2月4日(金):
※文字起こし
作家で元衆院議員、元東京都知事の石原慎太郎氏が1日に89歳で死去し、追悼報道が続いている。自民党の安倍元首相は「戦後、形作られた既成概念に挑戦した政治家だった」と故人を称え、茂木幹事長も「威風堂々、歯に衣着せぬ、そして国家観を語る素晴らしい政治家だった」と偲んだ。石原氏と親交のあった台湾の陳水扁元総統は「大きな損失」と産経新聞にメッセージを寄せていた。
大新聞テレビも惜しみなく賛辞を送る。国民的スターだった石原裕次郎の兄であり、数々のベストセラーを世に送り出した作家でもある。華やかな経歴に彩られた石原氏を「偉大な存在」「カリスマだった」と情緒的に持ち上げることは、ある種のカタルシスを喚起するのだろう。
一作家の人生を回顧するならそれでもいいが、石原氏は長きにわたって政治家でもあった。暴君のごとく振る舞った石原氏の露悪的な言動に傷つけられた人は少なくない。彼の生前の功罪を冷静に分析、紹介するならいざ知らず、一方的な礼賛報道はむしろ、毀誉褒貶に満ちた石原氏の人生を無にすることに等しいのではないか。
著書に「東京を弄んだ男『空疎な小皇帝』石原慎太郎」などがあるジャーナリストの斎藤貴男氏が言う。
「まずは謹んでご冥福をお祈りします。ただ、亡くなったからといって、すべてが免責されるわけではない。死者を悪く言わないのは日本人の美徳でしょうが、そういう道徳を破ったのもまた石原氏でした。公権力者が、女性や障害者、LGBT、在日、被差別部落出身者など社会的弱者に対する差別を公の場で剥き出しにしたのは彼が初めてです。差別は正義だという思想を振りまき、日本に植え付けたのが石原氏だった。“東京から日本を変える”と訴えて都知事になった石原氏は、弱者をいたぶって当然という意識を東京から日本に定着させたのです」
死者を悼む気持ち、あるいは礼節と、故人の所業を検証することは別問題だ。
社会的弱者に対する暴言の数々
都知事としての石原氏は、国に対抗してディーゼル車規制や羽田空港国際化などの実績を残した一方、その発言はたびたび物議を醸した。
都知事に就任した1999年に重度心身障害者施設を視察した際は、「ああいう人ってのは人格あるのかね。意志持ってないからね」と発言。2000年には陸上自衛隊第1師団の記念行事に出席して、「東京では不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな災害では騒擾事件すら想定される」と煽った。
「ババア発言」もあった。大学教授の発言を引用する形で「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババア」「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄」「きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」などと発言したのだ。それを自分の妻や家族に向かって言えるのだろうか。石原氏の言葉には常に「自分は特別」という驕りと、軽さがあるのだ。
都知事3期目の10年には、同性愛者について「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう」と発言している。ことさらマッチョイズムやミソジニーを押し出すのは、何らかのコンプレックスの裏返しなのか、障子を突き破る20代から変わらなかった。
11年に東日本大震災が発生すると、「この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心の垢をね。これはやっぱり天罰だと思う」と言って猛批判を浴びた。
こうした暴言、差別発言の数々が「石原節」の一言で許されてきたことが、この国の宿痾と言える。
弱肉強食の新自由主義や優生思想と通底、しかも卑劣
「石原都知事の功罪でいえば、罪科の方が圧倒的に大きかった。鳴り物入りの新銀行東京は失敗し、築地市場の移転も経緯が不透明なままです。熱心だった東京五輪の招致も莫大な赤字を生み出した。何より罪深いのは、尖閣問題を都が買うと言い出したことです。日中関係は決定的にこじれ、戦争の危険性が高まった。彼は中国と戦争をしたかったのでしょうが、あまりに短絡的な発想です。豪華海外出張や、都の文化事業で自身の四男に多額の税金を流すなど、都政の私物化もひどかった。それでも石原氏をもてはやし続けたのは、大メディアの堕落としか言いようがありません。さらに、亡くなって礼賛報道一色というのは、全体主義の同調圧力に通じる恐ろしさを感じます」(政治評論家・本澤二郎氏)
石原氏の死去を受け、法政大教授の山口二郎氏はツイッターにこう投稿した。
<石原慎太郎の訃報を聞いて、改めて、彼が女性や外国人など多くの人々を侮辱し、傷つけたことを腹立たしく思う。日本で公然とヘイトスピーチをまき散らしてよいと差別主義者たちを安心させたところに、彼の大罪がある>
社民党副党首の大椿裕子氏も、石原氏死去のニュースを引いて、<今後、追悼番組が放送されるだろうが、称賛で終わるのではなく、彼が撒き散らしたレイシズム、性差別、障害者差別等についても、なかったことにしないでもらいたい>とツイートしていた。
すると「死者への冒涜だ」「人としてどうなのか」などと批判コメントが殺到。ならば、石原氏の差別発言は人としてどうなのか。弱者を差別し、冒涜してきた石原氏は喝采を浴び、権力者によるヘイトやレイシズムに警鐘を鳴らす側が非難される社会は健全なのか?
人気者におもねる大メディアの欺瞞
「思慮が浅く他人を傷つける発言をしてしまう子どもの純真さは残酷だとよく言われますが、石原氏はいい大人になってもそうだった。誰もが無意識に抱いている、けれど常識ある大人は決して口にしないような心の闇を刺激することを政治家の立場で、公の場で堂々と言う。それで留飲を下げる人がいる。ところが、それらの差別発言が批判されると、『ボクは作家だから』と逃げるのです。それはルール違反ですよ。私は、『卑劣と無責任に服を着せると石原氏になる』と言い続けてきました。彼のように、自分は安全圏にいて口先だけで勇ましいことを言うのが愛国者というような、おかしな風潮がすっかり浸透してしまった。それが安倍長期政権や日本維新の会の躍進にもつながっています。そういう偽物の愛国者に支持が集まることは、本当の権力者にとって都合がいいのかもしれませんが、それをもてはやしてきた大メディアはどうしようもない。石原氏の訃報を報じるニュースに接していると、日本社会は危ういを通り越して、完全に底が抜けてしまったと感じます」(斎藤貴男氏=前出)
大メディアがこぞって称賛する「石原的なるもの」。それは差別と同義で、弱肉強食の新自由主義や優生思想と切っても切れないものなのだが、彼の死によって美化され、「待望論」に火が付きそうなことは実に危うい。
そういえば、石原氏は14年の衆院選で落選して政界引退を表明した時の会見で、維新の共同代表だった橋下徹氏を「彼は天才」とホメちぎっていた。「あんなに演説のうまい人を見たことがない。例えはよくないが、演説のうまさ、迫力は若い時のヒトラー」と言っていた。
維新は、立憲民主党の菅直人最高顧問が橋下氏について「ヒトラーを思い起こす」などとツイッターに投稿したことについて抗議しているが、石原氏の発言は問題ないわけだ。発言者が誰かによってヘイトかどうかを判断する日本の悪習は、まさに石原氏から始まったといっていい。人気者におもねる大メディアのダブルスタンダード、欺瞞でもある。
石原氏は政界引退会見で「死ぬまで言いたいことを言い、やりたいことをやって人から憎まれて死にたい」とも言っていた。勇ましい発言をする人ほど小心者という現実も多々あるし、憎まれたいなんて本心ではないだろうが、皮肉屋の石原氏のことだ。今の礼賛一辺倒の報道には、泉下で苦笑しているのではないか。
だからこそハッキリさせておきたい。石原氏の差別発言は決して許されるものではない。そして、それを引き継ぐ日本社会であってはならない。日本国民に影響を与えたレイシストの死によって、文字通り「ひとつの時代が終わる」ことを願うばかりだ。
※文字起こし
作家で元衆院議員、元東京都知事の石原慎太郎氏が1日に89歳で死去し、追悼報道が続いている。自民党の安倍元首相は「戦後、形作られた既成概念に挑戦した政治家だった」と故人を称え、茂木幹事長も「威風堂々、歯に衣着せぬ、そして国家観を語る素晴らしい政治家だった」と偲んだ。石原氏と親交のあった台湾の陳水扁元総統は「大きな損失」と産経新聞にメッセージを寄せていた。
大新聞テレビも惜しみなく賛辞を送る。国民的スターだった石原裕次郎の兄であり、数々のベストセラーを世に送り出した作家でもある。華やかな経歴に彩られた石原氏を「偉大な存在」「カリスマだった」と情緒的に持ち上げることは、ある種のカタルシスを喚起するのだろう。
一作家の人生を回顧するならそれでもいいが、石原氏は長きにわたって政治家でもあった。暴君のごとく振る舞った石原氏の露悪的な言動に傷つけられた人は少なくない。彼の生前の功罪を冷静に分析、紹介するならいざ知らず、一方的な礼賛報道はむしろ、毀誉褒貶に満ちた石原氏の人生を無にすることに等しいのではないか。
著書に「東京を弄んだ男『空疎な小皇帝』石原慎太郎」などがあるジャーナリストの斎藤貴男氏が言う。
「まずは謹んでご冥福をお祈りします。ただ、亡くなったからといって、すべてが免責されるわけではない。死者を悪く言わないのは日本人の美徳でしょうが、そういう道徳を破ったのもまた石原氏でした。公権力者が、女性や障害者、LGBT、在日、被差別部落出身者など社会的弱者に対する差別を公の場で剥き出しにしたのは彼が初めてです。差別は正義だという思想を振りまき、日本に植え付けたのが石原氏だった。“東京から日本を変える”と訴えて都知事になった石原氏は、弱者をいたぶって当然という意識を東京から日本に定着させたのです」
死者を悼む気持ち、あるいは礼節と、故人の所業を検証することは別問題だ。
社会的弱者に対する暴言の数々
都知事としての石原氏は、国に対抗してディーゼル車規制や羽田空港国際化などの実績を残した一方、その発言はたびたび物議を醸した。
都知事に就任した1999年に重度心身障害者施設を視察した際は、「ああいう人ってのは人格あるのかね。意志持ってないからね」と発言。2000年には陸上自衛隊第1師団の記念行事に出席して、「東京では不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな災害では騒擾事件すら想定される」と煽った。
「ババア発言」もあった。大学教授の発言を引用する形で「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババア」「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄」「きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」などと発言したのだ。それを自分の妻や家族に向かって言えるのだろうか。石原氏の言葉には常に「自分は特別」という驕りと、軽さがあるのだ。
都知事3期目の10年には、同性愛者について「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう」と発言している。ことさらマッチョイズムやミソジニーを押し出すのは、何らかのコンプレックスの裏返しなのか、障子を突き破る20代から変わらなかった。
11年に東日本大震災が発生すると、「この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心の垢をね。これはやっぱり天罰だと思う」と言って猛批判を浴びた。
こうした暴言、差別発言の数々が「石原節」の一言で許されてきたことが、この国の宿痾と言える。
弱肉強食の新自由主義や優生思想と通底、しかも卑劣
「石原都知事の功罪でいえば、罪科の方が圧倒的に大きかった。鳴り物入りの新銀行東京は失敗し、築地市場の移転も経緯が不透明なままです。熱心だった東京五輪の招致も莫大な赤字を生み出した。何より罪深いのは、尖閣問題を都が買うと言い出したことです。日中関係は決定的にこじれ、戦争の危険性が高まった。彼は中国と戦争をしたかったのでしょうが、あまりに短絡的な発想です。豪華海外出張や、都の文化事業で自身の四男に多額の税金を流すなど、都政の私物化もひどかった。それでも石原氏をもてはやし続けたのは、大メディアの堕落としか言いようがありません。さらに、亡くなって礼賛報道一色というのは、全体主義の同調圧力に通じる恐ろしさを感じます」(政治評論家・本澤二郎氏)
石原氏の死去を受け、法政大教授の山口二郎氏はツイッターにこう投稿した。
<石原慎太郎の訃報を聞いて、改めて、彼が女性や外国人など多くの人々を侮辱し、傷つけたことを腹立たしく思う。日本で公然とヘイトスピーチをまき散らしてよいと差別主義者たちを安心させたところに、彼の大罪がある>
社民党副党首の大椿裕子氏も、石原氏死去のニュースを引いて、<今後、追悼番組が放送されるだろうが、称賛で終わるのではなく、彼が撒き散らしたレイシズム、性差別、障害者差別等についても、なかったことにしないでもらいたい>とツイートしていた。
すると「死者への冒涜だ」「人としてどうなのか」などと批判コメントが殺到。ならば、石原氏の差別発言は人としてどうなのか。弱者を差別し、冒涜してきた石原氏は喝采を浴び、権力者によるヘイトやレイシズムに警鐘を鳴らす側が非難される社会は健全なのか?
人気者におもねる大メディアの欺瞞
「思慮が浅く他人を傷つける発言をしてしまう子どもの純真さは残酷だとよく言われますが、石原氏はいい大人になってもそうだった。誰もが無意識に抱いている、けれど常識ある大人は決して口にしないような心の闇を刺激することを政治家の立場で、公の場で堂々と言う。それで留飲を下げる人がいる。ところが、それらの差別発言が批判されると、『ボクは作家だから』と逃げるのです。それはルール違反ですよ。私は、『卑劣と無責任に服を着せると石原氏になる』と言い続けてきました。彼のように、自分は安全圏にいて口先だけで勇ましいことを言うのが愛国者というような、おかしな風潮がすっかり浸透してしまった。それが安倍長期政権や日本維新の会の躍進にもつながっています。そういう偽物の愛国者に支持が集まることは、本当の権力者にとって都合がいいのかもしれませんが、それをもてはやしてきた大メディアはどうしようもない。石原氏の訃報を報じるニュースに接していると、日本社会は危ういを通り越して、完全に底が抜けてしまったと感じます」(斎藤貴男氏=前出)
大メディアがこぞって称賛する「石原的なるもの」。それは差別と同義で、弱肉強食の新自由主義や優生思想と切っても切れないものなのだが、彼の死によって美化され、「待望論」に火が付きそうなことは実に危うい。
そういえば、石原氏は14年の衆院選で落選して政界引退を表明した時の会見で、維新の共同代表だった橋下徹氏を「彼は天才」とホメちぎっていた。「あんなに演説のうまい人を見たことがない。例えはよくないが、演説のうまさ、迫力は若い時のヒトラー」と言っていた。
維新は、立憲民主党の菅直人最高顧問が橋下氏について「ヒトラーを思い起こす」などとツイッターに投稿したことについて抗議しているが、石原氏の発言は問題ないわけだ。発言者が誰かによってヘイトかどうかを判断する日本の悪習は、まさに石原氏から始まったといっていい。人気者におもねる大メディアのダブルスタンダード、欺瞞でもある。
石原氏は政界引退会見で「死ぬまで言いたいことを言い、やりたいことをやって人から憎まれて死にたい」とも言っていた。勇ましい発言をする人ほど小心者という現実も多々あるし、憎まれたいなんて本心ではないだろうが、皮肉屋の石原氏のことだ。今の礼賛一辺倒の報道には、泉下で苦笑しているのではないか。
だからこそハッキリさせておきたい。石原氏の差別発言は決して許されるものではない。そして、それを引き継ぐ日本社会であってはならない。日本国民に影響を与えたレイシストの死によって、文字通り「ひとつの時代が終わる」ことを願うばかりだ。