないのだ。しかし、本書の価値の大きさが十二分に伝わるだけに止めるにやめられない。深い泥田に足をとられながら、ほとんどのページに付箋をし、鉛筆で印をつけ、挙句は線までたくさん引く始末。

読書というのは、時間をかければ物語りの筋が頭に入るというものではない。時間をかけ過ぎると眠気にも襲われ何をどう読んでるのかもわからなくなる。本書の内容の素晴らしいところを書き出してまとめることはとてもできない。全部と言えばいえるし、そうでないところもたくさんあったともいえる。

途中、読むのを挫折しそうになって、併録されている5年後の「スペイン戦争を振り返って」や翻訳者による解説「スペイン戦争とオーウェル」を先に読んでみたりして、何とか読んでいる座標を確認し、迷子にならないようにしたりしながら延々といつ終わるとも知らない匍匐前進を続けていたようなものである。

「カタロニア讃歌」自体は、著者自身がファシストのフランコ軍と戦うスペイン内戦に1936年末から約半年間、外国人の義勇兵として参加し、退屈で汚物と毛虱まみれで危険で劣悪な現実の戦場を兵士として体験し、さらに休息で戻ったバルセロナの2週間で、共和国政府内のセクト間の確執による市内戦闘に巻き込まれる。復帰した戦場で首に貫通銃創を受けて、「あと1mmでダメだった」と言われ、致命的に傷つきながら九死に一生を得る。再び戻ったバルセロナでは、ソ連の支援を受けて、アナーキストや労働組合派から主導権を奪ったコミュニストの共和国政府が、著者の所属する弱小セクトのPOUM(ポウム)に「トロツキスト」一味のレッテルを貼って、反動的策動から犠牲の羊として見せしめの大量逮捕・投獄、大量処刑を展開していた。深手を負いながら、国家警察の追跡を命懸けでかいくぐる。衰弱しながら著者は、ポウムの仲間のために奔走するが、所詮は蟷螂之斧で無力を悟る。スペイン国外脱出にどうしても必要な除隊手続きを行い、パスポートを整え、辛うじて脱出を果たす。(※貫通銃創を受けた瞬間とその後の記述は一読の価値あり!

これほどの経験をしても、著者は、「ぼくはスペインに対しては、この上なく悪い印象をもっている。しかし、スペイン人に対してはほとんど悪い印象をもっていない。略。疑いもなくスペイン人には、とても二十世紀のものとは思えない、心の寛さ、一種の高貴さがある。258ページ」と述懐する。そして、報道の真実について、というか報道というものの宿命的欺瞞性について「現場にいる自分ですら、自分の見聞きできた狭くて少ない情報でしか報じられないのだ。ましてや現場からはるか数百キロも離れた安全圏のオフイスでさまざまな政治勢力の宣伝広報を鵜呑みにするばかりで、現場をまったく知らないままの連中がまことしやかに書くのがすべての報道である。真実の報道などありえない。」と確信的に指摘する。オーウェルの<報道>に対するまなざしは厳しい。

本書は、歴史の通説的”対立構造”説明をも覆す<究極のドキュメンタリー>である。また、<讃歌>という言葉は、限りなく反語に近い、究極の愛着・肯定表現と捉えるべきかもしれない。「なんのこっちゃ?」という人には、「読めばわかる。読まなければわからない。」としか言いようがない。

フランコのファシズム勢力と戦う共和国政府と言えば一枚岩の正義の組織のように見えるが実は全く一枚岩ではなく、アナーキストや労働組合派の急進勢力から権力を奪おうとするソ連の援助を受けたコミュニスト勢力は、「トロツキスト」(これが当時は絶対的<悪者>をあらわす言葉だった)のレッテルを貼って、むしろブルジョア回帰の反動的動きを強める。敵と戦っていたら、真後ろから味方に撃たれる。誰が味方かわからない<藪の中>の状況が、まさに当事者のリアルさでもって描かれている。

本書の最後をオーウェルは「すべてが深い深いイギリスの眠りを眠っている。突然爆弾の音に目を覚まされるまで、いつまでもこの眠りがつづくのではないか、時々ぼくは心配になる。268ページ」で締めくくっている。そして、翌年第二次世界大戦は始まるのである。また、オーウェルは日本による南京大虐殺についても「しかし、不幸にして、残虐行為の真相は、それについて言われる嘘や宣伝よりも、はるかに悪い。残虐行為が実際に行われているというのが真相である。略。中国における日本軍の行為については、まったく疑う余地はない。276ページ」とも述べている。

もしスペイン旅行を考えている人には、もっと踏み込んでバルセロナでサグラダファミリア教会を観るお洒落な旅行を考えているという人には、本書をお薦めする。全く違うスペイン・バルセロナを感じることができるだろう。

本編が読めない人は、当事者として傷つき、脱出してから5年がたち冷静に当時を振り返って著者が書いた「スペイン戦争を振り返って(30ページ)」と訳者解説の「スペイン戦争とオーウェル(9ページ)」だけでも、これはこれで十二分に読み応えのある内容である。俺は、「アベ政権下の今の日本について書かれているのか」と錯覚を覚えた。

オーウェルの多層的、多角的な物の見方、考え方に俺自身は非常に共感を覚える。僭越ではあるが、根っこが同じ気がする。

オーウェルは、「1984年」(1949)を亡くなる前年の45歳で書いているが、「どうしてこんな作品をかけたのか」と思っていたが、彼の思考のベースに間違いなくスペイン内戦の経験があったことを確認できた。

全268ページの本編は、約半年間の出来事をたんたんといつ果てるともなく、ある面で同じことの繰り返しのように語り続けられるので、睡魔に襲われやすい。というか、本書を読むのはまさに睡魔との闘いだった。しかし、それでは終わらない迫真の真理が示され、語られている。本書をせめて3分の1の4:00で読むことができれば、鮮やかな読書体験になったはずであるが、俺の力及ばずである。13:00近く掛かっていたのでは、やはりどうしょうもない読書ということになる・・・。

そうは言っても、本書が汲めども尽きぬ<知恵の泉>であることは間違いない。今後、折にふれて読み直していきたいと思う。また、書き継げれば書き継ぎます。

【内容情報】ファシズムの暗雲に覆われた1930年代のスペイン、これに抵抗した労働者の自発的な革命として市民戦争は始まった。その報道記事を書くためにバルセロナにやってきたオーウェルは、燃えさかる革命的状況に魅せられ、共和国政府軍兵士として銃を取り最前線へ赴く。人間の生命と理想を悲劇的に蕩尽してしまう戦争という日常ー残酷、欠乏、虚偽。しかし、それでも捨て切れぬ人間への希望を、自らの体験をとおして、作家の透徹な視線が描ききる。二十世紀という時代のなかで人間の現実を見つめた傑作ノンフィクション。共和国政府の敗北という形で戦争が終結した後に書かれた回想録「スペイン戦争を振り返って」を併録。

【ウィキペディア】「スペイン内戦に参戦」
スペインでは王政が倒れ、内戦が起きていた。彼は1936年にスペインに赴き「新聞記事を書くつもり」でいたがバルセロナでの「圧倒的な革命的な状況」に感動して、彼はフランコのファシズム軍に対抗する一兵士として、1937年1月トロツキズムの流れを汲むマルクス主義統一労働者党(POUM)アラゴン戦線分遣隊に伍長として戦線参加したオーウェルは、人民戦線の兵士たちの勇敢さに感銘を受ける。また、ソ連からの援助を受けた共産党軍のスターリニストの欺瞞に義憤を抱いた。
5月に前線で咽喉部に貫通銃創を受け、まさに紙一重で致命傷を免れる。傷が癒えてバルセロナに帰還するとスターリン主義者によるPOUMへの弾圧が始まっており、追われるようにして同年6月にフランスに帰還する。
1938年4月、スペイン内戦体験を描いた『カタロニア讃歌』を刊行する。彼の生存中、初版1500部のうち900部売れたという。   ※もみ注:要するに、当時は不評で全然売れなかったということ。
「晩年」
評論文・エッセイなどを書く生活を送り、名声を獲得する。第二次大戦が始まると、イギリス陸軍に志願するも断られ、ホーム・ガードに加わり軍曹として勤務する。1941年にBBC入社。東洋部インド課で、東南アジア向け宣伝番組の制作に従事する(『戦争とラジオ―BBC時代』を参照) 。
1945年、寓話小説の『動物農場』を発表、初めて世俗的な名声と莫大な収入を得る。
1947年に結核に罹患。療養と『1984年』の執筆をかねて父祖の地スコットランドの孤島ジュラの荒れた農場に引きこもる。同地は結核の治療に適した地ではなく、本土の病院に9ヶ月の入院生活を送ったのち、再びジュラに帰るも積極的な治療は拒否し、1949年に『1984年』を書き終える。その後は南部のグロスターシャ州のサナトリウムに移った。
1950年、ロンドンにおいて46歳で死去した。

181002 慰安婦像問題:大阪市長個人の見解でサンフランシスコ市との姉妹都市提携を解消できるのか?あり得ない!

2018年10月02日 22時34分07秒 | つぶやき
10月2日(火):

大阪市がサンフランシスコ市との姉妹都市提携を今日で断行してしまった。いかにも浅はかなことをやってしまった。

慰安婦像問題:大阪市長個人の見解でサンフランシスコ市との姉妹都市提携を解消できるのか?あり得ない!なんて愚かなことか・・・。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)