もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

8 010 ジョージ・オーウェル「カタロニア讃歌/スペイン戦争を振り返って(橋口 稔訳)」(筑摩叢書:1938&1942/1970訳)感想特5

2018年10月04日 01時55分24秒 | 一日一冊読書開始
10月3日(水):    

「3 095 ジョージ・オーウェル「一九八四年 (高橋和久訳2009)」(ハヤカワepi文庫;1949) 感想特5」も是非併読して下さいませm(_ _)m。

309ページ     所要時間12:45      ヤフオク505円(内、送料305円)

著者35歳&39歳(1903~1950:46歳)。下級官吏の子としてインドに生まれ、奨学金でイギリスの名門イートン校を卒業。大学に進まず、ビルマで警察官となる。5年後に辞職、パリで貧乏生活を体験したのちイギリスに帰り、ルポルタージュや小説を発表。スペイン内戦では義勇軍に参加した

翻訳者:橋口稔(ハシグチミノル)1930年生まれ。専攻は英文学。

知人の薦めで読み始めた。久しぶりにどつぼに落ち込んだ。一向にページが進まないのだ。しかし、本書の価値の大きさが十二分に伝わるだけに止めるにやめられない。深い泥田に足をとられながら、ほとんどのページに付箋をし、鉛筆で印をつけ、挙句は線までたくさん引く始末。

読書というのは、時間をかければ物語りの筋が頭に入るというものではない。時間をかけ過ぎると眠気にも襲われ何をどう読んでるのかもわからなくなる。本書の内容の素晴らしいところを書き出してまとめることはとてもできない。全部と言えばいえるし、そうでないところもたくさんあったともいえる。

途中、読むのを挫折しそうになって、併録されている5年後の「スペイン戦争を振り返って」や翻訳者による解説「スペイン戦争とオーウェル」を先に読んでみたりして、何とか読んでいる座標を確認し、迷子にならないようにしたりしながら延々といつ終わるとも知らない匍匐前進を続けていたようなものである。

「カタロニア讃歌」自体は、著者自身がファシストのフランコ軍と戦うスペイン内戦に1936年末から約半年間、外国人の義勇兵として参加し、退屈で汚物と毛虱まみれで危険で劣悪な現実の戦場を兵士として体験し、さらに休息で戻ったバルセロナの2週間で、共和国政府内のセクト間の確執による市内戦闘に巻き込まれる。復帰した戦場で首に貫通銃創を受けて、「あと1mmでダメだった」と言われ、致命的に傷つきながら九死に一生を得る。再び戻ったバルセロナでは、ソ連の支援を受けて、アナーキストや労働組合派から主導権を奪ったコミュニストの共和国政府が、著者の所属する弱小セクトのPOUM(ポウム)に「トロツキスト」一味のレッテルを貼って、反動的策動から犠牲の羊として見せしめの大量逮捕・投獄、大量処刑を展開していた。深手を負いながら、国家警察の追跡を命懸けでかいくぐる。衰弱しながら著者は、ポウムの仲間のために奔走するが、所詮は蟷螂之斧で無力を悟る。スペイン国外脱出にどうしても必要な除隊手続きを行い、パスポートを整え、辛うじて脱出を果たす。(※貫通銃創を受けた瞬間とその後の記述は一読の価値あり!

これほどの経験をしても、著者は、「ぼくはスペインに対しては、この上なく悪い印象をもっている。しかし、スペイン人に対してはほとんど悪い印象をもっていない。略。疑いもなくスペイン人には、とても二十世紀のものとは思えない、心の寛さ、一種の高貴さがある。258ページ」と述懐する。そして、報道の真実について、というか報道というものの宿命的欺瞞性について「現場にいる自分ですら、自分の見聞きできた狭くて少ない情報でしか報じられないのだ。ましてや現場からはるか数百キロも離れた安全圏のオフイスでさまざまな政治勢力の宣伝広報を鵜呑みにするばかりで、現場をまったく知らないままの連中がまことしやかに書くのがすべての報道である。真実の報道などありえない。」と確信的に指摘する。オーウェルの<報道>に対するまなざしは厳しい。

本書は、歴史の通説的”対立構造”説明をも覆す<究極のドキュメンタリー>である。また、<讃歌>という言葉は、限りなく反語に近い、究極の愛着・肯定表現と捉えるべきかもしれない。「なんのこっちゃ?」という人には、「読めばわかる。読まなければわからない。」としか言いようがない。

フランコのファシズム勢力と戦う共和国政府と言えば一枚岩の正義の組織のように見えるが実は全く一枚岩ではなく、アナーキストや労働組合派の急進勢力から権力を奪おうとするソ連の援助を受けたコミュニスト勢力は、「トロツキスト」(これが当時は絶対的<悪者>をあらわす言葉だった)のレッテルを貼って、むしろブルジョア回帰の反動的動きを強める。敵と戦っていたら、真後ろから味方に撃たれる。誰が味方かわからない<藪の中>の状況が、まさに当事者のリアルさでもって描かれている。

本書の最後をオーウェルは「すべてが深い深いイギリスの眠りを眠っている。突然爆弾の音に目を覚まされるまで、いつまでもこの眠りがつづくのではないか、時々ぼくは心配になる。268ページ」で締めくくっている。そして、翌年第二次世界大戦は始まるのである。また、オーウェルは日本による南京大虐殺についても「しかし、不幸にして、残虐行為の真相は、それについて言われる嘘や宣伝よりも、はるかに悪い。残虐行為が実際に行われているというのが真相である。略。中国における日本軍の行為については、まったく疑う余地はない。276ページ」とも述べている。

もしスペイン旅行を考えている人には、もっと踏み込んでバルセロナでサグラダファミリア教会を観るお洒落な旅行を考えているという人には、本書をお薦めする。全く違うスペイン・バルセロナを感じることができるだろう。

本編が読めない人は、当事者として傷つき、脱出してから5年がたち冷静に当時を振り返って著者が書いた「スペイン戦争を振り返って(30ページ)」と訳者解説の「スペイン戦争とオーウェル(9ページ)」だけでも、これはこれで十二分に読み応えのある内容である。俺は、「アベ政権下の今の日本について書かれているのか」と錯覚を覚えた。

オーウェルの多層的、多角的な物の見方、考え方に俺自身は非常に共感を覚える。僭越ではあるが、根っこが同じ気がする。

オーウェルは、「1984年」(1949)を亡くなる前年の45歳で書いているが、「どうしてこんな作品をかけたのか」と思っていたが、彼の思考のベースに間違いなくスペイン内戦の経験があったことを確認できた。

全268ページの本編は、約半年間の出来事をたんたんといつ果てるともなく、ある面で同じことの繰り返しのように語り続けられるので、睡魔に襲われやすい。というか、本書を読むのはまさに睡魔との闘いだった。しかし、それでは終わらない迫真の真理が示され、語られている。本書をせめて3分の1の4:00で読むことができれば、鮮やかな読書体験になったはずであるが、俺の力及ばずである。13:00近く掛かっていたのでは、やはりどうしょうもない読書ということになる・・・。

そうは言っても、本書が汲めども尽きぬ<知恵の泉>であることは間違いない。今後、折にふれて読み直していきたいと思う。また、書き継げれば書き継ぎます。

【内容情報】ファシズムの暗雲に覆われた1930年代のスペイン、これに抵抗した労働者の自発的な革命として市民戦争は始まった。その報道記事を書くためにバルセロナにやってきたオーウェルは、燃えさかる革命的状況に魅せられ、共和国政府軍兵士として銃を取り最前線へ赴く。人間の生命と理想を悲劇的に蕩尽してしまう戦争という日常ー残酷、欠乏、虚偽。しかし、それでも捨て切れぬ人間への希望を、自らの体験をとおして、作家の透徹な視線が描ききる。二十世紀という時代のなかで人間の現実を見つめた傑作ノンフィクション。共和国政府の敗北という形で戦争が終結した後に書かれた回想録「スペイン戦争を振り返って」を併録。

【ウィキペディア】「スペイン内戦に参戦」
スペインでは王政が倒れ、内戦が起きていた。彼は1936年にスペインに赴き「新聞記事を書くつもり」でいたがバルセロナでの「圧倒的な革命的な状況」に感動して、彼はフランコのファシズム軍に対抗する一兵士として、1937年1月トロツキズムの流れを汲むマルクス主義統一労働者党(POUM)アラゴン戦線分遣隊に伍長として戦線参加したオーウェルは、人民戦線の兵士たちの勇敢さに感銘を受ける。また、ソ連からの援助を受けた共産党軍のスターリニストの欺瞞に義憤を抱いた。
5月に前線で咽喉部に貫通銃創を受け、まさに紙一重で致命傷を免れる。傷が癒えてバルセロナに帰還するとスターリン主義者によるPOUMへの弾圧が始まっており、追われるようにして同年6月にフランスに帰還する。
1938年4月、スペイン内戦体験を描いた『カタロニア讃歌』を刊行する。彼の生存中、初版1500部のうち900部売れたという。   ※もみ注:要するに、当時は不評で全然売れなかったということ。
「晩年」
評論文・エッセイなどを書く生活を送り、名声を獲得する。第二次大戦が始まると、イギリス陸軍に志願するも断られ、ホーム・ガードに加わり軍曹として勤務する。1941年にBBC入社。東洋部インド課で、東南アジア向け宣伝番組の制作に従事する(『戦争とラジオ―BBC時代』を参照) 。
1945年、寓話小説の『動物農場』を発表、初めて世俗的な名声と莫大な収入を得る。
1947年に結核に罹患。療養と『1984年』の執筆をかねて父祖の地スコットランドの孤島ジュラの荒れた農場に引きこもる。同地は結核の治療に適した地ではなく、本土の病院に9ヶ月の入院生活を送ったのち、再びジュラに帰るも積極的な治療は拒否し、1949年に『1984年』を書き終える。その後は南部のグロスターシャ州のサナトリウムに移った。
1950年、ロンドンにおいて46歳で死去した。
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