もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

180215 寂聴 残された日々 32みんな先に逝く 「野中広務さん、今ごろ筑紫哲也さんと」

2018年02月15日 11時15分36秒 | 時代の記憶
2月15日(木):      
以下の記事を発見したので、転載させていただきますm(_ _)m。
朝日新聞 書き起こし:寂聴 残された日々 32みんな先に逝く「野中広務さん、今ごろ筑紫哲也さんと」  2018年2月8日朝刊
  野中広務さんがどうも御病気らしい。どこの病院に入院していらっしゃるのか知りたいと、ひとりであせっていたのが昨年末からであった。私は長い文筆生活の中で、政治に出ろと、ほとんどの政党から度々、声をかけられたが、それだけは、がんとして一度も心を動かしたことなく断り通してきた。
  それでも長生きしたせいで、政治家と対談したり、テレビに一緒に出演したりして、親しくなった人も少なくない。
◇ ◇
  政界を引退されていた野中さんとは、私の行きつけの和食屋「天ぷら松」を、野中さんが私よりずっと前からの御ひいきの店だったので、そこで顔をあわせて挨拶するようになった。私は1階のスタンドの隅を定席としていて、野中さんは2階の椅子席と決まっていたので、一緒に盃を合わせたことはなかったが、お互い会えば、やあと、手をあげて笑顔で挨拶を交わしていた。そのうち、野中さんが主役のテレビ番組に時々呼ばれるようになり、親しさを増していった。いつでも野中さんは紳士的な言動で、すっきりしていた。
  そのうちニュースキャスターとして一世を風靡した筑紫哲也さんが京都に住むようになった。自分の番組のテレビの中で、肺がんであると公表して、人気テレビ番組も休業していた。
  筑紫さんとは度々彼の番組に呼ばれたり、芝居や音楽界で偶然会ったり、筑紫さんの故郷の大分県の日田市へ講演に招かれたりして、聡明で魅力的な房子夫人とも仲よくなっていた。京都に住むようになった筑紫さんは髪を剃り、毛糸帽子をかぶるようになっていたが、顔色はよく、口調も健康当時のままだった。
◇ ◇
そんなある日、突然野中さんから筑紫さんと私の2人が、天ぷら松の小室に招待された。3人でいっぱいになる部屋に落ち着いた瞬間、涙ぐんだ表情になった野中さんが、乾杯の盃を置くと、いきなり、自分の身の上を語りだした。私たちは大方のことは知っていたが、野中さん自身の口から、小学5年の時、親友の母から、出自についてののしられた経験を聞かされて、身を固くしてしまった。
  「私は彼女の言っていることがよくわからず、家に帰って父親に言われたことを告げ、何のことかと聞きました。その時、父が、実に学術的にそのことをきちんと話してくれたのです。私ははじめて、事の次第を理解すると同時に、それまで抱いていた未来へのすべての夢や希望を自分から打ちくだいてしまったのです。大学へゆくことも学問をつづけることも、すべての希望を捨ててしまったのです。官房長官や自民党幹事長になりましたが、この私が首相になるなど、この国でなり得るはずがない。200%の割合で、私は首相になどなり得ませんでした」
  毛糸の帽子をかぶった筑紫さんの頭が垂れていた。その日から野中さんと筑紫さんは少しの時間も会うようにしていた。2人で散歩をしたり、寺の庭に座りこんで話したり、呑みに行ったり。誘われても、とても私のつきあえる頻度ではなかった。
  筑紫さんは2008年11月7日に亡くなった。まだ73歳の惜しい命だった。
  最近私が老衰で病気になる度、野中さんは必ず病院へ見舞って下さったのに、私はついに野中さんの入院中の病院さえ、つきとめ得ないままお別れもできなかった。今頃筑紫さんと2人で朝早くから浄土を歩きながら、寂聴もそろそろ呼んでやらなければなどと話し合っていることだろう。

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