もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

180215 (ザ・コラム)野中氏、鋭さの裏に 限りない優しさのバトン 秋山訓子

2018年02月15日 09時43分49秒 | 時代の記憶
2月15日(木):
朝日デジタル(ザ・コラム)野中氏、鋭さの裏に 限りない優しさのバトン 秋山訓子  2018年2月15日05時00分
  野中広務氏が92歳で亡くなった。
  彼が権力の絶頂にあった頃、私も自民党を担当していた。こわもての実力者で、震え上がりそうな鋭い視線を覚えている。
  でも彼の顔は決してそれだけではなかった。どんな政治家だったか、よく引用される話の一つとして、1997年の衆院本会議での発言がある。沖縄の駐留軍用地特別措置法の改正の時のことだ。自身が62年に沖縄を初めて訪問したときのことを引き合いに出した。乗ったタクシーの運転手がサトウキビ畑の前で止まって「妹がそこで殺された」と泣き始めた。しかもやったのは米軍ではなかった、と。自分はこの出来事が忘れられない。国会の審議が大政翼賛会的にならないように――と続く。
  私が書きたいのはここから先である。
  当時、これを聞いて感動のあまり、矢も盾もたまらず野中事務所に走っていった国会議員がいた。社民党の1年生議員だった中川智子氏だ。連立与党の一角だったとはいえ、新米議員と自民党の大幹部。普通ならおいそれと口はきけないが、気にしないで押しかけたのが「おばさんパワー」を掲げていた彼女らしいところだった。
  ちょうど野中氏も自室にいて、中川氏の勢いに驚かれながらも会うことができた。中川氏は手土産にと自室から持参した乾燥糸こんにゃくを渡すと言った。
  「私は、今日の野中さんの発言に涙が出ました。あなたみたいな政治家に会えてよかった。本当に素晴らしかった。私も沖縄には同じ思いです」
  夜、中川氏が議員宿舎に帰ると郵便受けに野中氏からのメモが入っていた。「これから困ったことがあったら、何でも相談しなさい」。携帯電話の番号があった。
  その言葉通りに以降、彼女は困った時には何でも野中氏に相談するようになる。

     ◇
  なぜ中川氏は乾燥糸こんにゃくを持って行ったのか。彼女はそれをインドネシアから輸入していた。彼女の父は第2次大戦中、通訳としてインドネシアに赴任していた。父の晩年の94年、その地に一緒に行った。「父が非常にお世話になったという男性が、もともと残留日本兵で現地の国籍をとり、すごく苦労しながら企業を起こし財をなした人だったんです。おみやげに乾燥糸こんにゃくをもらって。『自分はこのこんにゃくに平和への思いをこめている。日本に広めてください』と言われて。日本で販売することを思い立ったんです」
  商売は初めてだったが、スーパーや生協に果敢に売り込み、軌道に乗りかけたところで阪神淡路大震災が起きた。
  兵庫県宝塚市に住んでいた彼女は救援に走り回る。資金が尽きたら、「こんにゃくをチャリティーで売りまくって」原資とした。
  活動も一段落し、ほったらかしていた商売をどうしようと思っていたら、チャリティーでこんにゃくを買ってくれた人から次々に注文が舞い込んだ。「おいしかった」「平和への思いがあると知り、注文したい」……。ビジネスがまわり始めた。
  後にインドネシアから創業者が来日したときには、野中氏はもてなしてくれた。かの地のこんにゃく工場には野中氏と創業者が並んだ写真が飾ってあるそうだ。
     ◇
  中川氏は薬害ヤコブ病の患者救済や介助犬といった身体障害者補助犬法などに取り組んだ。野中氏だけでなく多くの与党の実力者に声をかけて巻き込んで、辛抱強くことを進めて法律を作った。2期務めて2003年の選挙で落選後、国政を去る。
  09年、宝塚市長選に出馬した。市長が連続して収賄で逮捕という前代未聞の出来事の後だった。野中氏に相談すると「やりなさい」と背中を押してくれ、応援にも来てくれた。今は3期目だ。市民との対話集会を行い、同性カップルを結婚と同等の間柄とする要綱づくりなどに取り組んだ。
  2人の政治家に共通するのは、弱い立場にある人に寄り添う限りない優しさと平和への強い思いだ。多面的な顔も持っていた。根底には人を信ずる力があり、その力は伝播(でんぱ)していく。政治の基本だと思う。
  野中氏の遺伝子は確かに受け継がれ、地方で息づいている。国政ではどうだろう。それを思う時、私は少し暗い気分になる。(編集委員)

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