もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

0099 重松清「きよしこ」(新潮文庫;2002) 感想5

2013年08月31日 23時07分05秒 | 一日一冊読書開始
8月31日(土):

291ページ  所要時間 4:15     ブックオフ105円

著者39歳(1963生まれ)。

頭の老化によって、読んだ尻から忘れていくのが情けない…。しかし、最初から最後まで、休みなしで一気に読んだ。読まされた。無理せずに、こんな読み方ができる作家は、俺の場合、重松清以外にはあまり思いつかない。

文章が平易なことだけでは説明がつかない。まず、作者のまなざしが限り無く優しく丁寧で、繊細・微妙な感情の襞を絶妙に描き切ってくれていて、ある種の爽快感がある。そして、話の展開に無理が無く、安心して自分の思いや人生を重ね合わせることができる。これらがそろって、初めてこのような一気読みはできるのだ、と思う。

本作は、吃音を「しょうがない」と捉えれた小学校低学年から、障害」と教師に決めつけられ、嫌でも吃音を自覚して悩まざるを得なくなって成長していく「少年」が主人公である。物語りは、基本的に「彼」ではない、「少年」という三人称で展開する。

少年の名は「白石きよし」、彼は作者重松清の分身である。本作は、吃音者である重松清自身の<自伝的小説>といえる。

少年は父の仕事の関係で、小学生の時に5回の転校を繰り返し、その度に自己紹介で「吃音」を笑われ続けることに苦しむ。転校だけでも辛いのに、「吃音」を知られて笑われることを繰り返すことは厳しい経験という他ない。

中学以降は、親父が出世を犠牲にしてくれたおかげで転勤がなかったので、瀬戸内の山口県(広島県)?の中学は野球小僧として、高校は進学校で学生生活を送り、受験は重松作品お決まりの、山口大学(広島大学)?と早稲田大学の併願、早稲田大学で東京へ! というコースを歩む。

そして、小学校、中学校、高校、大学受験の中で、激し過ぎるような体験はそれほど出て来ない。日常的な無神経さ、いじめ、交友、部活動などの他にたまに変な人なども出てくるが、いずれの話も「何か自分の人生でもどこかで体験したことがあるよね」、という普遍的「あるある話」になっているのだ。けれども、それらが重松清によって丁寧に描き出されることによって、「日常の生活の中にこそダイナミックで劇的な物語りがあるのだ」と読者に感じさせてくれるのだ。

最近、仕事が忙しいせいもあって、少々疲れ気味で読書もなかなか儘ならず、本を読むことに用心深くなってしまっている。ましてや読書で泣くこともめったにないが、重松作品では必ずウルウルっとくる。これは、結局「他人事ではない」と思わせる普遍性を重松作品が持っているからだと思う。

そう遠くはない老後、とりあえず「前へ、前へ!」と思わなくて済む日が来たら、俺は先ず重松清の作品の<読み直し>から読書を始めるだろう、と思う。そもそも重松清の作品を読んだからといって、知識が増進して何かの役に立つなんてことは全くない。しかし、<心が求める栄養>として、そして<人生に「イエス」と言う為の知恵の源泉>として俺は重松作品を読み続けるのだろう、と思う。

目次: きよしこ/乗り換え案内/どんぐりのココロ/北風ぴゅう太/ゲルマ/交差点/東京

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