もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

73冊目 渡部陽一「世界は危険で面白い」(産経新聞出版;2008)  評価4

2011年11月16日 04時45分45秒 | 一日一冊読書開始
11月15日(火):

224ページ  所要時間3:00

テレビ出演で見た姿を浮べて、馬鹿にした気分で読み始めた。「なんや体系的じゃないし、断片の寄せ集めみたいな書き方だし、やっぱり大したことないな」と思おうとしていた。しかし、読み進むうちに、自分の気分が変わっていくのがわかった。先ず、文章はテレビの映像のようにスローモーでは全くない。むしろ、その時々に感じたことを率直に小気味よくぽんぽんと書いていく感じだ。勿論、池上彰さんのような緻密さ・わかりやすさを期待することはできない。満州国の取材に「万人坑」の記述がない等、背景を十分に掘り下げ切れず、紛争の表層を眺め、撫でているに過ぎないような薄っぺらさへの懸念はつきまとう。しかし、著者なりの各紛争問題に対して真摯に向き合おうという姿勢は感じられる。そして、何よりも戦場や紛争地の現場に実際に足を踏み入れた人間にしか語れない必死さ、せこさ・カッコ悪さから生まれる可笑し味・笑いが、現場の臨場感とともに隠さず紹介されている。最悪の瞬間、最悪の場所でも、人間は用を足さねばならない、切ない失敗や滑稽さを演じねばならないのだ。著者は、手品師のような両替商に新聞紙の偽札を握らされ、美人を見てはでれでれする、また過剰に「ハニートラップ」を警戒したりする。辺境の恐るべき便所の実態を前にして、そもそも人間にとって「便所」に求められる機能とは何なのか、とまじめに考え込んでしまう。ここで、読み手が、笑かされてしまえば、映画「ブラックホークダウン」を思わせるイラクの戦場最前線やコソボ紛争の迫真の現実もしっかり描かれている以上、もう読者側の負けである。読み物としての価値を、十分に認めざるを得ないのだ。当初、評価3のつもりが結局、評価4になってしまった。「冒険とは生きて帰ってくること」という言葉を大事にして、二十歳の大学在学中からアフリカ・ザイール内戦取材を始めて、戦場カメラマン(症候群)としてのスタートを切り、熱帯性のマラリア原虫を今も肝臓に飼っている著者は、テレビ映像のスローモーな語り手とは全く別の、なかなかにしたたかな戦場カメラマン兼レポーターだったと認めざるを得ないのである。ただ、一番イメージ的にぴったりくるのは、<火事場の野次馬>である。

72冊目 玄侑宗久「ベラボーな生活 禅道場の「非常識」な日々」(朝日新聞社;2006)  評価3

2011年11月15日 02時45分20秒 | 一日一冊読書開始
11月14日(月):

160ページ  所要時間2:30

著者は福島県の禅寺の住職の跡取り息子。19年前の27歳~30歳まで三年間の雲水修行の体験エッセイ。舞台は京都の臨済宗天龍寺の僧堂である。正座は畳を前提にした日本独自の文化。隣の中国では半跏・結跏趺坐が普通。禅宗の坊さんは100%うどんが好き。プロとアマは語源的に反対語ではないので、プロ且つアマの僧侶は両立可能。11月30日~12月8日の過酷な臘八大摂心(ろうはつおおせっしん)を越せば新到(新入雲水)も一人前に扱ってもらえる。雲水さんの頭の中は、食べ物のこと(空腹ではない)と、睡眠不足(悪夢すら見る暇がない)でいっぱいである。ドヤシと寝忘れ。かしわ布団。知客寮(しかりょう)さんの「背中ながそか」とヤクザの跡目相続の背中流しの関係。警策は夏は檜、冬は樫。著者は、新到の時、直日(じきじつ)さんから一週間に2000発叩かれた。何よりも天龍寺という嵐山の典型的観光寺院で、今もってこれほど厳しい修行が行われていることに驚いた。さすが京都五山第一位である。著者の老師(関牧翁師か?)への敬愛心の強さ、同時に公案を拈提(ねんてい)する雲水と老師の門外不出の真剣勝負である<参禅>の張り詰めた空気感は興味深かった。禅寺の跡取り息子の雲水と、将来に何の保障も無い雲水の立場と覚悟の違いが気になった。勿論、名利を求めない行雲流水の生き方を選択したのだろうとはいえ、現実には家業として寺を継ぐ禅僧は、いわば開業医の息子と同じである。「寺を継ぐなんて嫌だ!」と思い悩むこともそれなりにあるだろうが、客観的には良いご身分で羨ましいなあと思ってしまう。禅寺の<生活>に関心のある人が読めば、それなりに面白いが、禅の<教え>に興味のある人には、初歩的過ぎて無意味。著者の本は、結構分かりやすいので、芥川賞受賞作も含めて、何冊か読んでいる。あえて、批判も推薦もしない。※老師は、ネットで調べたら平田精耕師のようである。

アーカイブ 司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫;1978)  評価5

2011年11月14日 00時37分11秒 | 一日一冊読書開始
11月13日(日):本日早朝より登山に参加。夜、疲労困憊で帰宅。
  新しい本を読むことあたわず。過去のアーカイブを載せる。

2007年10月~11月の読書

(1)1893(明治23)年まで  342ページ  所要時間2:10   評価4
眺め読み。細かな部分はわからないが、話の展開はよくわかる。『日露戦争物語』も参考になっている。

(2)1903(明治36)年まで  393ページ  所要時間3:15   評価4
眺め読み。どうしても読みそうになる。小村は嫌い。星亨は勉強家。陸は好き。俳諧は将棋、歌は碁。全体の筋はわかるものの、細かな展開や人間関係は味わえない。

(3)1904(明治37)年開戦  341ページ  所要時間2:55   評価4
  眺め読み。子規が没し、開戦するとテンポは速い。魅力的な将帥たちが次々あらわれてくる。黒木為(くろきためもと)。奥保鞏(おくやすかた)。

(4)1904(明治37)年7月‐11月  414ページ  所要時間4:00   評価5
読んでしまった。面白い。黄海海戦(下瀬火薬)。遼陽海戦。沙河会戦。旅順総攻撃(第三次)。臆病なロジェストウェんスキー(ドッガー・バンク事件)。乃木軍参謀長伊地知幸介を憎む。

(5)1904(明治37)年11月‐05(明治38)年1月  394ページ  所要時間4:30 評価5
  職場でも読んだ。面白い。児玉源太郎は最高。大山巌、良い。日英同盟はすごい威力。バルチック艦隊哀れ。クロパトキン、秀才の弱さ。

(6)1905(明治38)年1月-2月  349ページ  所要時間4:00   評価5
戦争は双方の愚劣さ競争の面がある。黒溝台。大諜報(明石元二郎大佐)。血の日曜日事件(ガポン)。ロジェストウェンスキー小皇帝。

(7)1905(明治38)年1月-5月  349ページ  所要時間3:50  評価5
結局、クロパトキンの弱気・臆病、ロジェストウェンスキー航海の無謀プラス無能で勝利したということか。少し単純か。

(8)1905(明治38)年5月  377ページ  所要時間5:30   評価5
  面白かった。






71冊目 井上ひさし「吉里吉里人(中)」(新潮文庫;1985)  評価5

2011年11月13日 02時16分28秒 | 一日一冊読書開始
11月12日(土):

502ページ  所要時間5:30

1ページ、30秒を原則として読んだ。豊かな言葉の海に漂いながら、いろんな文学的仕掛けや試み・実験に満ち満ちた楽しいミュージカルか、コメディを堪能している気分になった。変化に富む話の展開の中で、げたげたとちょっと下品に、下世話に、繰り返し何度も腹を抱えて笑わせられた。吉里吉里国では、ストリッパーが重要無形文化財となり、売春行為も女性の自立した意志を前提に合法化される。

本作品の狂言回し役であり、偶然吉里吉里国に迷い込んだ憎めない俗物三文文士の古橋健二50歳は、裁判にかけられ、有罪となる一方で、出稼ぎに出た夫に逃げられた色っぽい美人妻ケイコ木下(きおろし)27歳の婿養子として結婚することになり、完全に舞い上がてしまい、吉里吉里国への移民第一号となる。それがテレビ中継を通して日本中に知れ渡り、日本国政府に衝撃を与え、一日に5回も閣議が開かれるほどに慌てさせる。

一方、世界最高の医療体制を整えた吉里吉里国立病院の全貌が明かされ、医療立国を切り札とする吉里吉里国の戦略も明らかになる。内容豊富、アイデア・下ネタ満載、メッセージ性(やや政治的?)、人情味、言葉遊び、有り余るサービス精神。全体を通して決して重くならずに軽やかさが維持されている。

とにかく、読書を通してこんなに笑わされた経験は、久しぶりだ。<哄笑文学>とでも呼びたくなる。但し、この小説の間口の広さや奥行き・深さを、翻訳によって表現することはほとんど不可能だろう。日本の最高の作品が、その表現の多彩さと質の高さゆえに外国の人々に知ってもらえない。村上春樹は、世界に知ってもらえるが、井上ひさしのすごさは、なかなか知ってもらえない。ちょっと残念だが、仕方の無いことだろう。

ちなみに、上巻・中巻、合わせて1000ページだが、作品中では、まだ一日半しか時間は経っていないのである。

70冊目 カミュ「異邦人(窪田啓作 訳)」(新潮文庫;1940) 評価5

2011年11月12日 05時50分04秒 | 一日一冊読書開始
11月11日(金):

143ページ  所要時間3:00

「太陽が暑かったから」という不条理殺人の物語という認識だった。実際に読んでみて、第一部は、「きょう、ママンが死んだ。」で始まる。舞台はフランス植民地時代のアルジェリアのアルジェである。主人公ムルソーは、よく分からないうちに母の葬儀を済ませ、翌日海水浴に行き、マリアと出会い、コメディ映画を楽しみセックスをする。女衒?の友人とアラビア人らの揉め事に関わり、焼けつくような太陽の光に堪えかねて、一歩前に踏み出し、結局アラビア人に引き金を引いてしまい、なお四たび打ち込んだ。気だるい雰囲気と、人間関係がよく解らなくて読むのが辛かった。これだけだったら、評価は3だった。しかし、第二部になって、俄然緊張感が高まり始める。刑務所に収監され、弁護士、予審判事とのどこか他人事のやり取りが続く。ムルソーは、空しい長い時間をさして気に留めない「独特な時間観念」を身に付ける。10ヶ月に及ぶ収監を経て、再びの夏が巡り来る。犯罪当事者ムルソーの声を全く置き去りにして行われる弁護士と検察官の延々と展開する本質からずれた応酬。特に、病的攻撃性を発揮する検事の弁論は過剰な悪意に満ちて展開する。本人も殺人の理由を「それは太陽のせいだ」などと言って、訳のわからない印象を与える。そして、予想だにしなかった<死刑判決>が下る。理不尽で不条理なのはムルソ-ではなく、裁判そのものだった。上告の権利はあるが、ムルソーは、ギロチンについての考察、御用司祭を拒否し、神による救済を拒否したままで、自らの意思として死刑を受け容れる。結末に近づくほど一気に高まりを見せていく展開が何か圧倒的な風圧とともに、読者に迫る。死刑決定後のムルソーの心理の展開と「神の否定」の最後のシーンが凄過ぎるのだ。最後の論の展開のものすごさによって、総合評価を5にせざるを得なかった。カミュは、当時としては最年少の44歳でノーベル文学賞をとっている。サルトルの『嘔吐』と並ぶ、すごい作品だったのだ。もう一度、じっくりと神無き、実存主義的自己責任の思考を読み直してみたい。但し、カミュ自身は、自分は実存主義作家ではないと言っている。

69冊目 竹内海南江「おしりのしっぽ 旅する私のふしぎな生活」(集英社;2004) 評価3

2011年11月11日 02時33分58秒 | 一日一冊読書開始
11月10日(木):

205ページ  所要時間1:10

随分お世話になった長寿番組「世界不思議発見」のミステリーハンター海南江ちゃん(40歳、失礼!)の本。のんびり気ままに自分のことやお仕事のことを語ってくれている。最後まで読んで、「おしりのしっぽ」に込められた意味もわかった。感想は、17年間の90カ国を超える世界旅行の繰り返しのせいなのか、逆にそんな海南江ちゃんだから、この仕事を17年間続けられたのか、どちらが先かはわからないが、海南江ちゃんの感性は健全且つ優しい。他者の存在を柔軟に捉えることができる、個が確立した自然体の国際人なのだと思った。読む前よりも、海南江ちゃんを好きになれたのはラッキーである。世界中を旅する番組だからこそ、人間の本源的な問題は、重要みたいで、「うんピ」と「コミュニケーション(なんとカラスとまで!)」の話がよく出てくる。腹ペコに弱い、お酒好きの喫煙者。仕事以外で外国旅行することはほとんど無い。休みの日は早寝・おそ起き、漫画にテレビに自分のための食事作りで終わり、それで十分満足!、<なんにもしない贅沢>。日本のコンビニに、まだ馴染めないし、一人でレストランや喫茶店に入るのも苦手。ハンバーグ定食を<大人になったお子様ランチ>と呼ぶ。パソコンには長谷川君と名前をつけてるが、まだ仲良くなり切れない。テレビの中では、颯爽としているけれども、実像は意外としっかりしたボケキャラで、それを素直に受け入れてるところがすごく良い。1000時間を越える飛行機搭乗・滞在で腰痛に苦しみながら、一番の娯楽は読書。ロケ中もたくさんの本を読む。長くて、面倒くさい作品が特に好き。『戦争と平和』、『カラマーゾフの兄弟』、『百年の孤独』、『チボー家の人々』、極め付けが超難解の『失われた時を求めて』などがお気に入りとか。脱帽!。「チップ」をメイドさんとのコミュニケーションと捉える部分は、納得。マラリアの薬は、帰国後も2週間続く。肝臓に負担を掛けてつらい。子供のときに、お母さんから料理をたたき込まれたのが、今の仕事と自炊生活にすごく役立っている。避けてる訳ではないが、他の人のために料理をする日々は少し先のことになりそうだとのこと。がんばれ!。

68冊目 カフカ「変身(高橋義孝 訳)」(新潮文庫;1916作;1952訳) 評価4

2011年11月10日 03時36分29秒 | 一日一冊読書開始
11月9日(水):

92ページ  所要時間2:40

朝目を覚ましたら大きな芋虫になってる話と昔から思っていたが、睡魔と闘いながら初めて実際に読んだ。短編だが、意外と時間が掛かった。1952年(59年前)の翻訳で、ちょっと言葉のつながりが気になるところもあったが、有名なドイツ文学者の訳である。主人公グレゴール・ザムザは、しがない外交販売員で、頑なな父、気弱な母、兄思いの妹グレーテの4人でアパートに住んでいる。ある朝目覚めたら自分が大きな褐色の虫(但し、芋虫ではなく<甲虫>!;のち手伝い女に<馬糞虫>と呼ばれる)になっている。家族は各様に驚き慌てふためくが、何故か本人はこの事態に対して体の不自由さは感じながらも、異様に冷静な観察者であり続ける。彼の声は人間の声と聞かれることは無いが、彼自身は周りの人間の言葉をはっきりと認識できる。主に妹から食事(餌)や掃除の世話を受けながら、家族3人と1匹の奇妙な共同生活が続けられる。何ヶ月もの間、気持ちの悪い虫でしかないグレゴールに部屋を与えて、忍耐強く飼育?を続ける家族は、違和感をどんどん深めながら、消耗・憔悴していく。グレゴールの方は、動作・感覚は虫になっているが、一方通行だが家族の言葉をしっかりと認識し、冷静な目で観て、時には家族と意思を通じさせようと試みるが、薄気味悪がられるばかりである。やがて、グレゴールは父親から致命的虐待を受ける。彼の部屋は、物置部屋化し、不潔な埃にまみれながら、餌も食べなくなった彼は急速に弱っていく。そして、新たに引っ越してきた3人の下宿人の紳士たちの前に大きな虫の彼が姿を見せる。大混乱の中、取り乱す妹の口から吐かれた「もしこのけだものが兄ならば、自分から出て行くはずだ!」の言葉を耳にしつつ、グレゴールはのろのろと自分の部屋まで這い戻る。翌朝、死んでいる大きな虫を見つけた家族3人は、少しだけ涙した後、電車で郊外に出かけて、暖かい日差しのもと、再出発の時の到来を思う。カフカは詩人なのだそうだ。第一次世界大戦中に書かれたこの物語全体が、大きな隠喩のようにも思うが、何が表現されているのかは皆目分からない。

67冊目 姜尚中「愛国の作法」(朝日選書;2006) 評価4

2011年11月09日 01時31分25秒 | 一日一冊読書開始
11月8日(火):

205ページ  所要時間2:00

眺め読みでは難しいが、著者の考え方には基本的に同意である。『国家の品格』や『美しい国へ』など幼稚な情緒的愛国心の押し付け本がベストセラーになって、「もののあはれ」とか「郷土愛が国を愛する心につながる云々」が論じられる風潮に対する気持ち悪さが、少しは晴れた。愛国心がブームであるなら、せめて南原繁や司馬遼太郎、丸山真男のレベルをベースにして欲しい。言論の自由があるとはいへ、幼稚で無責任な愛国心談義は、ちょっと勘弁して欲しい。「愛郷」と「愛国」の間の断層を踏まえた上で、自民族中心主義の狭隘さで無く、アジアに開かれたものとして「愛国心」とは何かを論じて欲しい。勿論、私は『日本』を愛している。しかし、それが何に基づくのかは漠然としている。考えてみたいと思った。本書は全体的に、引用文が多すぎる感があるが、これは「在日コリアン」である著者が、客観性を担保するための方法だったのだろうか。石原都知事の「怪しげな外国人」という差別的誹謗中傷は許し難い。著者は、論うつもりは無いと言っているが、日本の社会で「パーリア」的存在は、決して「在日コリアン」だけではないですよと言っておきたい。被差別、アイヌ、沖縄、在日外国人(中国、南米、フィリピンなどコリアン系以外)、『障害』者(知的・身体、性同一)、ハンセン病患者、C型肝炎患者ほか難病患者、女性(!)他たくさん存在するし、近年の貧困や無縁社会の問題を考えれば、派遣や契約社員、アルバイトの労働者、ホームレス、独居老人など無数に存在するだろう。そういった社会的少数者・弱者への配慮が無いどころか、逆にそういった人々を差別し物笑いにしようとする自らも不安の中で生きている世間の人々の残酷な視線に迎合することで支持につなげようという都知事の言動は、絶対に容認すべきではない。石橋湛山の靖国廃止論については、正直びっくりした。戦前・戦後を通じて発言の独創性と勇気、戦後の出処進退の見事さを思い出した。もし、石橋内閣が長期政権となっていたら、中国(毛沢東の時代だが…)も含めた多面的外交・安全保障の枠組みができていただろうと夢想してしまう。それにしても、今の民主党は、どうしてリベラル保守になり切れなかったのだろう…。この本は、もう一度読もうと思う。

66冊目 永井路子「乱紋(下)」(文春文庫;1973)  評価2

2011年11月08日 02時51分59秒 | 一日一冊読書開始
11月7日(月):

382ページ  所要時間2:05

よく知っている史実の部分なので、流し読みの速読で十分意味はわかった。というか、この本に時間を掛けなくて良かった。秀勝に死に別れた23歳のおごうが、茶々の嫉妬のために、家康三男で17歳の秀忠に嫁ぐところから始まり、子供をポコポコとたくさん産み始め、大坂夏の陣が終わったところで突然物語りは終わった。おごう(崇源院)の物語は、東福門院和子の入内、家光と忠長兄弟の確執など、ある意味これからが山場だろう。著者は浅井三姉妹に恨みでもあるのか?、と思えるほど三人の女性を仲悪く、内容の乏しい、薄っぺらな人格として各々描き分けている。著者は女性なのに、女性の政治関与や、子供を産むことによる優越感や嫉み・僻みをせっせと描いて女性を否定しようとしている。おごうのことも「ありのままを受け入れながら、そのことに全く無関心であるような ― 生きるあかしをできるだけ消したがっているような。略。それだけに、あのお方の胸は底なしともいえるのさ。自分の命を人に預けているというのかな。おもしろいじゃないか」とまとめられているが、これって思わせぶりだが完全に後付けの理屈だろう。よく知られている史実も、体温の低いおごうという女性を通して、裏から見れば、こんなにつまらないんですよ、とわざわざ伝えようとしているようだ。最後まで、熱の感じられない小説だった。でも、この文庫本は1997年時点で26刷版である。なんでこんなに売れるのかなあ…?よく分からない。

65冊目 永井路子「乱紋(上)」(文春文庫;1973)  評価2

2011年11月07日 04時13分18秒 | 一日一冊読書開始
11月6日(日):

398ページ  所要時間4:30

今日、ブックオフで偶然見つけて買った本。主人公は浅井三姉妹の三女おごう。今年のNHK大河があまりにひどいので3月頃から見るのをやめていたので、腹いせもあって買って読んだ。永井路子ならきっとしっかりした作品になってるだろうと信じていた。裏切られた。おごうとは本当にこんなに運命に身を任せ切りで、何を考えてるのかわからない、目立たない、晦渋な女性だったのか。当時の武家の姫の存在がそうだったということなのか。おごうを主人公だと言う割りには登場シーンも少なく、存在感が希薄で、ただ単に周りの目や変化に動じない少し鈍い?人柄としてしか描かれていない。浅井三姉妹も冷たい関係に描かれている。男性作家ならかえってこんな描き方はしなかっただろう。主人公が話さない、動かない分、侍女おちかや島井宗室に仕える?謎の男ちくぜんらが、どたばたと狂言回しをして物語りは展開していくが、結局小谷城落城時、6歳、4歳、2歳だった浅井三姉妹の中で、おごうが14歳で、伊勢の大野水軍を率いる従兄の佐治与九郎18歳(5万石)に嫁ぐところから始まる。5年後織田信雄没落に殉じた夫の与九郎とあっさり別れたおごうが、今度は秀吉の甥の秀勝(秀次の弟)に嫁いで名城の岐阜城に入る。文禄の役で秀勝はあっけなく戦病死するが、おごうは秀勝の子を身ごもっていた、で上巻は終わり。正直言って、永井路子の作品としては、はずれと言わざるを得ない。ちなみに、秀吉の子で秀勝は3人いた。実子1、養子2である。

64冊目 井上ひさし著「吉里吉里人(上)」(新潮文庫;1985)  評価5

2011年11月06日 02時33分27秒 | 一日一冊読書開始
11月5日(土):

501ページ  所要時間4:30

かつて『4千万歩の男』を読んで博覧強記さに驚かされた時から、井上ひさしを<文豪>だと思ってきたが、今回もその思いを強くした。死蔵していた『吉里吉里人(全3巻)』をこの機会に少しでも攻略できれば、と思って挑んでみた。ただ正攻法で言葉の洪水の中を掻い潜るのは、はじめから諦めて、1ページに30秒という戒を決めて何とか眺め読みで、上巻の終わりまでたどり着いた。

突如として現れた東北の独立国『吉里吉里国」、どうしてこんなにと思うほど言葉が溢れかえっている。ことに、全巻にわたって施された吉里吉里語のルビは、いつでも気が向いたときに東北弁を味わえる楽しみと奥行きを作品に与えている。

著者には、戯作者としてのプライドを強く感じる。言葉遊び・駄洒落・エロ・下ネタに乗せられ、げたげた笑いを止められないでいるうちに、いつの間にか傾聴すべき世界観(東北愛・憲法・平和・天皇制・農業)へと引き上げられている。そしてまた、腹を抱えて笑ってるうちに…、繰り返される上下の振幅・落差が大きくて目をくるくるさせている気分になった。そのうちに「吉里吉里国は、泣くのは嫌だ、笑っちゃお!の“ひょっこりひょうたん島(の発展型)”なんだな」とふと思えた。

吉里吉里(村)はアイヌ語の『砂浜』の意味の実在の地名で、現在は合併により岩手県大槌町の中に位置する。吉里吉里国立中学校付属大学による吉里吉里語の国語・文法・翻訳事業には面白さと興味深さに圧倒され、立ち止まって熟読玩味したい誘惑に何度も襲われた。

後半途中、話が横道にそれ過ぎて、よく分からなくなりかけたが、それも作品のスケールの大きさを表しているのだろう。さて、中巻・下巻は読めるかな…。自信はない。


アーカイブ 福沢諭吉著「福翁自伝」(旺文社文庫;1899)  評価5

2011年11月05日 17時28分24秒 | 一日一冊読書開始
8月17日(水)の分:

420ページ  所要時間2:10

テキスト。2度目。福沢64歳(1901年、66歳死去)に刊行。眺め読み。細かい事柄を確認はできないが、大きな展開は分かるし、面白い。井伊直弼の保守性をしっかり語っていた。授業料制度の発明。福沢は朝昼晩の大酒飲み。2男3女の末っ子。子供は4男5女。

アーカイブ 阿川弘之著「井上成美」(新潮文庫;1986) 評価3

2011年11月05日 17時25分01秒 | 一日一冊読書開始
8月18日(木)の分:

602ページ  所要時間3:00

眺め読み。戦前・戦中と戦後の時間軸がころころ変わるのと、行為の主語がはっきりしなくて読みづらかった。断片的にしか理解できなかった。もっと魅力的な人物という印象を持っていたが、読後感はそうでもなかった。首尾一貫した対米英戦反対派。戦後「共産党の存在を(少数でも)残しておくべきだった(その程度の自由を保障できる社会は維持しておくべきだった)」(?)発言をしたと、どこかで読んで期待していたが、そういうシーンは出てこなかった。

アーカイブ 梁石日著「夜を賭けて」(幻冬舎文庫;1994) 評価5

2011年11月05日 17時12分07秒 | 一日一冊読書開始
8月25日(木)の分:

542ページ  所要時間4:10

2度目一気読了。在日朝鮮人たちの戦後。猥雑で剥き出しの人間の原像描く。大阪造兵廠跡で屑鉄を盗むアパッチの話。日本のアウシュヴィッツ=長崎大村収容所の話。詩人の金時金(キムシジョン)さんらしき人が出ていた。

63冊目 下川祐治著「日本を降りる若者たち」(講談社現代新書;2007) 評価4

2011年11月05日 05時01分52秒 | 一日一冊読書開始
11月4日(金):

221ページ  所要時間3:30

タイのバンコク、特にカオサン通りに集まる大勢の日本人の「外こもり」の生態を中心に描かれる。タイに引き寄せられるパターンを分類し、個別事例を紹介する形で報告がなされる。日本社会に生きて、傷つき、追い詰められ、生きづらさや恐怖を感じる大勢の日本人がいる事は、よく理解できる。俺もその一人だ。ただ、光と影の形で、日本社会の作り出す影として、これほど多くの日本人が、タイに癒され、魅かれ、引き寄せられている。タイで、何もしないまま長期滞在するために、日本で数ヶ月間懸命にバイトをして貯金をする。まるでタイで「外こもり」をするために、日本に出稼ぎに来る形の日本人が大勢いる。きっかけは、タイ旅行→タイが好きになる→とりあえず「タイで暮らす」ということ。また、語学を志し、中途半端な英語力しか身に付けられなかった若者の目にもタイは優しい国に映ってしまう。特にワーキングホリデーを著者は悪習として批判的に見ている。南国の「ゆるさ」「マイペンライ(何とかなるさ)」で、実際に何とかなってしまうところが日本との違いらしい。「日本で行き詰まった若者は、カオサンに流れる空気に一気に染まっていってしまう」。自殺するつもりで、バンコクに来て、「ゆるさ」の中で死ねなくなった女性。20歳代から40・50歳代まで。それとは別に、豊かな生活をめざす老人たちの年金を取り込もうと国家レベルのロングステイ誘致に積極的なタイ政府。一方で、同じバンコクでも、ラングナム通りに集まる前向きに「働くこと」をめざす若者たちの存在。でも、カオサンもラングナムも共通するのは、彼らが「タイが好きだから」は全く同じ。それほどに、タイは日本人を引き付けてやまないのだ。タイの洪水の報道を見て、タイにあれほどたくさんの日系企業が犇めいていることを、単に円高による海外工場移転としか捉えられなかったが、本当はもっと別に日本人を安心させ引付ける魅力が潜んでいたのだと思うことができるようになった。俺も、一度だけ、バンコクのカオサンから、チェンマイ、アユタヤ、Samet島と旅したことがあるが、その時には必死で、タイの「ゆるさ」「優しさ」までは理解できなかった。アジアはやはり好きだ。  ※ただ、以前『闇の子供たち(梁石日)』DVDで観た児童買春、児童臓器売買の舞台がタイであるのを、思い出せば、この本の中に出てくる「外こもり」連中のノー天気さは、許しがたいようにも思える。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)