昨夜のブログの余韻として、俺は文化人と称される人々に対してどのように捉える傾向があるのか、とふと考えた。
先ず、斎藤貴男、姜尚中、筑紫哲也、湯浅誠、佐高信など権力と対峙、または切り結び、社会的弱者の側に立ち、かつ視野の広い合理的な太い根っこを持つ人々に共感・憧れを持つ傾向にあるようだ。森達也氏は、少し弱いがこの範疇の人だ。
逆に、TVの雛壇芸人のような有象無象の幇間学者・文化人(例えば、辛坊治郎などは確信犯だ)は論外として、最も唾棄すべき存在は、自分を高みに置いて読者を見下し、アカデミックな素振りで、いっぱしの論陣を張るが、その実、常に権力の側に立っているような奴だ。最も典型的な唾棄すべき奴は、<宮台真司>である。こいつには、昔、「この人は何かを持っている」と騙されたので軽蔑心はより強烈だ。最近『14歳からの社会学――これからの社会を生きる君に』(2008)を読んだ時には、むき出しのエリート意識に「ここまで堕ちたか…」と気分が悪くなった。宮台のように、現実の社会の矛盾や問題と何ら切り結びもしないくせに、自分が偉い何者かであるように見せかけようとする存在が一番たちが悪い。こいつの影響で若者たちが、大切な時間を無駄に混乱させられることは忍び難い気がする。
蛇足だが、<竹田恒泰>だけは何とかならないものか。俺は天皇制に対して批判的な立場だが、今の天皇・皇后に対して強い尊敬心を持っている。親愛感といってもよい。これはお二人の象徴天皇としての存在に対する日々の並々ならぬ努力とバランス感覚に対して敬意を払わずにはいられないということだ。即位後、沖縄へ行き、韓国には桓武天皇以来の<縁(ゆかり)>発言、サイパン島慰霊の旅では韓国人戦没者墓地への慰霊、東日本大震災では異例の早さで国民への励ましのお言葉声明、その後の病身に鞭打ちながらの東北への慰問行脚の繰り返し…、一方で寄生地主出身の将棋連盟会長米長邦雄の園遊会での行き過ぎた天皇への忠誠心発言を「そのようなことは(強制ではなく)自然な感じでよいと思います」とやんわりと諌めた姿など、枚挙にいとまない。これらは、現天皇の行なってきたご努力のごくごく一部に過ぎない。それを思うと、天皇制に対して批判的な立場の俺から見ても「この方たちの努力は、尊敬に値するし、これが象徴天皇制というものであれば、憲法規定に従って大切にできる」、「立憲君主制というものが、このようにリベラルで立派な天皇を頂くのであれば、あえて共和制を求める必要はない」と今の俺は、考えるようになってきているのだ。この思いは、俺の中では、現皇太子夫妻と愛子ちゃんまでは、つながっている。しかし、秋篠宮夫妻と悠仁くんまでは、どうしてもつながらない。微妙なのだ。しかし、この感情的な微妙さこそ、俺は現行の象徴天皇制論議の核心だと思っている。
まさにその微妙さの中に、突然土足で踏み込んできて、明治天皇のヤシャゴか何か知らないが、竹田恒泰というガラの悪いチンピラがテレビに出てきて、「おまえら何もわかってないかもしれないが、日本には昔から偉い天皇陛下様がいて、それだけでよその国とは違う、すごい国に住めてるんだぞ。日本は天皇陛下様がいるから、世界中から尊敬され、愛されてるんだぞ」とわめき散らしているのだ。俺の周りの人間は、こいつがテレビに出てくる瞬間にチャンネルを変えると言っている。この竹田恒泰は、実は皇族ですらない。そのチンピラが、天皇家との血縁を盾にしてテレビで「俺たちは、おまえらとは違うんだぞ」とわめき散らしている姿を見ると、正直目の穢れなのだ。昭和が終り、平成という新元号ができたとき、元号法制化をめぐって大きな議論があり、俺たちは平成という元号に対して強い違和感を覚えていた。それをこの25年間の現天皇夫妻の言行を見続ける中で、自分でも「こんなはずではなかった…」と戸惑いながら、天皇に対して尊敬心、親愛感、敬愛の情を持つようになってきたのだ。
そこにガラの悪いチンピラが、視聴率1%で100万人の人々が見るテレビに出てきて、わめき散らして、国民の反感を買い、天皇ご夫妻が、まさに身を削って築き上げて来られた象徴天皇制の姿を土足で踏みにじっている姿は見るに堪えないのだ。このチンピラだけは、公共電波から摘まみ出して欲しい。こんな下品な輩の存在が場を濁した状態で、天皇制のあり方が論じられることには正直堪え難いのだ。これは切望と言っていい。
ついでに、最近話題の山折哲雄さんの「皇太子退位論」には正直、耳を疑ってしまった。皇太子妃の雅子さんの具合が悪く、皇太子が公務よりも家庭を大切にしているのは、象徴天皇制にそぐわないから、弟の秋篠宮に皇太子位を譲って、京都で気楽に暮らせばよい。とは、まあ、開いた口がふさがらない。山折哲雄氏は、宗教学者として敬愛していただけに、「殿御乱心」としか言えない。個人の都合で、皇太子位(天皇位に等しい)が変更できるのであれば、それは既に公(おおやけ)ではない。憲法、皇室典範が、それほど軽く扱えるなら誰も苦労はしないし、これほど危険なことはない。奥さんの具合が悪くて、公務がおろそかになるから「日本の象徴天皇制」にふさわしくない、というのであれば、天皇家は家庭円満を演じることを強制され、人権を侵された存在になってしまう。夫婦仲良く、男の子に恵まれ、家族全員心身ともに健康で人付き合いが好きで外交的・社交的な性格でなければならない。それが象徴天皇制のあるべき姿だ、と本当にこの山折のじじい(ちょっと腹立ってきた!)は考えてるのだろうか。山折のじじいが言うような天皇家の姿を基本にすれば、それは既に生身の人間ではない。人形かロボットだ。じじいが譲位先に勧める秋篠宮家だって、悠仁くんだって生身の人間である。じじいの言うように、象徴天皇制の条件として家庭円満・心身健康・社交的・家庭より公務優先が主張されるのであれば、俺は断じて天皇制に反対する。現代日本の市民生活の多様性から見ても、さまざまな事情により心を病む人々が大勢いる。さまざまな苦しい事情を抱えながら家庭を維持しようと頑張っている人々がいる。そして、やむを得ず離婚という選択肢を選び、多くの場合子供の親権は母親が持ち、母子家庭がたくさん生まれている。その母子家庭の貧困は大変深刻な状態になっており、母子家庭の母親は疲弊しきっている(阿部彩「子どもの貧困」2008)。発達障害ほか、さまざまな障害・事情を抱えた人々を含めたすべての国民(市民)の「象徴天皇制」なのだ。俺は、雅子妃の病に精一杯に向き合っている皇太子を素晴らしいと思う。また、私見だが、女系天皇・女性天皇論議はともかく、歴史的に見て女性天皇は珍しくない(特に飛鳥~奈良時代)し、男女平等の憲法の精神から見ても、またイギリス王室をはじめ、世界の王室のあり方から見て女性天皇の存在に違和感はない。勿論、第一に考えるべきは、愛子ちゃんの幸せだが、男女平等の精神を生かす意味でも、愛子ちゃんが、天皇になる方が良いと思う。
今回の山折じじいの論は、昭和天皇の結婚問題で、血統的に色覚異常の恐れありとして、結婚に反対した山県有朋のしでかした宮中某重大事件以上に悪質な論説だと断ぜざるを得ない。
先ず、斎藤貴男、姜尚中、筑紫哲也、湯浅誠、佐高信など権力と対峙、または切り結び、社会的弱者の側に立ち、かつ視野の広い合理的な太い根っこを持つ人々に共感・憧れを持つ傾向にあるようだ。森達也氏は、少し弱いがこの範疇の人だ。
逆に、TVの雛壇芸人のような有象無象の幇間学者・文化人(例えば、辛坊治郎などは確信犯だ)は論外として、最も唾棄すべき存在は、自分を高みに置いて読者を見下し、アカデミックな素振りで、いっぱしの論陣を張るが、その実、常に権力の側に立っているような奴だ。最も典型的な唾棄すべき奴は、<宮台真司>である。こいつには、昔、「この人は何かを持っている」と騙されたので軽蔑心はより強烈だ。最近『14歳からの社会学――これからの社会を生きる君に』(2008)を読んだ時には、むき出しのエリート意識に「ここまで堕ちたか…」と気分が悪くなった。宮台のように、現実の社会の矛盾や問題と何ら切り結びもしないくせに、自分が偉い何者かであるように見せかけようとする存在が一番たちが悪い。こいつの影響で若者たちが、大切な時間を無駄に混乱させられることは忍び難い気がする。
蛇足だが、<竹田恒泰>だけは何とかならないものか。俺は天皇制に対して批判的な立場だが、今の天皇・皇后に対して強い尊敬心を持っている。親愛感といってもよい。これはお二人の象徴天皇としての存在に対する日々の並々ならぬ努力とバランス感覚に対して敬意を払わずにはいられないということだ。即位後、沖縄へ行き、韓国には桓武天皇以来の<縁(ゆかり)>発言、サイパン島慰霊の旅では韓国人戦没者墓地への慰霊、東日本大震災では異例の早さで国民への励ましのお言葉声明、その後の病身に鞭打ちながらの東北への慰問行脚の繰り返し…、一方で寄生地主出身の将棋連盟会長米長邦雄の園遊会での行き過ぎた天皇への忠誠心発言を「そのようなことは(強制ではなく)自然な感じでよいと思います」とやんわりと諌めた姿など、枚挙にいとまない。これらは、現天皇の行なってきたご努力のごくごく一部に過ぎない。それを思うと、天皇制に対して批判的な立場の俺から見ても「この方たちの努力は、尊敬に値するし、これが象徴天皇制というものであれば、憲法規定に従って大切にできる」、「立憲君主制というものが、このようにリベラルで立派な天皇を頂くのであれば、あえて共和制を求める必要はない」と今の俺は、考えるようになってきているのだ。この思いは、俺の中では、現皇太子夫妻と愛子ちゃんまでは、つながっている。しかし、秋篠宮夫妻と悠仁くんまでは、どうしてもつながらない。微妙なのだ。しかし、この感情的な微妙さこそ、俺は現行の象徴天皇制論議の核心だと思っている。
まさにその微妙さの中に、突然土足で踏み込んできて、明治天皇のヤシャゴか何か知らないが、竹田恒泰というガラの悪いチンピラがテレビに出てきて、「おまえら何もわかってないかもしれないが、日本には昔から偉い天皇陛下様がいて、それだけでよその国とは違う、すごい国に住めてるんだぞ。日本は天皇陛下様がいるから、世界中から尊敬され、愛されてるんだぞ」とわめき散らしているのだ。俺の周りの人間は、こいつがテレビに出てくる瞬間にチャンネルを変えると言っている。この竹田恒泰は、実は皇族ですらない。そのチンピラが、天皇家との血縁を盾にしてテレビで「俺たちは、おまえらとは違うんだぞ」とわめき散らしている姿を見ると、正直目の穢れなのだ。昭和が終り、平成という新元号ができたとき、元号法制化をめぐって大きな議論があり、俺たちは平成という元号に対して強い違和感を覚えていた。それをこの25年間の現天皇夫妻の言行を見続ける中で、自分でも「こんなはずではなかった…」と戸惑いながら、天皇に対して尊敬心、親愛感、敬愛の情を持つようになってきたのだ。
そこにガラの悪いチンピラが、視聴率1%で100万人の人々が見るテレビに出てきて、わめき散らして、国民の反感を買い、天皇ご夫妻が、まさに身を削って築き上げて来られた象徴天皇制の姿を土足で踏みにじっている姿は見るに堪えないのだ。このチンピラだけは、公共電波から摘まみ出して欲しい。こんな下品な輩の存在が場を濁した状態で、天皇制のあり方が論じられることには正直堪え難いのだ。これは切望と言っていい。
ついでに、最近話題の山折哲雄さんの「皇太子退位論」には正直、耳を疑ってしまった。皇太子妃の雅子さんの具合が悪く、皇太子が公務よりも家庭を大切にしているのは、象徴天皇制にそぐわないから、弟の秋篠宮に皇太子位を譲って、京都で気楽に暮らせばよい。とは、まあ、開いた口がふさがらない。山折哲雄氏は、宗教学者として敬愛していただけに、「殿御乱心」としか言えない。個人の都合で、皇太子位(天皇位に等しい)が変更できるのであれば、それは既に公(おおやけ)ではない。憲法、皇室典範が、それほど軽く扱えるなら誰も苦労はしないし、これほど危険なことはない。奥さんの具合が悪くて、公務がおろそかになるから「日本の象徴天皇制」にふさわしくない、というのであれば、天皇家は家庭円満を演じることを強制され、人権を侵された存在になってしまう。夫婦仲良く、男の子に恵まれ、家族全員心身ともに健康で人付き合いが好きで外交的・社交的な性格でなければならない。それが象徴天皇制のあるべき姿だ、と本当にこの山折のじじい(ちょっと腹立ってきた!)は考えてるのだろうか。山折のじじいが言うような天皇家の姿を基本にすれば、それは既に生身の人間ではない。人形かロボットだ。じじいが譲位先に勧める秋篠宮家だって、悠仁くんだって生身の人間である。じじいの言うように、象徴天皇制の条件として家庭円満・心身健康・社交的・家庭より公務優先が主張されるのであれば、俺は断じて天皇制に反対する。現代日本の市民生活の多様性から見ても、さまざまな事情により心を病む人々が大勢いる。さまざまな苦しい事情を抱えながら家庭を維持しようと頑張っている人々がいる。そして、やむを得ず離婚という選択肢を選び、多くの場合子供の親権は母親が持ち、母子家庭がたくさん生まれている。その母子家庭の貧困は大変深刻な状態になっており、母子家庭の母親は疲弊しきっている(阿部彩「子どもの貧困」2008)。発達障害ほか、さまざまな障害・事情を抱えた人々を含めたすべての国民(市民)の「象徴天皇制」なのだ。俺は、雅子妃の病に精一杯に向き合っている皇太子を素晴らしいと思う。また、私見だが、女系天皇・女性天皇論議はともかく、歴史的に見て女性天皇は珍しくない(特に飛鳥~奈良時代)し、男女平等の憲法の精神から見ても、またイギリス王室をはじめ、世界の王室のあり方から見て女性天皇の存在に違和感はない。勿論、第一に考えるべきは、愛子ちゃんの幸せだが、男女平等の精神を生かす意味でも、愛子ちゃんが、天皇になる方が良いと思う。
今回の山折じじいの論は、昭和天皇の結婚問題で、血統的に色覚異常の恐れありとして、結婚に反対した山県有朋のしでかした宮中某重大事件以上に悪質な論説だと断ぜざるを得ない。